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淀殿は伏見城に住んでいた時期に西の丸殿と呼ばれていたそうですが、家臣からも~殿と呼ばれていたのでしょうか。

A 回答 (2件)

No.1です。

 当時は、本名で呼ぶのは、親か主君くらいだったでしょうから、家臣は字(あざな)で呼んだでしょう。

『生存中には、居場所の変化に伴って淀の方(よどのかた、他に「淀之上様」「淀の女房」など)、二の丸殿(にのまるどの)、西の丸殿(にしのまるどの)などと通称された。秀吉の死後に落飾して大広院(だいこういん、大康院とも)と名乗っていたという説もある』
『現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名である』
という事のようです。
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この回答へのお礼

よくわかりました。再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/20 20:01

【Wikipedia】  歴史学者の福田千鶴さんによれば、


『彼女の呼称についての検証をした結果、本名を「浅井茶々」、通称を「淀」と号したとするのが適切ではないかとし、生存中に「淀殿」と記した史料はなく、「様」付けで呼ばれていることから、同時代的な呼び方としては「淀様」とするのが正しいとしている』とあります。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF

ご参考までに
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。当時の人は淀様と呼んでいたのですか。でも、ずっとその名で呼ばれていたのでしょうか?

お礼日時:2009/09/18 09:45

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