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価値のある人間という言葉を聞きますが、
そもそも価値のある人間と価値のない人間の違いは何でしょうか

A 回答 (9件)

「価値」という言葉には必ず「主体」が付随します。



例えば「パクチー」には価値があるかどうか、を議論してみるとすると、これがラーメンに乗っていると喜ぶ人と、嫌う人がいる。前者にとってはパクチーは価値があり、後者にとってはない。他の全てのものも大なり小なりそうなので、普遍的な価値づけというのは基本的に無理筋なんです。

ただ、交換・取引などをするときには、価値についての基準を合わせないといけないので、貨幣というシステムで一応の共通価値をつけるわけですが、ご存じの通り市場価格だって状況によって変わりますし、個人レベルで考えても、「おにぎり1個に200円は出せない」状況と、「おにぎり1個に何万円出してもいい」状況、どちらもあり得ますよね。なので、「普遍的な価値基準」はないんです。


前置きはこれくらいにして、同様に「価値ある人間」という言葉についても、「価値づけする主体は誰なのか」を無視して語ることはできません。

例えば私の妻は、世間一般的には「大勢いる人間の一人」であり、私にとっては唯一無二の価値のある人間です。どちらかが間違っているわけではなく、主体(誰から見ての話なのか)が違うだけで、どちらも正しいです。


ではそれを前提にして、無理筋とは分かりつつ「普遍的に価値ある人間」とは何かを考えてみます。「普遍的に」ですから、「常に誰からも価値を認められる人間」はまあ、普遍的に価値のある人間と言っていいでしょう。逆に、「常に誰からも価値を認められない人間」は、まあ普遍的に価値のない人間と言っていいと思います。

ただ、当たり前ですが、我々は「その価値が普遍的であるかどうか」を知ることはできません。例えば私が、嫌いだ、あるいは興味がない、この人間は無価値だ、と切って捨てた人間には、その人に唯一無二の価値を置く誰かがいるかも知れません。あるいは、その人自身は自分の価値を認めているかも知れません。あるいは、今はいなくても、いずれその人に価値を感じる人が出てくるかも知れないし、過去にはいたかも知れません。状況によっておにぎりの価値が変わるのと同じですね。それは、誰にも分かり得ないことです。

なので、「人権」という考え方の中に、その「分からないよね」という想定が入っています。つまり、誰に愛されなくても、必要とされなくても、最低限、全ての人間は「この程度の価値」はあるものと想定して扱おうよ、という考え方ですね。それが、基本的人権の保障する最低限の生活や尊厳です。


逆に言えば、それは「最低限の保障」に過ぎないので、それ以上の価値は、主体と状況によって付加されます。マスメディア等での露出が多く、多くの人に良い印象をもって知られる人は、多くの人が「価値ある人間」と言うでしょうし、同じ能力や役割を果たす人間でも、知られなければ「この人は価値ある人間だ」と判断する主体がいない(または少ない)ので、「価値ある人間」と言われにくい。


重要なのは、普遍的に「価値ある人間とそうでない人間」がいるのではなく、主体がそれぞれ勝手に言っているだけだ、ということ、
ただし、それぞれの主体の感じる価値は、大小あれどそれなりに重みのあるものであり、無視できるものではない、ということ、
あとは、上記の想定から、「人間には最低限この程度の価値はある」ということを基本的人権というルールで決めている、ということ


かと思います。

因みに、人間の価値を云々すると怒る人もいます。人間に価値の大小なんかなくて、それを論じるのは不遜もしくは不謹慎だ、という考え方ですね。

「普遍的価値」については、上に書いた通り「ない」ので、それを論じるのは(不遜・不謹慎かはさておき)無理筋ではあります。普遍的価値を自分が評価できるかのように振舞う人間が往々にしてろくでもないことをしがち、ということもあるので、「人間の普遍的価値を論じるな」という主張にはそこそこ理があると私は思います。

自分では普遍的価値は判断できない、と分際を弁えた上で人間でない何かに仮託するやり方はありですけどね(例えば人の価値は死後に神様が取り裁く、とすれば、「普遍的価値は【ある】けど人間には分からない」という態度で、かつ信仰の深さなり善行の度合いなり、それっぽい主軸を仮定すること自体はできます。

それから、主体の決まった個人的価値(例えば私にとっての私の妻の価値)は他人が侵すことが出来ないものなので、他人にとやかく言われる筋合いはなく、逆に言う筋合いもないものです。強いて言えば、例えば結婚するとき、離婚するときなど、その関係性を他者に認めてもらったり清算したりするときには、多少なりその価値を他者に査定させることは認めざるを得ないですけどね。
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例えば子供の落書きのような絵に数億円の値が付く事があります。


我々一般人からすればまったく価値のないものですが、それを喉から手が出る程欲しがる人からすればそうではありません。

どこぞの議員は人間の価値とは生産性であるといい、大昔の人間は生まれ(血統)であるといい、ある思想家は人徳であるといい、悟りを開いた人は「そんなもんないよ馬鹿」といいました。
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最終的には


悲劇を繰り返さないという軸で負になっていないかどうか
だと思います。
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価値のある人間と価値のない人間を切り分けるのも、それをする人の価値観によります。

その人の価値観の違いです。
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価値、というのは関係概念といいまして


何かに関係づけないと
議論になりません。

犯罪者でも、金を稼いでくれる
夫なら、家族にとっては価値ある人間
だ、ということになります。

反対に、ノーベル物理学賞を受賞した
学者でも、その犯罪者の家族にとっては無価値だ
という場合もあります。




価値のある人間と価値のない人間の違いは何でしょうか
 ↑
関係づけられるモノにとって役に立つか、
有益か、という違いになります。
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それ「論点」を言わないので受け手が様々な論点で述べます。



例えば…

論点1
善くしてくれる、やさしくしてくれる人には価値がある。
犯罪者には価値はない。

論点2
人間皆価値がある

この両方正しい。

しかし、論点2を主張した人間が、論点1の主張を聞くと、「なんて薄情な」と批判する…

論点1の主張をした人間が、論点2の主張を聞くと、「泥棒の思考だ!」「泥棒を認める主張だ」といい批判する…


その「論点」を理解しようとせず、答えを出そうとすると、一般的には「答えはいつも一つ!」という意識があるので混乱します。

よって、「論点はいくつもある」「この人はこういう論点でこうしゅちょうしているのだな」と理解しようとすることが重要ですね。


まぁ,もうちょっとありそうですが論点1.2を答えとしておきます。
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哲学的なことは浅学ゆえ分からないですが


とにかくそれは、生きてるだけで価値があるという人から始まって
評価する側の個々個人の価値観で以って
千差万別になる訳ですから
定義があるようでない・無いようである話ではないのかな。
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自分でそれを見つけたかどうかの違いです。


人間に価値などありません。それを探すために生きているので。価値があると言うなら、その人個人が自分の生きる価値を見つけ出したと言うだけの話。
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後藤新平はかつて言った。



人間として
〇金を残すのは下だ。
〇仕事を残すのは中だ。
〇人を造るのは上だ。
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