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哲学はまったくの素人です。
薔薇の名前という小説を調べて普遍論争に興味を持ちました。Wikipediaで見ても専門用語が多くてよく分かりませんでしたが、私なりに以下のようなものではないかと思ったのですが、見当違いかもしれません。哲学を知らない人でも分かる言葉で説明していただけないでしょうか

唯名論:人間というのは田中さんや鈴木さんの集合体に付けられたラベルのようなもので人間という存在が入るわけではないという考え方
実在論:人間の特殊事例として田中さんや鈴木さんが存在しており、どこかに一般的な人間がいる(あるいは、かつてそういう存在があった)という考え方

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A 回答 (4件)

実在論とは存在するさまざまなものに共通なものの存在を認める立場であり、唯名論は認めない立場です。

といってしまうと説明にまるでなっていないので、例を挙げていきます。

「赤」という性質は存在するでしょうか。赤い花、赤い車、赤い看板等々の個別のもの以外に、それらに共通する「赤」という色そのものが存在することを認めるかどうか。これがいちばん素朴な形の実在論です。こう問題提起をすると、個別のものを超えて赤そのものが存在する、とはあまり思えない。しかし私たちは日常的に存外実在論に組しています。たとえば「この車は赤い」という発言を見ましょう。このとき私たちは「この車」について赤いという性質をくっつけています。ここで言及されているのは車です。しかし、次を考えよ。「赤色が好きだ」。この発言で言及されているのはなんでしょうか。ここで「いや、私は今便宜的に赤色といったが、あの車とあの花とあの看板に共通の色の性質を指したのだ」という人はいますまい。普通の人ならば、「赤色ということで私はまさに赤そのものを指した」と答えるでしょう。個々のものを超えた共通の性質として赤という語を使っている。これは明らかに実在論よりの考え方です。
よりいっそう問題が明らかになるのは数学の領域です。唯名論の立場では、存在するものは個々のものだけですので、例えば数1を表現するためには、1個のりんご、1台の車、1枚の紙等々、観察された事実から共通する数を取り出してくるといった作業が必要になります。しかし数777,864の数に対応する観察可能な事実とはなんでしょうか。「日本国の盲人の数」という表現を理解するために実際に日本の盲人を、頭の中ででも一列に並べてみる必要があるでしょうか。数0に対応する経験とはなんでしょうか。1000粒の小麦は蒔かれてしまうと1000粒の小麦であることをやめるでしょうか。しかし1000粒の小麦も蒔かれた後でも数えなおすことはできます。数は時間と空間を越えて、出来事がいつ起ころうが共通に存在するといいたくなる。数は存在するといいたくなる。
質問者様の例で言えば、唯名論の解釈はそれで正しいと思います。実在論に関して言えば、一般的な人間がいるというのは強すぎます。個々の人間の特殊事例としての田中さんや鈴木さんに、人間という性質が帰属している、というくらいの意味合いです(専門的には、普遍がなんらかの実在性の根拠ををものの中に有するとなります)。

もちろん実在論にも弱みはあります。先ほど私は「赤が好きだ」という例文をとり、このとき赤という語で赤色という性質一般を指しているのではないか、といいました。しかしこの、語が意味を持つのはなんらかの対象を指すという素朴な意味の理論では扱えないものがあります。例えば丸い四角という矛盾した語が指すものとはいったいなんでしょうか。ペガサスは地球上に存在しませんが、それでもなんらかの想像上の生物を指す、といってよいのでしょうか。そうすると、存在するものが無限に肥大してしまわないでしょうか。
実在論の弱点は、個別のものを越えたものがあるとして、それらを私たちがどのように認識するかという点です。一般に存在論が肥大化すると認識論に負担をかけます(顕著な例がマイノングのウルトラ実在論、初期のラッセル、可能世界意味論等)。ですから普遍の問題は中世以降決定的な解決を見たわけではなく、現代まで強力な哲学的問題として受け継がれています。
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ぶしつけな、回答ではない文を書きます。



もう一つの可能性、「唯名論と実在論」といったものは、哲学を知らないものにはどうでもよい概念である、と言うのはありませんか。すなわち哲学上の問題としてある言葉なのだから、哲学を知らない人に語るべき言葉は無いと言うことです。哲学の専門家なら、原稿用紙で何枚分で書けと指定されたら、それに応じて、すらすら答えるべき初級の問いではあると思いますが。

質問者さんの「唯名論」理解ですが、言葉=ラベルと言うことですが、素人考えですが、魚屋で売っているからといってその商品はすべて「魚」である、とは言えませんね。まして「人間」などとなれば、そのラベルを貼るべき対象を「集合体」として捉えることは出来ますか。質問者さんの言われるようなパターンで、「唯名論とは、人間なるものは存在せず、存在するのはソクラテスとかプラトンなどの個々の人である、と言う論だ。」という言い方をする人が居ます。しかし、「ソクラテス」は人間でしょうか。中学校の何かの授業でそのような名前のギリシャ人がいたという話は聞かされました。でもそれは結局、伝聞に過ぎないでしょう。それはソクラテスという人間が居たという情報に過ぎない。すなわち、「人間」なるものが居るという前提の「論」です。「田中さんや鈴木さんの集合体」と言う表現が可能なのも、「田中」と名づけられた犬を除外し、「鈴木」と名づけられた猫を除外し、「人間」と呼ばれるもののみを「集合」させることによって成り立つのではないですか。すなわち「人間」というラベルは、人間にしか付けることが出来ない、となっていませんか。
 少なくとも、唯名「論」と言うためには、「人間」というラベルが如何なる対象に着けることが出来るのかを述べなければならないでしょう。それは同時に「人間」というラベルがどうして成立したかを教えるべきでしょう。
要するに、ラベルを付けるための規整、ラベル成立の機序を述べずに、「唯名論」が、「人間」と言うのは人間の集合につけたラベルにすぎない、と言う論であるなら、ほとんど、どうでもよい話であると思うのです。

「実在論」の方は、日常語としての「実在」と、哲学史上のそれとは厳密に区別するべきでしょう。そのためには、翻訳語の「実在」と原語のドイツ語・フランス語・英語・イタリア語の元となったラテン語の意味の変遷を辿る、など、それだけで頭が痛くなる。
日常語の「実在」で行きますと、神を実在すると主張する人々にあっても、「人間」なるものが実在すると主張する人は居ないでしょう。そんなものが「実在」すると主張すると、「イス」なるもの、「ソファー」なるもの、「籐イス」なるもの、等々、言葉の数だけ何とかなるものが「実在」すると言わなければならない。そうするとまだ名づけられていないものは実在しないのか、等、問題が噴出してしまいます。すなわち、普通名詞で呼ばれるものを「実在」すると主張する「論」が、「実在論」と呼ばれるものではないはずです。歴史上こういった話を論議するようになった初期には、そんな主張もあったかもしれませんけどね。古代ローマ帝国の辺境の野蛮人であったとはいえ、帝国衰退の後の中世のキリスト教の僧院でそんなレベルの低い論議がなされたのか、疑問でしょう。

要する、中世ヨーロッパの暗い僧院で論議された話など、専門家以外にとって頭が痛くなるだけの話ではないのか。薔薇論争のうち、通俗的に理解出来る範囲で楽しむのよいとして、哲学上の問題として考えない方が...。
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この回答へのお礼

レスありがとうございます。
しかし、私は専門的なことだから一般人は知る必要がないという意見には賛同できません。
一般人でも知ったところで実社会で何の役にも立たないことであっても知ろうとするのはむしろ推奨されるべき事だと考えています。

一般人が興味を抱いた場合、自らが専門家になって理解を深めるというのはひとつの手ですが、もうひとつ、専門家から平易な説明を受けるという手もあると思います。
私はこの件に関して、自ら専門家になってまで知りたいと思うほど知りたいわけではありません。しかし、まったく気にならないほど関心がないわけでもありません。ですので、平易に説明できる方からの回答をお願いしているわけです。

自分がその知識を自分のものとして身に付けていれば、例えば私が調べたwikipediaの記事のように専門用語を並べ立てなくても理解できるように説明できるはずです。
私はそういった見せ掛けでない真の専門家が説明してくださるのを気長に待ちます。

お礼日時:2009/04/11 14:28

神は実在、つまり実際あるのか、というのと、人間が心の中で勝手に創造して、名前をつけたものなのかというのではないでしょうか。


普遍というのはいわゆる、イデアというものであり、イデアはあるのか、つまりイスをイスたらしめている実在なるものはあるのか、それともイスはイスであるというのは、観察者が認めたから存在しているのかとか、目に映ったものをイスと認識しているが対象が実在している以上、観念は単なる名前にすぎないということであり、ようはイデアがあるのかないのか、それともあったとしても学問の対象とすべきでないのかどうかとかいうことではないかと。
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私は、このように理解しました。



唯名論は、個別具体的な存在を肯定する。しかし、それらの集合体としての概念は肯定しない。

実在論は、あらゆる事物・概念・観念には、プロトタイプ的イメージが存在することを肯定している。当然、個別具体例の存在は否定しない。
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Q唯名論

唯名論というのはどういうものなのでしょうか。かみ砕いて教えていただければと思います。

Aベストアンサー

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの訳語としては従来「実念論」というのが一般的でしたが、誤解を招く部分があるので最近は「実在論」と訳されます。)

 では実在論から。
 「普遍は個物に内在する」とはどういうことか。「人間」を例にとります。現実に存在する人間には、もちろんそれぞれの個性があります。容貌もちがいます。そういう個別にちがう部分をどんどん削り取っていけば「人間」の共通部分が残るのではないか、「人間」というものの普遍的な形が得られるのではないか、というのが実在論の発想です。さらに、こうして得られた普遍的な形が実在しているのだと、この立場は主張するのです。
 と言っても、その「普遍的な形」が単一のモノとしてどこかに存在しているわけではありません。複数の人間それぞれの中に、その数だけ置かれており、しかし一切のちがいは除去されていますから、まったく同一のもの、区別できないものとして存在している、というわけです。

 対するに唯名論。
 「普遍は名辞にすぎない」。言い換えれば、「普遍」はモノとして事物に内在しているのではなく、外から付けられた呼び名でしかないということです。三角形は3本の直線から成りますが、実際にはいくらでも多様な形が作れます。「それらに共通する普遍的な三角形」と言われても、困りますでしょう? どんな三角形でも、三角形なら、立派に三角形なんですから。となれば、「三角形の普遍」とは「3本の直線から成る図形」すべてを一括して呼称する「三角形」という呼び名なのだ、と言った方がよい。
 「昆虫」でもいってみましょうか。「人間」ならば、いくらか「普遍的な形」がイメージしやすいのですが、昆虫となるとたいへんです。トンボとちょうちょ…とか…共通する「形」が実在するものとして考えられるか…うーん…ちょっとムリそうでしょ? 昆虫の場合、言えるのは「頭・胸・腹の身体と6本の足を有する節足動物」ということであって、この定義によって共通する性格をもったものを「昆虫」と呼んでいるだけです。
 という感じに、「普遍は唯の名前だ」と考えるのが「唯名論」です。

 ちなみに、実在論と唯名論を統合する第三の立場として「概念論」という立場もあるのですが、誰をこの立場に立った人と分類するかという点に問題があり(分類しきれないのです)、そうなるとこの「概念論」なる立場の内実も非常に規定しにくくなりますので、これに関してはプロの研究者でも言及には慎重になります。つーわけで、私ごときにはこれの解説はできません。

 …と、書きに来たらAliasさんの回答が…。
 えっと…実はその…Aliasさんが紹介されている「観念(イデア)として実在」という部分がですね、「実念論」という訳語がもたらす誤解なのです。実在論はプラトン哲学との直接の関係はありません。実在論の主張は、あくまでも「モノとして実在する」ということだったのです。

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの...続きを読む

Q観念論と実在論の論争について

観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが、
なかなか良い資料も見つからず、何を書けばいいのかもわからず困っています。
この論争についてどなたか教えてください。

Aベストアンサー

 
>観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが

そんな論争についてのレポートと言われても,見当も付かないです。ヒントというか、こういう当たりを調べると材料が見つかるだろうというキーを述べますから、検索して材料を集めてください。

その前に、簡単に説明します。「実在論」と「観念論」というのは、参考URLにあるように、認識論上の立場です。観念論は、ドイツ観念論哲学によって、その内容がきわめて明確な、また洗練されたものになっています。この観念論哲学との比較において、実在論という認識論上の立場が定位できるとも言えます。

ドイツ観念論哲学のなかでは、カントの主観的観念論がもっとも代表的で、カントは「物自体 Ding an sich」は、想定できるが認識できないとしました。つまり、客観的実在は、主観の認識にとって超越的で、すべての認識は、主観認識で、客観は認識できないのです。

従って、実在世界が本当はどうなっているのか、主観=我々には、ついに分からないということになります。しかし、分からないでは、世界がどうなっているのかまったく分からず、世界はこうだ、と考えて行動することも判断することも何もできなくなります。ところが、実際は、世界の客観的実在を、それぞれの主観があたかも一致して把握しているように、社会のなかでのできごとは、話が合って進行しています。

これを、統整的理念と呼び、「あたかも世界はかのごとくに」人は行動して、それで、みかけ上うまく行っているように見えるし、うまく行くのです。これは統整的理念があるからであるします。

カントなどの観念論を批判し、否定するのは、もっとも積極的なのは、マルクス主義唯物論でしょう。あるいは弁証法的唯物論とも言えます。この哲学は、実在論の立場に立っており、その立場に立ち、かつ唯物論でない哲学をすべて「観念論」と呼んで批判し否定しますが、これは行きすぎです。

カントの主観的観念論では、世界についての知識は経験を通じて得られるものと、先天的に持っている知識の二つに起源があるのですが、経験を通じて得た世界についての知識も、物自体、つまり実在の真のありよう、客観を把握できていないとします。それはあくまで主観認識の限界のなかにあるのです。

カントの観念論では、経験は、外部の超越実在との主観の作用によって起こるが、主観のグラスというか、認識装置を通過すると、それは主観のカテゴリー枠で規定された何かになってしまい、元の客観実在の事態は、経験の原因ではあっても、主観の経験内容は、客観実在のありようを、忠実にコピーしているのではないのです。

それに対し、弁証法的唯物論の認識論では、「模写説」というものが考えられます。これは素朴単純模写説と、もっと込み入った模写説がありますが、単純模写説は、先に述べた経験の主観的把握が、経験というグラス(色眼鏡)を通じて歪曲あるいは枠規定されているのではなく、我々の感覚認識は、例えば、外的実在のありようの「反射」「模写」だと考えるのです。

観念論では、見ているものが、必ずしもそのまま実在のありようではないのです。しかし、模写説の実在論では、見ているものが、そのまま実在なのです。

観念論は極論すると、世界の真のありようは不可知だとなります。経験も、実在の客観的ありようについて、正しい知識をもたらさないのです。それに対し実在論は、客観実在は認識可能であり、感覚経験によって実在は把握でき、更に、思考の推論などで、実在の姿は認識可能だとするのです。

素朴には、道に石が落ちていれば、石は疑いなく実在するのが実在論で、それは主観的経験であり認識で、見えているものが石かどうか分からないし、石が本当に、そこにあるのかも分からない。分かっているのは、主観の認識に石が映じているのだとするのが観念論です。

中世哲学の普遍論争を考えるときは、言葉が逆になっていることに注意すべきでしょう。普遍論争の「唯名論」と「実念論または実在論」は、後者はむしろ、観念論であり、前者が実在論なのです。

唯名論は、「概念」について、概念とは実在ではなく、個物の名であり、実在するのは個物であるとします。それに対し、実念論は、概念こそ実在で、個物は仮象または概念実在の合成的な一時的現れであるとします。「普遍論争」というのは、中世哲学で「概念」というと、「普遍概念」のことになるからで、それは、イデアーのようなものなのです。

「経験 認識 実在 模写説」というような言葉をキーワードにすると、何か資料が出てくるでしょう。また、論争は、弁証法的唯物論の立場が、カント的観念論やプラトン的観念論を批判したものが、もっとも有名だとも言えますから、唯物論もキーワードにすれば、よいでしょう。
 
>哲学概要
>http://www4.plala.or.jp/s-tatu/phil01.html
 

参考URL:http://www4.plala.or.jp/s-tatu/phil01.html

 
>観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが

そんな論争についてのレポートと言われても,見当も付かないです。ヒントというか、こういう当たりを調べると材料が見つかるだろうというキーを述べますから、検索して材料を集めてください。

その前に、簡単に説明します。「実在論」と「観念論」というのは、参考URLにあるように、認識論上の立場です。観念論は、ドイツ観念論哲学によって、その内容がきわめて明確な、また洗練されたものになっています。この観念論哲学と...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
...続きを読む

Q言語能力と言語運用

アメリカの言語学者、チョムスキーが言った言語能力と言語運用
とは簡単に言うとどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

 
  簡単に言えば:
 
  「言語能力」(Competence)とは、例えば、どの文化、どの国、どの民族に属する子どもでも、英語環境で育てば英語が母語になり、日本語環境で育てば日本語が母語になるというように、およそ知られているどの言語であっても、人間の子どもは修得できるので、これは、人間のおそらく脳構造に、言語の「普遍的構造原型」があるのであり、個々の具体的言語は、この「普遍言語」の構造規則の適用、展開であると考えられるということです。人間がすべて持っている、この「普遍言語」の構造より、既存言語の修得が、この基本能力から可能となるため、これを、「言語能力」と呼ぶのです。普遍言語構造が、人間には備わっていて、そこから、あらゆる言語を、人間の子どもは(そして大人も)習得でき、理解できるのだということで、考えられている人間の精神の深層能力です。チョムスキーは、この普遍構造の解明の試みとして、生成文法理論を立てたのです。
 
  「言語運用」(Performance)とは、実演とでもいうような意味で、普遍言語構造の上に、通常の具体的言語の構造規則が載り、固有の語彙や、その使用意味、実際の文章構成規則に従って、具体的な言説行為を、具体的言語で実行してみることを言うのです。個別的言語の運用ということになり、普遍構造=言語能力と、この運用のありようのあいだには、当然、相互補完的な関係があり、具体的言説行為は、文化や社会の規定や、個々人の知識や人生の経験等で、着色されて、あるいは、変調されて実現されるはずです。チョムスキーはしかし、実証的な、アメリカ構造主義言語学のサンプル収集の技法は使わず、普遍構造の規則的導出ということに、より大きな関心を抱いたのです。具体的な言語の使用例が、「言語運用」に当たるので、この部分は、チョムスキーの言語学では、規定されてはいるが、実際には、彼は、この領域での研究理論は、あまり構成しなかったのだと言える。
 
  しかし、言語運用は、当然、問題となってくるのであり、運用の解析によっては、チョムスキーの理論の妥当性も吟味されるはずです。
 

 
  簡単に言えば:
 
  「言語能力」(Competence)とは、例えば、どの文化、どの国、どの民族に属する子どもでも、英語環境で育てば英語が母語になり、日本語環境で育てば日本語が母語になるというように、およそ知られているどの言語であっても、人間の子どもは修得できるので、これは、人間のおそらく脳構造に、言語の「普遍的構造原型」があるのであり、個々の具体的言語は、この「普遍言語」の構造規則の適用、展開であると考えられるということです。人間がすべて持っている、この「普遍言語」の...続きを読む

Q形而上・形而下

形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、
(1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか?
●商品は形而下で、価値は形而上である。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。
上記の2つの文は、間違っていないでしょうか?
質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。

Aベストアンサー

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。

「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。

簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼は、観察や実験を通じて、実証的、合理的な、「自然」の研究を行いました。それは、現代の自然科学の祖先とも言えるもので、「合理性」「実証性」というものが強調されていました。

「自然」というと意味が広いのですか、一応、「この世界」のことだと考えるのがよいです。この世界とそこに含まれると考えられる色々なものが「自然」であるのです。

飛躍した言い方になりますが、この意味での「自然」が、大体「形而下的世界」と似たような意味です。この世の事物やできごとは目に見えますし、感覚で知ることができますし、形がありますし、「超自然的」ではなく、自然的で、西欧の思想で特に意味を込める「精神」はこの世界に属さないとも言えます……精神は、目に見えたり、感覚で知られたり、形があるでしょうか?

「形而下」というのは、日常的な自然ということだと考えていいのです。

「形而上」というのは、それに対し、「超自然」とも言えます。「形而上学」は「超自然学」でもあったのです。

アリストテレースの構想では、自然についての学問は、感覚などで得られる事実などをまとめ、これを理性で、合理的に整理し、その秩序などを研究するものでした。

しかし、このような自然学では、捉えられないもの、扱えないもの、事象がありました。「形而上学」では、「存在する」ということはどういうことなのか、世界の存在の根拠や理由、目に見える自然現象の背後の「神的な秩序」などの探求が課題とされていました。

アリストテレースはまた、自然学以外に、「倫理学」つまり、善や価値や、人間の行為規範や正義や理想などについての学問を考えていました。神や宇宙を造ったものなどの考察は、形而上学の範囲ですが、善や真などとも関係して、「イデアー」や普遍論理の問題も自然学とは別だと考えられました。

イデアーというのは、高度に抽象化された「形」や「性質」の本質のことになりますが、これは、神のようなものだとも考えられました。

アリストテレースの色々な考えは、西欧中世の神学や哲学に取り入れられます。そこでは、神や神に関係した普遍的永遠的な、イデアー的な世界や事象を、神学として研究し、このような研究の対象を、「形而上学的存在」ともしました。

そこでは、目に見えない世界、つまり、神の世界や天国などが、形而上のものとされ、また、神が授けた人間の霊魂、つまり「精神」も、その本質は形而上的なものとされました。神は善であり真であり美であり存在であるので、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」「存在そのもの」は形而上的であり、精神の機能である「知性」や、「概念」も、普遍概念として、イデアーと共に考えられ、これらも形而上とされました。

この中世西欧の「形而上学」の形というか、定義が大きく後世に影響します。

「愛」は例えば、形而下的なものです。しかし、神への愛や、精神的な高貴な愛は、例えばプラトニック・ラヴとして、形而上的と考えられました。

物質や肉体や、地上の目に見える事物に関係したことや、それらは、形而下的なこと・ものです。人間の心や意識や思考なども、感覚などと同様、形而下的で、概念や価値も形而下です。

しかし、人間の精神は形而上的であり、イデアーである、真、善、美、存在なども、そのもの自体は形而上的です。善に関係する道徳や倫理、社会規範、正義なども形而上的な位相があるとされ、美を分有すると考えられる芸術作品には、また、形而上的な何かがあるとされます。

神あるいは存在の根源者を囲んで、目に見えない、彼方の世界(霊的世界・普遍的イデアー的世界)に、「形而上的世界」というものがあると考えられると、分かり易くなります。

地上の自然の事物や出来事や、人間の世俗社会などは、形而下的世界だと考えられ、そこに属するものは、形而下的です。しかし、彼方の形而上的世界から、「普遍の光」のようなものが、地上に射して来るのであり、形而下の事物のなかにも、形而上的要素があるということも明らかになることもあります。

この地上、自然世界、人間の社会、人などは、形而下にあるのですが、自然は、存在や美や目的を通じ、人間の社会は、善や倫理や真理や芸術を通じ、形而上世界と交流しているとも言えるのです。また人も、精神としてイデアーとして、知性として、形而上的な要素を持ちます。

形而上とか形而下というのは、思想家で使う人によって、意味範囲が違いますし、場合場合でも、何を指すか、曖昧なものがあります。

>●商品は形而下で、価値は形而上である。

貨幣経済において、商品は無論、形而下ですし、商品価値のようなものは、形而下です。

>●貨幣は形而下から形而上に変化した。

貨幣は、人間の社会や精神と関係する何かですが、普通、貨幣を形而上とは言いません。形而下のことです。

肉的な愛を、形而下的愛とし、プラトニック・ラヴ(精神愛)を形而上とする考え方はありますが、そうではないという考えもあります。完全な形而上的愛は、人の魂が、この世を離れて後に実現するというような考え方もできるのです。

概念については、概念を普通、形而上などとは言いません。言葉や概念は、この地上にある精神機能に付帯するもので、形而上的精神との関係が密接ですが、あくまで地上のものです。

しかし、天使の言語とか、概念の根源にあると考えられる「普遍的概念」のような、非この世的なものは、形而上的と考えられます。

正義や善や倫理や美も、その普遍的・イデアー的側面が、形而上的なのであって、それら自体は、形而下です。

アメリカ人が、聖書に手を置いて、裁判所で宣誓するのは、少なくとも、その身も言葉も証言も、この世のもので、形而下であるが、神への祈りを精神を通じて行い誓うことで、世俗の、地上の、形而下的世界の思惑や利害を離れ、純粋に、「真理」を善の意志に基づいて行うことを誓うので、神という形而上的存在と人間の精神の祈りのあいだで、証言に「普遍性」、ある意味の「形而上性」を与えるためにするのです。

しかし、これによって、証言が、形而上のものとなる訳ではありません。「真理」や「正義」は、真に神のみ知りたまうのです。形而上の真理や正義との「結びつき」を試みようとするのが、この宣誓です。

「形而上」というのは、日常生活で出会う出来事や事物や経験や、思考や構想に、簡単に名付けられるものではありませんし、そういう使い方をすると、何を言っているのか分からなくなります。

日常生活で出てくるものや扱うもの・こと、科学・自然科学で扱うもの・ことは、すべて形而下だと考えるのが、無難です。概念も、言語学の対象でしか過ぎません。ただ、「言語の本質」という問題になって来ると、「言語哲学」が成り立つように、形而上的問題が関係して来ます。

「形而上と形而下」について、以上、かなり丁寧に説明しましたが、「抽象性の高い言葉」は、色々な情報や知識や、その言葉が使われる場面、その言葉の由来や背景の事情などが分かって来ないと、普通、分かりません。

早急に答えを求めるのでなく、時間をかけて、学ばねばならないことです。

「形而上」というような言葉は、西欧哲学の伝統的用語ですから、そんな日常で使う言葉ではないのです。

また、19世紀から現代に至るまで、「形而上学批判」を多くの哲学者が行い行っていますが、そもそも、これらの批判する「形而上学」は、批判する者で色々な意味に捉えられており、色々な人が論じているので、分かり易いことだろうということは、まるでないのです。

むしろ、何か分からない問題が多々あるので、形而上学について、色々な見解があるのです。
 

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語され...続きを読む

Qポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味??

ポスト構造主義とかポストモダンという言葉をよく目にするのですが、簡単に言うとどういうことなのでしょうか?又、両者は同義なのでしょうか?

Aベストアンサー

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会と資本主義を特徴とする時代を指します。
そういう意味では現代も「近代」の延長上にありますが
1900年代後半から近代主義を批判する文化上の運動が活発化し
これ以降の時代を「ポストモダン」と呼びます。

思想・哲学史上における「ポストモダン」の代表的なモノに
1960年代に流行った「構造主義」があり
構造主義の流行が去った後の、構造主義の成果や反省を踏まえた次世代の思想を
「ポスト構造主義」と呼びます。
ちなみに現代は思想史上では「ポスト構造主義」時代にあたります。

このように、ポスト構造主義とかポストモダンというのは
時代区分の一種であって、その流れに属す思想は実はいろいろあります。
それゆえに一言で言うのは難しいのですが
共通する特徴として
●近代の行詰りを克服すべく、近代をいろいろな角度から反省している
●なかでも「形而上学」を反省しようとする態度が大きい
といったことが挙げられると思います。
ちなみに、ポストモダンの条件』を著した哲学者リオタールによれば
「ポストモダンとは大きな物語の終焉」だそうです。
何のことやら、よく分かりません。

形而上学というのは西洋哲学の主流の思想で
古くは古代ギリシャのアリストテレスによって始まり
「我思う故に我あり」で有名なデカルトによって一旦の完成を見た
(と教科書で教えられた筈の)ものです。

さて、以下、大胆に自己流に解釈します。
形而上学とはぶっちゃけ「理性」を武器に「絶対的に正しいものは何か?」を
言葉によって問うて来ました。
その到達点が「我思う、故に我あり」から始まる難解な思想なのですが
19世紀も終わり頃になると、まあ世界大戦勃発だの何だのと暗い世紀末だったので
思想的にも大反省期に入る訳です。
その中でも、大きくメスが入ったのが「言葉」で
ソシュールの「記号論」なんかが有名ですが
簡単に言えば「人間は言葉でしか物事を考えられないが
言葉には限界があり、よって思考にも限界がある」といったことを訴えたのですね。
これは例えば「日本語しかしゃべれない日本人は日本語でしか物事を考えられないので
日本語にない概念については語ることが出来ない」と言えば
何となくお分かり頂けると思います>翻訳できない言葉とかって結構ありますよね。
このように言葉の構造を探ることで言葉の限界を考察したのが記号論ですが
この記号論を発展させて、思考やら文化やらの構造を考察したのが「構造主義」で
メルロ=ポンティなんて人が有名です。

OKWaveにも「○○って、どういうことなのでしょうか?」といった質問が沢山寄せられますが
このように「ひとつの正解に還元できる」という考え方は実は非常に形而上学的な発想で
構造主義的に答えると「ひとそれぞれ、いろいろな考え方があります」
みたいな発想から入り、それぞれの偏見みたいなことを考えていきます。
なので、ときに「相対主義」だと批判されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会...続きを読む

Qソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?

ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

Aベストアンサー

kobareroさん 了解しました。

なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。

わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。

またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。

Q進研模試の過去問を手に入れたいのですが・・・。

単刀直入ですが,進研模試の対策をするために,進研模試の過去問を手に入れたいのですが,学校や塾の先生に頼む他に何か入手する方法はないのでしょうか? 勉強がしっかり出来ているかどうかの確認をするためには進研模試を解くのが,レベル的にも難しすぎず簡単すぎず,良いと言われたので,何回分かの進研模試を解いてみたいと思い,このような質問をするに至ったのです。ご回答,よろしくお願いします。

Aベストアンサー

模試の対策をする必要はありません。
普段の勉強の成果を確認するための物ですから。
対策の結果、実力以上の点が出てしまえば、かえって実力が見えなくなります。

適切なレベルの物で勉強したい、というのは伝わります。
しかし模試は模試。
最適な教材になるとは思えませんし、なるようなら進研がとっくに発売していますし、進研ゼミなどとっくにやめているでしょう。

書店に行っても教材が多すぎると言いますが、自分の学力が把握できればおそらくそれでかなり絞れるはずです。
それも判らなければ、基礎的な薄い物をやってみて、その感触で量るのが良いでしょう。
また、色々な教材を良く眺めてみるいうのも良い勉強です。
根性決めて書店に「通って」ください。
進研の模試もそうですが、教材には相性やレベルがあります。
進研の問題は確かに基礎的な良問であるような気はしますが、だからと言って、あなたがそれで勉強できるかどうかは判りません。
もっと基礎が抜けているのかも知れないし、そんな問題では簡単すぎるのかも知れません。
それはどの教材であってもそうです。

基礎ができていないのなら基礎、入試標準レベルのところでつっかえているのならそれ、と今自分が何をすべきか、で決めて、それをさっさと終えてください。
最後までそれだけでやり通そうとするから基礎から応用まで、なんて事を言うんです。
そもそも化物に至っては、教科書をきちんと読んでいるのか。理解できるよう読んでいるのか。なんて事が第一です。
その上で参考書、です。
物理は、一読しただけではさっぱり判らなくて当然です。
何度も教科書や参考書を読み、基礎問題を解き、解らなくなってまた教科書参考書に戻る、の繰り返しです。しつこくしつこく。
天才を除けば根負けするかどうかの科目だと思っています。

単語帳は相性次第です。
前書きからしっかり立ち読みし、相性が良さそうな物を選んでください。
当面センターレベルで良いので、さっさと終わらせることです。
現代文は、出口、田村、板野、河合の入試現代文へのアクセス、辺りを。これも前書きからしっかり読んで、やり方を把握したり指示に従ったりしましょう。
古典は知りません。
理系なら、二次私大でで国語を使うのかどうかでどこまでやるかが変わると思います。
あなたなら、伊藤さんの「ビジュアル英文解釈」ができると思います。
最初は易しいですが、最後までやり通したり、その後の「英文解釈教室」まで行けば大した物だと思います。

模試の対策をする必要はありません。
普段の勉強の成果を確認するための物ですから。
対策の結果、実力以上の点が出てしまえば、かえって実力が見えなくなります。

適切なレベルの物で勉強したい、というのは伝わります。
しかし模試は模試。
最適な教材になるとは思えませんし、なるようなら進研がとっくに発売していますし、進研ゼミなどとっくにやめているでしょう。

書店に行っても教材が多すぎると言いますが、自分の学力が把握できればおそらくそれでかなり絞れるはずです。
それも判らなければ...続きを読む


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