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今話題にされている臓器移植法について知っているともいいがたい程度の知識しかないのですが、
自分だったらどうするかなと考えることが多いです。
子供の脳死判定後、臓器提供を申し出る親の気持ちとはどんなでしょうか。

私(既婚・子あり)が脳死判定を受けた場合、臓器を待ち望んでおられる方に臓器提供をしてもらって全くかまわないのですが
もしも配偶者が脳死となったとき、そのまま焼いてあげたいという気持ちが先に来て、
臓器移植は望まない判断になるような気がしています。
まして我が子が脳死を判定されたとしても我が子ならなおさらのこと、
その先に臓器を待っている幼子がいるとわかっていても
臓器提供には進めない気がしています。
でも・・・もし我が子が臓器を待つ立場になってしまったら
国内で臓器提供が受けられるなら最善を尽くしてやりたいとも思います。
(海外移植に踏み切れるのは周りの方に恵まれた人だけかなと思います。)
矛盾しているのは百も承知。結局自分さえよければという思いがそこにあるのも事実です。
ここ最近、堂々巡りのことばかり考え、答えが出せずにいます。
我が子の臓器提供を希望する親はどのような気持ちで応じるのでしょうか。
やはり「この子の臓器が他の子の体で生きていてくれるなら」という思いのみでしょうか。
我が子が脳死判定・・・その後どうしますか?。
子供の臓器移植、日本でも定着するでしょうか?。

A 回答 (7件)

子どもというのは、15歳以下と考えてもよろしいのでしょうか。


15歳以下の子ども本人に正常な判断力はないと考えます。
子どもに代わって親が決定するということも反対です。
どちらにしても、私には、我が子の臓器提供はできません。

脳死判定されたとしても、心臓は動いています。
髪や爪は伸びますし、体は温かいはずです。
そのような状況下で麻酔をし(たとえ麻酔をしなくても)、心臓を取り出すということはできません。
あまりにも残酷なことです。
心停止まで待って看取り、それから荼毘に付します。

ドナーとして最適なのは(最適という表現は相応しくありませんが)、
交通事故の被害者だそうです。
事故直前までは健康体であり、脳の損傷はひどくても、それ以外の体は無傷なことが多いからだそうです。
我が子が交通事故に遭ったら、ただでさえ不憫で可哀想、できれば代わってやりたいと思います。
それなのに、その上、臓器を取り出すことは、私にはできません。

>「この子の臓器が他の子の体で生きていてくれるなら」という思いのみでしょうか。

アメリカでは、脳死=死であり、そういう考え方が受容されていると思います。
日本のクリスチャンの方も、亡くなることを「帰天」と言いますし、キリスト教の死生観が関係しているのではないでしょうか。

臓器提供反対意見を書きましたが、逆の立場であっても、他人のお子さんの臓器を提供してもらおうとは思いません。
病気は病気として受け止め、精一杯生きてもらう、
親としては、そのサポートができれば、と思います。
病気や死は、それはそれとして受け入れるべきで、他人のお子さんの臓器をもらってまで命を繋がなくても良いと考えます。
上記したことは、あくまでも私の場合なので、その点をご理解ください。
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個人的には定着するにしても時間がかかるだろうなと思います。



突然の事故や脳の病気等で脳死になった場合、子供の死を受けいれるのはなかなか難しいでしょう。心臓は動いているわけですから、実感もわきにくいでしょうし。
しかも子供の場合は脳がまだ発達段階であることから、希望は捨てないという方も多くいらっしゃると思います。

そうでなくても遺体はきれいなまま焼いてあげたいという方は大多数でしょう。私はそれが悪いことだとは思いません。というか、当たり前でしょう。

提供できる方は立派だと思いますし、自分が臓器提供を待つ子の親なら一刻も早くと思うのもわかります。

でもまだ幼い子供が脳死と判定され、ショックなところに本人の意思もなく移植の話をもってこられて果たしてどれだけの親がその判断を下すかと考えると、定着はなかなか難しいのではと思ってしまいます
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人間の尊厳はその死後にまで及ぶと考えられています。

このため火葬の多い日本では遺骨等も祭祀の対象とされ、刑法第190条では「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。」 と定め、また刑法第191条では「第百八十九条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。 」と定められています。

一方、遺骨等がすべて骨壷に入りきるとは考えられず、遺族の方々は多かれ少なかれ骨壷に入るだけの遺骨等を持ち帰ることが多いと考えます。このため例えばある市の条例施行規則では、「第7条 遺骨引取りの後における残骨灰は、市長が適宜処分するものとする。」と規定されています。また、過去には「その残留したものは放置し火葬場管理人の自由処分に委ね、あるいは肥料などに使用することが慣習となっている。」事例もあったと見えますが、現在では「残骨処理の状況について、平成7年頃の統計ですが、公営墓地に埋蔵するのが1.3パーセントで、処分業者に渡すのが98パーセントでした。基本的には処分業者に処理を委ねているのが現実です。これは残骨だけの問題ではないでしょう。」

http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/19900 …
http://www.shizensou.net/category/danron_folder/ …

結局、遺骨についてはその一部が祭祀の対象となり、残りの残骨灰については、普通の人にとってどこか知らないところで処分されていることとなります。加えて自然環境を汚染しないようにという配慮が働くものと思いますが。遺体と遺骨の大きな違いは何でしょうか。
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今回、臓器移植法の改正過程で、最も腹立たしく思ったのは、「議論が尽くされていない」と声高に叫ぶ議員の存在です。


提供する側、提供を待つ側、提供を拒否する側。立場や思いは色々有りますが、では、彼ら「議論が尽くされていない」と声高に叫ぶ議員達は、臓器移植法成立以来、また、臓器移植法が検討され始めてから、そのことについて問題提起してきたのかと、腹立たしく思います。
現在、子供の心臓移植等を望むならば、外国に行くしか手段はありません。
例えばアメリカの場合ですと、日本では救えるはずの命が、お金が無いために治療を受けられない、日本ならば切断せずとも済む四肢等も、治療費が支払えないために切断を選択するしかない、そういう現実があります。
酷い言い方になりますが、脳死状態で長期間生命を保つことのできるのは、「日本だから」なのです。
世界中で幼子が数万単位で死んでいく中で、その治療費をあげられれば、かなりの命が救えるでしょう。
「命の重さはみな平等」という、その言葉の誤りがここにあります。
質問者様の言にもありますが、「何年も脳死状態で生きてきた」というより生かすためには、お金や家族の負担もあります。
その負担に耐えられる家庭だからこそ、脳死状態の子供をそのままにしておけるのです。
逆に、我が子がその状態となれば、私も臓器移植に同意できるとは思えません。
外国に行って心臓移植を受けるということは、その国で心臓の提供を待つ子供の機会を奪い、二重の罪を犯すものとも言えますし、その治療費で、他の子供が助かることができたなら、贖罪になるかもしれません。
いずれにせよ、子供の臓器移植を日本に定着させるべく、努力しなければならないのは確実です。
その点からも、「議論が尽くされていない」と声高に叫ぶ議員達は、断罪されるべきです。
しなければならないことを放棄してきたわけですから。
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重要なことは、臓器を提供したいのに、法の壁の前で提供出来ず、亡くなるくケースがあり、それを排除する事ではないでしょうか?



私も実際、自分の子供の臓器は提供できないでしょう。
しかし、何の見返りもないのに、自分たちと同じ苦しみを味わって貰いたくない一心で、提供に踏み切る人は立派だと思います。
現状の、提供しようとする人の足を引っ張る(あたかも、子供への愛情がない)かのような扱いには、強い疑問を感じます。

出来ないなら出来ないでいい。でも助かる命を妨害する権利は誰にもないでしょうから。

これが文化として定着するには時間が掛かるでしょうね。
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 本人の意思の問題で、家族が考える問題ではないのが臓器移植の本質だと思っていますが、


 家族心情を優先されればいいのでは?

 自分の子供の一部が息づいていることに意味を見いだせるレシピエント親族もいますし、考え方でしょうねぇ。

 まずは、お子さんの意思を確認するべきで、家族の意思は二の次でいいと思います。

 そもそも、子供は親の所有物でもないのですから、親の決定権の及ばない部分と考えるのが筋だと思いますし、
 親に臓器の処分権があるという認識も困難ですから・・・


 同時にこれこそ重要なのですが、臓器移植というのは、あくまでも代替医療です。
 簡単にいえば、あくまでも人工臓器開発までの医療措置が、臓器移植という見方が妥当でしょう。
 科学技術を盲信してはなりませんが、そんなに臓器移植しか選択肢がない状況も長く続かないでしょう。(肝臓を除く)

 ちなみに、その悩み・堂々巡りの過程で意思決定することが重要なので悩んでいいと思います。

 ちなみに、私は既婚者ですが子供がいないので、子供については想定できませんが、本人の意思が確認できない以上は、臓器提供は拒否させてもらいます。本人の所有物であり、本人に権利が帰属している臓器を親族であることを理由にして、勝手に処分することは、道義的に理解できません。
 家出した我が子の家財を売り払う親もいますが、私は売れません。売れる人の気持ちもまた尊重するべきでしょうが・・・
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今般の法案が国会に提出された背景には、WHOの意向が大きく反映しています。

WHOは、基本的方針として「外国での移植を認めない」というのを打ち出しています。その最大の理由は、結局のところ先進国つまり金持ち国家が貧乏な国に行って、カネにモノをいわせて臓器を買ってしまうという現実があります。個人的にもファンだったので実名をあげるのははばかられますが、プロレスラーのジャンボ鶴田さんはフィリピンで臓器移植を受けている最中に亡くなってしまいました。
特に子供の臓器提供というのが大問題でして、放っておくとそれこそストリートチルドレンがマフィアに誘拐されて殺されて臓器をバラされてしまうなんて恐ろしいことが起こりかねません(もしかしたら、もう起こっているかもしれません)。

私には子供はいませんが、私自身は臓器提供意志カードが世に出たときからずっと臓器提供の意思を明確にしていますし、またもし家族がそうなった場合に臓器提供をするかと聞かれれば、たぶんすると答えると思います。
理由は主にふたつで、ひとつは臓器を提供すれば、臓器という形でも私自身や家族が「生きている」ということと、もうひとつはシンプルに「使えれば使えるのに燃やすだなんてもったいない!」と思うからです。また、家族に対しても「焼いて捨ててはもったいないから、万が一があったら誰かのために役立てて欲しい」と事あるごとにいっています。

ご指摘の通り、臓器移植にはおそらくほとんどの人が内包するエゴイズムがあります。「やりたくはないけれど、欲しい」というものです。
これは日本人に限らず世界中の人々がやはりそう思うもので、この対策には先進国の対応は大きくふたつに別れているようです。
ひとつは、「臓器提供は義務であり、拒否できない」というもの。確かオランダあたりはそうだったと思います。
もうひとつは、「拒否できるけど、拒否する奴には提供もしない」というものです。確かイタリアあたりがそうだったと思います。個人的意見ですが、これがフェアなような気がします。

私は子供のとき、国立小児病院に入院していたことがあります。後に知ったのですが、私が入っていたのはガン病棟でした。そこには三歳からの子供たちがいたのです。多くの友達が「退院した」と聞きましたが、無言の帰宅をした子もいたと思います。そういう子供たちは今もいて、そして何百年経ってもそういう子供たちはいます。私は、人間の「生きたい」という願望は何事にも優先されてよいと考えています。
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この回答へのお礼

「臓器提供は義務であり、拒否できない」
ここまで常識化してくるとあの人のときもそうだったらしいからうちも仕方ないことと踏み切れるかもしれません。

「拒否できるけど、拒否する奴(親族)には提供もしない」
私もこれが一番フェアだと思います。
しかしこれが我が子となると(そうそうないとは思うけれど)
一人目の子の提供を拒んだとして、もしも二人目の子が臓器を必要となった場合その道はたたれてしまう・・・。
やっぱり上の子のときに提供していれば・・・
なんて確率的にはかなり低いけれどそういう場合があったときのことを考えてしまうかも。

自分のことは見切りがつけられても自分の体以外の場合はなんとも判断がつかないな・・と思ってしまいます。

うがった見方かもしれないのですが、資金の準備がままならず
今なら移植で助かるだろう命も無言の帰宅となる幼子も
中にはいるのではないかなと考えたりもします。
国内で移植できたら費用もあまりかからず移動も最小限で済むと思うので
いいと思いますが果たして幼子の臓器移植は進むのか・・・と思ってしまいます。

臓器移植以外に助かる道(臓器を再生するとか、クローン臓器とか)はないかなと少し考えたりします。
容易でないことは重々承知なのですが・・・。

人間の「生きたい」という願望は何事にも優先されてよいと考えています。
これはもちろんです。私もそう思います。
医学の進歩でいろんな道を模索できるようになるといいなと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/16 09:10

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