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室町時代の「手鏡」とはどのようなものなのですか?
検索しましたが、調べ方がヘタなのか、なかなか出てきません;

画像の資料を探しています!(画像が無ければ文字で説明していただいても全くかまいません!)

よろしくおねがいします。

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A 回答 (3件)

http://www.mirror.or.jp/data/history1.html

上記に、小さな手鏡がのっています。室町期のものと思われます。
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この回答へのお礼

有難うございました!助かりました!^^

お礼日時:2009/11/06 17:51

 「手鏡」の用例は明治以後に限られているようです。


 で室町の資料と言われている Vocabvlario da Lingoa de Iapam (1603) いわゆる日葡辞書には Tecagami の項があって「昔のすぐれた人の立派な文字を沢山集めてとじて手本としたもの、<訳>」となっています。普通あてる漢字は「手鑑」です。
 これでみると、室町時代には「手鑑」はあったが「手鏡]はなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

室町時代には「手鏡」は無かったのですね。知りませんでした!
情報ありがとうございました!^^

お礼日時:2009/11/06 17:54

こんにちは



ちょっと小さいですか?
http://www.tonichi.net/news.php?mode=view&catego …

持ち手が付いていませんが
背中の部分の出っ張りに紐を通して
手で持っていたか
http://www2.pref.gifu.lg.jp/s17771/yougo/w1.htm
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この回答へのお礼

有難うございました!助かりました!^^

お礼日時:2009/11/06 17:52

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漢字 手本」に関するQ&A: お手配?ご手配?

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Q鏡のない時代はどうやって身支度してたんですか?

日本に今のようなガラスっぽい鏡が伝わったのは、いつごろなんでしょうか。

また、今のような鏡がない時代は、どうやって、髪をセットしたり、化粧をしたり、してたんでしょうか。

Aベストアンサー

「ガラスっぽい鏡」とありますが、鏡というのはガラス製品です。
ガラスの裏に銀を塗布したものが基本です。
古い物の中には水銀を塗布したものもあります。

日本にガラス製の鏡が紹介されたのは、キリスト教を伝えたザビエルが持ってきた物が初めてとされています。

今のようなガラスの鏡がなかった時代には金属の表面を磨き上げて顔などを写してしました。
現在の姿見のような大きなものはありませんでした。
一般には、明治時代になってガラス製のものが普及するまで使われ続けました。
神棚などの中央に乗っている丸い金属の板はこの鏡の模型です。

金属を使う前は水を使っていただろうとされています。
池の淵に立って自分の姿が写るのを知ってから水たまりや大きな容器に水を入れたものなどに写していたのだろうとされています。
お化粧や髪のセットには難しいでしょう。
お互いに相手に化粧を施したり、髪をセットしていたのでしょう。
出来上がりの確認には使えたでしょう。

詳しくは下記のサイトをご覧下さい

はじめに「鏡の歴史」
w-wallet.com/kagami.html

東京都鏡商工業協同組合-ガラス鏡の歴史-
www.mirror.or.jp/data/history2.html

ガラス鏡の歴史は歪みのない板ガラスの製造技術の歴史だと思ってもいいでしょう。

「ガラスっぽい鏡」とありますが、鏡というのはガラス製品です。
ガラスの裏に銀を塗布したものが基本です。
古い物の中には水銀を塗布したものもあります。

日本にガラス製の鏡が紹介されたのは、キリスト教を伝えたザビエルが持ってきた物が初めてとされています。

今のようなガラスの鏡がなかった時代には金属の表面を磨き上げて顔などを写してしました。
現在の姿見のような大きなものはありませんでした。
一般には、明治時代になってガラス製のものが普及するまで使われ続けました。
神棚などの中央に乗っ...続きを読む

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q室町時代の元結や髪紐について

多くの庶民は元結を使用していたようであると言うのはいくつか読んだのですが、そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。
「紐」とあるだけにこの場合はそれらしい細い麻縄のようなものを指すのかと思っていたのですがどうだったのでしょう。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

奈良、平安、室町時代は、あまり得意分野ではなかったので、お答えの様子を見ていましたが、誰も回答がないようですので・・・浅学ながら・・・。

>>そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。

基本的には、古くは「麻の紐」を使ったことでは「共通点」はありますし、平安時代の稚児が「髪紐(元結・もとゆい、といいます)」を蝶々結びにしたことから、「水引」とも呼ばれました。

元結:
古くは、麻の細い紐を使用していました。
やがて、平安時代に入ると、製紙の技術が盛んとなり、麻紐よりも白く目立つことから、「こより」へと趣向が変わっていきました。
しかし、この「こより」は、雨に当たったり、汗をかいたりすると、非常に「切れやすい」弱点を持っていました。
ただし、何本もより合わせたりして、強度を出す工夫などはされていました。
江戸時代に入り、信州飯田の「文七」という者が、「こより」に「水糊」をからませて腰を強くし、さらには、光沢を出すために少量の「油」を馴染ませた「紙紐」を考案しました。そして、販路を江戸に求めたところ、「文七元結」と呼ばれて、大変な評判となった・・・ということです。(文七元結資料館より)
なお、落語にも「文七元結」という噺がありますが、これとは全く別のものです。

水引:
聖徳太子が摂政をしていた頃まで遡る、と言われています。
小野妹子が遣隋使として中国(隋)に派遣され、その答礼として裴世清(はいせいせい)という者が我が国に訪れた時、隋の皇帝の国書と貢物を朝廷に届けました。その品々は、長い旅の安全祈願として、紅白の「麻糸」でくくられており、これが「水引」の起源とされています。
日本では、それ以後「くれない」と呼ばれて、献上品や贈答品に紅白の麻糸で結わえて贈られるようになりました。
やがて、「くれない」も光沢のある「こより」を使用するようになりました。
そして、和紙で作られた「こより」に「水糊」を加えて強度を持たせるようにしましたが、これも「文七」の創意工夫だとも言われています。この「水糊を引く」から、次第に「水引」と略されて呼ぶようになったとも言われています。
また、水糊を引いたこよりは、連歌を書く用紙を綴じるのにも用いられ、紅や黄などの色合いが、
「水の流れに秋の木の葉が散り落ちて、紅や黄の枯れ葉が水に引かれるように流れている」
と見えたことから「水引」と呼ばれるようになった・・・とも言われています。
室町時代よりやや古い「鎌倉時代」の頃には、武家の作法を記した「宗五大艸紙(そうごだいそうし)」に、
「薄紙をたたみ重ねて進物を包み、それに金銀の水引をかけた」
と、記述されており、「水引」がだんだん「派手」になってきたことを窺(うかが)わせます。

こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。

奈良、平安、室町時代は、あまり得意分野ではなかったので、お答えの様子を見ていましたが、誰も回答がないようですので・・・浅学ながら・・・。

>>そうすると「髪紐」も水引のことを指すのでしょうか。

基本的には、古くは「麻の紐」を使ったことでは「共通点」はありますし、平安時代の稚児が「髪紐(元結・もとゆい、といいます)」を蝶々結びにしたことから、「水引」とも呼ばれました。

元結:
古くは、麻の細い紐を使用していました。
やがて...続きを読む

Q昔は何歳くらいからお酒を飲んだの?

昔は何歳くらいからお酒を飲んだの?

現代では未成年者の飲酒は法律で禁止されていますが、
奈良時代~江戸時代など、昔はどうだったのでしょうか?

法律だけでなく、例えば15歳くらいでお酒を飲むことがあったのかとか、
貴族など富裕層だけでなく、農民なども飲むことがあったのかとか、
風俗・習慣的なことも知っていたら教えてもらえるとありがたいです。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>奈良時代~江戸時代など、昔はどうだったのでしょうか?

奈良時代:
21~60歳の男子を「正丁」(せいてい)と呼び、労役や物納を課しました。ただし、17~20歳の男子を「少丁」(しょうてい)と呼び、正丁の4分の1を負担させています。
この17歳位から飲酒が認められました。

平安時代~戦国時代:
15歳前後で成年の儀礼を終えた者が一人前の成人と見なされていました。
領主への村全体の誓約書に署名できる者は15歳以上とか、一揆への参加者は15~16歳といった記録が残っています。
この成年の儀礼とは、武士階級などでは「元服」と呼び、農漁村では、若い男子は「若衆仲間」、女子は「娘仲間」という組織に加入し、「若衆宿」「娘宿」と呼ばれる家で成人に必要な社会的訓練や性教育を受ける慣習がありました。祭礼や消防、治安などもこの組織が担いましたが、入るのは15歳から。
しかし、庶民も次第に「元服」という言葉を使うようになりました。
この「元服」を終えた者や農漁村での「若衆仲間」「娘仲間」で飲酒が許されるようになりました。

江戸時代:
15歳前後の「元服」を終え、前髪の取れた者が飲酒できました。

明治時代~:
明治29年(1896)の民法で現在の20歳に決められました。これはフランス民法の規定にならったとも、古代中国の「礼記」(らいき)に「男子20なれば冠(かんむり)して字(あざな=名乗り)す」とあるからだともいわれます。中国では男子20歳を「弱」といい、「弱冠」(じゃっかん)という言葉はここから来ています。

「若衆が 水に肴の とりあわせ」
と、江戸時代の狂歌にもあるように、いつの時代でも、未成年者の飲酒は耐えませんね。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>奈良時代~江戸時代など、昔はどうだったのでしょうか?

奈良時代:
21~60歳の男子を「正丁」(せいてい)と呼び、労役や物納を課しました。ただし、17~20歳の男子を「少丁」(しょうてい)と呼び、正丁の4分の1を負担させています。
この17歳位から飲酒が認められました。

平安時代~戦国時代:
15歳前後で成年の儀礼を終えた者が一人前の成人と見なされていました。
領主への村全体の誓約書に署名できる者は15歳以上とか、一揆への参加者は...続きを読む


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