プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ベジタリアンという生き方を批判する考えで、説得的・論理的なものに出会ったことがありません。
そこで、説得的な批判があれば教えていただきたいです。
価値の押し付けをするから、暴力的だから、というイメージによる批判はお避けください。

以下の批判は説得的でないと思われます。
・「植物も動物も同じ命であり、平等に同じように食べるべき」との考えについては、同じ命であるからといって、その価値が同じであるとは必ずしもいえないと思います。花を折るのと動物を踏みつけるのは同じでしょうか。 また、動物を生産する過程でその数倍の植物を消費するため、動物を食べたからといって、植物の命を大事にしたことにはなりません。
・「動物の命を大事にすべきというのは感情的だ」との意見については、命の価値を論じるにあたって、主観を排除することは不可能であって、感情論であることは批判にならないと思います。命は大事であるという前提そのものが、感情論にすぎないからといって、否定されるべきとはいえないのと同じことです。
・「肉を食べることは原罪であり、その罪から目を背けることは偽善であり傲慢だ」との意見については、誤解によるものではないでしょうか。ベジタリアン自身も生きていくうえで他者の命を奪っているという矛盾を抱えて苦痛を感じています。殺したくない者がなるべく殺さないようにすることのどこに偽善や傲慢があるのでしょうか。

A 回答 (43件中1~10件)

動物の肉を食べないという事実に関しては何も批判するいわれはないでしょう。



ただ、なぜ食べないかについては突っ込みどころはあるでしょうね。

例えば宗教的理由ならば教祖の真似をして何になるのかなど。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
質問に書き忘れていたので、補足します。
「倫理的な観点から、動物を殺したくないと考えて食べない立場」に批判するべき点があるでしょうか。

補足日時:2009/05/19 15:44
    • good
    • 0

残念ながら、質問の要点が、伝わっていないのかもしれません。


「倫理的な観点から、動物を殺したくないと考えて食べない立場」の人に対して、「批判するべき」なんてことは、ありえないと私には思われます。
動物を殺したくないと考えた人が動物を食べない のは、全く当然のことであって、それを批判するなんて、ありえないことと存じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
言葉足らずですみません。
ベジタリアンに対して、某所では「非論理的で感情的で自己満足に過ぎない」という意見が多かったので質問させていただきました。

お礼日時:2009/05/19 19:36

[ベジタリアンという生き方を批判する考えで、説得的・論理的なものに出会ったことがありません。


そこで、説得的な批判があれば教えていただきたいです。]

ですか。
これむずかしいですね。理由は、殆どの人が持っている常識に間違いがあるからですね。世界中の常識では、人間>動物(魚類などを含む)>植物>鉱物 のような固定的差別を当然としているからですね。
捕食者という立場から見れば弱肉強食ですからこの順序は正しいのですが、生き物という意味では全て対等なものですね。鉱物だって生き物なんですよ。ただ寿命が人間の認識範囲をはるかに超えているだけですね。花は開花のときに花の精霊がきて花をひらかせるのですね。
この事実に気がつけば、捕食者としての人間が何を食しても同じことなのですが、固定的差別を信じている限り何を説明しても納得はしないと思いますね。

この回答への補足

回答者様は、生き物はすべて対等に「大切」と捉えておられるのでしょうか、それとも対等に「無価値」と捉えておられるのでしょうか。
他に食べ物があるのに敢えて人間を食べることについても倫理的な問題はないと考えておられるのでしょうか。
すこしわかりにくかったので、補足をいただければ幸いです。

補足日時:2009/05/19 19:39
    • good
    • 0

#1


情動を倫理によって否定しろということですね。

「私と私の体」というように「心と体」という分け方ができるなら、
食物を必要としているのは私ではなく、私の体です。
人間という種はもともと雑食性ですから、その性質を殺したくないという理由によって、
草食に強制させるのは、生物学上問題があり、また情動による強制は倫理上問題がある。
というのはどうですか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

心も体も同一人に帰属している以上、自己の利益を放棄することについては自由であり、他人がベジタリアンを批判する理由にはならないのではないかと思います。
ベジタリアンを「偽善、傲慢、自己満足」と批判する方が多いようなので、質問させていただきました。

お礼日時:2009/05/19 19:54

#4



私の回答は頭の体操なのであまり真に受けないでくださいね。
ベジタリアンを批判する気は毛頭ありませんので。

>心も体も同一人に帰属している以上、自己の利益を放棄することについては自由であり

この理屈だと自殺、未成年の喫煙、麻薬なども肯定されてしまうんじゃないでしょうか。

この回答への補足

書き忘れていましたので追記します。
自殺については、生命という利益も放棄可能であると考えます。自殺は犯罪ではありませんし、「うっかり」や「誤解にもとづくもの」ではなくて、真摯に生命を放棄したいと考える者を阻止する理由はないと考えます。

補足日時:2009/05/19 22:21
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お付き合いくださりありがとうございます。
こちらも、感情的になっているわけではありませんので、ご安心くださいませ。

おっしゃる点については、以下のように考えます。
・未成年者の喫煙については、判断能力や身体能力が未発達の者について、回復不可能な利益侵害をしてしまわないよう、国家による父権的・後見的な見地から禁止されます(いわゆるパターナリスティックな制約)。
・麻薬については、被害者のない犯罪といわれますが、流布することにより、勤労意欲を喪失させて健全な資本主義社会の発展を阻害するおそれや、精神的高揚による他者加害のおそれがあるため、公益的見地から禁止されていると考えられます。

上記はいずれも例外パターンであり、個人的な利益を放棄できるという原則そのものを否定するものではないといえると思います。

お礼日時:2009/05/19 22:19

#5



やはりベジタリアンが誤解を招くのは食べるという行為と倫理をリンクさせているところじゃないでしょうか。
肉食をしないことはより倫理的であるとベジタリアンは考えているからこそ肉食をしないのではないでしょうか。
しかし、質問の中にもあるように人間が生物である限り殺して食べなければならないです。
この部分に関しては倫理の出る幕ではないと思われます。
命を価値という物差しで測ることは倫理に反すると思われます。

ps.自殺に関する部分も倫理的な視点からみるとどうでしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ピーター・シンガーに「実践の倫理」という本があります。菜食、無脳児・脳死した人の扱い、寄付行為などについて書かれています。もしよろしければ、一読をおすすめいたします。
そもそも「倫理」とは、「~せよ・するな・すべきでない」といった行為規範を持っています。肉食でいえば、「他の命に配慮せよ」といった倫理です。そして、生きるうえで、他者の命の犠牲は避けられないとしても、「可能な限り」それを減らすよう努力することが「倫理的」でないということはできないと思います。
「生きるためには、他者を殺さなくてはいけない」からといって「いくらでも殺してもいい」ことにはなりません。倫理は、「全部殺さないことができなければ、意味がない(all or nothing)」ことを要求しているものではないと考えます。殺人だって、自分が相手を殺さなければ、殺されてしまう時には正当化されますから。

自殺については、生命を個人がいつでも処分可能なものであると公に認めると、社会の秩序が乱れるから、でしょうか。

お礼日時:2009/05/20 08:21

#6



他の人が回答をしないようなのでまたお邪魔します。

うーん。

>ベジタリアン自身も生きていくうえで他者の命を奪っているという矛盾を抱えて苦痛を感じています

この問題についてベジタリアンはどう処理するのでしょうか。
死ぬまでこの罪悪感にさいなまれるのでしょうか。
それと、殺す、殺さないの基準に価値という物差しを使うのでしょうか?
動物を殺したくないというのはよくわかりますが、罪悪感をさほど感じないから植物は良いという理屈なのでしょうか。
「他の命に配慮せよ」がなぜ肉食を禁ずるになるのかがちょっと分からないのです。

また、お礼の中に度々法律が出てきますがこれはなぜなのでしょうか。
法律を基準に正邪、善悪を決めているのでしょうか。

自殺について、

>真摯に生命を放棄したいと考える者

こんな人は恐らくいないと思います。
ここでも、「自殺は犯罪ではない」という法律が出てきますが、法律違反でないから良いという理屈でしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

何度も回答いただき、心から感謝しています。

>この問題についてベジタリアンはどう処理するのでしょうか。
死ぬまでこの罪悪感にさいなまれるのでしょうか。

命を大事だと考える以上、死ぬまでこの矛盾を抱えると思います。
別にベジタリアンでなくても、命を大切だと考えるすべての人間が抱える矛盾だと思います。常にそのことを意識するかとは別問題です。

>それと、殺す、殺さないの基準に価値という物差しを使うのでしょうか?

「価値という物差し」なしでは、倫理を語ることはできないと思います。回答者様は、どのような物差しであれば納得されるのでしょうか?

もし「命の価値はゼロだ。」とすると、「どんなに人間、動物、植物を殺しても構わない」という帰結となるでしょうが、その結論に共感できる人は少ないでしょう。
植物を摂取することを避けても、動物を殺すことにより間接的に「より多くの植物」を犠牲にすることになるため、植物をじかに摂取した方が命を奪う量が少ないといえます。地球上の穀物面積の半分以上が家畜の飼料として用いられていることを想起してください。
命を大切にする(=なるべく他の命の犠牲を出さない)という立場を実践するとこうなるという論理的帰結です。罪悪感に基づく行為ではありません。

法は一般的な倫理規範のひとつであり、大多数の合意によって成り立っているものです。ひとつの参考として挙げましたが、法だけが唯一の倫理規範であると考えているわけではありません。飲酒も大麻も法律で禁止されていることから、法律を前提に論じました。「法律があるからダメ」と言っているわけではなく、「法の趣旨に合理的根拠があり、支持できるからダメ」と説明したつもりです。

はたして真摯に生命を放棄したいと考える者はほとんどいないでしょうか。
末期患者の安楽死は認められませんか?

お礼日時:2009/05/21 00:31

 私はヴェジタリアンです。

三十からですから、43年に為りますか。
 別に説得も論理もありません。
 人間としての当然の食生活ですから。
 動物食は、心身にいいことがないのもでして。
 動物を食することは耐えられないですね。
 説得は考えていません。
 人はいつかみな、そうなると存じます。
 人類の進化を思います。
 その一段階では、他の生物の生命や体(植物も)に依存する生活や生命活動を卒業できるのではないかと、思っています。
 でも私は今も、おいしいものを食べ、お酒を飲むことは楽しいし、大好きです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
直感的にベジタリアンになられたんですね。
これからも健康で長生きしてください。

お礼日時:2009/05/21 21:10

ベジタリアンという生き方がただの感情論で論理的ではないですから、その批判は論理的にはなりませんし、また論理的にしたとしても相手を説得することはできません。

あくまで感情論ですから感情に訴えかけられないと説得されません。
なのでベジタリアンにとって批判的な意見をすべて「説得的でない」「論理的でない」と思うのはあながち間違いではないでしょうね。

A(非ベジ)「○○という映画は面白かった」
B(ベジ)「○○という映画はつまらない」
B「あの場面で人が死ぬだろう。面白いわけない」
A「その死をきっかけに主人公が成長する様が・・・」
B「倫理的だめだろう。それともそれを肯定するのか?」
A「そういうこと言ってるんじゃなくて物語として・・・」
B「いや、人が死ぬのはよくない。あれは駄目だ」
・・・

ベジタリアンは、ただの感情論にいろいろと理屈をつけて正当化しようとするので反発を食らうんです。
「この映画はつまらなさ」を正当化されても「面白い」と思っている人には受け入れられません。

A「○○という映画は面白かった」
B「○○という映画はつまらない」
A&B「私とは違うのね」

ここで終わってください。
そうすれば批判するつもりはありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そのような考え方だとすべての倫理学が感情論だということになりませんか。人間の生命に重きを置くのも結局感情にすぎないのですから。

ところで回答者様は、人間や他の命は大切にすべきと考えておられますか?
大切でないと考えるなら、見解の相違で、それ以上論ずべきところはありません。「大切だと思う」「大切だと思わない」まさに平行線です。

もし大切であると考えるのなら、大切にしようと行動している人を「感情的、非論理的」と批判できるのは何故ですか。1人殺すのも、100人殺すのも全く同じこと、と考えておられるのでしょうか。

お礼日時:2009/05/21 21:20

#7



>命を大事だと考える以上、

恐らくここが出発点になっていると思います。
その一つの回答がベジタリアンという事なんですかね。
ただ、殺さずには生きられない矛盾という状態を引き起こしている以上完全な回答ではないようです。

>「価値という物差し」なしでは、倫理を語ることはできないと思います。

例えば人が健康に留意するのに「価値という物差し」は必要ないと思うのです。不健康を良しとする理由がないからです。
健康に関してはある意味普遍性がありますが、「価値という物差し」に普遍性があるでしょうか。
捕鯨反対の理由に「知能が高い動物を食べるのは残酷である」というのがあるらしいですが、
価値の物差しは人によって基準がバラバラなのでこの手法は無理があるように思います。

>植物をじかに摂取した方が命を奪う量が少ないといえます。地球上の穀物面積の半分以上が家畜の飼料として用いられていることを想起してください。

ここはいい理屈ですが、植物には他の動物に食べられることを前提としている節がありますよね。果実なんかはその典型でしょうか。
コメ、麦、トウモロコシ・・・・・人間が栽培している植物は人間の食味に合わせて改良されてきましたが、別の視点で見ればおいしくなることで他の種より繁栄したともいえます。
屁理屈のようですが、犠牲という考え方に少し無理があるように思われます。

>末期患者の安楽死は認められませんか?

苦痛からの逃避を「真摯に生命を放棄したいと考える」とは言わないのではないでしょうか。死ぬのは「私の体」ですから「私」がそこに介入する必要はないように思います。

うーん、今のところ私の結論は#4の回答に戻りますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ただ、殺さずには生きられない矛盾という状態を引き起こしている以上完全な回答ではないようです。

おっしゃる意味での「完全な回答」は「倫理学」には存在しないと思います。それを求めることは無意味です。
生きるうえでは、様々な矛盾があります。そして、その矛盾は決してなくなることはありません。
それらの矛盾と真摯に向き合い、よりよい方法がないのか考えるのが倫理的な人間のあり方であると思います。

たとえば、殺さないことをつきつめた立場として、果物しか食べないフルタリアンという立場があります。果物は、植物自体の命を奪うわけではないので、植物すら殺すべきでないという立場の人は果物を食べるわけです。

ところで、「嘘をついてはいけない」という道徳がありますが、大人なら、人間関係を良好に維持するうえでは、何らかの「嘘をつかなければ生きていけない」ことを経験的に知っています。
そのうえでもやはり、「嘘はつくべきではない」と考えて、「なるべく嘘をつかない」よう行動することは、道徳的な行動とはいえませんか。

>健康
自己の健康第一に行動するというのは、自己の利益を図っているものであって、人間と他者の関係という倫理に関する行動ではないと思います。
道徳的によいとされていることの中で、主観的な価値を排除したものがあれば教えていただきたいです。

>植物
そのような考え方をすると、結局は、食べられたくない意思を持っている動物よりも、食べられることを前提としている植物を食べる方がよいという結論に至りませんか。

>末期患者の安楽死
すこしわかりにくかったです。
どうも、心と体を分離し、両者が対立する利益を持っているとする考え方がよく理解できないようです。
体は「瀕死の状態であれ生きつづけたいという意欲を持っている」と仮定すること、常に心よりも体の利益を優先すべきとする理由の両方がよく理解できません。

お礼日時:2009/05/22 12:21
1  2  3  4  5 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す