普通小説の場合、外的な時間の経過につれて登場人物の内的な時間が表現されていきますね。
たとえば谷崎の「細雪」などは外的な季節の変化にともなって登場人物の思いが描かれて行きます。
ところがこの外的時間と内的時間に極端な落差のある小説があります。
ジョイスの「ユリシーズ」は、あの長編にして外的な時間はたった一日だったように思います。また
ブロッホの「ウェルギリウスの死」など、外的時間はわずか18時間で、あとは内的時間が延々と描かれます。
国内でもこうした構成の小説はもちろんあると思います。
なぜ作者がこうした構成を試みるのか、試みたか。もちろんそこには意図なり思い入れがあると思うのですが、
どのような理由からだと考えられるでしょうか。
思うところがありましたら回答お願いいたします。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
すいません。
なかなか時間が取れなくて、えらく回答が遅くなってしまいました。まず、押さえておきたいのは、
> どのような理由からだと考えられるでしょうか。
という問いに、「文学的な流れ」であるとか「必然的」と答えることは、歴史を連続的・必然的なものであるとする見方にほかならないのではないか、ということです。
もちろんロマン主義にしても自然主義にしても、あるいはモダニズム、ポストモダニズムにしても、歴史的に見れば、一定の順序をもって出現してきたことはいうまでもありません。けれども、それを歴史年表のように位置づけてしまうと、ある重要な問いが欠落することになる。
ほんとうにそれが必然的だったのか、という問いです。
そんなものは嘘です。
たまたま西洋の歴史においてそれが見られた、というだけの話です。
漱石は、彼の初期の文学論である「創作家の態度」のなかでこのようなことを言っています。
「西洋の絵画史が今日の有様になっているのは、まことに危うい、綱渡りと同じような芸当をして来た結果と云わなければならないのでしょう。少しでも金合(かねあい)が狂えばすぐほかの歴史になってしまう。議論としてはまだ不充分かも知れませんが実際的には、前に云ったような意味から帰納して絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史はその一筋である、日本の風俗画の歴史も単にその一筋に過ぎないという事が云われるように思います。これは単に絵画だけを例に引いて御話をしたのでありますが、必ずしも絵画には限りますまい。文学でも同じ事でありましょう。同じ事であるとすると、与えられた西洋の文学史を唯一の真と認めて、万事これに訴えて決しようとするのは少し狭くなり過ぎるかも知れません。歴史だから事実には相違ない。しかし与えられない歴史はいく通りも頭の中で組み立てる事ができて、条件さえ具足すれば、いつでもこれを実現する事は可能だとまで主張しても差支ないくらいだと私は信じております。」
(「創作家の態度」http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1102_ …)
重要なのは「与えられない歴史」がいくらでも可能であったにもかかわらず、たまたまそうなったことを「必然的」と見ることには何の根拠もない、ということです。
だとしたら、個々の作品を文学史の流れのなかに置かずに、どうやって比較・検討したらいいのか。漱石はこのように言います。
「すなわち作物を区別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本(もと)として成り立った某々主義をもってする代りに、古今東西に渉(わた)ってあてはまるように、作家も時代も離れて、作物の上にのみあらわれた特性をもってする事であります。すでに時代を離れ、作家を離れ、作物の上にのみあらわれた特性をもってすると云う以上は、作物の形式と題目とに因(よ)って分つよりほかに致し方がありません。」
この「作物の上にのみあらわれた特性」「作物の形式と題目」としての「時間」と「空間」に焦点を絞る。
>どちらかに分類する
ということではありません。
どちらかが新しく、どちらかが古い、などという分類は、そもそも当てはまりませんし(たとえばジョイスは『ユリシーズ』を「性格小説」に分類しています)、「時間的小説」が「空間的小説」に比べて「深い」という見方は、「深さ」という規準がいったいどこから生まれてきたかを考慮に入れていません。
遠近法は画面に奥行きを描きだす表現方法ですが、それはそう見えるように配置されているだけで、奥に見えるものが奥にあるわけではありません。ちょうどそれと同じように、わたしたちが感じる文学のなかの「深さ」も、遠近法的に配置されているに過ぎない。
なぜ『坊っちゃん』と『こころ』のあいだに「流れ」を感じるのでしょう?
そう感じるのは、ふたつの作品を、ひとつの「大きな物語」、歴史の発展という物語の脈絡においているからではありませんか?
わたしたちは、自分が「近代」のなかにおり、「近代という物語」に立って見ているかに自覚的になる必要があるのではないでしょうか。
わたし自身もミュアの「空間」と「時間」という分類が、万能のものとは思っていません。ただ、「劇的小説においては時間は内面的で、作中人物の動きが時間そのものの動きをなします。変化、運命、性格そのすべてが一つの動きに凝縮されます。そして、動きが解決に至ると休止状態が生じ、時間は停止してしまうように感ぜられます」(p.94)という指摘は、たとえばカフカを読むときに非常な助けになると思うのです。
個人的には「空間」と「時間」ばかりでなく、ほかにもいくつかの「形式と題目」が使えないか、あれこれ考えています。もうひとつ、やはりミュアは詩人ですから、ミュアが言うより、もうちょっと正確に「空間」と「時間」も扱えないかとも考えています。
それとは別に、文学というのは、哲学や社会学とちがって、文学作品を相手にするものです。たとえばドストエフスキーの、あるいはカフカの、あるいは漱石の作品は、どれだけ体系的な分類をしようとしても、かならずそこからずれて、漏れ出すものがでてくる。むしろ、そのずれによって、作品が独立した生を生きているといってもいい。
その意味で、学者が作り上げようとする精緻な文学論にはない魅力が、実作者でもあるフォスターやミュアの分析にはあるように思います。
回答としては#1の内容を出るものではありませんでしたが、いくつかの点でわたしとは考え方がちがうかなあ、と思った点がありましたので。
もちろん、さまざまな考え方があるとは思うのですが、部分的にでも参考になる箇所がありましたら、願ってもない喜びです。
再々度回答ありがとうございました。
体調を崩してこちらに来れず、お礼がおそくなりまして、
申し訳ありません。
漱石関連でもうすこし反撃(笑)したいのですが、時期が逸したようですし
このまま締め切りますね。
ひとつの文学理論でもって小説を読んでいくことは確かに魅力ある行為だと
思います。ただその本の社会的背景とか作者の思いなどをこぼしてしていく
ようにも思います。
ご紹介いただいた書籍、なかなか手に入らないのですが、たまたま目についたのが
ジョナサン・カラーの『文学理論』でした。入門書といわれていますが非常に参考に
なりました。
No.3
- 回答日時:
お礼欄拝見しました。
> これは文学的な流れではないかと思うのです。
わたしもずっとそういうふうに考えてたんです。
たとえば
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1412848.html
この回答の頃(おお、2005年だ)は、明らかにそういう見方をしています。
だけど、いまはそういう考え方はちがうんじゃないか。少なくとも、このような見方をしてもほとんど意味はないだろうと思ってます。
もちろん
> こうした構成の小説は、われわれが生活上使っている時間をなんとか歪曲して新たな地平を模索しているように思えるのです。
というご意見に異論のあろう筈はないのですが、それを少なくとも「文学史の流れ」に置こうとは思わない、というか、フォークナーのところで回答してるみたいに、19世紀の文学があって、20世紀のモダニズム文芸が登場した、そのなかの工夫である、それをふまえて1970年代以降ポストモダン小説が登場し、ニコルソン・ベイカーなどは……なんてまとめると、えらくすっきりするんですが、それはまずいだろう、という強い問題意識があるんです。
で、再回答するとすると、そこらへんのことを書かなきゃいけないんだろうな、と思うんですが、いかんせんわたしもまだここらへんは試行錯誤の段階にあるので、どういうふうに回答をしたらいいかよくわからない。どこまで書いていいものかもわからないんです。
ですから少しお時間をください。
週明け火曜日くらいにはまとまった時間がとれそうなので、貧弱な頭をひねることにします。あと、つかぬことをうかがいますが、質問者さんはわたしがこれまで回答したことのある方でしょうか(Yes/Noだけで結構です)。相手が決まらないとわたしは文章が書けないので、人違いだとおかしなことになってしまうんです。もし初めての方でしたら、失礼なことをお聞きしてごめんなさいね。
再度回答ありがとうございます。
なにぶん手探りの状態で質問しているものですから、矛盾や不明なことがあると思いますがお許しください。
自分で言ったことを否定するのはいかにも矛盾していますが、仰るように「性格小説」から「劇的小説」へと
文学史的に考えることは、やはり間違っているのかなと思います。
ただかなり錯綜しながらもおおまかな「流れ」はあるように思うんです。
たとえば文学を三角形で表すと、「性格小説」は底辺の近くにあり、「劇的小説」は頂上の近くに存在している。
もちろん断わるまでもないですが、頂上の文学が質が良くて底辺の文学が質が悪いとか、そういう意味では無いです。
そして文学の宿命として、たえず上昇しようとする上昇意識と、たえず下降しようとする下降意識とが渾然となっていて
その時代時代にどちらかが強く表れて来るだけじゃないかな、と思ったりするんですよね。
現代でいえば下降意識が強く表れているように。
あとご質問の件ですが、以前のHNで一度回答をいただいたことがありますね。
たぶん回答は付かないだろうと思って質問したのですが、お二方から回答いただいて質問して
良かったかな、と思っています。
No.2
- 回答日時:
>普通小説の場合、外的な時間の経過につれて登場人物の内的な時間が表現されていきますね。
小説の原型である物語や歴史はもともと区別されずにhistoria(ラ)と呼ばれ、いずれも過去の出来事を時間的(編年体的)叙述するという基本型を備えていますよね。
それは、現在という時間と空間を認識しようとするにしても、その正体や真相をとなると、始まりの意識と、終わりの意識に大きく規定されていることに気付き、このことが過去の出来事を通時的に記述することを促したからではないでしょうか。
でも、これは人間が外界や他者を視覚的に捉えようとして絵画を描くとき、空間における一視点から見える視界を二次元的に再現しようとするのに似ていると思います。
物語や歴史の場合、時間における一点(現在)から過去の出来事を遠近法的に再現しようとするだけのことではないでしょうか。
その典型例が、聖書や古事記の冒頭などに見られる、詳細な神々や人物の系図だと思われます。
ところが絵画でもセザンヌ当たりから、人間が外界を認識するというのは、実際には固定的な一視点に立脚してではなく、たとえそうと自覚しないにせよ、対象の横からも、後ろからも、斜めからも、上からも、下からも、つまり多角的な視点から対象を捉えることではないかという、ある意味では自明とも言える事柄に興味・関心を向けるようになり、こうしていわゆる絵画史上の立体主義が誕生したと考えられます。
思うに、立体主義の絵画には、一枚のキャンバスに複数の視点が併存するように、「登場人物の内的な時間が表現されて」いる小説にあっては、作者の視点というよりも、作中の登場人物の視点(意識)の側から観察されたことや、それに反応する人物の内面等に比重を置くようにして、小説世界が展開していくようになったのではないでしょうか。
こういう小説は、当然ながら、作者の構想意識(外的な時間)による構成というよりも、「登場人物の内的な時間」、つまり各人物の個別事情に重心を置いた構成が前面に出てくるはずですし、そこで起こる出来事にしても、もっぱら各登場人物の意識の投影したものとして描かれるはずです。
いずれにせよ、こういう小説は、作者の固定的な視点・構想が小説全体を隈なく支配することが写実的、客観的であるという19世紀的リアリズムに対する作者の懐疑や批判が強まるにつれ、必然的に生み出されるに至ったのではないでしょうか。
ジョイスの「ユリシーズ」に限らず、プルーストの「失われし時を求めて」も、その影響下から生まれた横光利一の「機械」にしても、こういう作者側の事情を内包していると思います。
20世紀を境にして、こういう小説が次々と書かれるようになったのも、かつてのように、作者自身が神のそれにも似た絶対的な視点に身を置き、現実社会や人間世界の時空間を俯瞰しながらそれを記述するという自らの作家的営為に疑問や不安を覚え、そもそもこういう小説を書く作者自身の動機なり、必然性なり、さらには自らの拠って立つ根拠なり、アイデンティティなりについて凝視せざるを得なくなったからではないでしょうか。
ちょうど時期を同じくして、シュルレアリスム詩が人間の意識活動のあるがままの姿に捉えようとして、その覚醒状態ではなく、半覚醒状態での活動を言語化しようとしたのも似たような事情があったと考えられます。
ここでは、ある意味、記述から完膚無きまでに時間的、空間的な秩序が消滅してしまっているとさえ言えるはずですから。
回答ありがとうございました。
吉本隆明は文学の構成要素として「韻律」「選択」「転換」「喩」があると言っています。
このなかで、「選択」は場面をどう選んだか、「転換」は表現対象や時間をどう移したか、
ということで、実際、多少にかかわらずこれらが描写されていなければ小説としては成り立たないように
思えます。
ご指摘のように視点が神の視点から登場人物の視点に移ってきたことも事実でしょう。
神の視点で描かれた空間が登場人物の培養液の役割を果たしているとしますと、登場人物の視点で
描かれたものは、空間ですら登場人物の意識の反映であるということもその通りだと思います。しかし
その描かれた空間が実際の空間と違っているにしても、多少にかかわらず小説がなぜ描かねばならないかと
考えますと、それはその小説のリアリティーの保障になるんだと思うのですよ。
そしてこのリアリティーは他者(読者といってもよいですね)と密接な関係があるのじゃないでしょうか。
書かれていますようにシュルレアリズムが空間、時間を消滅させ自由を得たと同時に他者をも消滅させたことによって
運動そのもが終息していったのは単なる偶然ではないように考えるのですが、どうなんでしょうね。
ただ今のところ言えますことは、質問文のあるような小説は、その構成が多分に意図的であるように思いますし、
それでいて文学の本質に近づいているように思えるということぐらいです。
なにぶん無い頭を搾ってのお礼となりました。
返事が遅くなりましたと同時に誤読もしているだろうと思います。
No.1
- 回答日時:
さまざまな説明の仕方ができるかと思うのですが、ここではエドウィン・ミュアの『小説の構造』に依拠しつつ、簡単に説明していきたいと思います。
もしこの回答で興味をお持ちになりましたら、いまでも入手可能なようですので、ぜひご一読をおすすめします。ミュアが注目するのは、小説における時間と空間ということです。ミュアは『虚栄の市』と『嵐が丘』『自負と偏見』を取り上げているのですが、ここではともに漱石の『坊ちゃん』と『こころ』を題材に取り上げたいと思います(その方がなじみがあるし、わたし自身が『虚栄の市』は、もうほとんど何も覚えていないからでもあります)。
『坊っちゃん』と『こころ』、主人公に注目してみると、その最大のちがいは、『坊っちゃん』の主人公が、最初と最後ではほとんど性格の変化が見られない、小説の入り口と出口でまったく同じ人物であるのに対し、『こころ』の場合、全編を通じての語り手である「私」にせよ、「先生」にせよ、作中人物は強烈な変貌ぶりを示している、という点にあります。
『坊っちゃん』のように、作中人物の性格がほとんど変化しない、溌剌とはしているけれど、あまり緻密ではない登場人物が、いろんなことに巻き込まれていく。つぎからつぎへと起こる出来事に巻き込まれ、主人公が生き生きと行動するさまが描かれる小説を、ミュアは〈性格小説〉と呼びます。
一方『こころ』のように、登場人物のなかのある種の性質が小説全体の動きを決定し、同時にその動きによって人物が徐々に変化していく。その結果、小説と主人公は渾然一体となって、終局を迎える。このような小説をミュアは〈劇的小説〉と呼びます。
ミュアの非常に興味深い指摘は〈性格小説〉の真の主役は〈空間〉であり、〈劇的小説〉の真の主役は〈時間〉である、ということです。
確かに『坊っちゃん』の「真の主役」が松山である、という説に異論のある人はないと思いますが、一方、『こころ』でも鎌倉は重要な役を果たしている、鎌倉がなければ『こころ』はなりたたない、と考えるかもしれません(というか、わたしもそう思います)。
けれどもミュアはこのようにも言っている。
「逆接を弄しているように思われるかもしれませんが、性格小説よりも劇的小説の方がかえって情景の実感は一層強烈で鮮明なのです。このことは一面からいえば、あきらかに劇的小説の情景は主要人物の情熱によって色づけ染めあげられているためですし、また読者の目に映る人物の姿にはいつも情景が背景にあって彼らを深くおしつつんでいるためにほかなりません。しかし、もっと本質的な理由が存するので、ハーディの小説や《嵐が丘》の場面などは、《虚栄の市》中の世取り胃の応接間やピット・クローリィの田舎屋敷といったごく普通の個別的な場面とはちがって、人間一般の時間的環境をかたどったものなのです。ヨークシャの原野やウェセックスは(略)特殊なこれときまった場所ではありません。人類の劇が演ぜられる普遍的な場面ともいうべきものなのです」(p.60『小説の構造』佐伯彰一訳)
言い換えると、『坊っちゃん』における松山は、地図上のあの地点になければどうしようもなく、温泉があり、東京から離れ、ひなびた場所でなければ小説は成立しません。作者の作為の及ばない空間として、超然とそこに存在しています。けれども、『こころ』の鎌倉は、登場人物たちの心性によって一種の変形がほどこされた「劇が演ぜられる普遍的な場面」なのです。
つまり、〈性格小説〉においては、〈空間〉を読者にはっきりととらえさせるために、作者は時間の影を消します。
〈劇的小説〉においては、〈時間〉を強烈に照らし出すために、空間を意に介さない。
この傾向を見ることができるのです。
質問者さんが例にあげられた『細雪』は、ミュアの分類にならえば〈性格小説〉に属するものです。ご指摘の「外的時間」は、時間というより、時間の推移によって変化する空間を描くために作者が導入した目盛りです。春が過ぎ、夏が来て、やがて秋になり、冬へと移ろう。ちょうどメトロノームがリズムを刻むように、移り変わる空間を美しく伴奏していくのが、『細雪』の時間です。
一方〈劇的小説〉にあっては、時間は一種独特の緊迫感をもって、わたしたちに迫ってきます。『ウェルギリウスの死』もそうですし、『白痴』のなかでムイシュキン公爵がリヨンでみた死刑執行の場面を語る言葉のなかに、「首斬台に頭をのせ頭上に刃の軋る音が聞こえる、ちょうどあの瞬間、その一分の半分にもたりぬ間が一番恐ろしいんです」部分がある。このあと何が起こるかが確実に予見されることで、時間の本質が変化していくのです。この小説で作品全体を覆う、なんともいえない息苦しい感じ、緊迫感は、この死を予感することで、特殊な時間(岡本靖正は『文学形式の諸相』の中でミュアをふまえて、劇的時間(カイロス)とこの時間を呼んでいます)によってもたらされている。
多くの小説は、〈空間小説〉〈時間小説〉のいずれかに分類される、とミュアはいいます。なぜこのようにどちらかを強調することになってしまうのか。
その箇所もミュアに説明してもらうことにしょましょう。
「われわれは人生を時間、空間入りまじった姿で眺めているのですが、それよりもっぱら時間的に、あるいはもっぱら空間的にと、どちらかに重点をおいて眺める時の方が、げんに人生の捉え方が一層深みを増すのです。人生には自分のすべての行為、その原因、結果、過去現在にわたるつながりなどすべてが一瞬のうちに一目でとらえられるような瞬間が間々あるものです。また自分の振舞がことごとく型通りに他人と同じような反応を示し、感情も振舞もそっくり他の連中そのままだと、はっと気づくような瞬間もあります。
こうした二つの経験はその強烈さ、その完結感において日常的な経験とはまるで別物のようです。ところでこれこそ劇的小説と正格小説においてそれぞれ恒久性をあたえられている瞬間なのです。
この二つは全く別種のもので同時にこの両方の気持になる事は不可能です。こうした瞬間が日常のそれに比べて完結感があるというのは、その際には人生を広やかな見通しにおいて眺め、ある意図や異議をそなえたものとして全体的に眺める事ができるからで、こうした際、われわれは人生を時間的にのみ、あるいは空間的にのみ眺めて、同時にごっちゃに見ることはしていないのです。」(p.85)
> なぜ作者がこうした構成を試みるのか、試みたか。
混沌としてとらえがたい現実を「小説」という形式のなかにすくいあげるための工夫である、と考えることができるのではないでしょうか。
かなり時間を割いての回答、ありがとうございました。
そもそもこうした疑問を持ち始めたのは、ひょっとしたらご存知かも知れませんが、
ニコルソン・ベイカーの「中二階」を読んだときからです。これは主人公が昼休みに
ドラッグストアーに寄り、中二階にあるオフィスに戻るためエスカレーターに乗るところから
エスカレーターを降りた何十秒間が物語の全体で、その何十秒間に主人公の脳裏に
次々と寄せてくる事柄を緻密に描いたものです。ここでおもしろかったのは主人公がエレベーターを
降りて振り返ったとき、今までそこに在ることすら意識していなかったエスカレーターが急に「壮大な銀色の氷河」
に見えてくることなんですね。これは方法的には小説が「詩」に最も近づいた形だし、思想的には、通常の
時間(生きている時間)を変容して、空間を超えようとする考えだなと思った訳です。
たとえば休みの日、寝てしまったとすると一日はあっというまに過ぎて行きます。ところが朝早く起きて
今まで行ったことがない場所などを何箇所もまわって帰ってくると、その一日がまるで一週間分を過ごしたような気分
になることがありますね。これとおなじように通常の時間(外的な時間と言えば良いのでしょうか)を内的時間に
よって変容してしまう。こうした理由がこのような小説構成をとらせるのではないかと思ったりするわけです。
ミュアの言われる「性格小説」「劇的小説」は理解できたと思うのですが、どちらかに分類するということには
なにか違和感があります。というのもN02さんも書かれているのですが、これは文学的な流れではないかと思うのです。
『自負と偏見」は「虚栄の市」のあとに書かれたものだし、「坊ちゃん」の後に「こころ」が書かれたように。
文学の様相が物語性から主題性へ移ってきたということではないでしょうか。
わたしも脳足りんですから詳しくは説明できないのですが、たとえば埴谷雄高の「死霊」などもそうですけど
こうした構成の小説は、われわれが生活上使っている時間をなんとか歪曲して新たな地平を模索しているように
思えるのです。
お礼が遅くなりました。ミュアの「小説の構造」は一度手にしたいと思います。
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