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数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が
話題になりました。

人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。

色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく
存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。
形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて
何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。

とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」
とは何でしょうか?
エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ?
哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。

どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。
「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?

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A 回答 (19件中11~19件)

こんにちは。


またmori0309さんの難題に吸い寄せられてしまいました。
質問を読んで即、頭に浮かんだのは
デリダによるフッサール批判「幾何学の起源」です。
と、思って下を読んでいったらstomachmanさんが
近い回答を寄せられていますね。似てしまいますが
「3平方の定理はピタゴラスによって発見されたが
 しかしその事実は発見以前からあったのではないか?
 そして、もし現在まで発見されていなかったら
 その事実は無いに等しいのではないか?」
といったようなコトだったと思います。
フッサールの超越論は、このとき歴史の単一性を武器に
「もし・・」といった仮定を否定することで
客観的実在に仕立てちゃうんですよね。
でも、クリプキや柄谷行人は、客観的実在を発見することによって
もしも・・といった仮定の世界が出来てしまうんだぞ
と言うんですよね。
「固有名は確定記述の束に収束されない」というヤツですよね。
デリダはジョイスのフィネガンズ・ウェイクの一文
「He war」を使うんですよね。
「He war」は実在の文章なのだが
ドイツ語で読むか、英語で読むか、で意味が違っちゃうんですよね。
だから何なんだ?というと
すいません、こないだも申し上げました通り
何なんだろう?なんです。
ご免なさい。今日は退散します。
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この回答へのお礼

CUE009さん、ありがとうございます。

存在と認識について素人の思索をしてみました。(寝言です。申し訳ありません)

1.「存在」の認識のしかたは無限通りあるのではないか。感覚的なもの(色・匂いなど)
  計量的なもの(大きさ・質量など)半概念的なもの(民族・国家など)
  概念的なもの(美・善など)・・・・・・
  認識の方法やカテゴリは、いくらでも好きなだけ創り出せるのではないか。
2.認識の方法やカテゴリを、いくら豊富に充実させても、ありのままの「存在」を
  完全に認識することは、結局できないのではないか。方法やカテゴリによる認識が
  すでに「存在」を枠にはめることであり、見え方を限定してしまうのではないか。
3.人間や生物による「存在」の認識は、「存在」そのものを認識しているのではなく、
  感覚器官によって、いわばデフォルメされた姿、または、理性思考から生み出された
  道具によって、都合よく写し取られた「存在」の断片・断面・造影の図ではないか。
4.「存在」は、見る側の見方によって、いかようにでも姿を変えるのではないか。
  見る側の見方が「存在」の「姿」を決めるのではないか。
5.何かがある。これは客観的事実である。しかし「何があるか」を決めるのは認識者の
  主観である。
6.しかし『「存在」に「真の姿」などなく、認識者の同意数しだいで客観度があがったり
  さがったりする相対的な姿(虚構)しかない』かというと、決してそんなことは
  なく、「存在」はつねに「認識者」の父であり母である真実在である。(←こんな表現
  しかできないんです)
7.認識者が「観察」という態度をやめることによって、かえって「存在」は「真の姿」を
  現すのではないか。

どうか、ツッこんでください。(6と7、無茶苦茶ですね)

お礼日時:2001/03/30 01:14

>神を信じている人にとって、神はまことの真実在であって、


>その人に対して巨大な 影響力を行使します。
>これは客観的にも「(その人の)神が存在する」と言っていいかと
>思います。
それは比喩ですな。もしそうでないのなら、
「客」がいるから「客観」は存在するとするmori0309さんの発想の
仕方からでもそれは簡単に突き崩せます。
だって、物理的な意味で神を見た人っているんでしょうか?
いないとすれば、それは内的観念に過ぎないわけであって、
いうなればこいつは主観そのものだからです。

で、僕は実在するものとしないものの間に特に価値の上で線引きを
行うつもりはありません。念のため。

なんでかというと、僕の価値観自体が「色即是空、空即是色」なあるとも
ないともつかないいいかげん極まりないものであるから。
そういう存在自体がいいかげんな観念によって、存在、非存在を切り分け、
それを基準に価値の意味付けを行うことに一抹のむなしさを感じるからです。
僕の内部にある観念は全て主観であると思ってますから、客観的に、
存在、非存在を切り分けることがそもそも不可能に思えるということも
理由のひとつではありますが。
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この回答へのお礼

oni_ocさん、ありがとうございます。
> それは内的観念に過ぎないわけであって、
> いうなればこいつは主観そのものだからです。
科学的な計測装置でとらえられないものは内的観念にすぎない
ということになると、民族・国家・法律・資産などといった
ものも内的観念にすぎないということになってしまうのでは
ないでしょうか。(事実、共同幻想なのですが)
美や善などはどうでしょう。抽象度が民族などよりはかなり
高いといえますが、存在しないと言いきることはできないと
思います。(あ、言いきってないですね。すみません)
> 僕は実在するものとしないものの間に特に価値の上で線引きを
> 行うつもりはありません。念のため。
承知しました。
> 価値の意味付けを行うことに一抹のむなしさを感じるからです。
私の場合、より高い価値を求めるという、性格的傾向がある
ようです。
より美しい美、より善なる善、より聖なる聖、より神らしい神・・・・・・
どうも私の精神は東洋的ではなく西洋的にできているようです。
(へんだなあ。日本人なのに)

お礼日時:2001/03/30 01:38

【お礼レス】


>「何かがある。しかし認識主体とその認識能力を前提に立てなければ、何があるかは まったく語れない」この命題(?)からは一歩も外に出ることができないのでしょうか。

「銀河系は宇宙である」という例を西田流に解釈してみると、実在は「銀河系」にも「宇宙」にもない。「・・・は・・・である」という繋辞にあるとなりますが、この例だと恥ずかしながら理解できません。星を見たり、相対性理論によって、はじめて宇宙の実在が認識できると思ってしまうのです。

しかし最近もっと身近な例で、すこし西田の考えることが理解できました。それは商品開発の「場」のようなものです。いろんな開発者「個人」(主語)が出入りする場、社員や顧客(述語)が出入りする場、この「場」は個人と社員などの繋辞であり、かつ商品開発のための実在である。つまり人間でなく場が新商品を生み出すからです。

こうなると実在とは認識以前の存在なんでしょうか?
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この回答へのお礼

orimotoさん、ありがとうございます。
> 人間でなく場が新商品を生み出すからです。
実在するのは「場」であるということでしょうか。
物理学でいう重力場とか電場とか磁場みたいなものでしょうか。
(ちがうでしょうね)
『ひとつひとつのモノよりも、むしろモノとモノとの関係が
 本当の「実在」を出現させ、それが新しい何かを産む』
そう解釈してよろしいでしょうか。
人間は、やはり、自立・自律・普遍・不変・不動・固定・孤高の
認識者であるという超越者意識を、そろそろ脱ぎ捨てないといけない
のでしょうね。
(かと言って虚無的相対主義思想に陥るのはイヤなのですが)

お礼日時:2001/03/30 01:26

mori0309さんたら、またまた回答者を無間地獄へ誘おうという....


 この話は、しかしながら「認識者が気が付いていないけど在る」というもののことを指しているだけのようにも聞こえます。だって、ここで言う認識者というのは他人じゃ話にならない。mori0309さんをおいて他には居ないわけですから。
 認識者たるmori0309さんが踏んづけるまで犬の運値は存在していなかったのかどうか。存在してたから踏んづけたんですよ、きっと。で、踏んづける前の犬の運値の形・大きさ・質量・色・匂い・味・手触り・暖かさなんぞ、知りたくもないですけど、想像できないほど難しいものかなあ?

この回答への補足

ぜひお知らせしたいことがあります。mori0309@mail.goo.ne.jp

補足日時:2001/07/06 13:17
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この回答へのお礼

さすが! 師匠・巨匠・塾長! (このセリフそっちこっちで言ってます)
文理双頭の獅子を自在に操る真の賢者、stomachman博士。
この名コメントの匂いに、さっそくまた「お風呂」に入りたくなっちゃいました。
もしよろしければ「洗濯ネット」においでになりませんか。入り口は一つ目のパイの
ほか、随所にあるみたいです。

お礼日時:2001/03/26 17:42

自然科学系(物理)から社会科学系にシフトした者です。

この問題はこの間、陰に陽に自分にのしかかってきたテーマです。

最近ぼくは、このテーマを歴史観を加味して考えるようになりました。そこで登場するのがトマス・クーンです。彼は物理学者から自然科学史家にシフトした人で、ぼくも大きな影響を受けました。

実在論に関連づけて、彼の考え(ぼくの考えでもあるわけですが)を述べれば、実在を追求する過程で、われわれの思索はあるとき大きく変化します。例えばニュートンの法則とかアインシュタインの原理とかいうように。その後はしばらくその発見・理論化を修正・改良・精緻にする努力が続きます。

この大きな思索の変化、すなわち「パラダイム転換」は、それまでの思索的枠組みをはみ出した、事実の発見がきっかけになるのが通常ですが、そのとき「恣意的な」思考力が働きます。つまり「客観的実在」が存在するかどうかはともかくとして、それを捉えているのは人間の恣意、すなわち主観であるわけです。

ハイデッカーや西田幾太郎は、これをもっと哲学的に追求したわけですが、ぼくはかれらは近い思索の上にたっていると理解しています。つまり現代的(神を退けた)思索は、あくまでも人間による主観的認識の上に立っていると思います。

ぼくは数学にはそんなに詳しくないですが、例えばやはりユークリッド数学に対して非ユークリッド数学の「パラダイム転換」が起きており、このパラダイム転換の前後では、前者を全面的に否定するのではなく、後者が前者を包摂するかたちで進んでいると思うのです。

ですから「客観的実在」を完全に否定することはできませんが、少なくともわれわれの認識においては、それを”客観と主観の融合”と言おうとも、主導権は「主観」がにぎっていると思わざるをえません。
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この回答へのお礼

orimotoさん、回答ありがとうございます。

> 「客観的実在」を完全に否定することはできませんが、少なくともわれわれの認識に
> おいては、それを”客観と主観の融合”と言おうとも、主導権は「主観」がにぎって
> いると思わざるをえません。
なるほど。でも、人間や生物が消滅しても宇宙が消えてなくなるわけではないですね。
生活や好奇心のために世界を知覚・解釈しようとする存在がいなくなるだけですね。
誰もいない部屋でステレオ(昔はこう言いました)から音楽が流れているとき、それ
でも「音楽が鳴っている」と言えるか。こういう議論を中高生のときに、よくしたもの
です。子供の議論とも言えます。(成長していないなぁ)

「何もない」ということと「誰もいない」ということは違いますよね。
「何かがある。しかし認識主体とその認識能力を前提に立てなければ、何があるかは
 まったく語れない」
この命題(?)からは一歩も外に出ることができないのでしょうか。

私は今回のこの質問で、認識尺度やその精度によって、カテゴライズされたり、未認識
部分が残ったりしない、自然の「素の実相」、そいうものがあるのか、ないのか。
そういうことを考えたかったのです。

あんまり有益な質問じゃないですね。「そんなこと考えるヒマがあったら道でも掃け!」
なんて言われそう。
(これ、懸賞小説の一次選考者が、何度も口にしたくなるセリフだそうです)
(真面目にご回答いただいてるのにすみません。哲学こそ真の学問ですよね)

お礼日時:2001/03/26 16:47

>人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは


>うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。
イメージ出来なくて当然なんじゃないでしょうか?
例えば、mori0309さんがイメージできた場合、イメージできた時点で「客観的実在」ではなく「mori0309さんがイメージできた客観的実在」
即ち、「mori0309さんの主観的実在」になってしまうんじゃないですか?

「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」 ではなくて、
「非認識者」にとっては全てが「客観的実在」であり、
「認識者」にとっては全てが「主観的実在」である。

で、わたしの場合はと申しますと自分で「客観的実在」のイメージっていうか概念を持っているつもりになっています。
どんなものかというと、「歴史」です。
それも、誰にも記されることの無い、それでも確実に刻まれていく「事象」と「時間」。
もちろん、いつ、どこで、なにが起こったかはわたしは知りません。それでも、いつでも、どこでも、なにかが起きている。もし、なにも起きていなくても、それは、「なにも起きない」という一つの事象が起きている。あとは、「認識者」がいるかいないかの違いだけ。
「認識者」が0人の場合「認識者のいない客観的実在」
「認識者」がX人の場合「X人の認識者にとっての主観的実在」「X人の認識者以外にとっての客観的実在」
てな感じです。
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この回答へのお礼

xinmanさん、回答ありがとうございます。
> イメージできた時点で「客観的実在」ではなく「mori0309さんがイメージできた客観的実在」
> 即ち、「mori0309さんの主観的実在」になってしまうんじゃないですか?
ホントにそのとおりですよね。アップした自分の質問を読み返してみて、自分でも苦笑しました。

> 「歴史」です。それも、誰にも記されることの無い、それでも確実に刻まれていく「事象」と「時間」。
「事象」と「時間」が絶対的なものかどうか、それはアヤシイですよね。古典物理学的だと思うんです。
「今の気の持ち方しだいで過去の意味(事象も含んだ)も変わってくる」これはとんでもなくトンデモ
ですけど、私の文学的・幻想詩的な「主体と認識と意志と実相」論です。

> 「認識者」が0人の場合「認識者のいない客観的実在」
> 「認識者」がX人の場合「X人の認識者にとっての主観的実在」「X人の認識者以外にとっての客観的実在」
> てな感じです。
なるほど。同時に
「客観性とはそれを唱える人間の頭数によって精度に高低のあるものでる。全ての人間が「真」と
認めるものは客観性100%で、一人にしか「真」と認められないものは客観性0%である」
とも言えるでしょうか。

何でも色メガネで見ようとする認識者としての人間の目を通さない世界。そこではまったく
分解・分類・分析・定義・カテゴライズされない「素のままの真実在」がその実相をありのままに
発揮・顕現させているのではありますまいか。
人間の外界認識尺度が有限であることのみならず、カテゴライズされた尺度自体が、人間の意思と
行動の自由を奪っているのではありますまいか。
「認識」や「定義」という行為が人間の可能性を停滞させているように感じてなりません。
「真理」や「真実在」はもっと直知可能なものであり、それは精神の真の自由の発揮によって、到達
できるのではないかと思います。直知とは認識のことではなくて、あえて言えば一体化とか、本源回帰
とか、そういうことです。

ありゃ~   どうしてもトンデモ発言になってしまうmori0309です。(申し訳ありません)

お礼日時:2001/03/26 15:40

ごめんなさい、数学的見地からはなにも意見できないんですが..



ではお題目。
「色即是空、空即是色」
色ってのはここではあらゆる実在のことですね。
空ってのは、からっぽってことですね。
つーことは、
「物は存在しないも同然で、存在しないものは存在しているも同然である」
っていう風にも解釈できますね。
このとき、「え?自分はここにいるじゃん?」
ってのはこの論理においては無効です。
さまざまなものを存在させているのは人間の観念であるってのが、
このお題目のキモですから、それすら、否定されちゃいます。
(おいおい、無敵だな。この論理)あると思えばある。ないと思えばない。
これは観念のお話。

しかし、ここで、
「認識ってのはそもそも観念だよね?んで、<色即是空、空即是色>
ってのも観念だよね?つーことは、自家撞着で、こいつも消えるんじゃん?」
ってのがさらに上位の最強の論理。

はーい。ここで、問題のややこしい部分が出そろったよーです。
くるくる回っちゃいます。この論理。輪廻の輪に突入です。
凡人はぬけだせねーっす。さーどーしましょ。
こーなっちゃうと、悟るしかございません。そりゃムリですね
ハイ、消えた!<愛川欣也風

で、菩提樹の下で座禅でも組んだつもりになってかんがえてみましょう。
認識者ってなんでしょ。はい、これ自分以外ないです。
つーのは「色即是空、空即是色」を踏まえると、他人の観察による認識
なんざー、「色」をどう捉えるかで、どーとでもなるいいかげんなもの
になっちゃうわけですからね。「心頭滅却すれば火もまた涼し」です。
これを言い出すと、「え?客観って何よ?」ってなことになります。
だって、「火もまた涼し」なんていう人がいて、
「火が熱いのはお前の主観だ」とか「固定概念だ」とか言われちゃうと、
仏教ではこれ真とされちゃってるし、(仏教も又哲学の1ジャンルですな)
哲学的に反駁はきついかも。だって認識論ですから、これ。
温度計が何度だからとか、火ってのは燃えるから出るんで、燃えるってのは
熱いってことなんだとか、こんなの無敵の論理「色即是空、空即是色」に
一蹴されます。認識しなきゃ、認識論的反駁はキツイ。

視点を変えてみましょう。
高名な報道写真家のユージン・スミス氏によれば、
「客観性とは不可能性であるという基本的真理を知らなければならない」
だそうです。つまり、写真を撮るということは、事実の一断片を切り取る
ことに過ぎないのであって、客観とは断片を含んでいたもともとの
現実を素のまま丸ごと頂戴するってなことなわけで、それを切り取る
っていう意志を働かせなきゃ写真を撮れない以上、そこに、要不要を
選びとるという主観的思考が働かざるを得なくなる。
つまり、なーんにも考えずに撮ったとしても、そこに画面の内と外って
区切りがある以上、そこにはどーしても主観が介在してしまう。

で、長々と、個人的趣味な話題になってすいません。
ここで言えるのは、写真に限らずこれは当てはまります。
AさんとBさんが同じ体験をして、
「今日あったことを客観的に教えて」と聞いたとします。
同じこと言うかというと、限り無く低いパーセンテージです。
ここに大枠の客観性に穴があいちゃいます。
え?そりゃ、どっちかもしくは二人ともが客観性の認識を間違えてる
からだろうって?

それも、あり得ますが、数値化できる情報以外に客観性を求めるのは、
こりゃ、キツイですぜ、ダンナ。たとえば言葉のやりとりなんかは、
はたから見てりゃ、客観ってのはややもって、楽観。
意味を脳が解釈することで、言葉は成り立ってるんだから、言語には
客観は求められない。

んで、数値化できれば客観かっていうと、これもやや、怪しい。
アンケートとかなんて、質問の文章の語尾を多少いじるだけで、結果が変わる
とも言いますから。では、ここに意見の加わりようのない数値的データー
(例えばある町の人の一日の歩く歩数とか)であればどうか。
これ、見る人によって解釈が生じます。

解釈ってのは主観です。なので、誰かがその数字を見て、
そこに意味を見い出すと、それはもう、主観になってしまう。

では、いかなる場合に客観は生じるか。
暴論を吐かせて頂けると、誰も観察者のいない数値の中にだけ客観はある。
ゆえに、客観とは厳密に煎じ詰めればまさに
「認識者を想定しない客観的実在」でしか有り得ないとなります。

以上。文系脳の暴論でございました。
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この回答へのお礼

oni_ocさん、いつも回答ありがとうございます。他室でのお礼が遅れていて本当に申し訳
ありません。oni_ocさんのご回答は多角的で内容が深いので、お礼の文章がなかなか
まとまりません。(またしても言い訳)
> あると思えばある。ないと思えばない。[A]
「勝ぁ~つぅと思うな~思えば負けぇぇよ」(←誰も知らん)
の逆みたいですね。
でも私、これ([A]のこと)、ホントのホントの真理だと密かに思っています。
すくなくとも物質以外の無実体のものは、みんなそうですよね。
(物質が実体かという議論は、ここでは置くとして)
会社、民族、国家、人類、法律、学問、美、理想、神、預金、負債、、、などなど。
神を信じている人にとって、神はまことの真実在であって、その人に対して巨大な
影響力を行使します。これは客観的にも「(その人の)神が存在する」と言っていいかと
思います。要は信じる人間の頭数の問題ですよね。頭数が多いほど無実体物は限りなく
実体物に近づく。
じゃ、無実体物の価値なんて頭数で決まるような相対的な虚構にすぎないかというと、
そうではないと思うんです。
人間の生き方や社会のあり方を決めるのは、多くは無実体物であり、何をどのように
信じるかということは、きわめて重要問題だと思うのです。人間は、より価値の高い
無実体物を創造的に見い出していかなければならないと思うんです。もちろん人を支配
するための道具としての思想ではなく。

うーーん。質問から脱線してしまいました。すみません。

お礼日時:2001/03/26 17:29

MORIさまだったらご存知のはずですがX*X-2=0のXが存在するか否かで


死人まで出したピタゴラスの騒ぎを思い出してください。
数はすべて自然数およびその比であると言う考えのもとではXは矛盾律を
引き出しその存在は否定されます。
命題「Aがある」は不完全な表現です。
正式には「BにAがある」でなければなりません。
そして存在の基盤は対象の無矛盾性にあります。

とはいっても物質科学に洗脳されたわたしたちは物質世界が唯一の実在であり
わたしたちの認識を司る意識現象も物質によって生み出された特殊な現象だと
する考えをなかなかぬぐえないと思います。
これは「存在」に対してある絶対的な実在をどうしても錯覚してしまうというその
ことにあるような気がします。
「存在」は実体とか対象ではなく,概念の結合子と考えるのが妥当です。
すなわち「AはBである」という基本命題の「ある」繋辞と本質はおなじです。
「人間は哺乳類である」は真ですが「人間は魚類である」とすると偽になります。
同じく「哺乳類に人間がいる」は存在の肯定ですが「魚類に人間はいない」は
存在の否定です。
以上を前提とした時「実在」という概念は「BにAがある」のB、議論領域といわれ
るものが欠如しています。
あなたが前のスレッドで言っていた「事実」は議論領域を「時空」という概念においた
命題群と考えて良いと思います。すなわち事実は真実の部分です。
「机の上にコップがある」は「今目の前に」という議論領域に「コップ」という概念を
結びつけたものと考えます。「食器類にコップがある」だったら議論領域は食器
というわけですね。
述語論理では存在量化子∃をつかって∃xFxを命題の単位「Fであるようなxが
ある」を定義していますが、解説書を良く読むとそこには必ず背景となるモデル
を想定しています。これは議論領域すなわち「BにAがある」のBに該当するもの
です。
よって実在は数論においてn/0を持ちこむのに等しく、
「実在が存在する」という言明は無意味です。

う~む、一気に言ってしまった。
もりさまバッシングお待ち~!ほんとは自信ないんです。

この回答への補足

halkaさん、「お礼」ではご回答内容にまったく触れず、失礼いたしました。
私は哲学にはまったく素人のただの中年会社員です。的はずれな発言をする
ことをお許しください。

> 「存在」は実体とか対象ではなく,概念の結合子と考えるのが妥当です。
私はどうも「概念」を導入して「実在」をカテゴライズして認識するというのが、
釈然としないのです。それは色メガネによる「実在」の恣意的解釈のように思えて
しまうのです。架空の宇宙の創造活動ともいえる数学の世界ならば「存在=概念の結合子」
なのかもしれませんけど、すでに存在する「自然・宇宙」を前にしては、「概念」が
「実在」の見え方を制限してしまう、「実在」はそんなものとタカをくくられて
しまう、そういう危険性はないのでしょうか。

> 「実在」という概念は「BにAがある」のB、議論領域といわれるものが欠如
> しています。
人間の知性・理性によって捉え尽くされてしまうならば、それは「実在」ではないと
感じます。認識者としての人間(これも「実在」)がすっぽりと抜け落ちてしまうから
です。議論領域を設定することは、「実在」をかなり小さくしてしまうような気がします。
議論領域をもれなく網羅するということも不可能でしょうし。
(う~ん。私、変なこと言ってますね)

> 「事実」は議論領域を「時空」という概念においた命題群と考えて良いと思い
> ます。すなわち事実は真実の部分です。
> よって実在は数論においてn/0を持ちこむのに等しく、「実在が存在する」という
> 言明は無意味です。
発想があまりに数学的ではないかと思います。世界や宇宙における真実在は、形式的体系や
命題群などではないのではないでしょうか。
(エラそうなこと言ってますけど、このへんのことはみんなこのOK宮殿の知の師匠
たちに教わりました)

宇宙は生き物だろうか。ときおり、ふと考えます。(天文学の本で「生きている宇宙」と
いうのがたしかありました。)
もしそうならば宇宙自身が認識者の出現をまたない「主体」なわけです。その「主体」が
客観的実在であるとも言えます。
(こういうことを、この哲学カテゴリのあちこちで放言して、さんざん皆さんに批判されて
います。)

> もりさまバッシングお待ち~!ほんとは自信ないんです。
私のほうこそ自信なんかまるでないです。でも、このやりとりがたまらなく好きなので
せっせと質問しているんです。これからもよろしくお願いします。

補足日時:2001/03/27 00:49
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この回答へのお礼

halkaさん、回答ありがとうございます。
私にとってこの「教えてgoo」「OKWeb」は魅惑の宮殿なんです。
不思議の部屋がいくつもいくつもあります。部屋のなかではたくさんの
友人が私が扉をあけるのを待ってくれていました。友人たちとの語らいや
たくさんの美術品にすっかりこころを奪われてしまって、もうウチへ帰る
ことができないのではないかと思われるほどです。

なぁ~んて、ハハ、わたしはこういう人間です。誇大妄想癖者なんです。
でも『「洗濯ネット」でのすばらしい出逢い』というのは、私にとって
たいへんにリアルな現実です。(←語重複)
運命の友人との愉しい語らいさえできれば、談義そのものの真偽など
どうでもよいという気さえします。(そこまで言うかmori0309)
(「洗濯ネット」はserpent-owlさんの絶妙超絶最愉快造語です。)

質問と回答という形式を逸脱しないかぎり、この場での交際は自由だと
思います。
OKWeb宮殿が後代、世界遺産(なんとだいそれた)となれるよう、
今を生きる私たちでなければ残せない何かを築きませんか。

これからもよろしくお願いします。
(お礼としてはトンチンカンですね。お気を悪くなさったらごめんなさい)

お礼日時:2001/03/26 14:12

全くの暴論ながら、「神」の存在同様、認識と切り離した、「客観的実在」など無意味です。



あったとしてもいいし、なかったとしてもかまわない。

では、人間の「認識」、「観測」によって、「在る」と認められたものに客観性があるか、「実在」と呼ぶに値するか?

非常にプラグマティックになっちゃいますが、有用・便利であれば、実在と考えるようにしています。数学カテゴリで「虚数」やら「複素数」に就いて議論が出ていましたが、電気屋さんにとっての複素数は、料理人にとっての塩と同じ位有用であり、実在観があります。

数学系に絞っても、
0、数(自然数)
1.分数
2、ゼロ(=0)
3、負の数(-)
4、円周率(=π)
5、虚数(=i)
と次々に有用なものを考え出して、「実在化」してきました。

e^(iπ)=-1

というのは偶然ながら実によく出来ています。

上のものは数学的抽象であって、実在とは異なるという反論もあるでしょう。しかし、目に見えるものもホントに「実在」しているかとなると、「実在」の定義から始めないといけないでしょう。

ハイゼンベルグの不確定性原理が物理屋さんのみならず、哲学屋さんにも多大な影響を与えたのも衆知の事実です。観測や認識から独立した客観的実在など、考えるだけ時間の無駄です。
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この回答へのお礼

ametsuchiさん、回答ありがとうございます。

> 観測や認識から独立した客観的実在など、考えるだけ時間の無駄です。

まったくそのとおりだと思います。
なぜ私はこんなことを考えるのだろうと自問してみました。
結局、問いの根源には「自分とは何か」を知りたいということがあるの
だと思います。
自分がこの宇宙に存在する。何が不思議と言って、これくらい不思議な
ことは他にないです。

私という意識体は、何ゆえにこの宇宙に出現してきたのか。どのような
因果、どのような力によって、それは実現されたのか。私は自力で
生まれてきたのか、他力(神のような?)によって生まれさせられたのか。
単なる物理化学法則によって必然(または偶然)的に自分というものが出現
したとは思えないのです。他者や他の動物を物質的に観察して、人間とは
そういう必然(偶然)物であると信じこむことはできるでしょうが、自分の
ことを考えると、そうであると信じることは、なかなかできないです。
(自分以外はデク人形だなんて言ってるわけじゃないです)

人間は、そういう虚無(法則奴隷)を 超えた存在だと思うのです。
「生きる」とは「自分」の「自由」を信じる ことです。

純粋に客観的実在は真実在でもあります。それこそが「主観」をもつ「主体的
認識者」を生み出します。私は私を生まれさせたもの(あるいは力)こそ、この
宇宙における真実在だと思います。人間は、自分は、いつの日かそれを認識
することができるのだろうか。

科学者からは上記のような考え方は否定されがちです。人間だけが何か
特別なものであるかのような思いこみは、感傷であり、真理究明のさまたげに
なると。

でも残された人生をどう生きるかと考えるとき、私には避けて通れない問い
なんです。日常生活の「議論」や「目標」や「競争」に、それほど意味がないと
いつのころからか思いこんでしまっているので。

な~んて、バカみたいですね。自分でもそう思います。(いいトシなのに)

お礼日時:2001/03/25 21:41

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