日本人はお金を下品だと感じる国民性のようなものがあります。
レストランの伝票は裏返しておきますし、初対面の人と年収の話をするのはあまり好ましくありません。明治時代に金銭的に成功した人々は成金と呼ばれてあまりよい印象を人々に持たれなかったようです。投資家や証券業者などにも良い印象を持たない人は少なくないです。
必要以上にお金を露骨に話題に上げたり、お金に関して詮索することは避けられます。

ではなぜ日本人にとってお金は下品なものなのでしょう。
私は日本人の古来からの平等主義によって、格差を生み出す貨幣を必要悪と認識しているのかと考えました。歴史上には、市場・貨幣は平等の敵として現れます。成功者と失敗者を生むからです。
しかし今一つ説得力に欠けるような気もします。日頃貨幣自体が不平等を生んでいることを認識することはあまりないですから。(運、才能や努力量が不平等を生んでいると考えることが多い)

皆さんはどう考えますか?またそういうことを研究しておられる方の書物などありましたら、ご紹介願います。

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A 回答 (9件)

大きく言えば、貨幣というものが社会の紐帯を弱めてしまう、場合によっては社会そのものを崩壊させてしまいかねない、その危険性をなんとなく人びとが感じとって警戒している、ということなのではないでしょうか。



既にご存知のことかと思いますが、文化人類学などでは個人間のモノのやりとりを大きく「贈与」と「交換」に分類しています。
贈与というのは、ちょうどお中元などのやりとりに形骸化しつつ残っているように、モノのやりとりに託しながらいわばモノを超えた人格的な何かがやりとりされるものです。贈与は負い目や自負の感情をエネルギーにして動き続けて、それによってやりとりの双方を精神的に結びつける働きをしています。あるまとまりをもった共同体のメンバーの間では、基本的にこの贈与の関係が重層的にめぐらされて関係が緊密になっているのです。

一方の交換というのは、そのたびに関係が精算されていく単発的な営みです。私たちが一日のうちに何度も行っている「モノを買う」という行為がまさにその代表で、その行為は当然、貨幣によって媒介されているわけです。逆にいうと、人を結びつける贈与に用いられず、交換だけに用いられる貨幣という存在は、いわば人間関係を成立と同時に清算するツールである、といえるわけです。

ですから、洋の東西を問わず、共同体の中にはもともと贈与はあっても、交換は極めて稀でした。交換というのは、マルクスが言ったように共同体の果てるところ、他者たる存在と出会うところに生まれたものです。つまり、生活のなかで貨幣の出番が多い社会は、それだけ社会の成員がアトム化して分断された生活を送っている、ということになるわけです。

こんな風に書いてくると堅ぐるしいわけですが、この交換があまりのさばることは人間関係にとって好ましくない、という感覚は多くの人が無意識に持っています。例えば、買ってきたお中元の商品をできるだけ値段がわからないようにして先方に差し上げることが大事だとされたりすることに始まって、常連となった店でツケ払いを好む客が実は多いことに至るまで、貨幣経済に塗りつくされた日常生活の中にあって、私たちは、できるだけ交換の前線を押しとどめようと努力を払っているわけです。

貨幣は、単に共同体の紐帯を弱めるだけではありません。共同体の拠ってたつ価値観をくずしてしまいます。というのも、共同体というのは、家族だとか歴史だとか、個人存在に先行するものに価値を置くところに成立しています。共同体の価値の源は、いってみれば共同体を超越した彼岸にある(と観念されている)のです。しかし、貨幣は共同体の意味を変質させて、自由な経済活動の主体である個人の集まりにしてしまいます。そこでは共同幻想のようなものは一切用済みとなってしまうのです。

実際、過去を見れば、多くの社会の歴史というのは、贈与で紐帯を固めていた共同体が貨幣によって侵食されて、日々他者と向き合わざるを得ない交換経済にとって代わられてきたという歴史でもあります。岩井克人の『ヴェニスの商人の貨幣論』では、シェイクスピアの作品を、友愛のために何物をも惜しまない共同体的精神と、アトム的な個を生きる貨幣経済的精神との衝突と読解しています。
小説では後者の勝利による大団円を迎えましたが、しかし現実には、日本に限らずどこであれ、共同体という存在は、増殖する不気味な貨幣の力に対して、倫理的な攻撃を加えたり、もっぱらそれを扱う商人を差別の目で貶めることで対抗してきたにも拘らず、残念ながら結果的に大幅な後退を余儀なくされてきたわけです。これは特に日本に限ったことではありません。たとえば、やがてマルクスにつながる初期社会主義の思想というのは、人間関係をよそよそしくしてしまったり労働を計量化して個人存在の価値を貶めてしまう貨幣への嫌悪感から生み出された、といっても過言ではないからです。

そんな貨幣について語ったり触れたりすることが「下品」に感じられるというのは、個人を超えた価値を認めないことへの、共同体精神による倫理的な反発です。貨幣はそれ自体が無価値であることによってモノの価値を表象するわけで、よく考えてみれば貨幣に品があるだのないだの、という尺度はそもそもあてはまりません。にも拘らず私たちがそれを「下品」に感じてしまうというのは、共同体をいとも簡単に骨抜きにしてしまう恐ろしい感染力をもったおカネに対して、なんら抵抗の術を持たない私たちが、せめて敵に倫理的な悪のレッテルを貼り、共同体メンバーのモラルに訴えることで、戦線の後退をくいとめようとしているのす。この価値観は、普段なら意識されないほどに私たちの心の中に内面化されてしまっていますから、その働きは論理的な反駁ではなくて情緒的な反発としてしか表に出てこないわけです。

似た例は、モードと社会の関係にあります。例えば流行のスカートの丈が短くなり、肌の露出が少しでも多くなると、そこには常に「下品だ」という社会の反発が生まれました。これには色々な理由があると思いますが、大きな背景は、露出の多寡よりもむしろ、身体という所与の存在、本来個人という意識に先行してもたらされたはずのものが、個人の恣意によって自由にされてしまうことへの抵抗感にほかなりません。つまり問題にされているのは、「身体はどこまで個人のものなのか」ということであり、その目に見える戦線としてのモードなのです。

長くなりましたので、途中ですが一旦投稿します。ご参考になるようでしたら、参考文献も含めてまた少し書かせて頂くかもしれません。
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この回答へのお礼

説得力がありますね。私も日頃の感覚レベルでそういうことを感じることがあるので、この説明は非常に共感します

>貨幣という存在は、いわば人間関係を成立と同時に清算するツールである

確かにそれを日常で感じることは多いです。関係を清算するということは、感謝の気持ちやお返ししたいという気持、悪いことをした負い目などを消す、という風に解釈して差し支えないでしょうか

過去に自分に迷惑をかけた相手が、「ごめんね、これで…」といって私にお金を差し出した時には閉口しました。自分の中には「これで済まそうと思うなよ…」っていう感情が確かにあったと思います。貨幣には人間関係を清算してしまう力があり、それを無意識的に感じ取っていて、そんな簡単に清算してほしくないな、という反発が生まれたと考えられます。今思うと心が狭いかもですが…

また、恋人にプレゼントをあげた時に、おもむろに相手が代金を払おうとするのを見て「そんな寂しいことするなよ…」と思った経験もあります。一々関係を清算することで、相手の感謝の気持ちが薄れてしまう。自分が喜ぶことをしてあげたという自己満足感が、消えてしまう。それを寂しいと感じた、と考えると納得がいきます。やはり私はケチかもですが
>貨幣は共同体の意味を変質させて、自由な経済活動の主体である個人の集まりにしてしまいます

これも言えてますね
一つ極端な例をあげてみます。父、母、息子、娘がいた。父と母は子供たちへの食事に料金を取る。息子、娘はアルバイトで食事代を稼ぎ支払いに充てる。足りない分はローンとして詳細に記録し、自立したのちに利子つきで返済する
こんなのは家族じゃないですよね。父母は純粋なシェフか債権者で、子供たちは消費者・債務者にすぎなくなってしまいます。殺伐としてます。家族間で何か起こっても金がない者は助けてもらえなそうです

…回答者様の説明はこんな感じですか?かなり自分なりの解釈を加えてしまって、おっしゃっていることを歪めているかも知れません

あと気がかりなのは、この説明では日本人の特異性が説明できないことです。こうした貨幣の特徴は世界共通でしょうから。しかし外国のチップのような、現金をその場で手渡しする習慣が日本では受け入れられないことなど、日本の貨幣忌避の傾向は比較的強いようにも思われるんです

…すいません、嬉しくなってつい長くなっちゃいました

お礼日時:2009/08/03 23:48

No.8 です。



》露骨に初対面の相手の家賃や家の値段や年収を聞いたり聞かれたり、謝礼を裸で受け渡しするのに抵抗は感じないですか?

人に、賃貸に住んでいるのかあるいは持ち家か尋ねること自体が無作法です。どこの学校を出たのか、子供は何人いるのか聞くのと同様にプライベートなことに立ち入った質問だからです。

謝礼ですが、(例えば講演の謝礼)、封に入れて渡すのはお互いの便宜のためであるとともに、講演を経済行為としてお金で買ったのではなく、そのお礼として渡すからではないかと思うのですがどうでしょうか。

一方、賞金というものがあります。ゴルフやテレビ番組で優勝者に「¥10,000,000」などと書かれた大きなボードを渡すこともありますが、こちらは「お金は下品」という考えからは無縁の世界です。
 
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この回答へのお礼

まあそうですか。そういう考え方もできますね。
自分の子供が他人の家の子供を怪我させてしまった時の、治療費とかだとどうですか。まず裸で渡すことはないですよね。知り合い同士なら直接会って渡すのだから、別に裸で渡しても便宜上の問題はないはず。治療費には少なからず経済行為としての意味合いもあるはずです。でも裸で渡すことはとても憚られます。

>「¥10,000,000」などと書かれた大きなボードを渡すこともありますが、こちらは「お金は下品」という考えからは無縁の世界です。
本当でしょうか?むしろ現金でやると品がないからボードを掲げるのでは…?インパクトとしてはボードよりも現金をバーンと掲げた方が大きい気がします。テレビ局としても決して不可能ではないでしょう。でもそんな番組は見たことありません。また実現できるできないとか、便宜上よろしくないとかいったことはともかく、もし現金だとボードを掲げるより多くのクレームがいきそうじゃないですか?(今はこちらの方が重要ですよね。日本人の精神性の話ですから。あと回答者様がクレームをつけるかは別としましょう)

そしてやはり村上ファンド事件での、村上氏の「お金儲け、悪いことですか?」といった発言に対する世論の過剰反応ですとか、ライブドアの堀江さんの「人の心はお金で買える」という主張に対して頑なに反発する人が多いのを見ていると、お金お金って前面に出すのは敬遠される傾向にあるのかと思いまして。まあ私が経験的に感じていることで、何も統計データが手元にあるとかじゃないので、同意していただけない方がいても仕方ありません。

ちなみに私自身としてははお金が下品だという考え方にはどちらかというと否定的なので、その点に関しては回答者様と意見が合うかもしれませんね(笑)

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/2009 …

http://markets.nikkei.co.jp/features/21.aspx?sit …

http://markets.nikkei.co.jp/features/21.aspx?id= …

お礼日時:2009/08/12 19:27

「日本人にとってお金は下品」という前提に疑問があります。



私は田舎出身の日本人ですが、お金は下品とは思ったことがありません。ものごとは全て、お金についても、フェアになされるべきだと思いますが。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですか。
露骨に初対面の相手の家賃や家の値段や年収を聞いたり聞かれたり、謝礼を裸で受け渡しするのに抵抗は感じないですか?

そういう感覚はある程度共有されているのかとも思っていましたが、そうでない方もいるようですね。

そもそも
>ものごとは全て、お金についても、フェアになされるべきだと思いますが。
とおっしゃっているということは、そうあるべきなのに、そうじゃない場面が多い、つまりお金についての判断がフェアじゃない日本人が多いと感じているではないでしょうか(回答者様個人としてではなく)。
私の質問は、そういう判断をする日本人が多いのはなぜでしょうか、という疑問です。価値観がどうあるべきなのか、その価値観が正しいのかということはここでは置いておきたいのです。

ただ、確かにこの前提があらゆる場面で有効かどうかというのは、まだ言い切れないところもあります。自分とその身の回りの人の経験から得た仮定ではありますから。

お礼日時:2009/08/08 08:47

村社会だったから角が立ちすぎるのを嫌った。

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この回答へのお礼

確かに村社会だと人と人の有機的なつながりが重要ですよね。
お金はそれを無機的なもの、冷たいものにしてしまいがちです。
日本人はそれを無意識に察知していたということはありえますね

お礼日時:2009/08/08 08:32

 伝票を裏返すのは、それを得るために働いている人が、自分のためだけにお金を得ようとしていることに対する、後ろめたさなんでしょうか。

それを認識できる日本人は、やはり繊細な感性を持っているということが出来るんですね。

 日本人の特異性については、風土の湿潤さ、四季の精妙さにおける情緒の発達によるもの でしょうか。

 なるほど、お金はあくまで個人の欲、所有物の最もたるものだからなんですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私利私欲の表れとしてお金をみなすからではないかと、そういうわけですね。

お礼日時:2009/08/08 08:30

お金という魔力を知っているからでしょうね。


お金に取り付かれた人間はお金しか考えられなくなり
お金によって身を滅ぼします。
その怖さを知っているからお金に魅入られた人間を下品
な者と蔑むのです
私はここに日本人の高度な文化性を見出します。
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この回答へのお礼

なるほど。確かに金融危機で世の中を騒がせた投資銀行なんかを見てるとそう思いますね。リスクを考えない無謀な投資を大量に行って、お金自体が目的化していたようにも感じます。お金を使ってどうしようとか、考えてなかったんじゃないか、とかいいたくもなりますね。

ただやはり、大金を稼ぐ人に対する嫌悪もさることながら、お金自体への忌避感(裸で現金を渡すのがはばかられるとか、露骨に相手の年収を聞くのは失礼だとか、あとまさにこのサイトを開くと出てくる「うわ、あたしの年収低すぎ…!」とかのポップ広告を、なんだかなあと思ってしまったりとか、まあ主観ですが…)っていうのはやはり不思議なものなんですよね・・・

お礼日時:2009/08/03 22:38

合っているか自信ないのですが、かつて幕府が広めた朱子学ではないですか。


朱子学では商売を人を騙すものだと考えたそうです。
売るときに足される売人の利益。これが詐欺だって考えたそうです。
それが金銭的なことへの忌避になったのではと想像します。
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この回答へのお礼

確かに朱子学の教えって、先祖崇拝や男尊女卑を始めとしてまだまだ現代にも残っているところがありますね。

貨幣に関してもそういう影響があってもおかしくないと思います。

ただ、江戸時代の商人蔑視→貨幣自体への忌避感
というロジックは本当に成立するのか、興味深いところです。
積極的なご意見ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/03 22:19

日本だけのものかは良く分かりませんね。


例えば、「ベニスの商人」のお話にあるように、すべてお金に換算して考える物の見方は軽蔑される対象ですよね。ただこのお話は、ユダヤ商人への蔑視を含んでいたようにも思えますが。

日本の場合、士農工商制度が大きいと思います。日本の仏教もそれに力を貸していたように思います。

価値を何ら生み出さない武士階級が支配階級にとどまるためには、貨幣という普遍的な価値を自由に操る商人を制度的には末端に置き、使用価値としての生産物を生みだす農民を上位に置く支配制度が必要だったのです。
いまだにNHKでは、武士階級を英雄のように扱うドラマを垂れ流しているではありませんか。
これが日本ではいまだにお金を下品と考える実態です。

また、貨幣というものの性質上、どうしても交換価値の方へウエイトを置きます。そうすると生産物のもつ使用価値とそれを生み出す労働の厳しさが価値のないように評価される仕組みなのです。
これは貨幣のもつ性質であり、だからこそ普遍性を持ち流通することができるのだと思うのです。

マルクスの「経・哲草稿」にも貨幣の問題が書かれていましたね。
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この回答へのお礼

なるほど、お金に対する嫌悪感は江戸時代の商人に対する蔑視から来ているということですね。
お金を扱う人への蔑視から、お金そのものへの忌避感が生じるというわけですね。

個人的には、その論理には多少議論の余地があるようにも感じられますが、歴史的な説明になっていて説得力もあるのではないでしょうか。

仏教=諸行無常=世俗的価値の権化である貨幣の蔑視

これも言えそうですね。興味深い回答ありがとうございます

お礼日時:2009/08/03 22:10

もう死んでいませんが、母方の祖母がお金をおもちゃにして


遊ぶのはよくないといっていました、マネーゲームですね
その手のはよくないと思いますが、額に汗して、稼いだお金
は下品では無いと思いますよ、日本だけでなく世界にも通ずる
ことだと思いますが
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
回答者様のご指摘の通り、我々の中はマネーゲームで得た金は下品だと考える方が多いようです。自分もそう考える傾向にあると思います。
しかし理由となると、あまり決定的なものが思いつきません。下品だから下品なのだ、というぐらいにしか言えない自分がいます。

お礼日時:2009/08/03 00:22

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まじめな質問です。億単位のお金がどうしても必要です。
宝くじとかも考えましたが‥
やはりBNF氏のような株トレードがいいのかなと思っています。
しかし私はトレードに必要なパソコン操作知識もあまりわかりません‥
また今の時期は
デイトレードがいいのか?
為替がいいのか?
FXがいいのか?もわかりません‥
どうか株トレードに詳しい先輩諸氏に億単位のお金を作るアドバイスをいただきたいです。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

悪い言い方をすれば典型的なリスク好選的な投資家に見られるパターンですね。
億単位のお金ならば一生涯の賃金の合計額でみれば多くの人が億単位です。
人間が給与で稼げる力を人的資本と呼んでいます。
一番早道なのは人的資本を上げて行くのが一番良い訳です。
2005年時点では世帯収入が年収1000万円以上の割合は13%にも上ります。
ですから、労働で年収1000万円を稼ぐと言うのは金融資産で稼ぐよりもハードルが低いと言えます。
年収1000万円稼げれば税金を50%支払っても20年で1億円ですよ。

金融資産で1億作るのは非常に難しいのです。
色々、カリスマ的な投資家がもてはやされていますが、そんなに簡単ではありません。
例えば、デイトレーダーで300万円を数億にした●●●さんのケースではライブドアショック後に急激に資産を減らしてしまいました。
今回の金融危機で大きく資産を減らした人も多くみられます。

どうしても金融資産でお金を増やしたいのならば次の事を自分で勉強してみましょう。
1:証券アナリストCMA1次レベル講座の通信講座を受けて1次レベル試験を全ての学科で合格して2次レベルに進む。
2:次に証券アナリストCMA2次レベル講座の通信講座を受けて2次レベル試験を合格する。
3:できれば勝間和代さんの本「決算書の暗号を解け!(ランダムハウス講談社)」を読んでみる事をやってみましょう。
4:ここから先は応用ですので、CMA1次レベル、2次レベルで学んだ事をどうやって活用するのかを考えます、でもここから先はどうすれば良いのかは分かると思います。

ただし、これは気象予報士試験合格並みの実力が必要です。
「苦労は買ってでもしろ!」こそ株式投資成功への王道です。
ここまでできればFXよりも簡単ですよ。

人的資本向上手段であれ、株式投資で億万長者を目指すので有れ「苦労は買ってでもしろ!」っと言うのが一番の近道だと言えます。

勿論、投資に絶対は無いので最終的な判断は自己責任でやってみてください。

悪い言い方をすれば典型的なリスク好選的な投資家に見られるパターンですね。
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人間が給与で稼げる力を人的資本と呼んでいます。
一番早道なのは人的資本を上げて行くのが一番良い訳です。
2005年時点では世帯収入が年収1000万円以上の割合は13%にも上ります。
ですから、労働で年収1000万円を稼ぐと言うのは金融資産で稼ぐよりもハードルが低いと言えます。
年収1000万円稼げれば税金を50%支払っても20年で1億円ですよ。

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こんにちは

どの様にタイトルをつければいいのかわからず・・・

英語の人を表す時と、お金の単位を表す時について質問です。
質問1
ある新聞記事を訳そうと思って読んでいると4万5800人にという言葉ありました

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         45,800

では、同じように
・4万5800円=45thousand800yen ですよね・・・
         45,800yen

でも、アメリカ人の方にそのお金の価値を感じてもらうためにドルで表現すると
・4万5800円=458$  でいいですか?

私が言いたい事は、人等の単位を表す数字はお金の価値(円をドルで言う時)とは同じではない。 という事間違いありませんか?

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Aベストアンサー

 
>人等の単位を表す数字はお金の価値(円をドルで言う時)とは同じではない
人は世界中、どの国でも「人」で数えて、最小の数は1人です。
お金は、国毎に数え方が異なり、
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単位が違うのだから数値が変わって当然。

2人も「カップル」と言う単位で数えると
2人=1カップル

 

Q貨幣の哲学

お金がないと、困る事は何ですか?

Aベストアンサー

#7さんへの補足を拝見して感想が浮かんだので再びおじゃまします。

お金を必要とする度合いは、その個人が目指す立脚基盤によってかなり異なってくるような気がします。
ここまで貨幣経済の浸透した現代において、お金に全く関与しないで生きることは難しいでしょうが、それでもあえて昔誰かが言っていた【辺境最深部に速やかに退却】することによって、その影響を最小限にすることは可能であろうと思われます。
それはともかくとして、可不可論として、貨幣の創造される以前の状況を想像してみます。

よくはわかりませんが、ともかくある段階で非常な不自由、あるいは不便さを感じたはずです。
逆に言えば、それまではその不自由さ・不便さに気付かなかった、あるいは物々交換のような形態で価値の交換が行なわれることに安住していた時期があった、ということになるように思います。
ある段階でそれに満足できなくなったのは「無駄」に気づいたからとも言えるでしょうし、合理性を追求し始めたとも言えるでしょう。

ここで2つの問題が浮上するように思います。
ひとつは、
「この【合理性】は、人としての本能的欲求に基づいているのか(a)」
ということです。
これがYESの場合は、「持って生まれた能力」ということになりそうで、Aを選択するしかないのかもしれません。
もうひとつは、
「その合理性を求める本能的欲求は人を幸せに導くか(b)」
という点です。
このaとbにはそれぞれYES/NOの可能性がありますから、それを人類レベルで、または個人レベルで組み合わせることによって「どちらとも言えない」を含め18通りの解と、そこから派生する種種の新たな課題が表面化してくるように思います。

一つ試してみれば、
aはYESで、bはどちらとも言えない。
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bを限りなくYESに近づけるために、
「金は多ければ多いほど良い」から「金がなくともできることが多ければ多いほど良い」という発想の転換が求められている(誰に? )ようにも思います。
基本的にはこの姿勢で、最低限の「生物的存在欲求」は満たされるはずだという考えもありますが、
何をもたらすのかもわからぬ「社会的順応欲求」も体に一部染み付いているのも完全に否定はできないわけで、「金がない」と何とか均衡を保っているそのバランスが崩れて大変なことになりそうな予感もあり、『ひよっとすると、それが困るかもしれない』などと思われるわけです。

私はaがYESであるのは必然であると考えますので、Bの「貨幣を無くす事は可能」ということには否定的です。
また、「貨幣の役割を代替」したとしても「価値無きものに価値を持たせる」ということになるでしょうから新たな弊害が発生するだけではないか、と単純に思ってしまいます。
また、「貨幣の役割が不要な状況」に変えるためには、
人類が遥かに進化して他者の価値を全て記憶し、その場に応じて即座に意識化できる能力を獲得していることなどが必要になるような気がします。

#7さんへの補足を拝見して感想が浮かんだので再びおじゃまします。

お金を必要とする度合いは、その個人が目指す立脚基盤によってかなり異なってくるような気がします。
ここまで貨幣経済の浸透した現代において、お金に全く関与しないで生きることは難しいでしょうが、それでもあえて昔誰かが言っていた【辺境最深部に速やかに退却】することによって、その影響を最小限にすることは可能であろうと思われます。
それはともかくとして、可不可論として、貨幣の創造される以前の状況を想像してみます。

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Qお金の単位

お金の金額の記入について質問します。〈千円〉の単位で、500万や200万の記入例を教えてください。

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

単位:千円ですので、ゼロ3つ省いてください。
要するに千分の壱円で表現し、単位は千円です。
5,000,000円→5,000千円
2,000,000円→2,000千円
20,000,000円→20,000千円

単位:万円でしたら壱万分の壱円で表現し、単位は万円ですね。
5,000,000円→500万円
2,000,000円→200万円
20,000,000円→2,000万円

一般的にラウンドで表現するので、指定単位の下の数を四捨五入か切捨てだと思いますが、念のために定義を確認された方がいいと思います。
場合によっては小数以下も表現することを要求する場合もあります。
2,538,660円
2,539千円
2,538.7千円

Q貨幣の哲学

貨幣の哲学へお運びいただき、誠に有難うございます。

この質問は、価値・所有・交換・商品・貨幣に関し、
あれこれ考える私のアンテナショップ的な場所です。

今年のメインテーマは
「利益」について、
そこで質問は
「正しい利益と不正な利益の違いとは何でしょうか」

例えば、村上ファンドは、莫大な利益を上げました。
結局、インサイダー取引と言う、証券取引法という、
ごく限られたレベルでの違法性により崩壊しました。

ここで言われる、不正な利益とは、手順の問題ですね

そこで質問は
「正しい状態から、正しい方法で得られた利益は、
どのような莫大な金額になろうと、それ自体正しい」
という命題を肯定できるかどうか、という質問に変わってきます。

この質問は今年一杯締め切りません、予定ですが。
同じような考え方の本とか、価値・所有・交換・商品・貨幣に関しても
面白い知見をご存知の方は、ぜひともお教え下さい。

Aベストアンサー

よく解りませんが、
・適法な手法で
・労働の対価として適正な範囲で
・従業員にも適正な分配が図れる経営で得た利益。

しかも、顧客が感謝して、喜んで購入してくれる付加価値を生み出した
ことによる利益。

これらは活きてくるでしょう。
誰かが泣いて得た利益は、一時良くても、結果がよろしくないようで…。
適正なは、その時の常識により、可変的と思いますが…。

Qお金の単位でお伺いします。先日億の上は兆、兆の上は京はいつ頃、誰が決め

お金の単位でお伺いします。先日億の上は兆、兆の上は京はいつ頃、誰が決めたのかと質問させていただきました。色々お答えいただきましてありがとうございました。その中ですが、インドから、または中国から伝わった単位との事でしたが、 この数字の単位の《億 兆 京》は漢字と思いますが、この字は中国、インドも同じ?でしょうか?中国は分かるような気はしますが、国そのものが代わると字も代わります。漢字は日本のほうが侵略されてない分、そのまま残っているとも聞きます。大昔はインドも漢字だったのでしょうか?

Aベストアンサー

インドはサンスクリット語(梵字)です、インドから経由したものは、中国では音(発音)を基にして漢字に充てはめたり、意味をそのまま漢字で表したりしていますので、使用文字は違います。


江戸時代の数学者、吉田光由が書いた「塵劫記(じんこうき)」の中に数の単位の説明があります
現在の数の単位はそれがもとになっているとのことです 。
ですが、「塵劫記」 は、中国の数学書 「算法統宗」 を参考にしていたそうで、何度も改訂が行われ、版によって漢字、桁数などが異なっていますので、いくつもの説があるそうです。

日本の場合、音が同じなら違う感じを平気で使用していたりします。

Q平等

平等の下、親切行為をしたらそれは不平等なのでしょうか?

Aベストアンサー

日本語が少しオカシイですが、
親切な行為を平等にすることは、不平等か
という意味でしょうか。

人間が親切に出来る相手は限られています。
平等に親切にしても、その親切を受けられない
人が圧倒的多数です。

従って、社会全般から観れば不平等だ、という
ことは言えると思います。

また、家族にも他人にも、等しい親切を与えたと
なると、家族からは不平等だ、と批判される
でしょうね。


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