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私は人は客観的に生きるべきだと思っています。
なぜなら人は一人で生きていくことはできない。
無人島で暮らそうとも思わないかぎり、人は社会と共にしか生きていくことはできない。
ゆえに人は客観的に生きていくべきであり、主観的には生きれない。
とても簡単で誰でもわかっていそうな理屈ですが、誰かこれを純粋に批判することはできませんか?

A 回答 (11件中1~10件)

ご質問の検討から開始させていただきます。



○私は人は客観的に生きるべきだと思っています。
拙僧;その客観とはどういう次元の客観ですか。
或いは、誰が見ても正しいというニュアンス意味も含まれていますか?
使われている文脈での客観という意味が不明確ですね。一体、客観って存在するのですか?
このことで、50年前読んだ、法哲学の碧海純一さんは、間主観というタームに置き換えてようというご提案をされていました。

○なぜなら人は一人で生きていくことはできない。
無人島で暮らそうとも思わないかぎり、人は社会と共にしか生きていくことはできない。
ゆえに人は客観的に生きていくべきであり、主観的には生きれない。
拙僧;結局、社会的存在ゆえに人は客観的に生きていくべきであり、主観的には生きれない。(この文章から、つまり生きるべきではない、という意味と、どうしても主観的には生きられないのだという二つの解釈のどちらですか?)

私のコメント;人は存立からして、全体の中のものであり、完全な孤立存在はありえない。
だから社会的というか、全体存在の中の存在として(主観的な場合も)生きる宿命にある。
大きな大洋の中の小さな波波が個体化している存在であると存じます。
前半、生意気な科白を言いましたが、喜寿の誕生日に免じてお赦しあれ。
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個人と社会との関わりようは昔から様々な議論がなされていて、それは人間が自身を客観的に(外から冷静に、あたかも他人のようにして)観る能力を備えているからこそ可能なのでしょう。

一人前の人間である証としての自我の確立も人間が社会的ないきものであり、そうしなければまともには生きられなくなっているからでもあります。ですが、それを前提として首記の諸問題が現れてくるのもたしかであり、

>とても簡単で誰でもわかっていそうな理屈ですが

とはとてもいえませんね。まず
>客観的に生きる  とはどういうスタイルの人生なのか
>主観的に生きる  とはどんな生き方なのかをしっかり定義する必要があると思います。

いずれにせよ

>人は客観的に生きるべきだと思っています。
なぜなら人は一人で生きていくことはできない。

>無人島で暮らそうとも思わないかぎり、人は…、主観的には生きれない。

ということなのなら、客観的に生きるとは個人が自分を良くわきまえて社会とともに生きるということであり
主観的に生きるとは社会と絶縁状態を保ってけだもののように生きるということを考えておられるようです。
そこでこの常識をぶち壊して欲しいと仰るのでしょうか。現代におけるひとりぐらしのすすめをしてほしいということなのですね。

私見ではそういうひとは身勝手の骨頂であり、いずれ国民年金も受け取れず、生活保護も申請しなければ結局山奥の廃村で孤独死をする運命だと思われます。ただ生きるだけならそれでいいかもしれませんが、文化を享受創造するにも個人一人の主観がたよりでは達成度はしれていますし、私にはとても勧められないいきかたです。
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「主観的」というのを、利己的と同義に用いているようにも思え


ますが、「利己的」であっても、客観性が充分あり、自己の生存
における社会生命的延長を自覚化していれば、社会全体の
順調な営為を志向するので、利己と利他は重なります。

一方、「客観的」とされる“自分の外の存在(絶対時空間)”が、
観察者との相対=主観的にしか存在し得ないという現代科学の
結論があります(客観は主観に含まれる)。

そこにおいて、ご指摘の「社会的に生きる」という行為を考えると、
自己の生の社会生命性を自覚できれば、「主観的」で「利己的」
であっても、自律的に社会行動をとる事ができます。
一方で、そうした自覚がない=短絡的利己主義の場合は、自己
の満足において反社会性が生じます。

しかしそうした認識の深まり(≒客観性)がなくとも、そうした短絡的
行動を利他的に導く社会的矯正具であるアメ(お金・出世)やムチ
(法規・モラル)によって他律的に生かされれば、主観的であっても
社会行動をとれます。
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人は客観的に生きていくべきであり、主観的には生きれない。



○主観を排除するのであれば、
例えば大阪の高校での体育教師による体罰問題への非難、責任の対象は体育教師個人の問題ではなく、学校、生徒全体の問題になりますね。客観的に見れば暴力に染まった学校全体が腐っていますので廃校にすべきですね。廃校にならない理由は個々の主観を認めているからにほかならないからですね。まあ、虫食いのりんごを虫が食っているからといって捨ててしまうが一部を切り取れば食べられるという考え方と同じですね。
哲学的に言えば個人と集団との問題に帰着しますが、基本は個人なのですね。集団は個人の集まりという積み上げで考えるのが正しい身方ですね。個人個人は主観しかないのですね。個人が集まり集団となった時に調和のために客観が導入されているということですね。これを逆にすると全体主義になります。全体主義では個人の主観は排除されますがそれではロボットと同じになり、人間である必要性がなくなります。
生まれる時も死ぬときも一人ですから主観は大切にしないといけませんね。
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こんばんは。




社会は契約ということで成り立っており、
契約において最も重要なのは、「本人の意図する(した)ところ」であり、
「本人は、何を意図したのだろうねえ?」と追究されることはあっても、
「本人はコレコレこのように意図すべきであった」とは、日本の裁判所でも言われませんよ。
(「そんな契約は無効だ」と言われることは、ある。)
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私は、純粋批判と言えるほどの純粋な者ではありませんが、


回答させていただきます。

人は、神と共にあった。
大地は、神と共にあった。
社会は、神と共にあるのではなく、
社会は人が作ったものだ。
やがてそれは、既得権を得るための
争いの場となった。

神が与えた理性は、主観と共にあった。
人は社会の中で、神を忘れ、理性を失った。

ひとつの行為について、社会が善といえば、
その行為は善となり、
社会が悪といえば、その行為は悪になった。

主観と共にある、理性に従って生きるのか、
あるいは、社会という集団の中で、意義の無いものに、
集団としての意義を、無理やりもたせ、
それを信じながら生きていくのか。

人は、神が与えた大地を踏みにじり、社会が生み出した価値を崇めた。
人は、最も大切な、よりどころを失ったことにも気づかず。
神は死んだ。
否、社会が神を殺したのだ。
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不可能ですね。


現実的に。
だって、人って主観で生きているでしょ。
それぞれの人の欲(主観的に求めているモノ)が違うとしても、お互い特するように
生きていくのが社会ってものでしょ。

主観的に生きれないなら、欲は持っちゃダメだし、
好き嫌いも持ってはいけないのですか?
好きな女性も興味のない女性も両方愛すか、別れろと?
まるでロボットですね。

まぁ、あなたがどう考えるかは自由です。
ぼくの考えを押しつける気はないので。
ただ、それを主張したところで、現実的にいいことありますか。
常にそういう視点で考えると、生産性のある思索になるかと感じます。
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客観的に生きていくべきであり、主観的には生きれない

コレは、主観に落ち度や不都合があると感じているゆえの負け犬思考で、私は受け入れられていないと考えるからでしょう。
滅私を実践し他者のために生きる事を,客観的生き方と考えているのだと考えます。
自らが主観的に生き、そして喜んで他者をも活かすのが、清らかな社会的思考です。
君はそれが出来ないで自らを殺して、奴隷のごとく他者のための社会生活を送ろうと考えているのだ。
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人の生き方は自由であるべきです。

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客観的:特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。


主観的:自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。
です。
社会とともに生きていくためには、相手の立場に立つことが重要なので、特定の立場にとらわれない中立的な人は、つまはじきにされます。
社会の中で生きるには、何かの組織に属するということ。組織に属するということは、その組織の立場に立たなければならないということです。
結局その組織としての主観で生きるしかなくなります。
最近の例としては、体罰がなくならない原因でもあります。
本当に客観的に生きようと思ったら、今の世の中敵だらけになります。なぜなら正論を吐くことになるから。正論は、権力や影響力を持たない立場で論じても、まったく意味がなく、逆に疎まれる結果になることは、枚挙にいとまがありません。
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