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言語相対論という考え方があるのを知りました。
しかし、言語が思考を規定したり、「強い仮説」のように思想自体が言語によって作られているなら、言語を持たない場合は思考をもたないということになるのでしょうか。
昔オオカミに育てられた少女という本を読んだことがありますが、
たとえば彼女たちは何も考えずに生きてきたということなのでしょうか。
また、私自身が友達、先生からうけた指摘に
「論理的に物事を考えるのが非常に苦手で、良くも悪くも感性が先行する。感覚での理解がすばらしいが、言語を使って理解、表現する訓練をしないと一般的には理解しているとみなされない」
というものがあります。
しかし、この考え方では「感覚で理解している」というのは結局「理解していない」ことになるのですか?
(感覚での理解というのは、いいたいことの感じはわかるけど日本語では説明できない、という感覚です)

言語相対論についての理解が不十分なままの質問ですいません。
初心者でもわかる文献、また言語相対論的な考え方を示すための実験例なのが書かれている本がございましたら
同時に教えていただきたいです。

A 回答 (4件)

サピアーウォーフの仮説ですよね。

第二次世界大戦前に発表された理論で、アメリカンインディンアン言語の研究で表されたものだと認識しています。アメリカンインディンアンの人たちは色の語彙数が英語話者と違って、それでサピアーウォーフが実験して認識、動向を獲得したものですが、言語により、世界観が違うという理論です。認識、観察、世界観というものが研究対象で、英語話者と日本語話者の認識は違うといってるわけです。言語が世界観を作るわけです。言語を持たない人はいませんから、ドイツ語ならドイツ語世界、フランス語ならフランス語世界があるわけでず。オオカミ少女が本当にいたのなら、変な話、オオカミ語世界を持っていたでしょう。
二番目の質問の感覚的理解ですが、表面的理解と言い換えて差し支えないでしょう。論理的理解が本当の理解で、深い理解だと。
言語により、語彙は違い、意味も違うので、やはり、表面で見れば、言語相対理論は妥当性があります。シンプルな例で言えば、「ワニ」を考えてみましょう。日本語ではこれだけですが、英語では、AligatorとCrocodileがあります。この認識の違いはもっと研究されるべきでしょう。またちょっと違いますが、車の本田は日本で一ブランドしか持ってませんが、北米ではホンダとアキュラがあります。中には北米人で違う会社だと思ってる人もいるようです。語彙により認識の違いはあるようです。トヨタのレクサス、日産のインフィニティとキリがありません。これは商業主義ですが、認識の例としてはいい対象になるようです。
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>>しかし、この考え方では「感覚で理解している」というのは結局「理解していない」ことになるのですか?



逆ですね。理解はむしろ感覚的ですね。「腑に落ちる。」という表現が本当の理解ですね。
言葉だけでは理解できないのですね。ただ、感覚的に腑に落ちた理解を他の人に説明する時に言葉が必要になりますね。でも、その言葉を聴いても、馬耳東風になるか、言葉に縛られるか、なるほどと腑に落ちるかは人それぞれですね。言葉や音はラジオのチューニングのようにあわせないとノイズとして通り過ぎていくものですね。
このとき、理解しようとしてもしっかり心でチューニングできないと言葉に縛られますね。言葉に縛られると「言語的相対論」が発生するということでしょう。
一般的に『腑に落ちる』という事象が「悟りとか気づき」と呼ばれるものですね。
それを『言葉』にすると、「言葉」から悟りを求めようとする人が現れ、その言葉に縛られ『思考』が言葉によって影響を受ける事例はほとんどの人に見受けられますね。
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御質問に対する答えにはならないかと思いますが、こんなことを考えました。

視力が人並み外れて優れている人がはるか遠くにいる敵を見つけたとします。しかしほかの人には見えません。こういう場合望遠鏡をその人に渡せば敵を見ることができて嘘ではなかったことが納得されます。言葉は望遠鏡か顕微鏡か分かりませんが、とにかくこういう道具を使わないと普通の人には何も見えないということだと思います。
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言語相対論はもともとソシュールの提唱した(というか現代的な言語観であるとか、近代を相対化しようとした現代的思想は多分ソシュールから始まる)ものですが、彼は「言葉と意味、あるいは表現と内容の関係は恣意的である」と考えました。



つまり「犬」という漢字/音声があったとしても、それがあの四本足の生物をあらわす事に必然性はないんです。別にあの生物を表すのには「い」でも「ぬ」でも良かったのに、人間が「犬=あの四本足の生物」という風にしてしまった(恣意的=自分勝手に)ということです。

これは言語の相対化に繋がっていきます。
日本語では「蝶」と「蛾」を区別しますが、フランス人にとっては「パピヨン」として区別しない。ということはフランス人にとっては「蝶」や「蛾」は存在せず「パピヨン」だけがある。
つまり生物として実体がまずそこにあるのではなくて、私たちが言語によって区別したからこそ、そこに存在するようになった、ということ。

このあたりがソシュールの言う、民族間の世界観格差にも繋がってきます。
つまり言語が存在するからこそ、実在ができ世界が構成されたし、あるいは人間の思考が可能になった、とするのが言語相対論だと解釈しています。


このあたりは現代思想(近代的な思想=人間中心主義・進歩主義を解体する=脱近代の思想)であって今、それこそ星の数ほど論が展開されています。メディア論・死生観であるとか。
まずはソシュールに関する本かな・・・。現代思想は東大が好きですね。

専門家ではありませんので、言葉足らずや間違いも多少あるかとは思いますが。
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