もし当時に今のような名刺があるならば
豊臣秀吉は長浜城主になった後に大坂城主になるまでの
過程ではどのような肩書きになるのでしょうか?

大坂城主になるまでは長浜城主のままなのでしょうか?

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A 回答 (1件)

秀吉の肩書き?



長浜城主になるまでは
清洲城 普請奉行木下藤吉郎、台所奉行木下藤吉郎秀吉くらいかな
長浜城主になった頃は
長浜城主 羽柴筑前守秀吉
清洲会議後は
従五位下 左近衛少将 羽柴秀吉
賤ヶ岳の戦い後
従四位下 参議
牧・長久手の戦い後
従三位 権大納言
紀州征伐後
正二位、内大臣
四国征伐後
近衛前久の猶子となる、藤原改姓  従一位、関白
九州征伐後
豊臣賜姓
内大臣辞職  太政大臣宣下 
奥州仕置後
関白辞職
文禄・慶長の役後
太政大臣辞職
8月18日  薨去
大正4年 贈正一位
って感じ?
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この回答へのお礼

とても詳しく
ありがとうございます

お礼日時:2009/05/24 22:52

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Aベストアンサー

おめでとうございます。
席次表などを作る仕事をしています。

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どうしてもということであれば
(新郎側と新婦側で揃えるとかご両親のご意向などの理由で)
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Aベストアンサー

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
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http://kyoshin.nkkg.co.jp/hp/office/office2.html
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下記も参考に。
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Aベストアンサー

どうもそのようですね。
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Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Q織田信長・徳川家康・豊臣秀吉 この3人をまとめてなんと言いますか? 歴史は苦手なもので…この3人はた

織田信長・徳川家康・豊臣秀吉
この3人をまとめてなんと言いますか?
歴史は苦手なもので…この3人はたしか、天下統一を目指していた方ですよね?

その辺を詳しく教えていただきたいです!!

Aベストアンサー

「(戦国)三英傑」でいいと思います。

Q豊臣秀吉と織田信長の息子達との関係

日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。
織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは
誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね?
なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。
信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか?

もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼びました)「山崎の戦い」で光秀軍を撃破しました。

(3)信長の家臣の中で、すばやくただ一人で光秀を討った「第一の軍功功労者」として柴田勝家らに一目置かざるを得ない存在となりました。

(4)その後、6月27日に信長の後継者問題を討議すべく清州城(いわゆる清州会議)で、出席をしたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)。
その場で勝家は二男信雄が跡目相続をするべきだ、と主張しましたが、秀吉は、長男信忠(二条城で信長と一緒に死亡)の一人息子三法師丸が血筋としては最も正しい、と主張しました。丹羽長秀や池田恒興はそれに賛同をし、軍功功労者第一番という威圧感もあって秀吉は三法師丸の後見役として信孝を指名したことにより、勝家はニガニガしい思いをしながらも、出席者の意見に従うしかなかったのです。

(5)やがて柴田勝家は信長の妹お市の方を押し立てて100ケ日法要を妙心寺で行い、秀吉よりも地位が高いことを見せつけようとしましたが、秀吉も黙ってはおらず、信長と信忠の葬儀が行われていないことに目をつけ、10月15日、秀吉の養子となっていた信長の四男秀勝を喪主として大徳寺で盛大に葬儀を執り行いました。

(6)この頃より秀吉と勝家が一層不仲になったと言われています。

(7)秀吉は勝家への「ゴマすり」の意味も含めて、天下一の美女と言われていたお市の方を勝家に嫁がせましたが、勝家は秀吉の策略を見抜いていました。

(8)12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師丸を安土城に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師丸を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

(9)翌年の天正11年2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。

(10)4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

(11)4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

(12)こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師丸を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになり、やがては、関白となって天下統一への路を走ったのです。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼...続きを読む

Q豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳

豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?

Aベストアンサー

>家康も晩年は どの役職でも取得できたのかなと・・・
 晩年の家康の権力は確かに絶大ですが、寿命(死去は1616年)がもう残り少なかったのです。
 (太政大臣の就任が死去の一ヶ月前。)

 秀吉は死去(1598年)する14年前に関白に就任(1585年)していますが…。

 絶大な権力があった事を制度的に裏付ける「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」も死去する前年(1615年)に制定された訳ですし…。

 家康が自身の権力の大きさを、公に誇示できる様に成った理由は、個人的には1615年に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、建前(豊臣家は建前上は徳川家の主家)でも実質でも徳川家が最高権力者である事が確定したからだと思います。


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