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数学カテゴリでの回答者の方とのやりとりのなかで「客観的実在と人間の認識」が
話題になりました。

人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。

色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく
存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。
形、大きさ、質量などになると、よく分かりませんが、これも認識者がいて
何かと比較するという思考がない限り成立しない概念だと思います。

とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」
とは何でしょうか?
エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ?
哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。

どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。
「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?

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A 回答 (19件中1~10件)

<客観的実在>が現代哲学においては,ある意味で否定されています.



客観性を前提とする<唯物論>と主観性を前提とする<観念論>は,
近代において対立してきましたが,本来は対立するものではないのです.
唯物論は存在論上の話題で唯心論と対立します.
観念論は認識論上の話題で実在論と対立します.

デカルトは<観念論>と<唯物論>の2面性を持っています.
「主観が客観を隈なく理解できる」というのがデカルトですが,
これは,<客観>が既に確定的に存在し,
<主観>(つまり「我思う,故に我あり」の<我>)は,
それをしっかりと把握しきれるということです.
認識者を想定しないというのは,
このデカルトにおいて<客観>は<主観>があってもなくても構わない,
ということではないでしょうか?
数学・物理などは,この近代的な理性主義に端を発する部分が大きいので,
そういった学問では<客観的実在>を前提としてしまうのでしょう.

私たちは,物理などの<客観性>を当然のように受け止めながらも,
そこまでの<客観性>を人間の理性が想定できるのかと疑問を持ちます.
そういった矛盾した考えを同時に持つわけですが,
これは一方でデカルト的な理性の中に身を置きつつ
(つまり,現実が客観として存在するのは当然と自然に思える),
デカルトを打ち破った現代哲学の思考もしている
(つまり,<理性の限界>を疑う),
ということではないでしょうか?
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この回答へのお礼

reneさん、回答ありがとうございます。

このテーマ、私にはむずかしすぎて、思考がどうどうめぐりしています。
なんとか整理できたら、またお礼させてください。

私は思考ゲームを楽しみたいと思っているわけではなく
「世界や宇宙の真のすがたと有限の生をもつ人間(私)の関係」を
考えたいと願っています。

お礼日時:2001/05/14 00:23

>「認識者を想定しない客観的実在」


>「宇宙や世界における客観的実在」
>とは何でしょうか?

mori0309さんに質問です。
「意識のない状態」を意識できますか?
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 えー、下のにつきまして。


 「自然法則だって発見されなければ存在しなかったことと同値じゃないか!」ってツッコミ、ありません?
 その点につき、補足。

 ジグソーパズルをやっていて、完成に近づいていって、ピースが欠けているとしたら、そのピースが無いことには気付きます。存在せねばならないピースが無いということ。ならば探せばよい。絨毯の裏、ズボンの裾の折り返しの中、髪の毛の中…ポチの犬小屋なんかも怪しいです。タマちゃんの猫砂の中も疑えば疑えます。どうしても無ければしょうがありません。メーカーに注文して取り寄せます。とにかく欠けたピースを用意して欠けたところに嵌めてやればパズルは完成です。
 「自然法則の客観性」も同じことではなかろうかと思います。発見されている限りでの法則・原理による自然の体系的説明がある程度までなされていれば、ここに抜け落ちている、未だ説明されていない事柄や問題の所在は指摘することが出来ます。「客観的かつ普遍的なものだが、未だ知られていない」ものがそこにある、そこに「嵌める」ことができるはずだということはわかります。(今のところ、電磁場と量子場と重力場の統一的説明とかですか。)

 未発見の新種生物を探そうなどという話だと、これとは事情が異なってまいります。いるのかいないのかわからない。完成させるべきジグソーパズル自体が、その全体像を完結したものとして与えられていないから決定できないわけです。例外的に、蜜を溜める袋の長さが30センチもあるアングレカム・セスキペダレという蘭を見て、ダーウィンとウォーレスが「底まで届く30センチの口吻を持つ花粉媒介昆虫が存在するに違いない」と予言して、実際にキサントパン・モルガニ・プレディクタというスズメガの一種が発見されたという事例はあります。「欠けたピースを嵌めた」かっこうです。でも、これはあくまでも例外。

 以上、「認識者の存在を想定しない客観性」についての補足でした。
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 んー、なんか爆走している「心の哲学」の最近の流れにかぶるような質問ですね。

(って、飛び火したりして…)

 ちょっと思いますのはですね、「客観」という言葉と「普遍」という言葉の、重なる部分と重ならない部分とを考えておく必要がありそうだ、ということです。「客観、必ずしも普遍ならず」と。

 「客観的に正しい」という言い方は、「誰が見たってそうじゃん」という感じで、もお、めちゃめちゃ正しいやんけとゆー意味合いで用いられることが多いです。特に自然科学や数学の世界での「客観的」って、ほぼ「普遍的」という意味に重なるでしょう。mori0309さんの数学カテでのご質問にも、そうした視点からの回答が多かったように思います。
 「普遍」という言葉の辞書的な意味で言えば、それは「時・所に関わりなく、遍く妥当する」ってことです。これが硬い意味における普遍。(文学的な局面で「普遍」というとまた違った意味合いも出てきますが、それはここでは置きましょう。ぽいっ!)
 そういう意味で「普遍」を捉えておきますと、「客観即普遍とは言えない」事例がいくらでも出てくると思います。例えば「ここに薔薇がある」とか。これは「ここ」じゃなけりゃ妥当しないし、過去や未来に妥当するかも保証していません。仮に「今、ここ」で客観的に真であったとしても。
 一般に、時空間の「中で」現象として現れている「客観性」は普遍的ではないと思います。それは主観との相関関係において客観的と「される」ものであろうと。時空間の中で主観が「経験」することを通じて、初めて構成されうる認識としての客観性です。これが個人の経験を超えて、より多くの人々に共有されるようになると、同意を介した「共通認識」という意味での客観性にもなりましょう。で、もうちょっと言ってしまうと、ここでの「客観性」という言葉は「間主観性・相互主観性」という言葉に置き換えられるべきです。

 ところがぎっちょんぱっ。
 「科学者はんが仰る法則やら何やらの客観性かて、こないなもんでっしゃろ?」ゆーたら、科学者はん、怒りまっせ。「人間なんかおらへんでも、それはあるんやで!」言わはるに決まってます。
 ああ…やめよう、インチキ関西弁は。
 ここで科学者さんが言うことは正しいと思います。科学の世界で「発見」の対象となるような法則や定理は、「ベールに隠された形で、自然の中にあらかじめ横たわっていたもの」と考えるべきでしょう。(もっとも、カントに言わせると自然法則も「人間の立法による」となりますが、ややこしくなるのでこれも置きます。ぽいぽいっ!)
 「直角三角形の斜辺の2乗は、他の辺の2乗の和に等しい」ということは、別にピタゴラスがいてもいなくても宇宙が始まったときからそうだったんです。太陽系惑星の運行を司る法則だって、チコ・ブラーエやケプラーがいてもいなくても太陽系が始まったときからそうだったんです。e=mc^2だって、e^(iπ)=-1だってそうです。あらかじめ宇宙の中に、自然の中に、それはあった。それをたまたま、ピタゴラスやケプラーやアインシュタインやオイラーが「発見」したのです。「客観的にあったものを拾い上げた」。百円玉を拾ったり、犬の雲恥を踏んだりするのと同じことです。
 こういうものは「客観的かつ普遍的」と言ってよいでしょう。硬いです。とても硬い。一ヶ月つき固めた雲岩くらい硬いです(えと…わかんなくていいです、これ)。

 でもね!
 …おっと、へびくん電波が漏れました。しかしですね、です。
 こういう局面で言う「客観的かつ普遍的」という意味での客観性は、時空間の「外に」ございます。いやいや、「ございます」とはもはや言えないものです。「存在」とは言えない、抽象的な原理であるからです。
 ケプラーの法則は太陽系惑星の運行を説明しますが、「今」における諸惑星の位置を直接物語るものではありません。数値を代入すれば答えは出ます。百年後だろうと、千年後だろうと。
 ピタゴラスの定理だって、実際に図を書いて証明の手助けにはしますが、かと言って実際に辺の長さを物差しで測って計算して「証明したよ」と言ったらバツでしょう。いくら正確に作図したとしても。図を手助けにしたとしても、あくまでも「証明」はイデアの世界でロゴスによってなされねばなりません。現実の、言い換えれば「時空間の中で経験可能な三角形」なんて、アテにならないからです。
 数学者や科学者が「発見」してきた法則や定理は、特定の時間・空間や物質的実在性を捨象して、それらを超越した次元に置かれています。誰かが触れようと触れまいとおかまいなしに、それ自体で完結して。

 さて、少し話は飛びますが、今から七、八年ほども前でしたでしょうか、「物理学に終焉はあるか」という議論がありました。「物理学は完結し、それ以上の探究を終えるか」という論争です。…私には五歳ほど年下の「カオス道の師匠」がおりますが、思えばその入門の始まりはそのことに関する私の質問でした。
 師匠の答えは、「要素還元主義的な意味では終わることもあるでしょう」とのことでした。「大統一理論」とか、よくは分かりませんが、そうした「究極の理論」が完成すれば、「自然の中にあらかじめ隠された、客観的かつ普遍的な原理」は拾い尽くされるということです。
 が、師匠は「要素還元主義的な意味では」との限定を付しておられました。「それだけでは実際の物理現象は説明しきれない」。そこに還元しきれない現象が「カオス」というわけです。太陽系の惑星たちも、厳密に言えばケプラー法則通りではない「多体問題」に揺らいでいます。特に小惑星は。解析的に解くことのできない、すなわち「法則」として定式化できない、したがって原理的に予測不可能な「揺らぎ」です。現実の時空間の「中」では、こんなことがある。
 ですから、「客観的かつ普遍的」な原理には無論大きな価値があるものの、「現実」を説明する仕方としては、それだけでは万全とはいえないのです。

 というわけで、自然科学での法則・原理には「認識者を想定しない客観性」が認められると申せましょう。
 そして「認識者を想定しない客観的《実在》」ということになると、法則や原理は「実在」とは申せませんので除外。…すると、地に埋もれた鉱石や未発見の新種生物がそれに当たりましょう。しかしながら、これは「決定不能」です。せいぜい、あると「推定できる」くらいのことしか言えません。なぜなら、それが発見されて初めて「やっぱあったじゃん」と言えることであって、果たして発見されなかったならば、それは「存在しなかった」ということと同値だからです。そういう意味で、時空間の「中に」あるものに関しては、やはり主観による経験の枠内にあるとしか申せません。
 そういうことだと思いますが、いかがでしょう?
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他のところにかかずらわっていて出足がおくれました。


>科学的な計測装置でとらえられないものは内的観念にすぎない
>ということになると、民族・国家・法律・資産などといった
>ものも内的観念にすぎないということになってしまうのでは
>ないでしょうか。(事実、共同幻想なのですが)
ふむむむ。これは話を広げ過ぎって気もしないでもないですが、
「色即是空、空即是色」なる巨大なお題目を持ち出しといてここで逃げたら
あきませんな。つーことで「民族・国家・法律・資産」がいかに危うい観念であるかの解説。

1)民族
一般にはある種の人種的特徴を身体に持った人間のグループと見なされてます。
ですから、DNAの科学的解析が進めば、人種の科学的計測が可能になるやもしれません。
あくまでも仮定の話ですが。
しかし、知ってました?ユダヤ人って人種は存在しないんですって。
ユダヤ人ってのはそもそも「ユダヤ教を信じる人」って括りなんで、生物学的にいうところの
「アーリア人」とかの括りとかとは別個のものなんですって。
つーわけで、民族の物理的解析はやや困難。
ていうか、民族のつながりとか感じてる日本国籍の人ってすくないんじゃないかな?
ん?●●県人会とかってのは民族意識か?あと民族主義右翼とか?
つーか、「●●で生まれた」とか日本人だとかの理由で一致団結って難しい。<特に日本人
アメリカ人ってアメリカに誇りとか持ってるみたいだけど、あれ民族じゃないしなぁ。
てことは条件をうまく与えれば民族って意識は与えられるのかも?
つーか、アメリカ人の人種差別の凄さは民族の結束の証か?
だったら肯定したくないなー。<感情的
いずれにしろこんなもん、誰も見つけていないどっか遠くの惑星の存在の確かさには及ばない。

2)国家
物理的解析不能な理由は解説する必要無いか(笑)
これぞ共同幻想。さてはて、日本国に属しているという意識を強くお持ちの方がいかほど
いるのかがそもそも怪しいところ。パーセンテージは低そうだ。<かくいう僕はそのへん0です。
ところで、矢沢永吉はアメリカのどっかの市の名誉市民だとか聞いたことがありますが、
彼は何人なんでしょうか?そもそも、黄色人種らしい??って自覚がある程度にしか
民族意識も国家意識もないんじゃないでしょうか?みなさん。<自分基準<つーか主観
この意見に根拠はないけど、この意見に根拠ある否定をかますことも難しい。
てなれば、これはその土地に住んでしまったから生じる不可避的な強制力?
つまり、しがらみ。全員が無視すれば消えてしまう程度のもの。
誰にも知られていなくとも地中深く存在する宝石の存在の確かさには及ばない。

3)法律
国家の後押しを計る強制力の支持基盤。んで、これ、誰決めたの?
その人ホントに正しいの?ってなことが自民党のおっさんたちとかによって年中叫ばれてますな。
えー、国のトップなのに疑ってるの~~~?
とか思うとこれも怪しい。なんら絶対的なものではない。
そもそも、下々の者を都合よく働かせるために作られた権力機構の統制にすぎない。
みんなが同等の権力を持ってたら結局御破算になっちゃう。
こんなの海の底を泳ぐ名前も知らない深海魚の存在の確かさには及ばない。

4)資産
お金って数字です。よーするに。だから、これは他のより確かっぽい。
でもね。お金ってそのお金で買えるものでその価値が決まる相対的なもの。
だって、占領地で発行された軍票なんて、その国が撤退したら、何の意味もない
ただの紙切れですよん。そうしてもいいように軍票って発行されるんだよね。
もしものときに無責任になれるように。あと外貨獲得ってのも目的でもあるか。
でも、なにを言っても買い物できなくなった軍票にはなーんも価値なし。
それじゃぁ、まだ発見されてない高山植物の存在の確かさには及ばない。

かように考えていくと、人間が知っているかいないかは、存在しているかしていないか
とはなーんの関係もないことはいかにも当然のような気がしてるんですが。
つーことは、「観測」と「存在」は当然のごとく切り離せます。
というか、切り離せなきゃ変。
切り離せないとなると、「知ると同時に存在し始める」というわけのわからんことになります。
つーことは人間は「存在」を「意識」から取り出すってことになっちゃう。
これはいかにも変です。


蛇足
「人間原理宇宙論」とかって物理学の学説があるらしいですが、
これは最後に挙げた論理に近いと聞いたことがあります。
「観測するだけの知能をもつ生物(人間?)がいて初めて宇宙は存在するのだから、
宇宙の起源は人間の誕生からである」とかなんとか。
いまや、邪道扱いだって聞いたような気もしますが、さて、どうなんでしょうかね??
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post-kuhn派が、basic theoryの一つの、STS(science, technology and society)という学問を某国で勉強中の学生です。



”人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。”

とのことですが、イメージしようとすることが、知識や、social assumptionをもつ人間にとって無理なことだと思います。もしも、The Enlightenmentの時のように、人間が客観的に物事をみれると考えると、話はまったくべつになりますが、
イメージしようとすること自体に人間がもつ知識が作用して、主観的な個人とってのみの実像を作り上げてします。その人がもつ”グリッド”もしくは、”パラダイム” が、そのひとなりの現実や物体を無意識のうちにつくりあげられ、色づかれてしまうというわけですよね。だから、人がfact(客観的実在?!)だと思うものはは、人がそうだと思い込んだものであって、実際のfactは人の知識が全く作用しないところにある。つまり、しいていえば、生まれる瞬間の無知(グリットが形成されず、自分のパラダイムをもたない)の赤ん坊が見る世界が客観的実在とうことではないですかね。moriさんは、赤ん坊だって認識してるんじゃなの~とおもうかもしれませんが、認識することと、見ることはちがいますよね。つまり、知識や経験を得てしまった以上、客観的実在がどんなことかはわかっても、イメージすることはできないという結論がいまの哲学の「主観的意見」でしょ~。
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この回答へのお礼

motokiAUSさん、ありがとうございます。オーストラリアにいらっしゃるの
ですね。仮想ネット広場は時空を超越していますね。スゴイ時代になった
ものです。(おやじの感慨です)

軽い気持ちで質問してしまいましたが、主観と客観・存在と認識の問題は
素人の私には、途方もなく難しい問題だと、いまさらながら気づきました。
もう少しじっくり考えて、再度お礼させてください。

お礼日時:2001/04/09 09:02

はじめまして。


>人間などの認識者を想定しなくても「客観的実在は存在する」というのは
うなずけるのですが、それがどんなものなのか、なかなかイメージできません。

認識者を想定することと客観的実在が存在するとうなずくことは別のことと思われます。また主観がうなずいているためなんら問題のないことと思われます。

>色、匂い、味、手触り、音色、寒い(暖かい)などは人間の五感がなければまったく存在しない概念ですから、客観的実在とは言えないと思います。

よくわからないのですが色、匂い等々は概念ですか?

>とすると「認識者を想定しない客観的実在」「宇宙や世界における客観的実在」
とは何でしょうか?
エネルギー? 情報? 法則? 時空間とそのゆがみ?
哲学的にはもっと違う答えが可能だと思うのですが。

「何でしょうか?」とおっしゃられるからには「何か」なのでしょうが「認識者を想定しない云々・宇宙や世界における云々」と表記出来ているではありませんか。
哲学的な答えとしては「それがなんであるのかわからない」だと思いますが・・・

>どんな主観的な意見でもいいですからお聞かせください。
「客観的実在」の「主観的意見」なんて、変?

出題が「客観的実在」の「主観的出題」ですので変とは思いません。(笑)
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> (もちろんmisokaさんはひとつの思想を例示されているだけだと思いますが)



...すみません、「回答」としては一番マジメではない部分が
引用されてしまって、お恥ずかしい限りです。
確かに、例は例ですし、「極論として」という位置付けでは
ありますが、単なる「ご紹介」であったというわけでもない
のは、もちろんのことです。

私の回答を(余計な部分を除いて、補足して)まとめれば、

・外界の認識はすべて、感覚与件という信頼し切れない
 「メディア」を通じて得た情報をもとに、推測された
 ものを基盤としている、ということ
 (また同時に、これによる以外の認識はない(?))
 (「マトリクス」の例は、ここの部分の極論)

・したがって、ダイレクトにアプローチした場合の対象を
 どうイメージするか、あるいは、アプローチ方法がない
 対象をどうイメージするか、という問いには、
 「意味がない」(!?)。
 むしろ、感覚与件を基盤とする世界が、われわれの
 「環境世界」であるという片付け方をするのがよい(?)、
 ということ

というような感じです。

おそらく、「認識の領域の縁」にアプローチする、ギリギリの
限界は、認識自体を、それ自身の体系により認識するという
程度に留まってしまうだろうと思います。

ここまでが、お題に対する回答として考えたこと+補足です。
もしかしたら、ズレまくっている(いた)かもしれませんが(^^;

ところで、

> 「認識」とは「精神形成」そのものなのでは、、、

あまり脈絡のない話になってしますが、
この言葉、とても神秘的で面白いな、と思いました。

それで、「回答に対するお礼」欄で書いていただいた内容とは
ズレてしまうとは思うのですが、勝手な連想をしてしまって
(クセなんです)、変な禅問答を考えてしまいました。

── 何ら認識を伴わない精神とは?(是如何に)

でも、これはおっしゃる通り、両者一如なのかもしれませんね。

では、前述の問答からの派生として、こんなものを
考えてみましたが、これはどうでしょう...

── 一切の対象がない世界とは?

主客の分離がないその世界は「存在」していますが
(もちろんあくまで仮定ですが)、認識する対象がないため、
認識という作用自体が発生し得ません。
その世界とは何でしょうか?

本題から大分それているようですが、ちょっと面白いかな?
と思ったので、書いてしまいました。蛇足です。
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> どうか、ツッこんでください。

(6と7、無茶苦茶ですね)

6と7は無茶苦茶、なんてトンデもない
重要な所ですよね。
1~5は、つまるところ現象学に対するポスト構造主義による批判に
近いモノとして読みました。
認識とは差異の体系である、といった意味で
デリダの「グラマトロジーについて」あたりで
知としての体系化がなされていると思います。

> 6.「存在」はつねに「認識者」の父であり母である真実在である。
存在がどう意識に立ち入ってくるか?といったフッサール現象学に対して
存在そのものを問うハイデッガー実存主義の、今日的な位置づけが
悲しいかな、素人の私にはよく分かりません。
フッサールがメルロ=ポンティやデリダによって
それなりに決着がなされているように見えるのに対して
ハイデッガーは今日どこへ行ってしまったのかしらん。
で、私は、存在を考えるためにラカンを読みました。
ラカンについては他スレッドで少し述べさせて頂きましたが
鏡に写った自分を如何に認識していくか?といった話が思い出されます。
ラカンだと、客観(モノ)と主観(イメージ)の間に
もうひとつ大事なシンボルの世界があって
逆に言えばモノとイメージはシンボルによって隔てられていて
直接触れることは出来ないとされます。
デリダはイメージとシンボルの二分割について批判していますが
モノ(客観的実在)については触れられていないように思われます。

つまり、7は今日的にかたづけられていない大切な問題だと思います。
私ももうすこし勉強します。
質問者側に回ろうかしらん。
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どなたの著書かは忘れましたが、『哲学入門』という文庫本で


同様の話題を目にしたことがあります。

その本では、
机なら、机という形は、見る角度によって異なるので、どの
形をもって「その机そのものの形」と定義することはできない
とか、色にしても光線の加減によって変化するので、どの色が
「その机そのものの色」であるかは断言できない...等々という
ことを述べています。

(ちなみに、色も形も光線の作用によるものというふうに
片付けることができるし、その光線の作用というのも、
その対象を構成する原子の化学結合(の電気的な作用)
によって、光線のある波長が吸収され、別の波長が乱反射
することである、というふうに片付けることができたんじゃ
なかったかな? 註:実はよく知らない)

結局、人は、対象についての「感覚与件」を受け取ることが
できるだけで、対象そのものの実体については何も分からない。
逆を言うと、すべての認識は感覚与件から「逆方向」にたどって
推測したものにすぎないと言えるわけで、
その点だけに着目して極論すると、
「すべては認識者の観念の中にある」という
(別の意味づけの)「観念論」に至るわけです。

このアイディアに、
科学的な知識(?)を援用して味付けすると、
要するにすべては、脳に対する電気的な刺激に
還元できる(!?)ということになり、
映画の「マトリクス」みたいに、すべてはマボロシなんて
話にもなるかもしれない...??? というナンとも
不気味なSFをでっち上げることもできそうです。
(コンピュータの仮想世界は、ある種のそれかも)

そのように考えると、とりあえず、「実体」については
不可知であるし、それを問うことには意味がない(!)、という
ふうな(不本意な?)片付け方をすることも可能だろうと
思えます。

所詮、すべては「記号」である、というか...
(つまり、記号こそ人の世界だ、というわけ)。
そう、やっぱり真実とは主体性のことを言うんだよ(?!)
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この回答へのお礼

misokaさん、はじめまして。回答ありがとうございます。

> 要するにすべては、脳に対する電気的な刺激に還元できる(!?)
> ということになり、
う~ん、やはりそういう考えには納得できないですねぇ。
(もちろんmisokaさんはひとつの思想を例示されているだけだと思いますが)
「認識する」「理解する」という現象は「写像」や「変換」とはまったく違うと
思います。「脳に対する電気的な刺激に還元できる」という言葉は、ただ単に
「外部の熱・光線などの刺激が、五感を通じて脳内パルスに変換されている」
という程度にしか読み取れません。脳内では「刺激内容」を「理解する」ということが
明らかに起こっていると思います。「理解する」とは、過去の感覚記憶とのパターン
照合の結果による「検出感」なのかもしれません。(ちょっと安直ですね)

脳のなかで「主体」やその「理解・認識」がどのように実現されているのか。
興味はつきないです。すくなくとも外部刺激の自然投影現象のようなものでは
決してないと思います。
私には、精神とか心とかいうものは、因果律や法則を超越していると、思えて
しかたがありません。脳細胞という媒体なしには存在できませんけど、いったん
自己組織化臨界に達した「精神」という「実体」は「媒体」など超越していると
思えてなりません。ミクロレベルの脳細胞は物理化学法則どおりに機能しています
が、全体としての「精神」は物理化学法則の必然的展開物ではないのでは、、、
そして「認識」とは「精神形成」そのものなのでは、、、
「原子炉に火が点る」「肉体に魂が宿る」「脳に自由精神が出現する」
これらたち、なんだかイメージが似ていると思うんです。

こういうことを一生かけてでも研究したかったのですが、、、トホホ
(一度しかない人生、過去を愛せ、今を愛せ、どうしようもない自分を愛せ)
(雲名愛的自逆詩でした。mori0309)

お礼日時:2001/03/31 02:45

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Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q観念論と実在論の論争について

観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが、
なかなか良い資料も見つからず、何を書けばいいのかもわからず困っています。
この論争についてどなたか教えてください。

Aベストアンサー

 
>観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが

そんな論争についてのレポートと言われても,見当も付かないです。ヒントというか、こういう当たりを調べると材料が見つかるだろうというキーを述べますから、検索して材料を集めてください。

その前に、簡単に説明します。「実在論」と「観念論」というのは、参考URLにあるように、認識論上の立場です。観念論は、ドイツ観念論哲学によって、その内容がきわめて明確な、また洗練されたものになっています。この観念論哲学との比較において、実在論という認識論上の立場が定位できるとも言えます。

ドイツ観念論哲学のなかでは、カントの主観的観念論がもっとも代表的で、カントは「物自体 Ding an sich」は、想定できるが認識できないとしました。つまり、客観的実在は、主観の認識にとって超越的で、すべての認識は、主観認識で、客観は認識できないのです。

従って、実在世界が本当はどうなっているのか、主観=我々には、ついに分からないということになります。しかし、分からないでは、世界がどうなっているのかまったく分からず、世界はこうだ、と考えて行動することも判断することも何もできなくなります。ところが、実際は、世界の客観的実在を、それぞれの主観があたかも一致して把握しているように、社会のなかでのできごとは、話が合って進行しています。

これを、統整的理念と呼び、「あたかも世界はかのごとくに」人は行動して、それで、みかけ上うまく行っているように見えるし、うまく行くのです。これは統整的理念があるからであるします。

カントなどの観念論を批判し、否定するのは、もっとも積極的なのは、マルクス主義唯物論でしょう。あるいは弁証法的唯物論とも言えます。この哲学は、実在論の立場に立っており、その立場に立ち、かつ唯物論でない哲学をすべて「観念論」と呼んで批判し否定しますが、これは行きすぎです。

カントの主観的観念論では、世界についての知識は経験を通じて得られるものと、先天的に持っている知識の二つに起源があるのですが、経験を通じて得た世界についての知識も、物自体、つまり実在の真のありよう、客観を把握できていないとします。それはあくまで主観認識の限界のなかにあるのです。

カントの観念論では、経験は、外部の超越実在との主観の作用によって起こるが、主観のグラスというか、認識装置を通過すると、それは主観のカテゴリー枠で規定された何かになってしまい、元の客観実在の事態は、経験の原因ではあっても、主観の経験内容は、客観実在のありようを、忠実にコピーしているのではないのです。

それに対し、弁証法的唯物論の認識論では、「模写説」というものが考えられます。これは素朴単純模写説と、もっと込み入った模写説がありますが、単純模写説は、先に述べた経験の主観的把握が、経験というグラス(色眼鏡)を通じて歪曲あるいは枠規定されているのではなく、我々の感覚認識は、例えば、外的実在のありようの「反射」「模写」だと考えるのです。

観念論では、見ているものが、必ずしもそのまま実在のありようではないのです。しかし、模写説の実在論では、見ているものが、そのまま実在なのです。

観念論は極論すると、世界の真のありようは不可知だとなります。経験も、実在の客観的ありようについて、正しい知識をもたらさないのです。それに対し実在論は、客観実在は認識可能であり、感覚経験によって実在は把握でき、更に、思考の推論などで、実在の姿は認識可能だとするのです。

素朴には、道に石が落ちていれば、石は疑いなく実在するのが実在論で、それは主観的経験であり認識で、見えているものが石かどうか分からないし、石が本当に、そこにあるのかも分からない。分かっているのは、主観の認識に石が映じているのだとするのが観念論です。

中世哲学の普遍論争を考えるときは、言葉が逆になっていることに注意すべきでしょう。普遍論争の「唯名論」と「実念論または実在論」は、後者はむしろ、観念論であり、前者が実在論なのです。

唯名論は、「概念」について、概念とは実在ではなく、個物の名であり、実在するのは個物であるとします。それに対し、実念論は、概念こそ実在で、個物は仮象または概念実在の合成的な一時的現れであるとします。「普遍論争」というのは、中世哲学で「概念」というと、「普遍概念」のことになるからで、それは、イデアーのようなものなのです。

「経験 認識 実在 模写説」というような言葉をキーワードにすると、何か資料が出てくるでしょう。また、論争は、弁証法的唯物論の立場が、カント的観念論やプラトン的観念論を批判したものが、もっとも有名だとも言えますから、唯物論もキーワードにすれば、よいでしょう。
 
>哲学概要
>http://www4.plala.or.jp/s-tatu/phil01.html
 

参考URL:http://www4.plala.or.jp/s-tatu/phil01.html

 
>観念論と実在論の論争についてレポートを書かなければいけないのですが

そんな論争についてのレポートと言われても,見当も付かないです。ヒントというか、こういう当たりを調べると材料が見つかるだろうというキーを述べますから、検索して材料を集めてください。

その前に、簡単に説明します。「実在論」と「観念論」というのは、参考URLにあるように、認識論上の立場です。観念論は、ドイツ観念論哲学によって、その内容がきわめて明確な、また洗練されたものになっています。この観念論哲学と...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q存在と認識

大学で哲学の授業を取っています。
「存在」と「認識」の問題がよく取り上げられているのですが、
私は哲学が専門ではないため、
いまいち理解が出来ません。
専門用語で話されるので、より一層です。

なので、哲学が専門ではない私でも分かるような言葉で
「存在」と「認識」の問題について
教えてもらえないでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「存在」を言い換えれば、「ある」と言えます。
しかし、ただ「ある」と言っても非常に一般的です。
存在を決定付けるものはたくさんあります。たとえば時間、場所、存在を認識する主体の側の欲求や知覚…などです。
言い換えると、「いつ・どこで」「ある」のか? 主体の側が「ある」と感じたからあるのか?などなど。
つまり、存在は様々なものに規定されることによってはじめて、形を与えられるものだと考えられます。
なお、「存在」する世界は何から成り立っていて、何が根本なのか?といったことなどを考察するのが存在論という学問です。

認識は要するに「知る」ことです。
ただ、「認識」と言った場合には知覚や感覚などよりももう少し突っ込んだところまで進んでいきます。
与えられた材料をそのまま感じるのが知覚や感覚だとすれば、認識は記憶や知識、思考などを働かせながら、窮極的にはそのものの本質を捉えようとする働きだと思われます。
例えば、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を見つけたというエピソード(もちろんこれは作り話なのですが)から考えましょう。リンゴが落ちるのを見て、ただ「あ、落ちた」と思うのにとどまらず、どのような高さまでならリンゴは落ちるのかと考え、さらには彼より前の科学者が明らかにしたことを踏まえて考察した結果が「万有引力」だと言えるでしょう。
そして、人間はこの世界をどの範囲で、どのようにして正しく知ることができるのかを追求するのが「認識論」です。

「存在」を言い換えれば、「ある」と言えます。
しかし、ただ「ある」と言っても非常に一般的です。
存在を決定付けるものはたくさんあります。たとえば時間、場所、存在を認識する主体の側の欲求や知覚…などです。
言い換えると、「いつ・どこで」「ある」のか? 主体の側が「ある」と感じたからあるのか?などなど。
つまり、存在は様々なものに規定されることによってはじめて、形を与えられるものだと考えられます。
なお、「存在」する世界は何から成り立っていて、何が根本なのか?といったことなどを...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Q『ラディカル』という言葉の使い方について

『ラディカル』という言葉の解釈に迷っています。
辞書などでは「根本的な」「基礎的な」また、「過激な」や「急進的な」などと載っていて、意味そのものはよく理解できるのです。
しかし、社会、歴史、美術、建築などでは、それぞれの分野で意味や解釈のニュアンスが違っているような気がしてなりません。
考えすぎなのでしょうか?
『ラディカル』という言葉の意味や解釈の基礎知識や良い本などありましたら教えてください。

Aベストアンサー

「ラディカル」と聞いて私がイメージするのは、物事を根本的に、
底の底から変えてしまうような、鮮烈で強力な力です。何よりも、
「我々の既成概念を根本から変えてしまうこと」を含意している
ことが、重要だと思います。胸躍る言葉でもありながら、危険と
隣り合わせのニュアンスも感じます。
政治であれ美術や建築であれ、ラディカリズムを標榜する思想は、
急激で落差の大きい変化を求めるでしょう。既成概念を覆すこと
が目的ですから、より戦闘的であり、挑戦的でもあります。

先進資本主義国では、社会が安定化し、規制のシステムが固定化
する中で、「ラディカルであること」は徐々に力を失っているの
だと思います。それは、政治的であれ哲学・文学・美術・建築、
その他あらゆる分野で。
現在、おそらく「ラディカルな」という形容詞をつけた場合に、
程度の問題として変化の度合いが大きいことを指し示している
だけで、本当に根本的な意味での変革を指していることは稀で
しょう。それ以外では、単に政治的な意味での「過激派」を指
している場合のみに使われているのでしょう。後者の場合は、
もはやイスラム過激派のような、全く我々には理解不可能な「他
者」を指す言葉でしかなくなっているのかもしれませんね。

(このような答えで質問者様の要望にあっているか疑問なのですが、
 もし「意味や解釈のニュアンス」が違っているような例を教えて
 いただければ、もう少しまともな答えができるかもしれません。)
 

「ラディカル」と聞いて私がイメージするのは、物事を根本的に、
底の底から変えてしまうような、鮮烈で強力な力です。何よりも、
「我々の既成概念を根本から変えてしまうこと」を含意している
ことが、重要だと思います。胸躍る言葉でもありながら、危険と
隣り合わせのニュアンスも感じます。
政治であれ美術や建築であれ、ラディカリズムを標榜する思想は、
急激で落差の大きい変化を求めるでしょう。既成概念を覆すこと
が目的ですから、より戦闘的であり、挑戦的でもあります。

先進資本主義国で...続きを読む

Q野暮ってどういう意味?

野暮ってどういう意味なんでしょう?
色々調べてもわかりやすく記されていないで、
イマイチ理解できません。

例えば、無職の人にお金貸してって言うのは
聞く自体が野暮だよって。

あとゴホゴホ咳をして風邪を引いてると思われる人に
なんでマスクしてるの?って
言うのも言うだけ野暮だろって。

こういう使い方あってます?

Aベストアンサー

気が利かない、垢抜けない、空気が読めない、そんなことを「野暮」っていいますね。

例文だと、使い方が間違っているわけじゃあ無いけれどしっくりきませんね。
お金の無いひとが金を貸してくれないのは当たり前のことなのでここに「野暮」云々を持ち出すのは皮肉にもエスプリにもなりません。

お金持ちだけどけち臭いやつに金借りようとして失敗した人が他人に借金の首尾を訊かれて「訊くだけ野暮だよ」と答えるような状況の方がいいような気がします。

首筋を蚊に食われて赤くなっているのを「それキスマーク?」なんて訊くのも野暮ですね。「蚊に食われたんだよ」なんて答えるのも野暮ですね。

Q客観的?主観的?

良く客観的だとか、主観的だ。なんて使われますが客観的と主観的の意味をだれかわかりやすくおしえていただけないでしょうか??
電子辞書などでひいてもいまいち理解できません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。ただ、どちらにとっても「事実」と思っているのです。立場によって「事実」は異なります。

「自分はエビちゃんに似ていると思う」(主観的事実)
「でも人からはよくシノラーに似ていると言われる」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。BFはエビちゃんに似ていると思っているかも。

つまり、客観は「だれの目にみても」と多数派の意見・事実なので、客観的意見・事実は論理を唱える上では有利で優勢なのです。一方主観は自由に使うこのできる便利なしろものです。主観的意見・事実とは、要は自分勝手な思い込みですが、それは真実でないとは決して言い切れないのです。

以上ご参考までに。

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真...続きを読む


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