出産前後の痔にはご注意!

カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに
ついて詳しく教えていただければと思います。
またわかりやすく説明している著書がありましたら
教えてください。

恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も
受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。

いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。
よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

 


これは難しい問題なので、簡単に述べます。

「輪廻」と「転生」は別の概念です。普通、一緒にして「輪廻転生」と言いますが、違う意味内容の言葉・概念です。

「転生」というのは、「生まれ変わり」ということで、世界の文化でほぼ普遍的に認められ、存在する考え方です。亡くなった人が、再び、別の人として、子供として生まれてきて、この世に「帰って来る」というような考え方です。

「転生」の場合にも色々と条件が付く場合があります。文化ごとでそれは違っています。例えば、良い行いをした人は、今度生まれてくる場合は、良い境遇に生まれてくるとか、生涯敵同士として闘い、殺し合った二人は、今度生まれて来るときも、敵同士になるとか、愛し合う二人は、今度生まれて来るときには、また恋人になるなどです。

一般的に、転生は、家族や親族内部で、または共同体の内部で起こるというのが普通の考えです。

「輪廻」というのは、サンスクリット語で「サンサーラ」と言い、元々ウパニシャッド思想(紀元前8世紀から6世紀頃)において、梵我一如(「ブラフマン=梵」と「アートマン=我」は本質的に同一であるという思想)の原型と共に、輪廻の思想も形成されました。

ウパニシャッドの輪廻の考え方では、「太陽の道」と「祖霊の道」というものが考えられ、後者は、「転生」の概念にほぼ近い考えで、死んだ後、魂は、雨水などと一緒になって、天から下りてきて、また女性の胎内に入り、生まれて来るというような考えです。

「太陽の道」は、「祖霊の道」を歩むと、どこまで言っても、転生を繰り返すに対し、死後、ある方法で、太陽の道に進ことができると、もはや、この世には、再び転生して来ない道があるという考えです。

「輪廻」とは、転生のなかで、「業(カルマ=行い=生前にどういう行動・生き方であったか)」によって、次の転生先や転生のあるようが決まり、この決定規則は厳密なもので、機械的に起こり、動物をむやみに殺していると、転生先は、殺していた豚や牛になるとか、ブラフマ階級の者は、儀式を行っている限り、転生してもブラフマ階級であるとか、非常に細かく規則が決まって来ます(それには、長い時間がかかりましたが)。

ヒンドゥー教、ヒンドゥー思想では、この運命決定論的「輪廻思想」が正しいとされています。その一方で、「不二一元論=ブラフマンとアートマンは本質は一つであるという思想」もヒンドゥー思想の中核にあり、輪廻論と、不二一元論は、どう調和するのかは、結局、輪廻もこの世の生も、すべて「幻(マーヤー)」であるということになります。

マーヤーから脱し、個人のアートマンが覚醒して、ブラフマンと一致するとき、輪廻の幻からも脱出するのであり、これを、「独存」とも言います(仏教では、「解脱」と言いますが、ヒンドゥー教では、違う表現ですし、内容も違います)。

「輪廻」というのは、元々古代インドに始まり、時代と共にインド文化で洗練されて来た、転生についての理論なのです。

仏教の「六道輪廻」は、このインドの輪廻思想と非常に密接な関係にあります。仏教はヒンドゥー教の異端とも言え、民衆に広く流布して行くと、ヒンドゥー教との境界が曖昧になります。仏陀釈迦牟尼は輪廻を唱えていませんし、その後の代表的な仏教思想家たちも、輪廻は説いていませんが、仏教の教えの一部に入り込んでしまいます。

仏教では「諸法無我」と言い、もろもろの事物には、それ自身で存在しているという性質(自性)がなく、従って実体でもないので、相互作用のなかで、変化する必然にあり、従って、「無常」であり、転生とか輪廻などは、「ない」というのが妥当なはずです。

しかし、仏教のなかに、輪廻の思想が実際には含まれていて、仏教の教えの一部としても、かなりな重要性で一般の人のあいだで説かれているので、仏教の輪廻思想、つまり、六道輪廻などの考えと、根本テーゼである、諸法無我はどう調和するのかという議論になり、「輪廻する主体=実体は何か?」ということが、仏教思想で重大な問題として、紀元の初期前後から議論されて来ました。

結局、そのような「実体=主体」は「ない」というのが、最初から分かっていた結論だったとも言えます。色々なものを輪廻の主体、つまり業(カルマ)の蓄積と転生での継承の主体と考えても、どうしても、そのような主体は、自性を持つ実体の側面を持つので、諸法無我と矛盾してくるのです。

仏教における六道輪廻については、それこそ、無数の解説書があるはずです。しかし、転生や、特定の形式の転生を、また広義に「輪廻」と呼んだ場合の輪廻は、世界中の文化に存在する考えです

例えば、西欧キリスト教文化でも、転生の考えは残っています。亡くなった祖父の名を、生まれて来た男の子に付けるのは、新生児が亡き祖父によく似た特徴があるとき(血のつながりがありますから似ていることは起こるのです)、これを亡き祖父の転生と考える思考があって、こういう命名をした古い時代の伝統が残っています。

中世キリスト教の異端または異教である「カタリ派」は、独特の輪廻思想を持っていたことが知られています。

輪廻転生というと、すぐ仏教に結びつけるのではなく、仏教の輪廻思想は、ヒンドゥー思想の輪廻の影響の元に生まれた考えであること、また、輪廻も転生も、世界の文化で、色々な形の考えがあるのだという視野が必要でしょう。

オンラインのブックショップの「アマゾン・ジャパン」で、「輪廻」とか「転生」のキーワードで検索してください。自分で、参考書を探す努力をすべきでしょう。

(仏教における「輪廻の主体」の問題については、次の質問の回答が、比較的に正確な話になっていると思います):

>No.431743 質問:輪廻の主体は何なのでしょうか
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=431743

>アマゾン・ジャパン
http://www.amazon.co.jp/
  

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=431743,http://www.amazon.co.jp/
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この回答へのお礼

お礼が遅れまして申し訳ありません。

とてもわかりやすく、丁寧に答えていただきありがとうございます。
本などよまなくてもこれだけの説明で、だいぶ理解できるように思います。

というか、授業できいた覚えがあり、記憶がよみがえって
きました。

>輪廻転生というと、すぐ仏教に結びつけるのではなく、仏教の輪廻思想は、ヒンドゥー思想の輪廻の影響の元に生まれた考えであること、また、輪廻も転生も、世界の文化で、色々な形の考えがあるのだという視野が必要でしょう。
とても参考になりました。
やはり仏教の言葉というイメージがありましたので。

オンラインブックの件もアドバイスありがとうございます。
本を探すさいの参考にさせていただきます。

ほんとにありがとうございました。

お礼日時:2003/03/29 14:58

PHP研究所から、飯田史彦著「生きがいの創造」と言う本がでています。


生まれ変わりを科学で解き明かすといった内容で私のような無宗教、無哲学な
人間も抵抗無く、ファンタジーとして読みました。
是非、ご一読をお勧めします

参考URL:http://homepage2.nifty.com/fumi-rin/
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この回答へのお礼

お礼が遅れまして申し訳ありません。

参考にさせていただこうと思い本屋めぐりを
しましたが見つけることができませんでした。

再度、探してみようと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2003/03/29 14:52

仏教で言うところの六道輪廻ですね。


六道とは、すべての衆生が生前のカルマによって転生を繰り返す、
六つの迷いの世界のことです。
すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のことです。
人生を生きるということは修行の場であり、
辛いことなのです。
したがって、解脱という概念は、
もうお前は人間なんてやらなくてもいいよ・・・
という悟りを開いた状態、ということです。

金子光春の遺作になった「六道(りくどう)」という詩は、
素晴らしいですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界
まさに授業でならったことでした。
この6つの言葉も一つ一つとても奥が深いですよね。

>金子光春の遺作になった「六道(りくどう)」という詩は、
素晴らしいですよ。
教えていただいてありがとうございます。
一度、読んでみようと思います。

お礼日時:2003/03/21 13:49

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Qウシャニパッド哲学 ~梵我一如について~

ウシャニパッド哲学、梵我一如のことを学校の倫理の授業で習って、
テストに出すって言われたんですけど、いまいちうまく理解する事ができません。
わかりやすく教えていただければ、とてもありがたいのですが・・・。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態を解脱というのです。さて、
問2.梵我一如ということが判ると何がおこりますか。

yamanoyu2858さんの示してくださったURLもお読みください。
いかがですか?

梵我一如ということを理解したとき、アートマンであるあなたはブラフマンと一体化します。どんなにいろいろなものに生まれ変わったとしてもアートマンであるあなたはブラフマンなのです。あなたはもはやブラフマンであり変化しないもの、輪廻の罠から逃れ出たものになっています。つまり解脱したのです。

前の私の答えと重なりますが、これを納得する必要はありませんよ。古代インド人はこう考えていたということが判れば良いのです。ただ、この考え方は仏教の開祖ガウタマ=シッダールタも前提としていたことですから、仏教の基礎になる考え方です。で、日本にも仏教は伝わり現代まで繋がっていますから、そのつながりの中である種「普通」の「当たり前」の考え方とされていますが、冷静に考えれば奇妙な考え方です。余談の方が長くなってしまいましたが、納得ではなく理解をしていただきたいと思います。

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態...続きを読む

Qユダヤ教キリスト教イスラム教の共通点

どなたかユダヤ教キリスト教イスラム教共通点をいくつか教えていただけませんか?

Aベストアンサー

元々、ユダヤ教が原点です。(ユダヤ教の原点は何か?は割愛)
で、そのユダヤ教を改革しようとして出てきたのがイエスです。
しかし、結局は改革ではなく分離独立という道を選び、その宗教がキリスト教となります。
成立は紀元前後ですね。

イスラム教は7世紀にアラビア半島で生まれた宗教です。
ユダヤ・キリスト両方の影響を受けて成立しました。

よって、ユダヤ・キリスト・イスラームは3つ併せて「アブラハムの宗教」と呼称されます。
お互いがお互いに密接に関係しているので、共通点もたくさんあります。

1・「聖典」の共通

ユダヤ教は『旧約聖書』(ただしこの呼称はキリスト・イスラム教からのもので、ユダヤ教徒自信は単に「聖典」と呼びます)を唯一の聖典としています。

キリスト教は『旧約聖書』にイエスやその弟子の言葉や手紙を収めた『新約聖書』が加わります。

イスラム教は『旧約聖書』と「『新約聖書』の中の4福音書」に加え、ムハンマドの言葉をそのまんま記した『コーラン』が加わります。

2・共通の預言者

預言者とは、予言者とは違い、「神の言葉を預かり伝える人」という意味です。
3宗教とも、この預言者の存在を重視しています。
そして、預言者は一人ではなくて何人もいます。
当然、共通の預言者もいれば、一方は認めるけど一方は否定される預言者もいます。
共通のモノとしては、

アブラハム・ノア・モーセが有名どころですね。
で、そこにイエスが加わるとキリスト教。
さらに、ムハンマドが加わるとイスラム教です。

ユダヤ教は、イエスもムハンマドも認めません。
キリスト教はムハンマドを認めません。
イスラム教はすべて認めますが、最大にして最後の預言者がムハンマドであると主張します。


3・聖地イェルサレム

共通の聖地もいくつかありますが、やはり最大のモノがイェルサレムですね。
まぁ、ユダヤ教の聖地であり、そこから分派・影響を受けて成立したのがキリスト・イスラムの両宗教なので、聖地が同じってのも仕方ないですね。
ただ、イスラム教はイェルサレムよりもメッカの方が重要視されますね。(といっても、イェルサレムの重要性も無視できませんが)

とまぁ、今思いつくのはこれくらいですかね。
最後に注意してもらいたいのは、これらはおおざっぱな解釈・説明で、当然宗派によっての違いもでてきますし、その解釈の違いから互いに争ったりしています。

元々、ユダヤ教が原点です。(ユダヤ教の原点は何か?は割愛)
で、そのユダヤ教を改革しようとして出てきたのがイエスです。
しかし、結局は改革ではなく分離独立という道を選び、その宗教がキリスト教となります。
成立は紀元前後ですね。

イスラム教は7世紀にアラビア半島で生まれた宗教です。
ユダヤ・キリスト両方の影響を受けて成立しました。

よって、ユダヤ・キリスト・イスラームは3つ併せて「アブラハムの宗教」と呼称されます。
お互いがお互いに密接に関係しているので、共通点もたくさん...続きを読む

Qなぜ輪廻転生が必要なのでしょうか?

なぜ輪廻転生が必要なのでしょうか?

私は輪廻転生という考え方が怖いです。(すみません……)
小学1年生で六道についての本を読み、子供ながら怖くなった覚えがあります。なぜ輪廻転生する必要があるのか、と考えています。丁寧に教えていただけると非常に嬉しいです。

Aベストアンサー

zakky74です。

観点固定・・・これ一つが中々に受け入れにくく、厄介なシロモノですね。

>確かに観点が自分に固定されている、というのはあります。あなたも昔は観術を学ぶ際に色々あったのですね。今からは想像できません。観点を変化するのが観術。これでやっと腑に落ちました。

しかし、この観点についての理解が進む事は、全てを理解する土台が飛躍的に高まります。分離されたモノの総和を理解するやり方ではなくて、観点一つだけを明確に理解するだけで全体を理解する姿勢は圧倒的に創られるものです。

b-w-stepさんの観点が、人間に固定されています。

ですが、もし動物に移動すれば、一体何が見えますか?
モノは?光は?細胞は?人間は?

本当に人間が見ている様に見えるのでしょうか?
その場合、人間の科学だけが本当に正しいのでしょうか?

もし植物に移動すれば、一体何が見えますか?
モノは?光は?細胞は?人間は?

人間が見ている様に見えているのでしょうか?

地球に移動して、地球から認識する時には?地球の認識方式では?
モノは?光は?細胞は?人間は?

太陽系・銀河系・宇宙・宇宙の外・・・に観点が移動して、そこから認識する時には?
モノは?光は?細胞は?人間は?・・・一体どう見えているのでしょうか?

人間が見ている世界は、一部ですし、部分ですし、真実の姿とは言えないのではないでしょうか?

その状態で

存在を確認する(脳の認識が働いています)。
名前を付ける。
覚える。
因果関係を規定する(判断基準が働いています)。
覚える。
因果関係に基づき、体系化を行う(判断基準が働く)。
覚える。

だから、次の様に思い切った事を言い切ります。

学術は、観点が人間に固定した時の認識方式しかまとめていません。
当然、物理学・数学・生物学・医学などもそうですし、ハリソン内科学もです。

それでは当然足りません!

人間の細胞は、人間が見ている細胞だけではありません。
他の全ての観点から見たときに見える人間の細胞こそが、真の人間の細胞です。


繰り返しますが、観術とは、観点を変化・運動・移動する認識技術です。
人間から観た人間の細胞を語る事も、当然にして出来ますよ。
それは2017年には確認できると思います。

>知っている、と思った瞬間に他の可能性を無視する。そして自信を持った瞬間に成長は止まる。これが人間なのかもしれません。

仰る通りです。

ですから、僕はよく観術からも離れます。僕が分からない事については素直に聞く様にしています。僕が知らないだけで、もしかしたら相手は知っているかもしれないからです。

このQ&Aでも何回がありました。

「最終理論を、明々白々に説明しているのは観術しかありません。」・・・これが僕の観点ですが、この観点自体も固定されているとそこから話は進みません。つまり、相手は最終理論を明々白々に説明できる存在かもしれません。この可能性を、僕は常に見ています。

ですので、最終理論について理解していたり、知っている節がある時には、観術の事をいったん置いておいて、まずは聞く様にしています。なぜならば、最終理論を明確に理解していて、しかも人に伝達可能な状態の場合には、人類の全ての問題を解消・解決する道までも明確に見えてしまっている為に、その喜びや可能性について共有したくて仕方がないからです。

歓喜溢れる心ですね。
人類500万年間の限界を突破した事の意味ですから。
涙だし、興奮ですし、感動はちきれんばかりです。

その事を分かるので、観術とは切り離す作業に切り替えます。

>>疑う程に逆に理解・納得が進みます。
>のは胸に響きました。他のサイトまで紹介してくださってありがとうございました。2017年をお待ちしています。

僕がそうでした。
また、観術に触れる多くの人がそうです。

信じて仰ぐ信仰は、妄信でとどまってしまいます。宇宙自然、人類文明歴史の何の整理もないままに、確信っぽい妄信で人生を突き進むから、69億人の幸せに及ばない程度の力しか発揮できません。

信仰よりは理解です。
天動説から地動説に移った事は、その事を教えてくれました。

ただ、学術的理解は信仰を抜ける意味ではそれなりに功を奏しましたが、まだ中途半端です。信仰・妄信よりは洗練されていますが、確信には絶対に至りません。ゆえに、学術からは輪廻転生や悟りについてノータッチです。

理解による確信。
その為には、疑問はとても大事です。
信じる事によって、疑問を有耶無耶にしたり曖昧にしたりする時代はもう終わりです。

b-w-stepさんの疑問については2017年の時には相当数晴れている事が、僕の目には観えています。その時の感動の出会いを楽しみにしています。

zakky74です。

観点固定・・・これ一つが中々に受け入れにくく、厄介なシロモノですね。

>確かに観点が自分に固定されている、というのはあります。あなたも昔は観術を学ぶ際に色々あったのですね。今からは想像できません。観点を変化するのが観術。これでやっと腑に落ちました。

しかし、この観点についての理解が進む事は、全てを理解する土台が飛躍的に高まります。分離されたモノの総和を理解するやり方ではなくて、観点一つだけを明確に理解するだけで全体を理解する姿勢は圧倒的に創られるものです。

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Qキリスト教はどうして偶像崇拝をするのでしょう?

教会にはキリストの磔像や絵がたくさんあります。
あれに祈っているようですが、どうしてキリスト教は、偶像崇拝をするようになったのでしょうか?
偶像崇拝をしてはいけないと聖書に書いてないのでしょうか?
イスラム教では厳格に禁止されているそうです。
キリスト経の歴史において偶像崇拝を推し進めたのはだれで、いつの時代でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キリスト教のカルケドンの公会議を認めるグループです。
これには、カトリック、正教会、プロテスタントなど、キリスト教会の80%以上が含まれます。

カルケドン派の教義では、「父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は、一体である」とします。
この教義では、「神の像を崇拝する事は禁止されるが、子なるキリストを礼拝する事は、問題ない。」としています。

つまり、神自体の崇拝は禁止するが、子(人間)の形をとった、キリストへの礼拝は、問題ないといっています。

またカトリックでは、神へは崇拝、キリストには礼拝、聖人には崇敬、聖母マリアには、超崇敬を行う事になっています。

私は、キリスト教徒ではありませんので、実際に、崇拝と礼拝、崇敬の祈りの違いは、分かりませんが、キリスト教会の中で、区別されているようです。

当初キリスト教では、キリストの像を拝む事はなかったようです。
ローマ帝国内で国教とされたため、それまでのローマ帝国内の信仰(ギリシャ神話、ローマ神話、マトラ教など)と交わり、信仰の対象としての何かが必要になったため、それができるように解釈を変更する口実として、カルケドン派の三位一体が考え出されたと思います。

イスラム教は、キリスト教が、本来のユダヤ教が持っていた本質から離れた事を批判し、勢力を拡張します。
しかし、その過程で、あまりにキリスト教のキリスト像礼拝を批判しすぎたため、行過ぎた偶像崇拝論が形成されてしまいました。
しかし、信仰の対象としての何かが必要である事には変わりが無いため、必要以上の聖典コーランへの信仰と、メッカのカイバー神殿への崇拝となってしまっています。

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キ...続きを読む

Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Qキリスト教の唯一神の名は何ですか

ユダヤ三教はいずれも一神教です。

例えば、
1.ユダヤ教の唯一神の名は「エホバ(ヤハウエ)」、
2.イスラム教の唯一神の名は「アッラー」です。

それでは、
3.キリスト教の唯一神の名は何ですか。ご存じの方、教えて下さい。

Aベストアンサー

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源)という呼び名もあったが、
・現代のキリスト教では、単にGod(神)と大文字で表記し、普通名詞としてのgodと区別することが多い。
唯一神なのだから、単に、固有名詞の「神」だと考えればわかりやすい。
・日本の信者間での通称は、「主」(しゅ)が一般的である。
・私が子供の頃は、「天主」という呼び方もあったと記憶している。古い教会で「浦上天主堂」などと呼ばれているのはその名残。多分「天使」と混同するから使われなくなったのだろう。

・尚、カトリックでは、「三位一体」説というのがあり、神には、「父」と「子」と「聖霊」の3つのペルソナ(人間なら「人格」と訳すが、神なので「位格」と訳す。英語のパーソンに相当)があるが、本来は同じ一体の「神」の別の表れ方という解釈がなされている。
→ http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/dic/trinitas.html
仏教の阿修羅のように、一体なのに、顔が四方についているイメージを思い浮かべば、イメージしやすいかもしれない。

この内、「父」は、「天の父」であり、
「子」は、「神の子」でありながら、人類の救いのため、人間の姿になって地上に降られた「イエス・キリスト」であり(その意味で、「イエス・キリスト」は「救い主」(メシア)と呼ばれる。)
「聖霊」(「精霊」ではない)は、イエスの誕生、洗礼及び復活のとき、イエスの中に満たされるとともに、今日ペンテコステ(聖霊降臨の日)と呼ばれる日に舌の形で弟子たちのもとに下り、一瞬の内に出身国・国語の異なる弟子たちの言葉が通じ合い、喜びに満たされた、という話があり、今後も「聖霊」が人類に与えられることによって救いが完成すると言われています。
→ http://www.pauline.or.jp/spirit/sps3.php

このように、三位一体説は、非常にわかりにくい教義で、3つのペルソナの中で、すぐにイメージしやすいのは「子」であるイエス・キリストのみであり、教会内にキリスト像ないし十字架上のキリスト像があるが、あとの2つは、像もなく、目に見えにくいイメージですね。

神=イエス・キリストという回答も間違いとは言えませんが、正確には、イエス・キリストは神の3つのペルソナの一つであり、「キリスト教の唯一神は固有名詞の「神」Godという呼称で呼ばれています。」という回答の方が、現代では一般的だと思われます。

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源...続きを読む

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
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Qヴェーダって何?

今日大学の「南アジア社会文化論」という授業でインドについての講義を聴いていたのですが、その中で何度も出てくる「ヴェーダ」の意味がわからないのです。
インドにはすごく興味が湧き、これから勉強していこうと思っています。どうか教えてください。

Aベストアンサー

 
  「ヴェーダ」は、サンスクリット語で、「知識」の意味で、インドのヒンドゥー教やヒンドゥー思想・哲学において、もっとも尊ばれる古典聖典です。四つの代表的な聖典文献があり、古い順に、「リグ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」の四種類があります。もっとも古い「リグ・ヴェーダ」は、詩の形をした、ヒンドゥーの神々に関する讃歌から構成されていて、非常に複雑な内容を持っています。
 
  リシ(神仙)と呼ばれる、超能力を修行で獲得した仙人が、宇宙の波動から聞き取って記したとされていますが、これはアーリヤ人がインドに侵略した直後、またそれ以前から持っていた、宗教や世界観についての詩の形の記録です。『リグ・ヴェーダ讃歌』というタイトルで、岩波文庫に入っていたはずです。
 
  世界の創造者や、創造の経緯について複数の説明があったり、色々と不思議なことや、魔術の呪文と考えられる言葉もあります。アーリヤ人の初期の宗教儀式に応じて、祭官の種類が複数あり、四つのヴェーダは、これら祭官に属するものとされ、リグ・ヴェーダは最高のヴェーダで、「神聖な宇宙の起源神話」をうたっているものとされます。様々な神の名や、そのわざが述べられていて、また「プラジャーパティ」という創造者や、「タパス」という苦行などが記されています。世界創造者はタパス(苦行)を行い、この世界を創造したとか記されていて、これがインドでの苦行修行者の苦行の起源にもなります。仏陀も、最初は苦行で修行しようとし、最後に瞑想で悟りを開きます。
 
  ヴェーダが語られていた時代を、「ヴェーダ時代」とも言い、神聖な時代であったとされます。ヒンドゥー思想/教は、様々な教派に分かれますが、すべてヴェーダを最高の聖典とすることで一致しています。
 
  ヴェーダは、四大ヴェーダ以外にも造られますが、時代が段々くだって来ます。やがて、紀元前6世紀頃になると、ウパニシャッド思想というものがインドに現れます。これは哲学的思索の集成で、「ウパニシャッド」という名が付く、多数の文献があり、ヴェーダに次いで、ヒンドゥー教/思想では、権威のあるものとされます。ウパニシャッドが造られていた頃、仏陀釈迦牟尼の仏教や、ヴァルダマーナのジャイナ教などの教えも展開されます。
 
  その後、サーンキヤの教えとか、ヨーガ派の教えなどが出て、紀元前後には、膨大なブラフマ文献と呼ばれる思想書が出現します。これらは、最終的に「ヴェーダーンタ思想」と呼ばれる、「不二一元論(宇宙原理ブラフマンと個人原理アートマンは本質は一つで、二つに分かれて考えられるのは錯覚だという思想)」を機軸にした思想体系にまとまります。(まとまると言っても、無数のヴァリエーションがあり、それは現在も展開中です)。「ヴェーダーンタ」とは「ヴェーダ」から派生した言葉で、「ヴェーダの末裔・ヴェーダの完成」のような意味で、ヴェーダから流れ出た、神聖な教えが、この教えで、成就され完成したというような意味からこう呼ばれますが、なにやら、混沌とした教え・思想です。確かに、非常に整然として、美しいまでに整理された神学大系のようなものもありますが、色々あり、皆、ヴェーダーンタの教えだということになっているので、全体を見ると、「不二一元論」はどの教えも主張しますが、ヴァリエーションが広く、よく分からないということになります。
 
  「ヴェーダ」は、アーリヤ人のもっとも古い歴史書で、神話書でもあり、ヒンドゥー思想/教が、典拠とする、最高の聖典の名前なのです。
 
  ヴェーダ、特に神聖とされる「リグ・ヴェーダ」は、世界や自然、神々、儀式や万象を歌った、「韻文詩」の集成だと考えればいいです。内容は、ゆるやかには一貫していますが、ばらばらです。短い韻文詩のなかに、非常に深遠な教えが書かれていたり、神話があったり、また非常に美しい詩も含まれています。ヒンドゥー思想にとって、「聖なる教え」が、限りなく流れ出てくるのが「ヴェーダ」だということになります。
 
  >ヴェーダ文献
  >http://www.remus.dti.ne.jp/~todo/veda.html
 
  >リグ・ヴェーダ
  >http://www.remus.dti.ne.jp/~todo/vedascripts/rigveda.html
 
  >諸宗教
  >http://www.hi-ho.ne.jp/~asawa/reli-2.htm
  
  上の「リグ・ヴェーダ」のページにサンプルとして出てくる画像に書かれているのは、一般に「梵字」と呼ばれる「デーヴァナーガリ文字」です。言語はサンスクリット語で、現代のヒンディー語の古典語に当たります。
  

参考URL:http://www.remus.dti.ne.jp/~todo/veda.html,http://www.remus.dti.ne.jp/~todo/vedascripts/rigveda.html

 
  「ヴェーダ」は、サンスクリット語で、「知識」の意味で、インドのヒンドゥー教やヒンドゥー思想・哲学において、もっとも尊ばれる古典聖典です。四つの代表的な聖典文献があり、古い順に、「リグ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」の四種類があります。もっとも古い「リグ・ヴェーダ」は、詩の形をした、ヒンドゥーの神々に関する讃歌から構成されていて、非常に複雑な内容を持っています。
 
  リシ(神仙)と呼ばれる、超能力を修行で獲得し...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む


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