梶井基次郎の檸檬を読んでいるのですが、よくわからない表現があります。

何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている

という部分です。

「華やかな美しい音楽の快速調の流れ」=主人公にとって美しいと思える果物

「見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに」=後に書いてある「青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている」ということから「美しい果実(いくつかの量)が石化したように積まれている」

ということでよいのでしょうか?
教えてください、お願いします。

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A 回答 (3件)

たしか、京都寺町にある果物屋の陳列光景でしたね。


この陳列台は急斜面になっていたはずで、そこを思い浮かべながら解釈されるとわかりやすくなるように思います。

「華やかな美しい音楽の快速調の流れ」
=主人公にとって美しいと思える果物【の陳列状況】
だろうと思います。
つまり、斜面が急なので今にもそれぞれの果物が転がり落ちそうな危うい印象のまま陳列されている、という動的なニュアンスを「快速調の流れ」と表現したのでしょう。

「見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに」
=そのような危うさの中に陳列されているにも拘わらず落ちないのは、
「見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられ」
「あんな【鮮やかな】色彩やあんな【不安定なままの】ヴォリウムに凝り固まった」
とでも思いたいぐらいである。

ということでしょう。
「青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている」
という箇所は、あくまで、青物も果物のような陳列のされ方をしている、という付随的な描写に過ぎないと思います。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
すごくわかりやすいです!

お礼日時:2009/05/29 17:21

>何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。

青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている

少し理屈っぽくなりますが、八百屋に並べられている果物や野菜の色彩や形態を、主人公ができるだけ先入観、常識、通念、思い込み等々に囚われずに、つまり虚心坦懐に凝視しているうちに、それらがただのありふれた果物や野菜という通称の縛めから解放され、それまで隠していた果物や野菜それ自体の本来的な姿形やその本質、正体を露呈したのだと説明できるかもしれませんね。

>「華やかな美しい音楽の快速調の流れ」

思うに、「果物」が主人公に「美しい」と感じられたのは、それらが「美しい音楽の快速調の流れ」が堰き止められ、凝固した結果、果物という立体的な姿形を取るに至ったということではないでしょうか。
ここには、いわゆる美の根源には音楽があり、視覚美にしてもその原質が音楽であり、音楽の時間を止めると、そこに視覚芸術が実現するという、梶井特有の芸術観が垣間見られるのではないでしょうか。

>「見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに」

ここも、もともとは音楽のような流体だったはずの果物や野菜の精が、自分たちの意思に反して強引に堰き止められ、こんな姿に成り果ててしまった、と主人公がやや諧謔的、擬人法的に果物や野菜の代弁をしたと解することができますよね。
ちょうど、火口から流れ出た溶岩が地表の障害物に妨げられ、そこで「凝り固まったというふうに」。

>後に書いてある「青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている」ということから「美しい果実(いくつかの量)が石化したように積まれている」ということでよいのでしょうか?

ここは、八百屋で果物や野菜が陳列されている様子について、交響曲の「美しい音楽の快速調の流れ」が画家特有の意識を通過した結果、それが立体的な構成をもって再現された、と主人公が受け止めているところではないでしょうか。

ということで、「檸檬」は作者の音楽の感性と美術の感性との交流、融合を画策した佳品と評しうるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
難しいですね、読解力をもっとつけてすらすら読めるようになりたいです

お礼日時:2009/05/29 17:22

『檸檬』を読んだのはずいぶん以前のことですので、ここの文章だけからの判断です。



文章では「・・・音楽の流れが・・・凝り固まったというふうに果物は並んでいる。」と読めます。

「華やかな美しい音楽の快速調の流れ」=主人公にとって美しいと思える果物 というのは正しいと思いますが、

「果物が石化したように」というよりは

「果物は、美しい音楽が一瞬に凝り固まったもののように見える」=果物が、音楽を色や質量にしたものに例えられている、と思うのですが
いかがでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ちゃんと読めていませんね・・・もっと読解力を付けます!

お礼日時:2009/05/29 17:21

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Qさだまさしの「檸檬」

さだまさしの「檸檬」
曲的には結構好きなんですけど‥
歌詞が何を言わんとしているのか良く解りません。
皆様なりの解釈をして下さい。

ロック好きの私ですが、時にはしっとりした曲もいいものですよね。

Aベストアンサー

ごくベタにとらえるとすれば、この曲の「檸檬」は若さゆえに不器用だった初恋の象徴なんでしょうが、
さらに、若さゆえの葛藤をやつあたり的にぶつける対象として唄ってるんだとも思います。

年代的にさだまさしは、日本が徐々に豊かになってくる時代の中、
きらきらしい欧米の文化への憧れをだきつつ、それでいて、そのかわりに失っていくなにか(古来の日本人が大事にしてきたなにか?)に対する感傷を感じて若い時代をすごした世代だとおもわれます。
その世代にとっては、「檸檬」は、ハイカラでカッコよく、素敵に見えて高価、でも本音ではちょっと口にあわない、とこっそりおもっているものだったりしたのではないでしょうか。
それは、「大人になること」そのものへの感情とかぶるでしょう。
憧れはある、でも、全面的に肯定したくなくて、ちょっと不安。そんなかんじ。

若い時代の漠然とした希望と、高みへの飢えを象徴するような、歌詞の中にある彼女の、
「陽だまりの中へ細い手で檸檬を翳す」仕草、
でも、その檸檬は「盗んだ」もの。
そして、焦がれつつも、ホントはその価値をあんまり素直に認めたくないもの。
「みんなありがたがってるけど、こんな簡単に手にはいる。クソヤロー」
ってなもんでしょうか。…そうおもいつつも、それがホントに手にはいったことじゃないことはわかってるんでしょうけど。

だから、まだなにものでもなく、実力でそれを手にいれてそれの価値を否定できない自分への苛立ちと、それを嗤うような檸檬への価値への反抗として、投げ捨てるのでしょう。
せめて、いさぎよく、「できるだけ遠くへ」。

不器用です。

そして、その不器用さのために、今、恋もおわっていこうとしてる。
それをうっすら予感して、でも、強がってみせてる、と。
そんな彼女を、語り手である恋人は眩しくも痛々しい思いで静かに眺めてる。

そんなかんじで私は解釈します。

…あと、さだまさしの詩の特徴なのですが、視覚的な想像を意識しているところもいいですよね。
聖堂の壁の白、電車の赤、檸檬の黄色、鈍色の川面。
交錯するそれぞれの対比が美しいです。

ごくベタにとらえるとすれば、この曲の「檸檬」は若さゆえに不器用だった初恋の象徴なんでしょうが、
さらに、若さゆえの葛藤をやつあたり的にぶつける対象として唄ってるんだとも思います。

年代的にさだまさしは、日本が徐々に豊かになってくる時代の中、
きらきらしい欧米の文化への憧れをだきつつ、それでいて、そのかわりに失っていくなにか(古来の日本人が大事にしてきたなにか?)に対する感傷を感じて若い時代をすごした世代だとおもわれます。
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Q「大和し美し」の「大和し」は?

ヤマトタケルの歌「やまとは国のまほろばたたなづく青垣山籠れる大和し美し」について教えてください。

大和は国の中でもっとも秀でている所
山々が重なり合って青い垣根のようだ
山に囲まれた大和の国はほんとうに美しい

このような意味とは存じておりますが、古文が不得手なもので「大和し」の「し」のしの用法がわかりません。たんに「大和は」=「大和し」なのでしょうか?

Aベストアンサー

 強意の副助詞の「し」です。

以下、引用
--------------------------------
し 副助詞
【主な機能】
種々の語を承け、それを強く指示して強調する。時代が下るにつれて用例が限定されるようになり、現代口語には「定めし」「果てしない」などに化石的に残るのみである。

…青きをば 置きてそ嘆く そこし怜し 秋山吾は(万葉集、額田王)
大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも(万葉集、柿本人麻呂)
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ(万葉集、志貴皇子)
--------------------------------
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/josi03.html

辞書でもご確認ください。(副助詞の項)
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%97&dtype=0&stype=1&dname=0ss&pagenum=31&index=108101300000

 強意の副助詞の「し」です。

以下、引用
--------------------------------
し 副助詞
【主な機能】
種々の語を承け、それを強く指示して強調する。時代が下るにつれて用例が限定されるようになり、現代口語には「定めし」「果てしない」などに化石的に残るのみである。

…青きをば 置きてそ嘆く そこし怜し 秋山吾は(万葉集、額田王)
大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも(万葉集、柿本人麻呂)
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕へは大和し...続きを読む

Q梶井基次郎の「檸檬」では、なぜ丸善を爆破しようとしたのか。

檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった。まだ見ぬ未来である丸善を前に、不吉な塊を感じた梶井は、手に負える西洋(檸檬)で手に負えない西洋(丸善)を爆破しようとしたのではないだろうか。

という風に自分は考えたのですが、言葉足らずでしょうか?
どなたか教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった

上記のように解釈される所以は何でしょうか?
あまりよくわかりません。多くの文学者が
西欧を向いていた頃に梶井がその雰囲気の中で活動していたことはありますが。
福永武彦は
檸檬の冒頭「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた』は梶井の「一種世紀末的なデカダンス」を表している。それは梶井の全作品を流れる主調低音である。」と言っています。
その闇の中で唯一彼が見出した光が檸檬。
その檸檬を持って少し幸福になった私は「平常あんなに避けてゐた丸善がその時の私には易やすと入れるやうに思へた」のだが丸善に入るとその「幸福な感情は
段々逃げて行つた」画本がつまらなく見える。
それで画本を積み重ねた上に檸檬を置く。「そして
それは上出来だった」彼はそれをそのままにして丸善をあとにする。
これは「闇(不安)からのロマンティックな脱出で
ある」と評している人もいますし私もそう思います。
梶井がボードレールやセザンヌに傾倒していたのは確かですが、(檸檬は非常に絵画的)
「西欧」の観点でこの作品を捉えた評論は読んだ記憶がありません。参考までに。

>檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった

上記のように解釈される所以は何でしょうか?
あまりよくわかりません。多くの文学者が
西欧を向いていた頃に梶井がその雰囲気の中で活動していたことはありますが。
福永武彦は
檸檬の冒頭「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた』は梶井の「一種世紀末的なデカダンス」を表している。それは梶井の全作品を流れる主調低音である。」と言っています。
その闇...続きを読む

Q堆塵(タイジン)という漢字について、知っている方教えてください。

古い書物の中で、堆塵市裡(タイジンシリ)と載っていたのですが、堆塵(タイジン)と言う言葉がどうしてもわかりません。知っておられる方がいましたら是非おしえてください。お願いします。

Aベストアンサー

ANo.1さまがお答えになっているように、「塵が堆(うずたか)い」状態のことだと思います。
古い書物の中の言葉だそうですが、仏教書ですか?
仏教においては、「塵」には「世の中のわずらわしい事柄やけがれ」の意味がありますから、「堆塵市裡」で「俗世間の(けがれの)中で」というような意味合いになると思います。

Q檸檬

檸檬を読んで考えたことを教えてください。
私は読んでもなんとも思わなかったので十分なお礼が言えないかもしれませんがよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

梶井基次郎の「檸檬」でしょうか

昔、高校時代に読んだ覚えがあります。その時は、丸善の本屋に爆弾に見立てて置いた、鮮やかな黄色をした檸檬の光景だけが印象に残りました。
今その作品は著作件も切れていて、インターネットで読めるようになっていました。
これを機会に久し振りに読み返してみました。

作者の梶井基次郎は当時肺炎を患っていて、精神的にも参っていた様子がうかがえます。
高校時代には分からなかったことですが、これは不条理の小説だとおもいました。

現実から阻害され打ちひしがれて、かつてのような瑞々しい感性が失われつつある時、その感性を取り戻すがごとく喝を与えてくれたのが檸檬でした。それは色といい、形といい、手触り重さ温度までも全てが、彼の病んだ感性に訴えかけてくるものがありました。それを違和感有る丸善店内の本の上に置いた時、たった一つの檸檬が現実のなかで調和をもたらしたのです。そしてある意味現実への復讐を果たすべく、檸檬を置き去りにして爆弾に見立て、店もろとも吹き飛ぶ様を想像し、爽快感を味わうことが出来た。そのような内容だと思います。

死を前にした作者がこの世の不条理を感じ、檸檬に重ね合わせた自分もろとも世の中を吹き飛ばす。そんなイメージを楽しみながら、檸檬を象徴として心の浄化作用を小説に求めたいい作品だと思います。
今の時代ではアメリカのアクション映画とか、心のもやもやを吹き飛ばす娯楽的なものが多く想像しづらいと思いますが、大正当時の時代背景を考えると作者のやるせなさが伝わってくるように思います。

梶井基次郎の「檸檬」でしょうか

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作者の梶井基次郎は当時肺炎を患っていて、精神的にも参っていた様子がうかがえます。
高校時代には分からなかったことですが、これは不条理の小説だとおもいました。

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Q積付と積込の違い。

積付は辞書に載っていないのですが、意味がわかりません(グーグルと数十分格闘しましたが、わかりませんでした)。積込との違いもわかりません。
双方とも、船などの運搬手段にカーゴを載せることのような気がするのですが、ある本では「積込費用」「積付費用」「船積費用」と区別しているようです(それぞれの語句の解説はありませんでした、残念です)。バースターム(ライナーターム)関連です。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

No.1さんの言われるとおりです。

積み込み・・たいていの場合、形の揃ったものを単純に船や車に載せる。
積み付け・・形や重さの不揃いのものを、色々な制約条件を満たしながら、載せる。
たいていの場合、出来るだけ空間が出来ないように工夫する。
制約条件とは例えば小さなものの上に大きいものを積んではいけないとか・・・。
船などは途中寄港する場合、先に降ろすものは上に積むとか・・・。

Q檸檬

たぶん、小学校中学年ごろだったと記憶しているのですが、国語の教科書に出てきた物語を思い出そうにも思い出せません。

タクシーに乗り込んだ乗客が、室内の匂いに反応して

客「これは何の匂いですか?」
タ「これは檸檬の匂いです」

という受け答えから始まっている物語(たぶん)です。

わたしは、ずっと梶井基次郎の檸檬だと思い込んでいました・・・

急にその物語が読みたくなって、梶井基次郎を読んでみたのですが、全然違いました・・・
あたり前ですね。
(でも梶井基次郎は、とても面白かったです)

”レモン”でも、”れもん”でもなく、檸檬にふり仮名が打ってあったと思います。

手がかりがとても少なくて大変恐縮ですが、誰のなんという作品なのかお分かりになりましたら、ご回答くださると嬉しいです。

Aベストアンサー

あまんきみこ 著 「白いぼうし」ではありませんか。
でも、タクシーの中にあるのは、夏みかんでした。
運転手は松井さん


違ってたらごめんなさい

Q「そうゆう」とか「どうゆう」という表現

最近、ネットの書き込みや仕事上でも「そうゆってました」とか「どうゆうことでしょうか」と「ゆ表現」を使う人が目立つのですが、これがどうしても気になります。
確かに口語では「そうゆう」「どうゆう」と使いますが、文章では「そう言う」と「いう」と使うべきではないかなと思います。どうも「ゆ表現」は幼児語みたいでとても知的に思えないのです。
しかしいまや大学生くらいの年齢の子たちはみな「ゆ表現」を使っています。小学校、中学校の国語では今はそう教えるのですか?
それともこの言葉遣いもかつての「ら抜き言葉」と同じでやがて一般的になってしまうのでしょうか。

Aベストアンサー

そうですね、話し言葉としては「発音のゆれ」と言って、どちらでも良いですね。
と、この『良い』も「よい」と「いい」の2とおりの発音がありますね。
言葉で迷ったときは、やはり主務官庁である文化庁の『国語施策情報システム』です。
「参考資料」→「各期国語審議会の記録」→「第5期」
のところに詳しく載っていますよ。

ただ、書き言葉としては「いう」であって「ゆう」は間違いです。
パソコンとインターネットの発達で、特別に国語をしっかり勉強した人でなくても、誰でもが気軽に文章表現ができるようになりました。
その反面、このような間違った文字表記や、誤字脱字、誤変換が大手を振ってまかり通っているのも事実です。

これは単に、日本語の標準的な書き方を知らないだけ、忘れただけですから、社会に広く認知されるようなことはないでしょう。

まあ、ネットは乱れた日本語のデパートと割り切って、あまり深刻に考えないで起きましょうよ。

参考URL:http://www.bunka.go.jp/kokugo/

Q小説「檸檬」に出てくる本屋さん

 タイトルが漢字かもわからないもですが、檸檬と
いう小説に出てくる古い本屋さんが京都にあり、
10月に閉店になるとのこと。
その本屋さんの名前や場所を知っていたら
教えて下さい。

Aベストアンサー

丸善ですね。「檸檬」は高校のときの国語の教科書にでてました。そしてその本屋が閉店するということも何かの雑誌でみました。しかし正しくは移転じゃなかったですか?記憶は定かではありませんが。
関係ないですが、檸檬に登場して以来、丸善にはレモンを持ったお客さんが今でも来るそうです。

Q田子の浦ゆ、の「ゆ」は綴りミスでは?

田子の浦ゆ うちいでてみれば 白妙の,
という和歌がありますが、この「ゆ」は綴りミスなのではないでしょうか?

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どうして綴りミスだと思われたのでしょうか。
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「ゆ」は動作の起点・経由点となる所を表す格助詞で、現代では「より」や「から」という意味になります。


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