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 についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。
 
 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html
 のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。

 この言葉は 吉本隆明のものです。
 ▲ 関係の絶対性
  http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm
 ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。

 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。
 いまわたしが考えているところとしましては こうです。
 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。
 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

A 回答 (52件中1~10件)

>《絶対者=神》のことを想定していますか? 



いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。
無論、自己は対象を見て聞いて触れて知り得たつもりになりますが、
それをやっているのは、自己であり、
対象が対象を対象としているように、あるいは、神が対象を対象としているように
知ることは決してできません。あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか
知り得ません。
これでは、対象を知ったことにはならず(不可知、知の限界)、自己を対象に反射させている
にすぎません。この性質も自己内部の「関係」が絶対性を帯びる所以でもあります。


あとは、おっしゃる通り、《独立》、自由意志、責任、は孤独そのものの性質です。

へそ曲がりの謳歌は、こういったスタテックな話しではなくて、もっと具体的で
揺れ動くダイナミックな態様だと思います。
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この回答へのお礼

 そうですね。そうでした。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >《絶対者=神》のことを想定していますか? 

 いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この対象たる相手は いわゆる《他者》のことでした。その他者について こちらは自分と同じ部分については分かるが 違う部分については分からないという視点ですね。なぞにもつながります。
 ★ あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか / 知り得ません。
 ☆ したがって 断絶を見ることになるし むしろ断絶ゆえに関係しあう要因をおのづから持つことになる。断絶ゆえに 自由であり互いに対等になれるのかも知れません。

 ありがとうございました。
 k_jinen さん(No.2)のところで持ち上がったのは コミュニケーション論でした。コミュニケーションの断絶を超えてどのようにつながるか・かかわっているか。これは 広すぎますかね。かれの投稿をもう少し待って そのあと締めます。
 《もっと具体的で揺れ動くダイナミックな態様》についても 設問を改めたほうがよいでしょう。
 ただし 補うことなどありましたら どうぞお伝えください。
 あらかじめながら 導いてくださってありがとうございました。

お礼日時:2009/09/23 22:51

 早速のご回答いただきまして、どうもありがとうございました。



 現時点で、論点とすべきところは、”民主主義”なるもについて と思っております。
 つきましては、愚生の方向と致しましては、以下の3つがございますが、(1)はbananasand様ご自身のものですし、また愚生も本日回答をお寄せしようかとも考えていたのですが、最近はお読みになられていないようでしたので、ご遠慮させていただきました。
 (2)につきましては、個人ー組織の点からも興味深いテーマかと考えておりますので、明日にでも、回答をお寄せできればと思っております。
 なお、(3)でございますが、せっかくですから、ある程度一段落つくまでお付き合い頂戴できればと思っております。

(1)bananasand様が立てておられるご質問にお付き合いさせていただく方向。

(2)本日立ち上げられましたbragelonne様のご質問に、愚生が参加させていただく方向
http://dell-support.okwave.jp/qa5364088.html 

(3)このまま、民主主義論に絞って対話を続けさせていただく方向

 急変更となりましたが、もう少し継続させていただければ幸甚でございます。

 それでは、ご検討の程よろしくお願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん 文句も異論もまったくありません。
 ぜひ そうなさってください。 

 お早うございます。(その後就寝とあいなりました)。

 自由か平等かの質問については これまでの回答者の回答では変な言い方をすれば行き詰っているようですから あたらしい風が吹くといいのかなとは思います。

 どうぞどうぞ。

お礼日時:2009/10/14 06:51

 夜分恐れ入ります。

Hidocciです。

 No.7の回答欄にて、bananasand様の回答にて、いったん変更される予定だったのですね。愚生と致しましては、少し、気が引けていたところもございました(bananasandも中々深い考えのお持ちの方のように見受けられました)。

 つきましては、新しく、設問設定の方向に向けてくだされば、幸いでございます。

 それでは、よろしくお願い申し上げます。

 Hidocchi拝
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この回答へのお礼

 お答えいただきありがとうございます。

 いえいえ 吉本隆明に触れていただきありがたかったのです。
 
 そうですね。ひとつには いまちょうど bananasand さんが出しておられる質問
 【Q:自由か平等か】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5343872.html
 これも民主主義論です。

 そして 個人の信仰と集団としての宗教 およびそれにまつわる民主主義社会のあり方――言いかえると 良心・信教の自由と表現・結社の自由との兼ね合い―― この問題を別の質問にてわたしは問うています。

 先の戦争での詳しい事例を途中で打ち切ったかたちになってしまったのは わたしが終結の方法の問題として捉えてしまったからです。たとえば パールハーバー襲撃のあとほどなくして降参すればよかった。というような考え方で だいたい足りるのではないかと早合点したことが 原因です。

 これはたしかにペンディングですので そしていま挙がっている質問では 戦争関係は薄いですので ここでいま一たび続けてみましょうか? どうでしょう?
 もう一度ご判断をあおぐかたちで恐縮ですが どうでしょう?

お礼日時:2009/10/13 23:30

ご返答いただきまして、誠にありがとうございました。

Hidocchiです。

> 神話の語る歴史的なスサノヲのことなんですが あたかもそのスサノヲ類型にあてはまる人間がいるとすれば どの時代であってもその人をも含めたいと思います。

 承知致しました。

> アマテラスは なんとも分かりにくい人物です。政治的人間という言葉を思い浮かべさせますが 当たっているかどうかは分かりません。

 愚生は、知人に(厳密にはその知人の友人のフランス人)、「昨今見られる社会保険庁の不祥事が、もしフランスで起こった場合、とんでもない大暴動が起こるだろう。なぜ、日本人は怒らないのか?」と聞かれましたが、回答に窮してしまった経験がございます。「相手が圧倒的存在の場合、ひとは絶望して無抵抗になってしまう傾向があるのかもしれません。」そして、「痛みに耐えろ! のスローガンの下、(いきなりKOではなく、徐々にジョブを決められるように)弱っていってしまったのかもしれませんね。」等、適当に答えるしかございませんでした。未だに理由は分からずじまいでございます。

>  ☆ という次元の問題としましては 《奪われ得ない》とも考えるからです。社会的な無力に追いやられることと人間の自然本性としての良心の自由等が剥奪されることとは どうも別だと考えるからです。

 申し訳ございませんでした。前回の愚見を見直したく存じます。以下の考えの方が正しいかと考えらますし、また史実もそうであったかと思われるからでございます。
 「実際問題として 相手(つまり主人)の言うことの範囲で自由を謳歌する奴隷の自由に陥るということもあるのですが そのときにも 内面における信教の自由が消滅するということはないと考えております。」

 意見を等しく致します。(毎回、少しマニアックな史実で申し訳ございません)
 以下に、その例を挙げてみたいと思います。
(1)キリスト教が禁じられていた頃の隠れキリシタンの”オラショ”
 
 ----- オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし 皆川達夫 -----

 上記サイトでは、今なお”オラショ”の幾つかは、伝承されているようです。確かに、奴隷状態ではなかったのですが、自由はかなりの制限が課されていた時代であったかと考えております。

(2)奴隷下における黒人による”黒人霊歌”
http://hakusanglee.web.fc2.com/reika.html 
 他国(アメリカ)のはなしでございますが、奴隷として連れて来られた黒人の歌でございます。ただ
、宗教は白人(主人)と同じキリスト教でした。ですが、様式等は白人のものとは異質のものであった
かと思われます(おそらく、教会も別々であったかと思います)。

黒人霊歌「All my trials」の最後の部分です。
Trials(試練)は虐げられた“黒人達の人生”を指すと考えています。

If religion were a thing That money could buy(もしも信仰が金で買えるものだったら)
Then the rich would live. And the poor wooul die(富める者は生きながらえ、貧しい者は朽ちるの
でしょう)
All my trials Will soon be over(主よ、我が試練(=命)ももうすぐ終わります)

黒人霊歌「Swing Low, Sweet Chariot」の最後の部分です。
Home(故郷)は天国を指すと考えています。

The brightest day that I can say,(最も人生で輝かしい日)
Coming for to carry me home,(故郷へと運んでおくれ)
When Jesus washed my sins away, (神が私の罪を全て拭い去ってくれたとき)
Coming for to carry me home. (故郷へと運んでおくれ)

 これらの歌詞からも、内面には、強い信仰心が見て取れます。

> これもそれも 問題は 日本人の復活が課題です。アマテラス圏の人びとは割り合いに自由ですでに復活を果たしているかも知れませんが スサノヲ一般市民のよみがえりです。いわば万葉集のルネサンスは成るか。こういうふうにも(こういう方向にも)捉えております。どうでしょう?
 
 「スサノヲ一般市民のよみがえり」の件でございますが、愚生は”ある意味では”よみがえってはいるかと考えています。ただ、その方向性については幾分問題があるとも考えております。
 まず、「痛みに耐えろ!」と叫んだコイズミを絶大に支持したのは、日本国民だったかと記憶しております(結局、最貧層の方達の首をさらに絞めることになってしまったのですが)。しかも、コイズミ批判をしていた政治評論家 森田実(愚生とは必ずしも意見が一致するとはいえませんが)を視聴率が下がるとの理由から、テレビ放送から外そうとしたのも、電通という私企業でした。その当時、コイズミを支持した経済学者も幾人かはいました。ですが、彼ら経済学者達も今では、昔とは別人のような発
言内容となっています。
 これらを鑑みますと、確かに“よみがえり”はしたかもしれませんが、その動機は単に閉塞感からの開放といった マイナス要因からの回避といったものだったように見えました。
 愚生も、日本国民の一人として、プラスの(建設的)方向性を持った国民のよみがえりを切に望んでおります。ただ、愚生を含め、スサノヲ市民が、民主主義なるものについて、もう少し理解・思索・反省を要するかと考えております。

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。
 腰の据わったご発言のようにお受け取りしました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「スサノヲ一般市民のよみがえり」の件でございますが、愚生は”ある意味では”よみがえってはいるかと考えています。ただ、その方向性については幾分問題があるとも考えております。
 ・・・(中略)・・・
 これらを鑑みますと、確かに“よみがえり”はしたかもしれませんが、その動機は単に閉塞感からの開放といった マイナス要因からの回避といったものだったように見えました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるからには わたしたちは よみがえりの入り口に立ったと まづは良い方に採りました。
 ★  愚生も、日本国民の一人として、プラスの(建設的)方向性を持った国民のよみがえりを切に望んでおります。ただ、愚生を含め、スサノヲ市民が、民主主義なるものについて、もう少し理解・思索・反省を要するかと考えております。
 ☆ たしかに《民主主義》の問題であると言ってよいかとわたしも考えます。インタムライスムという方向をわたしは考えていますが 宣伝になるので いまは控えます。

 スサノヲ市民が アマテラス公民のちゃらんぽらんな振る舞いに対して 最終的な暴動を起こさないのは どうも 《くにゆづり》という歴史にあるかも知れません。
 とにもかくにも譲ったのですから 口が裂けても返してくれとは言えません。力づくで相手を倒そうとするのもかないません。思想内容を別として 例のフェビアン主義のごとく気の長い――と言っても まだ千五百年ほどですが――歴史的な関係性(からみあい)において 民主主義を模索しているのかも知れません。
 ほかの国々では 《 A - S 》連関が回転( revolution )しつづけていますから わが国はちょびっと社会事情の伝統がちがうように思われます。

 けっきょくお話はここからが佳境に入るということのようですが どうしましょう? まづは この質疑応答で言い足りなかったこと・補っておきたいことなどありましたら 書きこんでいただいて そのあと再出発をどうするか考えましょうか? どうでしょう?

お礼日時:2009/10/13 22:18

 こんばんは、Hidocciです。



> 特にあの戦争についてなどあんなにご存じなのに 水を差してしまったようです。

 かえって、気を使わせてしまい、誠に申し訳ございませんでした。余りマニアックになってしまいますと、論点がかえってずれてしまうと予想したためでございます。この場をお借りし、お気遣いに対しましては、厚くお礼申し上げます。


>でも 戦争終結の方法の問題や 兵士たち一般は優秀であったという問題について見解の方向を同じくしていただいてありがたかったです。

 敬愛しておりますbragelonne様と、かような込み入った話で、同意がえられたことは、 愚生にとりましても光栄でもございます。
       

> 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。イヅモの国では この心の問題は 自由に人びとの生きるに任されたと いささか甘く見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。
このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。

 もし、良心・信教の自由が奪われていたとすれば、「自由」なるものは持っていなかったと解しております。理由は、”脅迫”による契約等は原則、私法では無効かと存じますが、良心・信教といったレベルともなりますと、そうした域を逸脱していると考えられるからでございます。もし、これらが完全に奪えわれたとしますと、その民族はその中核をなす”精神性”にまで影響を受けてしまうからでございます(自己の本性に従うこと=「自由」という定義からでございます)。


> 服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して譲歩したということであれば そのゆづる側は なお自己の屈服という表現行為にも有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。

 こういう課題にいきつくと思うのです。

 確かに、愚生のような門外漢にも、この論理展開は理解出来ます。


> しかも 新しい憲法のもとの戦後民主主義の社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?

 誠に、恥ずかしい限りなのですが、スサノヲ=新憲法下におけます(2階部分の1階に住居している)日本国民と捉えるべきでしょうか。それとも、ご説明いただきました神話のスサノヲのことなのでしょうか? 愚生にはついていけなくなってしまいましたため、ご教示いただければ幸甚に存じます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問いを取ってつけたように出してしまったようです。これは 神話の語る歴史的なスサノヲのことなんですが あたかもそのスサノヲ類型にあてはまる人間がいるとすれば どの時代であってもその人をも含めたいと思います。
 どうもこの姉弟の関係は 分かりづらいところもあるようです。そもそも姉アマテラスは すでに初めにあたかも主宰者であるところから存在が始まっておりそのあと私生活を持つかに見られます。
 スサノヲが長いあいだ泣いていたあと これでは何にもならないからわたし(スサノヲ)は亡き母のところに行こうと決めてその旨をアマテラスに言って去ろうとしたところ アマテラスは スサノヲが自分の領地を奪いに来たらしいと思ったと書いてあります。
 ただしそのあとスサノヲが神の宮の前庭に糞をしていったりとかしたい放題をしても 何もとがめなかったのです。天の岩屋戸からアマテラスが出て来てからスサノヲを咎めて追い払ったのは 取り巻きのほうでした。
 アマテラスは なんとも分かりにくい人物です。政治的人間という言葉を思い浮かべさせますが 当たっているかどうかは分かりません。

 この神話の語るところは どうもかなりの程度で日本社会の成り立ちを物語っているように思うものですから しきりに例として引き合いに出すのですが まづ(1) スサノヲは 哲学的に理想であるかどうかを別として どこまでも自由であると思います。その印象を与えます。
 (2) オホクニヌシのくにゆづりは 無力である社会的身分の状態を露呈したが人間の主体性としての自由にとって有効を保ったのではないか。これは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、良心・信教の自由が奪われていたとすれば、「自由」なるものは持っていなかったと解しております。理由は、”脅迫”による契約等は原則、私法では無効かと存じますが、良心・信教といったレベルともなりますと、そうした域を逸脱していると考えられるからでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるように 自己放棄のごとく取り返しのつかない行為であるかにも思われます。そうなのですが 
 ★ もし、これらが完全に奪われたとしますと・・・ 
 ☆ という次元の問題としましては 《奪われ得ない》とも考えるからです。社会的な無力に追いやられることと人間の自然本性としての良心の自由等が剥奪されることとは どうも別だと考えるからです。
 実際問題として 相手(つまり主人)の言うことの範囲で自由を謳歌する奴隷の自由に陥るということもあるのですが そのときにも 内面における信教の自由が消滅するということはないと考えております。
 早い話が 面従腹背というごとく 二枚舌――逆二枚舌――を使っているということもあり得ます。

 尻切れトンボになってしまいましたが これもそれも 問題は 日本人の復活が課題です。アマテラス圏の人びとは割り合いに自由ですでに復活を果たしているかも知れませんが スサノヲ一般市民のよみがえりです。いわば万葉集のルネサンスは成るか。こういうふうにも(こういう方向にも)捉えております。どうでしょう?
 
 * 万葉集は 過半のうたは無名の人びとによって歌われたものですから そういう方向のことです。たとえば ブログ万葉集!?

補足日時:2009/10/10 18:35
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 ご返答いただきまして、誠にありがとうございました。

Hidocchiです。

> そうですね。ここまで来ると 詳しい話(研究成果)の問題になろうかと思われます。
 誠に申し訳ございませんでした。確かに細かいところは、現時点でも見解が分かれるものもございま
すので、でしゃばり過ぎたと思っております。深くお詫び申し上げます。

> まづ
 ★ やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられ
るのですが、
 ☆ という点でわたしが身を置いた情況についてですが ひとつだけははっきりしています。《批判》はまったく歓迎しますし そのときから歓迎でしたということです。
 信頼関係は築けず対話にもならないといった情況については憂えましたという事情だけをお伝えしました。

 《批判》を受け入れられる姿勢には愚生も感服しております。ご承知の通り、愚生は新参ものでございますので、事情は把握しきれていないのですが、今に始まったことではないのですね。一般に、ひとは閉塞感、飢餓感等に襲われた際には、“私刑”なるものをしてしまう傾向が高いと聞いたことがあるのですが、経済状況等とは全く別個のものなのでしょうか?それとも、偶発的・集団的なものなのでしょうか? 差し支えのないところで結構でございますので、お教えいただければ幸甚に存じます。
 実際、ご存知のことと思われますが、特定のご質問者様(カトリック教徒の方と思われます)を確実に攻撃対象としているひとも見られ、こういった状況は余り気持ちのいいものではございません。

> 固有名詞よりは イリ歴史知性派(ミワ系)とヨセ(またはタラシ・ワケ)超歴史知性派(カワチ系)とに分けたいと思います。
 あらためて統一が果たされたのは 天智天皇とその弟の天武天皇との戦いの結果ではないでしょうか。六七二年(壬申)の乱を経てということのようです。天武天皇はスサノヲ圏の人びとに気を配ったようです。イリの系譜に立つのですが もはや国家という二階建ての社会構造は 存続することになりま
した。

 詳細なる解説を賜りまして、どうもありがとうございました。神道につきましては、愚生も勉強したいと思っております(既に、ショッピングサイトの「お気に入り」に入れさせていただきました(笑))。


> すなわち主戦論を採用して戦いに入るなら 出口戦略をもあらかじめ考えておいて欲しかった。これです。戦争終結の見通しと その仕方についてです。

 仰られますように、悲惨な終戦だったかと思っております。日露戦争のときのアメリカのように、ソ連(不可侵条約締結国)を仲介役にしたかったようですが、むしろ逆に裏切られる立場となってしまいました。そのときの外交能力もやはりまずかったと考えております。確かに、もう少し現実的な出口戦略を考案しておくべきだったかと考えております(原爆を2発も落とされるとは、、、)。


> むろん戦争について詳しく述べてわたしを説得なさるという場合には その必要性がおありなのだと思いますので お願いしたいと思います。わたしがやめてくださいというものではありません。

 日露戦争時の国民・軍人、また、日露戦争程ではないにしても あの戦争の一部の国民・軍人には知力、精神力両面において優秀な人達がいたということを申し上げたかっただけでございます。従いまして、あの戦争につきましては、とりあえずはペンディングとさせていただきたく存じます。


> ★ ・昭和のあの戦争時の日本人
 ☆ につきましては 明治からの立派な人間もいたであろうが あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように かき消されてしまったかも知れません。どうでしょうか?

 昭和14年、ソ連とのノモンハンでの戦いでは、ソ連軍のジューコフ将軍は、「日本軍は兵士下士官は勇猛果敢で有能、前線指揮官は平凡、そして高級指揮官や参謀たちは無能」と評したそうです。実は、同じ感想は太平洋戦争で日本軍と戦った米軍の将軍たちも抱いた、といいます。悪貨に駆逐されてし
まった感がございます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。厚くお礼申し上げます。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 Hidocchi さん どうもわたしは遠慮を強いてしまいましたね。特にあの戦争についてなどあんなにご存じなのに 水を差してしまったようです。でも 戦争終結の方法の問題や 兵士たち一般は優秀であったという問題について見解の方向を同じくしていただいてありがたかったです。
 ★ あの戦争につきましては、とりあえずはペンディング 
 ☆ ということに一たんさせていただくなら 《関係の絶対性》の社会歴史的なあり方の点で わたしの見方をあらためてお伝えして ひとまづまとめとするか それとも ふたたび共同探究に入るか決めていただこうかと思いました。
 わたしの弱点である具体的な歴史論を避けるようにしてですが 基本的な日本社会の成り立ちをめぐってになります。
       
 ○ (日本における歴史社会的な《関係の絶対性》)~~~~~~~~~
 伝えられるところによりますと その昔 オホクニヌシは その祖であるスサノヲの築いたイヅモ(スガの宮)の国を 植林に励み 医薬(薬草)の開発に精を出して人びとと共に営んでいたところ アマテラス国から使者を受け 服属せよと要求されるに至りました。

 何度も来ました。数年 数十年にわたって 使者も入れ替わり立ち変わり来ました。その要求を受け容れたのは 二人の息子に相談し 何でも 腕相撲をして決めたとかでした。むろん海の沖合いでは 剣を突き立てていて それを背景にして談判に及んでいるという情況もありました。

 使者とのやり取りは省略します。主戦論も非戦論(和解従属論)も いづれも人間の弱さから発していると考えられ 要するに オホクニヌシは みづからの国を譲りました。果たしてここから どのような社会形成の理論が 得られているでしょうか。

 この《国譲り》のあと 隷属とも言えるような踊りを踊っても見せたのですが この《譲歩》は 自由な主体性・主体の自由を守ったと言えるか これも問題点です。
 わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている場合・つまり無効であった場合 その無効としての自由が しかも現実に実効性を持って有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。
 韓国併合は 自由な表現行為として 有効でしょうか。相手も すべて自由のもとに交渉した結果 成り立ったというべきでしょうか。現在の世界観としては 無効だと考えられます。

 ゆづる側は したがって 無力の・有効としての自由を保っていると。

    *

 ところが さらにその昔 オホクニヌシの先祖であるスサノヲは 自らの役割として課された海原の統治を嫌がり 泣きどおしであったと言います。いっさいその役割を分担せず おまけに田んぼの溝を埋めるわ畔を開け放つわで 統治者アマテラス(かれの姉ですが)に対して嫌がらせばかりをしていたと言います。
 アマテラスが ついに 天の岩屋戸へ雲隠れをするに到ったり あるいはこの姉と弟は その前には 互いに心の清きを争って賭けをもしたりしたと言いますが 要は スサノヲの悪行が極まって かれは爪を剥がされたりしながら追放されたという経過が 過去にありました。アマテラスの国を追いやられたスサノヲは イヅモに来て 自らのところを得るということが成り やがてオホクニヌシの歴史に受け継がれたわけですが そういう過去のいきさつが 問題になって 尾を引いていたようです。
 
 問題は スサノヲに任された海原の統治というのは 結局 死者の祭祀を司るということだと考えられます。スサノヲは――いま 推論が貧弱ですが――これを嫌って泣いてばかりいたのですが それというのは 宗教の自由を主張したものと考えられます。言いかえると 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。
 イヅモの国では この心の問題は 自由に人びとの生きるに任されたと いささか甘く見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。

補足日時:2009/10/08 23:26
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この回答へのお礼

 このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。

 服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して譲歩したということであれば そのゆづる側は なお自己の屈服という表現行為にも有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。

 こういう課題にいきつくと思うのです。

 この自由論は 日本社会論そのものになるのではないでしょうか。おそらく自由についての認識論(いわゆる理論)だけによっては わたしたち日本人は満足しないと思われます。

 しかも 新しい憲法のもとの戦後民主主義の社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?

お礼日時:2009/10/08 23:34

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。



 まず、買ってながら、いままでの対話内容を整理しておきたく存じます。

・明治時代(日露戦争)時の日本人: bragelonne様、愚生共に、高く評価
・昭和のあの戦争時の日本人: bragelonne様( ); 愚生は、低く(少なくとも日露戦争に比し)評価


 そこで、《主戦論》、《非戦論》の2つの対応策がある。なお、記紀神話では、
・スサノヲ=ミワ系《非戦論》
・アマテラス=カワチ系《主戦論》

> 要は 《主戦論》と《非戦論》 このいづれかの方向のことだと考えます。

 さらに愚生は《主戦論》の中に、「戦争自体」と「各々の戦闘レベル」の2種類に分類させていただきたく存じます。
 愚生は、一旦戦争が開始してしまった場合、「戦争自体」の《非戦論》は不可能に近かったと考えております。一方、「各々の戦闘レベル」では、回避は不可能ではなかったと考えております。
(1)インパール作戦
 ハッキリ申し上げますと、非現実的な戦闘であったかと考えております。
・出兵:約9万人、
・戦死者:約3万人(戦時中という極限下では、決しておかしくはない数字かと考えております)、
・疫病・餓死等:4万人(戦闘になっていないかと考えられます)

 この数字をみても明らかに作戦自体に無理があるものと推察しております。
 理由は“兵站”の無視、牟田口の無謀が原因であったかと考えておりますが、どうして、このような無茶な作戦が実行されたのかは、牟田口の独断的要素が高かったと考えております。また既に仰るとおり、日本の旗色が悪い状況となり、一発逆転を狙ったものも含まれると考えております(これは、東条の考えで、「うまくいけば」という希望的観測のものと思われます)。    

 ですが、
(1)どうして、牟田口中将という1人物により、このような無謀な作戦が実行に移されたのか?(寺内元帥等、さらに階級の上のものがいたにも関わらずにです)
(2)明らかに、作戦は失敗に終わりましたが、立案者であり、現場の指揮者であった牟田口はどのような責任を取ったか
でございます。

(1)につきましては、組織の脆弱性、そして上層部の無責任さに起因するものと考えております。寺内元帥も「よきにはからえ」の一言だけだったそうです。また同僚の河辺中将も「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」だったとのことです。当時の陸軍上層部では、単なる、“お友達同士の集まり”であって、軍隊としての組織自体が成り立っていたかどうかは非常に疑わしいと考えております

(2)牟田口中将自身は、自身に責任が無かった旨を強調する冊子を配布し、一切の責任の放棄をしました。また戦争の転換点となった“ミッドウェー作戦”におきましても、山本大将(後元帥)は部下の失敗には不問に帰しました。作戦戦訓研究会すらも開かれませんでした。無責任体質なるものがまかり通っていたと推察しております。これは現在とほぼ変わらないかと思っております。

愚見: 確かに、各々の戦闘では、ある程度、《非戦論》の主張はなされたと思いますし(インパール作戦の“兵站”担当者は猛反対でした)、実際取りやめになったものもあろうかと思います。あの戦争におきましては、個々の戦闘は取りやめになりうることがあっても、少なくとも、戦時中では、《非戦論》-「戦争の終結」に切り替えは不可能であったと解しております。そして、戦争が始まっている以上は、戦闘せざるをえないことも事実かと考えられます(勝か負けるかですから)。その各々の戦闘につきましては、強引に進める者もいましたし、逆に阻止されたりもしたかと考えております。


 一方天皇の責任に関してですが、上記戦闘は天皇により、阻止は可能だったかと考えられますが、各々の戦闘に対しては、天皇御自身は口をはさめなかったかと思います(一つずつの戦闘にまで、口を挿んでしまいますと、立憲君主制の危機となりかねないからでございます)。
 
> (3) 次のような立派な日本人がいたことが わたしの根拠です 
 ▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~
 
 確かに、心に響く(訴えかける)美談でございます。

> ☆ 単純に言って 主戦論であったという推測が成り立ちます。

1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上の件 → 東京大空襲はその年の3月10日であったことから天皇御自身には、緊張はなかったものと推察しております。またその後、すぐに鈴木貫太郎に首相になってくれるよう、天皇自らが嘆願したこともあり、少なくとも、《主戦論》ではなかったかと考えております。

> ★ つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。
> ☆ これにつきましては わたしの人生はことごとく挑戦を受けて(=足を引っ張る勢力からの挑戦を受けて)その波風をしのぐために相手や世の中からはわたしが波風を立てていると思われじじつそのように取り扱われてきたという歴史です。いまに始まったことではない。とはお伝えしたいと思うのです。

 いつもお疲れ様でございます。愚生もお世話になっております。「挑戦」は結構だと思うのですが、“アラシ”はとても残念に思っております。

 ただ、bragelonne様におかれまして、理論家でもあり、ヒガミを受けたこと多かろうと思っております。ですが、これを一般市民における社会生活というものに置き換えればいかがでしょうか。やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられるのですが、

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ここまで来ると 詳しい話(研究成果)の問題になろうかと思われます。わたしは自信がありません。つつしんでそう申し上げざるを得ません。

 まづ
 ★ やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられるのですが、
 ☆ という点でわたしが身を置いた情況についてですが ひとつだけははっきりしています。《批判》はまったく歓迎しますし そのときから歓迎でしたということです。
 信頼関係は築けず対話にもならないといった情況については憂えましたという事情だけをお伝えしました。

 もう一点 おぎないます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そこで、《主戦論》、《非戦論》の2つの対応策がある。なお、記紀神話では、
 ・スサノヲ=ミワ系《非戦論》
 ・アマテラス=カワチ系《主戦論》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしのほうで舌足らずでした。それは アマテラス公民圏の側で ミワ系=《非戦論》とカワチ系=《主戦論》とに分かれるという見方をしたほうがよいと考えます。また 固有名詞よりは イリ歴史知性派(ミワ系)とヨセ(またはタラシ・ワケ)超歴史知性派(カワチ系)とに分けたいと思います。
 応神ホムダワケ(その母が 神功皇后オキナガタラシヒメ)のときから ヨセ(人心を寄せる)なる思想が現われたという見方です。
 百年後 雄略ワカタケとそれに対するイリの系譜との対立があって これがともかく収拾すると 例の越前から出たという継体オホドが統一したということになっています。
 あらためて統一が果たされたのは 天智天皇とその弟の天武天皇との戦いの結果ではないでしょうか。六七二年(壬申)の乱を経てということのようです。天武天皇はスサノヲ圏の人びとに気を配ったようです。イリの系譜に立つのですが もはや国家という二階建ての社会構造は 存続することになりました。

 ★ 愚生は、一旦戦争が開始してしまった場合、「戦争自体」の《非戦論》は不可能に近かったと考えております。一方、「各々の戦闘レベル」では、回避は不可能ではなかったと考えております。
 ☆ この問題につきましては はじめに述べましたように詳細を論じるちからはもうわたしにはありません。一点だけ ずるいかたちになるかも知れませんが申し上げたいことは こうです。すなわち主戦論を採用して戦いに入るなら 出口戦略をもあらかじめ考えておいて欲しかった。これです。戦争終結の見通しとその仕方についてです。

 むろん戦争について詳しく述べてわたしを説得なさるという場合には その必要性がおありなのだと思いますので お願いしたいと思います。わたしがやめてくださいというものではありません。
 ちょっと肩透かしのようにお感じになったかも知れませんが だいたいこういったところではないかと思います。
 ★ ・昭和のあの戦争時の日本人
 ☆ につきましては 明治からの立派な人間もいたであろうが あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように かき消されてしまったかも知れません。どうでしょうか?

補足日時:2009/10/07 21:48
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この回答へのお礼

 おぎないです。 
 No.48のご回答の中で 次のお尋ねについて失念してしまいました。お応えしてまいります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一般に、ひとは閉塞感、飢餓感等に襲われた際には、“私刑”なるものをしてしまう傾向が高いと聞いたことがあるのですが、経済状況等とは全く別個のものなのでしょうか?それとも、偶発的・集団的なものなのでしょうか? 差し支えのないところで結構でございますので、お教えいただければ幸甚に存じます。
 実際、ご存知のことと思われますが、特定のご質問者様(カトリック教徒の方と思われます)を確実に攻撃対象としているひとも見られ、こういった状況は余り気持ちのいいものではございません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とは言うものの しっかりとはつかんでおりません。
 後半の問題は たぶんそのひとのことだと思うのですが 《攻撃対象としてい》てもいいと言わざるを得ないでしょうから おそらくもっと気の効いた回答と言いますか批判を述べて欲しいと思っています。
 前半のほうですが 追い詰められ行き場のなくなった人間が過剰防衛と言いますか 逆襲するまでに到る問題。これはわたしも分かりませんので かえって推測によりますと 《そのひとによる》のではないでしょうか?
 経済状態や家族のあいだの人間関係やあるいはさらにほかの人間を巻き込むかどうかなどなどの要因が きっかけやその発生の形態にとって それぞれ原因となっているかと思いますが 《ひとによる》という要素も大きいかと推測しました。つまり 同じ原因を持ち同じような情況にあっても ひとによってどういう行動をとるかは違ってくるのではないか。こう考えました。―― さらに一般的な分析が待たれます。
 (澄みません。お茶を濁すかたちにて)。

お礼日時:2009/10/09 00:17

ご返答遅れまして、申し訳ございませんでした。

Hidocchiです。


> わたしは結論としては 方向が決め手になると考えています。
> 要は 主戦論と非戦論 このいづれかの方向のことだと考えます。
> ☆ 取らなかったという見立てですから。あの戦争は 途中からでも《非戦論》に切り替えているべきでした。無駄死にが多すぎました。

 あの戦争におきましては、少なくとも、戦時中では、《非戦論》に切り替えは不可能であったと解しております。

 と申しますのも、1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上しましたが、その目的のために軍部の粛清を求めましたが、昭和天皇に却下された経緯がございます(理由は「まだ早い」というものだったかと記憶しております)。
 また、最後の首相となった鈴木貫太郎(慶応3年生まれで、就任は77歳というご老体でした。収拾を付けることできる人は他にはいなかったのだと思われます)も、御前会議にて、いわゆる「聖断」をもって終戦にこぎつけましたが、僅か一票差で勝ったものでした。そして、“宮城事件”というクーデターが起こり、首相の鈴木、木戸幸一、平沼騏一郎らは暗殺のターゲットとなり、実際彼らの自宅は放火されてしまいました(その後、暗殺者から逃れるべく、鈴木は6回もの転宅を余技なくされています)。
つまり、玉音放送(天皇御自身の発表)を聴いても、このような有様でしたから、戦時中は《非戦論》を唱えるのは非常に困難であったかと考えています。もし、失敗すれば、間違いなく、軍部主導の内閣が出来上がり、さらに原始爆弾を数発見舞われようと、ポツダム宣言には妥協しなかったと思っています。

 なお、現在では、アメリカ流の「競争主義」なるものが、日本に浸透していると考えています。つまり、普段の仕事業務等におきまして、日本人は“競争・戦い”を余儀なくされている(《非戦論》を主張しづらい状況)かと思っています。つまり、直接殺されるということはございませんが、“競争”等に何らかの関わりをもたされているかと思われます(責任を取らされるのは、下っ端らの“トカゲの尻尾切り”かもしれませんが)。

 つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 Hidocchi さん 積極的なご回答を寄せていただきありがとうございます。

 ★ つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。
 ☆ これにつきましては わたしの人生はことごとく挑戦を受けて(=足を引っ張る勢力からの挑戦を受けて)その波風をしのぐために相手や世の中からはわたしが波風を立てていると思われじじつそのように取り扱われてきたという歴史です。いまに始まったことではない。とはお伝えしたいと思うのです。

 ★ あの戦争におきましては、少なくとも、戦時中では、《非戦論》に切り替えは不可能であったと解しております。
 ☆ もはや復唱もはぶき 用意しました三つの反論をそのまま掲げます。
 (1) 天皇が決意すれば出来たと推し測られる。次の二つの事実をもとにしてそう考えます。
 (2) つぎの(3)を含め明治人のような気骨あふれた人間で《非戦論》を唱えるひとは いくらでもいたはずです。ひとつの例を挙げます。
 ◆ (ヰキぺ:インパール作戦) ~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3% …
 ・・・大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。
 しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる、急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。
 さらに牟田口は援蒋ルートの遮断だけでなくインド奥深くに侵攻することまでも企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた。
 こうした問題点を内包していたことで、大本営から派遣されてきた竹田宮恒徳王が、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評したように、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部総てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可された背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという東條英機の思惑が強く働いていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (3) 次のような立派な日本人がいたことが わたしの根拠です 
 ▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~
 相浦さんは土田さんにこう言ったという。
  ――来年の今ごろ 東京には米兵が充満しているだろう。この艦はいづれ おとり艦として撃沈される。志願してこの艦に乗り込んできた私は艦と運命をともにするが 君は内地に帰って我が国の行く末を見守ってくれたまえ。
 そして十六日深夜 台湾沖で雲鷹(=艦の名)は敵潜水艦の魚雷を受ける。艦橋で相浦さんは土田さんに
  ――これを持っておれ。俺は泳げるから。
 と言って自分用の救命胴衣を差し出した。土田さんは
  ――私も泳げます。
 と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。
 翌十七日朝 ついに艦は沈み土田さんは六時間も荒波にもまれた末 味方の海防艦に救助された。
 私が聞いたのはここまでだったが・・・相浦さんの最期を目撃した生存者〔の証言〕。
 《艦長は 羅針盤を背にして 洋刀を持って直立され 主計長は 海図台の前に 戦闘服装に軍刀をついて 前方をじっと眺めて直立されていた(中略)艦橋における木村艦長と 相浦主計長の最期の姿は 神そのもののごとくでありました》。
 沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。相浦さん二十四歳。凛とした覚悟に 思わず涙をぬぐった。
 * これはすでに次の質問でのやり取りに書いたものです。
 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 いかがでしょうか。昭和天皇が非戦論ではなかった。
 ★ と申しますのも、1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上しましたが、その目的のために軍部の粛清を求めましたが、昭和天皇に却下された経緯がございます(理由は「まだ早い」というものだったかと記憶しております)。
 ☆ 単純に言って 主戦論であったという推測が成り立ちます。

補足日時:2009/10/06 21:08
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 ご返答いただきまして、お礼申し上げます。

Hidocchiです。

 深い洞察を賜りまして、改めて深く感謝の意を述べさせていただきます。

> Hidocchi さんとは ずばり天皇制の点で考えがちがうかも分かりません。

 愚生も分類はしてございます(もし、誤解を招く表現をしていましたなら、深くお詫び申し上げます)
 (1)国民から直接・間接的に(民主主義的手続きにより)選任されるシステムと、(2)それ以外のシステムでございます(大部分の国には、過去には”建国に関与した神話”が存在したと思っていますが、現時点では国権(象徴も含みます)に関与している少なくなっていると思われます)。ただし、(1)のシステムを採用している国々でも、絶対者(神)との契約はなされているようでございます。例えば、米国では、大統領就任式では、聖書に手を置いて”宣誓”しますし、英国も歴代の王は教会で戴冠式を経ているかと記憶しております。
 愚見では、”神道”の理解不足も多分にございますが(この機会にでも、勉強したいと思っております)、原則、”神話としての記述”だけで十分かと考えております。

> ★ ”責任の取り方”というもの
 ☆ が確かに 大きな要因となったのではないかとわたしも考えます。腹をかき切るというのは いかにも日本人的なのですが 自由と責任は 信頼関係や社会のまとまりにとって 大きく作用するように思います。発言の重みあるいは果ては人格の整合性 これによって秩序というものが出来上がります。

 元来、日本人は忠誠心が高かった民族かと思われます(下記著作をご参照くださいませ)。

リヒャルト ハイゼ著「日本人の忠誠心と信仰」  内容(「BOOK」データベースより)
「本書は、日露戦争の数年前に来日し現在の一橋大学などで二十数年にわたって教鞭をとったドイツ人が、日本滞在中に深い感銘をうけた忠臣蔵や白虎隊悲話、日本人の信仰などについて書き綴ったものである。日本の近代化に寄与すべく来日したはずのドイツ人教師は、身を捨てて忠誠を尽くすサムライの物語や自我を否定する日本人の信仰に魅せられて、結局は病める西洋文明へのアンチテーゼをこの国で発見することになる―かつて日本にあった精神文化を生き生きと伝える異色の日本人論。 」
 これらの忠誠心の根底には、仰られますような要因があったのではないかと考えております。

> そしてふたたび戦後に目をやるのですが その昭和天皇の存在は これも二重の側面があるように思います。一方で 戦後の復興のために人びとのやはりまとまりを確保する要素となったかと思われるのに対して 
 他方では 戦争責任に関しては なんともあいまいな状態のまま時は過ぎて行きました。マッカーサーに向かってあれほど責任の所在を確認したのは ただの言葉だけだったのかとも思えるような一面が 国民に植えつけられたのではないでしょうか。二・二六事件で決起した一部軍人たちをしりぞける発言をしていますから 憲法上意志はないのだと言っても あまりそのままには受け取ることが出来なかったでしょうね。

 極東国際軍事裁判の映像をみたことがあるのですが、明らかにこの裁判では、天皇責任をあえて避けたものでしたし(共産主義化に対する防波堤としてそのまま存続させる という考えはGHQの意向だったようです)、また天皇責任の曖昧さは今もなおのこっているかと存じます(なお、愚生は、「天皇制維持派」でございます)。
 そこで、もしあのとき、昭和天皇が、現在の平成天皇に継承させる等、天皇制を残したままで、責任をおとりになられたら、現在ではどうなっていたのか とも考えたりもします。これはもちろん愚見ではございますが、かような無責任主義はまかり通ることはなかったのではないかと考えております。「あの昭和天皇ですら、御自身が進んで責任をお取りになられた。いわんや、、、、、」といった形ででございます。

> この――全面的にではないでしょうが――《無責任》は 《人生いろいろ 会社もいろいろ》《ちょっとくらい公約を破っても どうってことない》に到って頂点に達したのだと見られます。あるいはそのあたりで底入れをしたと言うべきでしょうか。

 「そのあたりで底入れをした」と ただただそれを願うばかりでございます。

> このあと 少なくとも明治人の心意気を回復することができればと願わざるを得ません。

 確かに、利便性は明らかに高くなったとはいえ、失ったものは大きかったと考えております。

> 戦後民主主義の開放感とそこからくるいい意味での諦観のさまよいも悪平等主義の浮かれ過ぎも もう醒めたでしょうから。
 
 今年の、5月4日(ほんの数ヶ月前のことかと思われます)の世論調査を以下に紹介させてもらっております(以下のサイトです)。
 なぜ????? 
 もうそろそろ醒めてもよさそうな気がするのですが.....

http://www.j-cast.com/2009/05/05040627.html

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。たぶん
 ○ 伝統
 ☆ これをどのように捉えているか。ここにかかっていると思われます。
 たとえば 《ルサンチマンの乗り越え》として記紀神話より引きました双子の兄弟(オホケとヲケ)は 第二十三代顕宗と二十四代仁賢の天皇ですが ミワ(三輪)系でして カワチ(河内)系と 思想が別だとわたしは捉えています。
 厩戸王(聖徳太子)は 蘇我馬子の崇仏派にあって 排仏派と呼ばれた神道派の物部氏を倒す戦いに身を置きました。そのあと 《和を以って貴しと為す》と言っています。カワチ系だと捉えます。
 そういう問題があると見ています。
 昭和天皇が どちらの系譜か分かりませんが マッカーサーに対して自己の責任を表明したのは事実だと聞いています。それだけです。

 ★ リヒャルト ハイゼ著「日本人の忠誠心と信仰」
 ☆ この種の本であれば たとえ読んでいなくても 紹介された記事を読んでいてもいいのですが これまで知りませんでした。赤穂義士と白虎隊を取り上げているようですね。
 わたしは結論としては 方向が決め手になると考えています。忠臣蔵の時代では この方向をどちらに取るかは まだ封建制の社会にあって無理だったかも知れません。白虎隊の時代に到れば もう少し開明派とでもいうべき考え方を持ち得たのではないか。こうも思います。
 要は 主戦論と非戦論 このいづれかの方向のことだと考えます。なぜなら アマテラス帝国から 服属の要求を受けて スサノヲの後裔のオホクニヌシらは いづれも人間の弱さからおこなう選択であると考え 非戦論を採りました。世に言う《くにゆづり》です。そして 推測ですが アマテラス=カワチ系 スサノヲ=ミワ系であると見とおしています。ミワ系のイチノべのオシハを暗殺したのは カワチ系の雄略ワカタケです。記紀神話に《大悪天皇》と書かれています。そういう問題が潜んでいると考えます。

 Hidocchi さんとは ここで大きく見解が分かれましたね。
 ★ 「あの昭和天皇ですら、御自身が進んで責任をお取りになられた。いわんや、、、、、」といった形ででございます。
 ☆ 取らなかったという見立てですから。あの戦争は 途中からでも《非戦論》に切り替えているべきでした。無駄死にが多すぎました。

 * 東京裁判には まったく触れていません。どうでしょう?

補足日時:2009/10/04 23:30
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 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> やや弱気になっていらっしゃるかに映りましたが どうでしょう。

 イェドヴァブネ事件を思い出し、少しオセンチになっていたのかも知れません。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。


> 《日露戦争における上村彦之丞とリューリック乗組員救助》の中の話です。
 
 貴重な情報どうもありがとうござました。戦時中という極めて非人間性を課せられる状況にもかかわらず、”武士道”を貫いた史実には心に響くものがございます(著者の長谷川氏はこの本を自費出版されたそうですね。全くの驚きです!)。


> ☆ 司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。
 どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・

 確かに異なる部分は存在したかと考えております。以下に思いつく所を列記させていただきました。

(1)政治について
 日露戦争、もしくはそれ以前では、”元老”が実質的に実権を握っていたかと考えられます。そして国民自体も、元老の発言を天皇の言葉の代弁とみなしていたようです。日露戦争時では、幸運にも、責任感と能力のある”元老”が存在し、国の発展に寄与したかと思われます。(渡部昇一著「渡部昇一の昭和史」からです)
 また、軍人自体も「腹を決めて戦に挑めた」という側面も見られます。日露戦争終了時には、アメリカに仲介役を委ねることになりましたが、この実行を即座に移せたのも、軍上層部の責任の基に実施されたようでございます。おそらく、その当時では、「腹をかき斬って、責任をとる」という責任の付け方により、ケリがつけたように見受けられます。極端な話、自分が自決しさえすれば、それで終わりであるという(許されるという)慣習が残っていたかと思っております。
 ですが、五・一五事件以後になりますと、その”元老”も僅か西園寺1人のみとなり、さらに「五・一五事件「檄文」」では、「日本国民に檄す」として、この特権階級たる”元老”は逆に非難の的となってしまいました(西園寺は死ぬ最後まで(昭和15年逝去)、日米会戦には大反対でした)。おそらく、元老が1人という状況でなければ、こうした非難は発せられなかったことと推察しております。また、今の”責任論”にも顕著に見られますが、”責任の取り方”というものが非常に曖昧になっていたかとも推察しております。
 そしてさらに不幸なことに、この普通選挙制度を採択した結果(これは、これで異議のあることかと考えております)、選挙活動のために、”金権政治”が盛んとなりました(”イメージ戦略”は今も昔も変わらないようでございます)。これも国民の政治不信につがったようでございます(逆に、軍部支持に繋がってしまったようです)。

(2)国民について
 元来、日本人には、ある一定の”諦念感”といったものがあったかと思うのです(例えば、「生まれが異なれば貧富の差も当然異なる」といったものです)。 
 しかし、普通選挙を通して、民主主義が誕生しました。このこと自体は繰り返しになりますが、大変有意義なことと考えています。ですが、この民主主義のために(これは致し方ないことと思うのですが)、こういった不平等に対しても諦めるという風習が薄らいでいってしまった感もございます(平等主義の蔓延がこの主要因と考えております)。 


> ★ イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民 勝瞬ノ介
 
 NHK放映前のブログなのですね。当時から静かではありましたが、注目する方もおられたのですね。愚生には、あのドキュメンタリーは生涯忘れられないものの1つかと思っています(1人の(加害者の)娘さんを中心に据え、映像化されていたのもその要因でああったかとも思っております)。


> ▼ 共同祭儀・秘儀をあばけ
 ☆ 吉本の言うのは 大嘗祭などの天皇の儀式のことなどのようです。天皇は 稲の霊と添い寝をするのだそうです。あるいは天の霊であるかも知れません。

 もし天皇の儀式・祭儀の根源部分にまで踏み込むとなりますと、これもまた、いやそれ以上に国民に虚無感を強いる可能性が高いかと考えておりますし、また”国民の分断”なるものも惹起してしまう危険性すら孕んでいるかと考えております(そもそも実証の可能性は少ないと思われますし、当然、確証部分が見つからなければ、分裂を招くだけかと考えているからでございます)。吉本氏の「支配体制に”残されている”共同祭儀・その秘儀をあばくべきだ」 → 「古事記」等の伝説(伝承)の記述で十分かと考えているのですが.....


> わたしは単純です。
 ○ 《スサノヲ( S )市民社会 ‐ アマテラス( A )公民圏》 連関制
 ☆ のその第二階に さらに《アマテラシテ Amaterasite / Amaterasitaet / amaterasity 》という元首・国王および天皇〔あるいは大統領〕という制度上の役割を位置づけて捉えることを主張するのみです。これが わたしにとって《秘儀をあばく》ことです。
 
 具体的な、ご教示をいただきましてどうもありがとうございました。
 連関性・関連性でしたならば、今後の日本の未来におきましても(関係性は、今後も絶対的に存在するからでございます)、益する所は大かと考えております。

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。

この回答への補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。
 連日 勉強しております。ある程度は この質疑応答の場でこれまでにやり取りしてきた部分もありますが 歴史の具体的な推移につきましては それとして考えをまとめたりするようなことはして来ておりませんで 少しづつ深めていきたいと願っています。

 Hidocchi さんとは ずばり天皇制の点で考えがちがうかも分かりません。わたしは 一方で ほかの国の元首や国王や大統領と同じように市民ないし国民から得られている権威の部分(アマテラシテ)と 他方では 神話の不合理な要素ないしそれを拡大するかのような再神話化によってかもし出された権威とは 分けて捉えています。
 明治時代には 国民のまとまりがよかった(――西南の役のあと とにもかくにも 富国強兵でやっていかなくてはならないと人びとは覚悟した――)ということもあったでしょうか。戦後の高度成長期には 経済活動としてのまとまりが特にはよかったのでしょうね。 
 ご見解をお聞きして このような方面へ片寄って解釈をしてしまいましたが
 ★ ”責任の取り方”というもの
 ☆ が確かに 大きな要因となったのではないかとわたしも考えます。腹をかき切るというのは いかにも日本人的なのですが 自由と責任は 信頼関係や社会のまとまりにとって 大きく作用するように思います。発言の重みあるいは果ては人格の整合性 これによって秩序というものが出来上がります。

 そしてふたたび戦後に目をやるのですが その昭和天皇の存在は これも二重の側面があるように思います。一方で 戦後の復興のために人びとのやはりまとまりを確保する要素となったかと思われるのに対して 他方では 戦争責任に関しては なんともあいまいな状態のまま時は過ぎて行きました。マッカーサーに向かってあれほど責任の所在を確認したのは ただの言葉だけだったのかとも思えるような一面が 国民に植えつけられたのではないでしょうか。二・二六事件で決起した一部軍人たちをしりぞける発言をしていますから 憲法上意志はないのだと言っても あまりそのままには受け取ることが出来なかったでしょうね。
 この――全面的にではないでしょうが――《無責任》は 《人生いろいろ 会社もいろいろ》《ちょっとくらい公約を破っても どうってことない》に到って頂点に達したのだと見られます。あるいはそのあたりで底入れをしたと言うべきでしょうか。このあと 少なくとも明治人の心意気を回復することができればと願わざるを得ません。
 戦後民主主義の開放感とそこからくるいい意味での諦観のさまよいも悪平等主義の浮かれ過ぎも もう醒めたでしょうから。
 
 ★ イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民
 ☆ これは NHKの映像が衝撃的だったもののようですね。加害者本人ではなくその娘さんでありながら 大きな後遺症のごとき結果をまねいているのですね。

 ひとは 評言を与えようとして こんなにも自分の田に水を引くかたちになるのかと 読み返して思ってしまいますが 対照させたと採っていただけるなら さいわいです。

補足日時:2009/10/04 00:42
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