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wikipediaの民主主義の項目で

ニーチェは、民主主義の価値相対主義と平等主義はニヒリズムであると指摘した。リベラル(寛容)であるということは、命がけで守る信念もこだわりもないということであり、平等であるということは、高貴な貴族が消滅し、国民全体が畜群と化すということである。ニーチェは、命がけで戦うなど野蛮であり、そんなことはしない自分たちは理知的であり、合理的であり、大人であると胸をはる民主主義者たちのことを、最後の人間と呼ぶ。民主主義者たちは胸をはるが、その胸は空っぽだと指摘している。

と、ニーチェの批判が書かれていますががいまいちよく解りません。
高校生の僕でもある程度理解できるように教えていただけないでしょうか?

A 回答 (6件)

いわゆる『最後の人間』という概念のことですね。


ニーチェは生きている間に様々な概念を発表・発明したことでも有名ですが、
民主主義者はなぜ『最後』になるのか。これにはある前提となる知識が必要かと思います。
ニーチェの生まれる前の時代に、同じドイツの哲学者ヘーゲルの提唱した
『最初の人間』という概念があります。ニーチェはこの概念を発展させたわけです。



では、『最初の人間』とは?
ヘーゲルが良く使った方法に『弁証法』という方法があります。
高校ではあまりやらないかもしれない言葉ですが、やっていることはいたって単純。
この世のほとんどのものには矛盾や例外が存在しており、一概に○○は××だ、と言うことは出来ない。
そこで、起こったことに対して、「どうしてそうなったの?」という問いかけを
ひたすらやっていき、最初の原因をさぐる仮定で物の道理をあきらかにしていく手法です。
ヘーゲルは歴史とは弁証法そのものだと考えており、歴史を弁証法を使ってチェックすることで
彼が支持する法治国家(共和国)の正当性を確認していったんです。

『最初の人間』とはその問いかけの終着点。
我々人類の祖先はどんな姿だったかというと。よく宗教家が言うような平和で素晴らしい理想郷、
なんてものではなかったと考えられています。それは単純に規制の無い集団であり、
殴り合いをして(あるいは殺し合いをして)、勝ったほうが主人、負けたほうを奴隷とする
暴力的な制度が一般的だったわけです。現代のように、暴力が罰せられる社会が出来上がったのは、
尊敬されたい、そういう人間でありたい、と願う人類の精神の成長によるものだ、
とヘーゲルは弁証法を使って確認していったんです。

例えば、奴隷を支配することが一般的な社会では奴隷を支配しても評価されない。
奴隷に対して、権利を与えるように動くことが、つまり平等な条件でも
それを制するように動ける人間こそが、より成長できる。
こういった言葉により権利の平等と、お互いの価値を認め合う相対価値の正当性が、
改めて世界に広まったわけです。こうした高みを目指すことにより、
国や社会、何より自分に対してに対して"誇りを持つ"ということがヘーゲルの
思想の根幹にあるわけです。



ところが。
いわゆるブルジョワ(中産階級)の民主主義者達は我こそは人類の最終段階だ!と主張し、
努力しなくなってしまった。さらにわることに、宗教家達によって無償の寛容さを唱える
博愛主義と結び付けられてしまった。これにより、ヘーゲルの目指した、
より高みを目指す人間という理想が失われつつありました。

こういった時代に生まれたのがニーチェです。
彼は一般社会の持つ、宗教的な狂気を批判し続けた、非常に論理的な思考の持ち主です。
彼は、自分の意見を持つ人間を尊重し、一方で主張を曲解する人間達、(つまり"僧")を
一貫して批判し続けました。『反キリスト』として語られることが多いニーチェですが、
その主張をよく読めば『反キリスト教徒』であることは明確です。
(だからこそ、宗教家からは狂気と批判されるわけですが)

ニーチェにしてみれば、ヘーゲルの主張は(賛同できないにしても)尊重されるもの。
しかし、ヘーゲルの言葉を曲解し、民主主義(共和主義)の理想を宗教的な博愛に貶めてしまった
"僧"達は、やはり嫌悪の対象になったんじゃないでしょうか。
ヘーゲルの言うような理想を追い求める人間は既に無く、もはやそこにいるのは
努力をやめてしまった『最後の人間』のみ、というわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 01:00

シルヴェスター・スタローンのデモリジョンマンという映画を見てください。

理想と現実は違うということで、理想を求めるあまり、"最後"には逆に結局、理想を失う、意味が無いことになる(Nothing、ナイアリズム、ニヒリズム)ということでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 01:00

このスレを見ていて思ったのは、


「努力し続けるからこそ、「最後の人間」たりうる」ということですけどね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 01:00

ニーチェの真意は完全に理解出来るものではありませんが、感覚的に


今っぽく書いてみます。

民主主義で、普遍な価値は無いとか、平等なんて言うのは、むしろイヤミだよね。
リベラル(自由・寛容)というのも、実は守るべきものやこだわりもないってコトだし、平等ということは、大金持ちも存在しないが、国民全員がアホで貧乏になり、これは家畜と一緒ということだ。
「ケンカはアホがやること」と言い、「ケンカをしないから自分は理性的で賢い大人だ!」とのたまう民主主義者は、文明を滅ぼすか、進歩が無くなる社会を作る様な人間だよ。
民主主義者は、自信を持ってるんだけど・・・中身や根拠は何もないんだよなぁ。

って感じかと。

ニーチェって、天才的な野党みたいなモノで、的確な批判ばかりです。
この短い文章の中で、民主主義も資本主義も社会主義も自由主義も平和主義も保守も革新も・・・殆どの主義を否定してますヨ。
彼は「神は死んだ」と言い、キリスト教も否定。
文明人のナントカ主義者とか思想家とか宗教家とか・・・やっぱり殆どは、ニーチェに言わせると、みんな凡俗の「最後の人間」ってコトです。

No.2さんが正解だと思いますヨ。
文字・言葉としては理解出来ても、彼の思想に到達するのは不可能であり、もし到達しちゃったら・・お先真っ暗です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 01:00

ニーチェは触らないほうがいいよ。



彼の思想は魅力的ですが、関わると精神を病みます。というか、彼の高みにまで狂わないと理解できない。普通に読んで理解できるものではない。

私もあぶなく気がふれるところだった。回答になってなくてごめんなさい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 01:02

私もよくは知りませんが、この文章を読む限りでは、ニーチェは多分、「外」から、民主主義の社会というものを見てみたのだろうと思います。



価値相対主義というのは、「社会の中において「絶対」ということが決定的に認められる価値は(基本的に)無い」ということでしょう。例えば「信教の自由」といったことも、制限されます。(ただし、場合によっては、「結果的に」、「「裁判における判決」というカタチで」)
それから平等ということでは「高貴な貴族が消滅し、国民全体が蓄群と化す」とのことですが、これは、「高貴な貴族の中にもダメなのは居るし、蓄群の中にも見るべきものが無い訳ではない」という(楽観的な)見方は、ニーチェは出来なかった、ということでしょうか。

民主主義では、直接民主制であれ間接民主制であれ、「法を作って、裁判で裁く」ということをして、いわゆる「自力救済」というのは原則として禁止されているので、「理知的・合理的であり、大人である」というわけと思います。・・・しかし、「なんでも議会で決めることができる・解決出来る」と言ったら過信でしょうか

「コレも絶対ではない、アレも絶対ではない」と結果的に決まっている(というか、そういう事にしている)社会というのを「外」から見たら、それはあるいは「空っぽ」のように見えるかもしれないですね。
でも、その個々の構成員というレベルで見たら、「コレは絶対と思うよ」という人たちだって、居ないわけではないと思うのです。ただ、それは社会的には(そのままストレートには)認められない、というわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/22 00:59

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