ショボ短歌会

生徒に「なぜこんな校則があるんですか?」と聞かれたとき、
「ルールはルールだ!守れ!」と答える人がいますよね?

私は成人ですが、昔も今もこの言い分が納得できないんです。
ルールには、それができた理由や必然性があるはずです。
言い換えれば、必然性がないルールは存在価値がありません。
そもそも「理由もないのに人を縛る」という発想が、私の理解を超えています。

しかし世間には「文句があるのか!」「不満があるなら出てけ!」と、
説明もせずに怒鳴りつける方がいますよね?
あるいは「はぁ?いい年して何を屁理屈言ってるんだ」と冷笑する人とか。
私はこういう反応に、非常に腹が立ちます。質問の答えになっていない…

そこで質問です。
 (1)「ルールにはとにかく従え。その正当性など関係ない」
 (2)「理由や正当性がないものは、ルールである資格がない」
私は(2)を常識だと思うのですが、
(1)を常識だと思う人は、なぜそう思うのですか?
例えば(2)を常識だと思う人を、どう思われますか?
理由を説明できないことを他人に強制するとき、ためらいを感じません?

また、こういうときの常套句として「社会に出れば、もっと理不尽なことがある」
「そのときに備えて訓練だ」と返す人が多いのも疑問です。
基本的に、世間にのさばる理不尽は、皆でなくすべきものではありませんか?
「理不尽に慣れろ」というのは「受け入れろ、抵抗するな」という意味ですよね?
ちょうどアルハラ上司が「酒に慣れろ!」
というようなものではないですか?
なぜ「理不尽を無くすため頑張ろう!」ではなく、
理不尽を容認・後押しするような台詞を、当然のように言うのでしょう?

A 回答 (24件中11~20件)

>「社会に出れば、もっと理不尽なことがある」「そのときに備えて訓練だ」と返す人が多いのも疑問です。


>普通の穏やかな対応すればよいのに、なぜ怒鳴りつけたり、力ずくで黙らせようとするのか。

面倒だからでしょう、一言で解決しますから。学校に限らず人間社会にはそうした人種はたくさんいますね。
ルールが出来た経緯や守らない事による不具合について説明すれば単に「ルールだから守れ」よりは遵守される率が高い事は判っているのに関わらず面倒だから一喝ですましてる。ま、手抜きですな。

あなたの感覚は極めて普通だと思いますよ。「理由や正当性がないものは、ルールである資格がない」からルールを廃止改正しようとする人は少数派ですが。そんなルールは守る必要はないと暴論言ってるんじゃないんでしょ?
大事、揉め事になるような不合理なあるいは役目が終わったルールは誰しも廃止改正しようしますから既に改廃されていると思います。
未だに残っている不合理なルールというのは多数派からは「そんなのどっちでもいいじゃん」と思われているんじゃないでしょうかね。

>秩序維持のためだけの厳しい校則(靴下など)は、自動的に消え去るのが筋だと思っていました。

自動的に消え去る事はないでしょうが、守らせる側からすら無視されるようになる事はあります。改廃しないのは、またぞろに備えて温存してるのでしょう。
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この回答へのお礼

普通だと認めていただき、感謝しています。
こうした疑問をもらすたびに
「屁理屈ばかりこねて!」
「そんなこと気にするなんて、おかしいんじゃないの!」
という反応を受けてきましたので、
回答者さまの文章を読んでホッとしました。

またおっしゃる内容も、スムーズに受け入れられるものばかりです。
どうもありがとうございました!

お礼日時:2009/12/10 20:12

一般的に、明文化されたルールを変える或いは無くす場合、変更コストと周知の手間がかかります。


例示の場合であれば、生徒手帳等の校則記載物の改訂、保護者への説明などですね。
だからどっちでも不都合が無いようなルール変更は、中々行われません。
ルール変更を求められる側からすると、「何で靴下が白じゃ駄目なの?」となるわけです。

その中で積極的に変更を主張するのであれば、変更による優位性を主張するのが一番早いと思いますが、違いますでしょうか。
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この回答へのお礼

そういう説明をされると、理解できます。
実際、今までで一番すっきりと納得できました。
ありがとうございました!

お礼日時:2009/12/10 20:10

パワハラまがいなことは別にして、例えば校則や伝統ある部活のルールなどについてですが、つべこべ言わずにしたがえというひとのどれだけがちゃんと言葉にして説明できるか、またはその人自身が感覚以外のことでルールというモノを理解しているかは疑問ですが、私なりの「とにかく従え」の意味を言葉にしてみたいと思います。

簡単にいうと、あるルールに対して疑問を持つようなヒトにはルールの真意はまだわからないだろうからというのが、説明責任を放棄するひとの言い分のように思います。
たとえば、伝統ある部活のとあるルールを例にしますと、
「なんで、この仕事は一年生の仕事なんだよ。こんなの3年生がやればいいんだよ」と一年生が大騒ぎしていたとしましょう。二年生は一年生の言い分もわかるわけです。たしかに理不尽だと自分も思ったし、3年生がやるほうが合理的だと思ったと。でも3年生がどれだけ大変なことをしているかも、自分たちをどれだけ面倒見てきて部活としても最低学年がやるべき仕事であることも一年間見ていればわかるわけで、冷静に経験から考えてもこれぐらいのことは一年生にしてもらうべきだろうと思うわけです。でも、それを一年生に説明しようとしても一年間見てきた自分たちとおなじ理解は出来ないわけです。唯一いえるのは、おまえ達もそのうち真意が分かる。いまはだまって従っておけって。と言うことかと思います。
たとえば、中学の校則など私は中学生のときに理解はできませんでした。なんで白い靴下なんだと。でも大人になって自分に子供ができれば、中学にはいたときに校則に盲目的に従う時期も以下に必要かというのが理解できますし、たった3年間で、しかも数百人がおなじ滑降するのであればまぁそれも良い思い出だと思ってしまいます。みんなの足下の色がそろっているのはキレイですし清潔に見えます。小学生はだれからみてもあるていどかわいい存在ですが、中学生で服装がみだれてくれば、近隣住民からすると恐怖感を抱かれるかのうせいだってあるわけです。
でもこんな気持ち、たぶんお子さんをもってその子が中学生に近くならなければ絶対に理解できないです。まして中学生に説明しても、そんなの理由にならないとしかならないわけです。結局どんなに丁寧にはなそうとしても本当の真意はあと20年はわかんないだろうなと、中学生を前に思うのです。
これが、「ならぬものはなりませぬ」ということにたいする私の見解です。
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この回答へのお礼

丁寧な説明を、いたみいります。
このサイトでも「屁理屈こねるな!」との罵声を覚悟していたので、
こうした説明には、頭が下がる思いです。

その上で、疑問をよろしいでしょうか?
回答者さまの意見は、
「年長者の感覚の方が、年少者の感覚より正しい」という前提がありますよね?

>>経験から考えてもこれぐらいのことは一年生にしてもらうべきだろうと思うわけです。
>>みんなの足下の色がそろっているのはキレイですし清潔に見えます。
これらはどれも主観的なものです。
「経験から考えると『なぜ』そうなのか」
「キレイだというのも、ただの個人的趣味の押し付けではないか」
という疑問に、明文化された答えを返せませんよね。
「なんとなく…ほら、分かるだろう?」
という程度の説得力しかないわけです。

私はこうした「言語化できない、感覚的なもの」は
他人を縛る理由としては、不十分だと思うのです。
ルールというのは、もっと厳密に、万人に分かるものであるべきだと。
この点は、どう思われますか?

お礼日時:2009/12/10 20:09

例えば「靴下の色/髪型を自由にしたらどう?」


であれば、「靴下の色/髪型を自由」にする事について、旧来のルールを変更するだけの優位性を主張し、合意形成すれば宜しいのでは?
○○したいから、ではルール変更は覚束ないと思いますが。
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この回答へのお礼

優位性というのは、主張するのが普通なのでしょうか?

今気づいたのですが、私の中には
「そもそもルールというのは、少ない方がよい」
という大原則があったようです。
「何であれルールは、最初はなんらかの必然性があって作られた」
        ↓
「しかし年月とともに、その必然性は風化してゆく」
        ↓
「必然性が失われたとき、そのルールも『自動的』に廃止される」
        ↓
「廃止のために、わざわざ優位性など主張する必要はない。
 なぜなら、廃止されるのが『自然な流れ』だから」

例えば、
「かつては荒れた学校で、その名残として厳しい校則が残っている。
 しかし今や生徒の質も変わり、おとなしい生徒が大多数である」
この場合、わざわざ優位性など主張せずとも、
秩序維持のためだけの厳しい校則(靴下など)は、
自動的に消え去るのが筋だと思っていました。

この考えはいかがでしょうか…

お礼日時:2009/12/10 01:01

ルールはそのコミュニティ(それは「家族」から「人類」まで


幅があると思いますが)で暮らしていくために守らざるををえ
ないものではないでしょうか。
ただ、そのコミュニティに入るのに自由度があるのであれば、
従えないルールのコミュニティには入るべきではないと思い
ます。
たとえば校則。私立高校で、どうにもガマンならない校則の
ある高校には行かなければいいだけの話です。「入学するま
で知らなかった」は単に調査不足で、全く同情の余地はあり
ません。
義務教育でとんでもない校則がある場合は話が違ってきますが、
ただ、それはほとんどないのではと思います(私立高校のとん
でもない校則というのはあるかもしれないが、公立中学校・小
学校でとんでもないというものはまずないのでは)
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この回答へのお礼

確かに、よくそれは聞きますね。
よっぽどの過疎地を除いて、
たいていは学校を選べるわけですから。

ただそれでも
「(1)のタイプの人は、なぜああも高圧的なのか?
 普通に話せばいいのに」という疑問は残るんですが…
それはまぁ、別の話ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/10 19:38

では、法律はルールじゃないのですか?絶対に守られなければならない法律がほとんどと思いますが、例えは悪いかも知れませんが、軽犯罪法の中には必ずしも重大な結果を招かないものもありますが、一旦指摘されると反論は不可能です、単に「ルールはルールだ」に反発するだけでは能のない話です【言うところの建設的、前向きの意見ではありません、悪い表現ですが「ガキの反発」でしかありません】。

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この回答へのお礼

どうも誤解を招いているようで、少し確認させてください。

まず私は
「ルールを守りたくないがために
『なんでこんなルールがあるんだ!』
 と文句をつけたい」わけではありません。

「靴下は白でないといけない」のような
学業とも、非行とも関係のなさそうなルールに対して
「これって、なんであるんだろう?」と
疑問をもつ人がいるのは、普通ですよね?

その人に対して、「つべこべ言うな!」「屁理屈こねるな!」という対応は、
あまりにも乱暴すぎると申し上げたいのです。
せめて「うん、君の疑問は分かるよ。でもね…」
という、普通の穏やかな対応すればよいのに、
なぜ怒鳴りつけたり、力ずくで黙らせようとするのか。
そういう人たちは、何を思っているのか、という質問なのです。

お礼日時:2009/12/10 00:32

ルール自体に意味はありません。


対人関係の暗黙の了解を、ルールといっているにすぎないのです。
人の心の機微が把握できないと、ズレた疑問符をうちつづけなければならなくなります。
リアルタイムに変わる他人の感情・・・煩わしいといってそれから目をそむけていると悲劇です。本質から、どんどん遠ざかるだけですから。
朝「お早うございます」と挨拶を交わしている人々の中で、「理不尽を無くすため頑張ろう!」とひとり叫ぶあなたのすっとんきょな姿は、あまりにも不憫です。
漫才はテレビで観るもの、日常生活でやるべきではありません。
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この回答へのお礼

すみません、おっしゃる意味が分かりません……
私は、法やルールのあり方の話をしているのであって、
感情は今、関係ないと思うのですが……

あと、もし私個人に何か言いたいことがあるのなら、
遠慮していただけませんか?
私は日常生活で、こんな疑問を決して口にしません。
ただ長年、心の中でくすぶっていたことを、ふと聞いたまでです。
私の人格について云々されるのは、はっきり申し上げて心外です。

お礼日時:2009/12/10 00:19

>「ルールはルールだ!」という言い分


は正しいですね。

法律で例えてみましょう。
法律は国会で決まります。
その法律は行政(わかりやすく言えば警察)が実行します。

では、行政(例えば警察)に「この法律は正当じゃないから従わん!」と言いますか?
普通なら、法律の正当性は、司法が判断したり、国会が現状にそぐわない法律を変えます。

というわけで、ルールを適用しようとする相手に、「正当性がないから従いません」というのはお門違いになります。
知っているルールは正当性の有無に関わらず従うべき(というより、少なくとも当時は正当性があるからルールになるわけだし)ですし、正当性がないというのなら、然るべき機関(校則なら生徒会など)に掛け合うべきですね。

少なくとも“自分が正当性を感じるか感じないかで、従うか従わないかを判断する”ことではありませんね。
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この回答へのお礼

よく分かります。
ただ法律について述べられましたが、
当然ですが「立法機関」と、「その正当性を審議する司法機関」は、別物ですよね?
立法機関に、司法機関の役目も負わせて
「あなたの作った法律が正当かどうか、あなたが判断してください」
というのは、明らかに変です。

しかし学校は、これがまかり通っていませんか?
ルールを作るのも教師。
それを廃止するかどうか、最終決定するのも教師。
教師の意にそわないルールは作られないし、
生徒が何を言っても、教師の意に沿わない改正案は却下される。
それでいて、正当性の説明はいっさい無い。
それが現実だと思います。
これはシステムとして、いささか変だと思われませんか?

お礼日時:2009/12/10 00:25

> (1)「ルールにはとにかく従え。

その正当性など関係ない」

「悪法もまた法なり」と言います。

「正当性」と言うのは「法の前では無意味」です。

何故なら「正当性」と言うのは「対立する双方に存在する」からです。

AとBが対立する時、Aと同じ立場から見れば「Aの言う事が正当で、Bの言う事が不当」で、Bと同じ立場から見れば「Bの言う事が正当で、Aの言う事が不当」になる訳です。

これでは、どちらが正しいか誰にも判断できませんから「法」により「Aが正しいとする」とか「Bが正しいとする」とか、予め決めておく訳です。

> (2)「理由や正当性がないものは、ルールである資格がない」

「法として決まっている事に合理性が無い(正当性ではなく合理性である事に注意)」と言う場合は「民主主義などに則って、合法的に法改正をすべき」であって、法を無視してはいけません。

もし「合理性が認められない校則がある」と言うなら、校則改正や校則廃止を公約に掲げて生徒会長選挙に立候補し、当選した暁に、学校に働きかけるとか、全校投票をするなどして、校則改正や校則廃止をすれば良いのです。

それが「民主主義」の基本です。

そういう「社会の原則」を無視して「不当だから従わない」と言う行為に及べば、どんな理由があれ「不良学生」のレッテルを貼られます。

「ルールである資格がない」と思った時「ルールに従わない」と言う選択は誤りで「ルールに従って、ルールを改正、廃止する」と言うのが正しい選択です。
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この回答へのお礼

私はその「悪法もまた法なり」に対して
「いいや、私はそうは思わない」と言っているわけです。
しかし
>>何故なら「正当性」と言うのは「対立する双方に存在する」からです。
これには、なるほどと思いました。

また、校則を変えるときの手順ですが、
あれって最終決定権は校長や、教員側にあるわけですよね?
生徒がどんなに頑張って運動をしても、
教員が「頑として認めないぞ」と決めていたら、
何をやっても無意味になってしまいます。
何百人の署名を集めても、校長が一言
「オレの決めたルールを廃止しようとは、けしからん」
こう言っただけで、おじゃんになってしまいます。

しかるべき手順をふむべき、というのは納得ですが、
その手順が、改正したい人にとって明らかに不利にできていませんか?
例えば北○鮮で、法にのっとって総書記閣下に異議を申し立てても、
それが聞き入れられるとは思いません。
何しろ、法そのものを総書記閣下は自由にできるのですから。

お礼日時:2009/12/10 00:13

こんばんは。



たとえば、制服を着るというルールがありますよね。
その理由はおそらく、おしゃれな合戦になって、勉学をする時間や意欲を損ねるということだと思います。
しかし、そういった理由を生徒に説明するとき
「勉強をする時間や意欲を損ねるから」
と正直に説明したらどうなるでしょうか?
きっと生徒達は納得せず、
「そんなことはない」
「私は私服を着ても成績は落ちない」
「服装自由の高校はたくさんある」
などと言って反抗することでしょう。
かえって混乱します。
ですから、「ルールはルール」で必要十分であって、それ以上を説明する必要はないのです。

また、服装が自由の高校であっても、「自由」ということの意味を履き違えることのないよう、生徒会などで議論するようになっているところは多いと思います。

もしも不満があるのであれば、一方的ではなく建設的な提案をすればよいと思います。
時々成功することもあります。

ちなみに、
子供が悪いことをしたときにゲンコツをしてしつけをするのは、私は当たり前のことだと思うのですが、法律上は暴力となります。
田舎の見通しの良い道路の交差点で、他のクルマはまったく見えないのに、赤信号であれば停止しなくてはいけません。
阿呆くさいと思うのですが、ルールはルールですね。
大人になれば、
「ここを踏み越えたらまずい」
「ここを踏み越えなければ常識的には大丈夫」
という意識は身につきますので、
「ルール(法律)はルールだけど、これぐらいは、ま、いっか」
ということになります。
クルマの運転でスピード違反をしていない人なんて、ほとんどいません。教員の方々もそうでしょう。
しかし、青少年の集団を教育する教員としては、そういうことを認めるような指導はできないでしょうね。

以上、少しでもご参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

>>かえって混乱します。
現実問題として、ろくな説明がないと
「あの先生は、まともに相手をしてくれない」
「生徒にえらそうに命令するばかり」
「キチンと理由も説明できないくせに、権力にものを言わせやがって」
と、生徒の反発を招くことが多くはないですか?
そちらの方が、よほど混乱を招くと思うのですが。
たとえ「教師が怖いから従う」という選択をしても、
それは面従腹背であって、根本的な解決にはならないと思うのです。

お礼日時:2009/12/10 01:04

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