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 犯人の行為は 人間の意志によって為されたものでありながら その意志は人間の意志ではなかった。――こう判断する人間の意志行為は 哲学のものではないのか?

  ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93% …
  ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * 参照→【Q:ザビーヌ事件について】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html

A 回答 (21件中11~20件)

 ご辺頂きまして、どうもありがとうございました。



> まづ何はともあれ
 ★  「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。
 ☆ ここに――わたしの今の認識に関する限りで―― 焦点があるとわたしも思います。

 とりあえずのご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます(論点が多数に渡る可能性があるため、まずはこの点に注力したいと思っております)。

> ですからおしえていただければ ついてまいりたいと思っております。

 まったく、そうでございました。これは回答者が任ずべき事柄でございます。申し訳ございませんでした。

> ★ ”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐”
   http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_f …

・サルトル:”主体的な人間の一人一人の人格や自由を重んじる実存主義” ただし、前提として、マルクス主義的歴史観がある。
 と読めます。
 また、以下は、Wikedia クロード・レヴィ=ストロース からです。

「彼の問題意識はサルトルの実存主義という”主体”偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、”主体”ではなく、「”主体”間」の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、「絶対的な主体ではありえない」)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。」

 以上からまとめますと、
レヴィ=ストロースの批判は、「”主体”間」の構造こそが重要だと主張した。その理由は、主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造によるものなので、「絶対的」な”主体”ではありえない」。

 しかし、愚生は以下のように考えます。
 サルトルの主張は、”主体的な人間の一人一人の人格や自由を重んじる実存主義”かと。 確かに、この”主義”を実際に行動に移せるのは、限られた人達に限られるます。つまり、愚生のように、心身面に難がある者には、実行には移すことには難がございます。しかし、”実存”そのものの存在は別段問題はないと考えています。むしろ、「リーダーたる者はかようにあってもらいたい」と思っている次第でございます(無責任なガリ勉君がリーダーになるのは.........)。
 因に、これを完全に否定しまいますと、相対主義をも通り越してしまい、虚無主義に陥ってしまいかねないのではないか とも考えております。
 つまり、サルトルの主張から、”主義”なるものを除けば、別段問題はない ように思えるのです。また「主体間」これはむしろ ”主体”を持つ者同士の"dependent!な関係が前提にあるものとも受け取れます。また”主体”の存在が当時は(因に愚生はG.デリダが全盛期のときに学生でございました)、”ロゴス”なるものを内包するものは、いつも「ロゴス中心主義!」として、非難されていたかと記憶しております。ほとんど病的なまでにです。確かに理性主義(ヘーゲル、さらにはマルクス)を打ち破るのには有効だったかと考えられるのですが、実際的(実用的)ではなかったかと考えております。実際、議論は有益だったかも知れませんが..............
 そして、その構造主義も後のデリダに、「ロゴス中心主義!」として、非難されていきます。(”デリダによる批判” をご参照くださいませ)

 また構造主義一般は、言語以外の対象や活動にこうした言語学理論をあてはめていこうとする試みでもあります。
 神話、プロレスの試合、親族関係の体系、レストランのメニュー、油絵など、すべては記号の体系とみることができる。そして、こうした記号が結合されて意味となるとき依拠する深層の諸規則を、構造主義者である分析家は抽出しようとするだろう。構造主義は、記号が実際に「語っている」ことについては、おおむねこれを無視してはばからない。
→ 主観内で受け止められた”感動”等はいったいどこからしょうずるのか疑問に思えてきます(愚見です)。

 構造主義とは、簡単に言ってしまえば、あきれるばかりの反歴史主義かと見けられます。構造主義が分離に成功したと主張する、精神の諸規則――平行性、対立性、転倒性その他――は、人間の歴史という具体的な差異のレベルからはいちじるしくかけはなれた一般性のレベルにおいてのみ、作用するものだった。このオリンポス山の高みからながめれば、人間の精神などどれもこれも似通ったものにはちがいあるまい。文学テクストの深層規則体系を逐一特徴づけたあとで、構造主義者に残されていることといったら、椅子に深々と腰をかけ、さて次になにをやろうかと思いをはせることだけだ。
→ 非常に静的(static)な主義かと見受けられます。この大義語である、「”動的”なものは認めない」 これは一種の反歴史主義であり、躍動ある”生”なるものは蚊帳の外 といった観がございます。

 以上愚生の”構造主義”にたいする批判であり、またそれは、一般人が実存なるものを意識し、ときには責任をも自己に課し、その責任感の基で、行動していくことは無意味とも移りかねないと察せられます。

 取りあえず、愚見をのべさせていただきました。

 これをもとに(叩き台にして)議論を進めさせていただければ愚生としましても、非常に助かります。

 それでは、よろしくお願い申し上げあます。

この回答への補足

 Hidocchi さん お早うございます。ご回答をたまわりまことにありがとうございます。

 まづ 思わず やるうっと思ったのは 次です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 因に、これ(* 実存主義の基礎としての人間の主体性)を完全に否定してしまいますと、相対主義をも通り越してしまい、虚無主義に陥ってしまいかねないのではないか とも考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《虚無主義》までは思い及ばなかったのですが 昨今の独我論との兼ね合いで さもありなんと思いました。いえ むべなるかな でしょうか。相対主義も独我論と深く絡んでいるようには思いますが。いまは さかんに《自己チュー》という言葉が飛び交っているようですね。

 さてわたしが ふたつの参考資料について論点をきちんと抜き出せなかったのは――つまり Hidocchi さんに先に出して欲しいと言ったわけではないのは―― 実際に《拉致行為の無効という判断》の問題とどうかかわらせるかで ためらったためです。
 そうして実は 今回明らかにしてくださった構造主義批判にわたしは賛成いたしますが――その労を取らせてしまい 申し訳ありません―― ここからなぜ《無効判断を成さないのか》の問いにどうつなげるか これがまだまだ分からないと思っていたからです。

 つまりいきなり焦点の課題について しょうじきに申し述べてまいりますが たとえばこうです。
 1. こんどは逆に見るかたちで なぜ人間にかんして《主体》ないし《答責性を持った主体性》を捉えなくなったのか?
 そのように唱える構造主義がなぜ――デカルトだかカントだかあるいはヘーゲルなりマルクスなりの系譜における一部の反動としてだけではなく それに取って代わるような――主流になってしまったのか?

 2. 一面として レヰ゛ストロースの《西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識》 これは 文化人類学ないし社会人類学ないし民族学のモースでしたかマリノウスキーでしたか達もじゅうぶんそのフィールドワークの成果から主張したところだと思うのです。これは この確認をしておけばよいことだと考えます。

 3. 《サルトルの実存主義という”主体”偏重を批判し》――これも 煮詰めて言えば 人間存在の《独立性》とそのほかに同時に《関係性》を見るという意味で 大いに大事なことだと考えます。しかも ではなぜ あたかも産湯とともに赤子も流してしまうかのように 指摘していただいたように独立性における自己責任などなどの人間性の貴き側面をも捨て去ったしまうような思潮に流れが全面的に変わってしまったのか?

 4. ★ つまり、サルトルの主張から、”主義”なるものを除けば、別段問題はない ように思えるのです。
 ☆ マルクス主義の側面は いまはその教条主義について批判する必要がないほどでしょうから 措いておくという前提で そのようにふつうに捉えればよいであろうのに なぜ振り子は他方の極にまで振りきったのでしょう?

 5. ソシュールの仮説もとうぜんこれに力を貸しているのでしょうが それをあたかも世界観の基礎として全面的に採り入れるというのも やはり振り子の振れが大きすぎます。(ソシュール自身は どう考えていたのか。これも問題になるのではないでしょうか? 分からないという答えでしょうが)。

 6. 要しますと 人間はいったいどうなってしまったのでしょう?

 たぶん西欧においては特に知識人のあいだで 二度の大戦という実にむごたらしく不条理極まりない振る舞いを《人間》が侵してしまったという絶望感もあずかっているという議論があります。――それでは 何も意志行為としておこなわないのが 人間であるのか? あるいは意志行為も それは確かに意志なんだけれども 結局のところ本人が全面的に責任を負えるというものではないのだと見たからと言って 説明責任も何もかも うっちゃってしまっていいとはならないはずです。責任を問わないのなら 法律も要りません。
 ★ 一般人が実存なるものを意識し、ときには責任をも自己に課し、その責任感の基で、行動していくことは無意味とも移りかねないと察せられます。

 あるいは曰く:
 ▲ 文学テクストの深層規則体系を逐一特徴づけたあとで、構造主義者に残されていることといったら、椅子に深々と腰をかけ、さて次になにをやろうかと思いをはせることだけだ。
 ☆ ・・・!?1?

 おあとがよろしいようで。

 * デリダについて〔も〕詳しくありません。
 【Q:【教えて下さい】以下の文章について解釈願います、特に後半部。】回答No.5
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5676312.html
 この投稿は 急ごしらえでした。

補足日時:2010/03/07 13:06
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 こんばんは、Hidocchiです。

どうもご返答賜り厚くお礼申し上げます。

> 一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか? この一点に集中したいのですが どうでしょう?
 たぶん そのときには そうは言いつつも これら三つの問題点なども深くかかわって来ているのではないかと思うのですが どうでしょう?

 了解致しました。愚生が提案させていただきました上記3点につきましても、もし顔が出そうになりました折りにはお話を進めさせていただくとしまして(現時点では未だ愚生も、曖昧なところもございますため)、『 一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか?」 に集中させていただきこうかと思います。

> わたしは決して前回の【Q:ザビーヌ事件について】においてみなさんと共に問い求めたところから離れたわけでも考えを変えたものでもありません。けれども まだ結論としてはっきりしていないところがあるのかも知れないと どうしても思われました。尋究しうるところまですすめておきたいと思っております。よろしくどうぞお願いします。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

> むしろなぜ哲学としての判断でないのか――判断ではないし してはいけないと見る側から その根拠を知りたいところですが その展望はまだわたしにもよく見えていません。分かっているのは 例の《無主体の過程》説にかかわっているであろうということのみです。いわゆる構造主義の前提にある人間観=社会観なのではないかと思っているのですが。

 「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。

> 回答No.1のごとく 一般的に見て結論内容にかんしてまだ はっきりしていないところがやはりあるのではないか。なぜ通じていないのだろうか。なのですが。

 確かに承りました。

 お礼欄をおぎないます。上述致しましたが、「人の意志」と「構造性」の観点からの言及が今まで、愚生にはほとんどなかったことに起因することもその原因とするとことろかた考えております。

 アポロンの詩は お贈りするなどとおこがましいことを申してたいへん失礼しました。
 
 いえいえ、bragelonne様の感情の一部分を垣間みたようでして、愚生自信もとても感動しております。どうもありがとうございました。

定義:
”無効”:はじめから 何も 無かった(これが”取消し”と異なる点かと察せられます。さらに「効力がないとされるのに特定の主張は必要でなく、当然効力はない」)
ソース;自由国民社「法律用語辞典 」p.249

 生身のひとが持つ”ひとの意志”と構造主義における社会の見方との相違性もしくは、後者の欠点につきまして、以下のものをご紹介させていただきました。

・”構造主義の欠陥” and ”OKWave” Google検索 でございます。
・”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐”  Google検索 でございます。

 誠に申し訳無いのですが、上記ブログ内容につきまして、ご一読賜りまして、上記テキストを叩き台にして、対話を進めさせていただきたく存じます。

 ご質問者様ににかような要求をする非礼を深くお詫び申し上げます。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづ何はともあれ
 ★  「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。
 ☆ ここに――わたしの今の認識に関する限りで―― 焦点があるとわたしも思います。

 さて
 ★ 【Q:”構造主義の欠陥”】
  http://okwave.jp/qa/q3215454.html
 ☆ につきましては まだきわめて大雑把な議論であるように思ったのですが どうでしょう? つまり引用・援用して議論を継ぐには いまひとつ利用しづらいと思ったのですが どうでしょう? ですからおしえていただければ ついてまいりたいと思っております。

 ★ ”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐”
  http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_f …
 ☆ これも――しょうじき申せば―― きめの粗い議論ではあると考えます。

 中でわたしの注目した見解をまづかかげます。
 ▲ (【Q:”構造主義の欠陥”】回答No.8) ~~~~~~~~~
 一言で言えば、相対主義です。相対主義は、あたかも何らかの諸悪の構造を見抜いたかのようですが、実はいくつか罠があります。まず、相対主義はそれ自体が悪質な普遍主義になるということです。これは井上達夫の相対主義批判でもあります。そして多くの場合、隠れた諸悪を構造的に追認するということにもなりかねないのが現状です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを《無主体の過程》説〔への批判〕につなげることが出来ると考えます。

 ◆ (”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義”) ~~~
 「人間社会には自覚できない無意識の構造があって、時間が経過しても不変である」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしこの《無意識の構造(つまりあるいは 関係=縁起の過程)》のみで歴史も人間の行動もいとなまれているとするのならば 上に触れた《無主体の過程》説にやはりつながります。
 わたしの言い分としましては 一方でやはり人間の個人個人の意志行為があるということ 他方でたしかに社会の場としては これらの意志行為の関係錯綜は 縁起説=ないし構造主義の《無主体の過程》説の説くごとく 個人の意志がもはやあずかり知らない性格のものとなっているということ。これら両側面を 同時に捉えるというものですが どうでしょう?
 ★ 「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。
 ☆ だと思います。

 なお この構造主義=関係主義の思想の基礎には 言われるようにソシュールの《言語記号の恣意性》なる仮説が横たわっていると捉えます。そしてじつは この仮説が ただの神話であるといううたがい=問いをいま 出しております。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html
 ☆ ソシュール⇒構造主義は 人間の歴史ないし社会は 自然と対比される意味での《文化》〔のみ〕から成ると主張します。しかもこの文化は 人間の個人の意志行為の一つひとつから成るのではやはりなく 一挙に全面的にホモ・サピエンスないしホモ・ロクエンスなる人間に特有の世界である《文化状態(=社会状態)》が出来上がったのだと唱えます。すなわちこの非自然としての文化世界が ただ関係から成る構造としてあると言うのだと思います。
 わたしの言い分は 上に触れましたところのほかに 文化状態は自然状態とつながっているというものです。関係=縁起の過程のほかに 個人の意志行為(しかもアマテラス文化規範語だけではなくスサノヲ自然人間語による意志行為)も絡んでいるというものです。

 以上について解きほぐして行ってくださるとありがたいと思います。どうでしょう?

補足日時:2010/03/06 19:58
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こんにちは。



日本には、民法と刑法が基本ありますよね。

民法は人と人の間でずるっこした約束は、効力をもちませんよ、これが質問者様の言いたいことだと思うのですね。

しかし、刑法は人対道徳という側面がより強く出てるのですね。人間の行動に規制をかけて治安をよくしたいという理念ですね。ここでは、前者とちがって、ずるっこした人は法律で罰しますよっていうスタンスなんです。

だから裁かれるという効力は無くならないのですね。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 拉致事件を例に出しましたが 今度は ザビーヌさんになったつもり もしくは 要するに当事者として考えるなら どういう判断と見解が持たれるか。こういう踏み出しをしてもらうとよいのではないでしょうか?
 法律がどうであれ――といま乱暴に話をすすめますが―― 拉致事件の被害者として 犯行者の意志行為については どういう内容のことだと判断しますか?
 無効という判断は なぜしてはならないのか? 哲学としてごく一般的な判断ではないのか? こう問うています。
 ★ だから裁かれるという効力は無くならないのですね。
 ☆ むろんこのように裁判の問題をも含めて考えてもらって構いませんが 問いは その前の段階としてどう判断するかです。なぜ無効と見るといけないのか?

お礼日時:2010/03/06 19:25

こんにちは、bragelonneさん。



●或る日の朝いつもと同じように自転車で通学している途中 バンのくるまが前をさえぎったかと思うと 二三人が出て来て 瞬く間にかのじょをくるまの中に連れ込んで走り去った。監禁した。虐待した。
 この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。人身売買は 昔の貴族だとか町の名士だとかも何人か裏のつながりとして絡んでいるのではないかともうたがわれています。

 でこの意志行為は 人間の意志そのものを無きものとする内容を持っているので 人間の意志行為としては認められない。よって無効である。

 この判断は まちがいか? してはならないのか? ≪哲学≫ではないのか?――こういう問いです。


鉢被き…民話…文化人類学…

【◆昔話はどんな影響を及ぼした?◆】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1742667.html

【所有権の起源】
http://page.freett.com/rionag/veblen/ownership.h …

―――――この共有財については、原始共同体では、共同体的であれ個人的であれ所有概念はまったく適用されない。共同体所有の観念は比較的遅く発達したもので、心理的な必然性によって個人的所有が先行したに違いない。所有権は、慣習的請求権に基づいて公認された、物にたいして裁量する力であり、所有者が所有物にたいする処分を思案する人格的主体であることを意味している。人格的主体とは個人であり、何らかの人の集団が一団となって物にたいする裁量権を行使すると考えられるようになるのは、法的擬制の本質が行き着くところまで精緻化されることによってなのである。所有権は個人的な所有者を暗に意味しているのである。反省によって、そして既にもう慣れ親しんでしまった概念の適応範囲を拡大することによってのみ、こうした種類の疑似人格的な集団的裁量および管理は、人の集団に帰することができるようになったのである。したがって、共同体所有は必然的に派生的概念であり、それがまねている個人的所有の概念の概念に先行することはできないのである。
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この回答へのお礼

 littlekiss さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 鉢被(かづ)き=鉢被き姫
 ☆ この民話は 芽出度しめでたしの物語りのようですね。

 ★ 【所有権の起源】
 ☆ ヱ″ブレンの考えによると 女の略奪と所有が起源であるような。理由を示し得ないのですが どうもおもしろくありません。
 とりあえず 起源ではありませんが どういう考え方ができるかについて 質問として提出したものがあります。ここにかかげておかせてください。
 【Q:所有とは 何ぞや?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4248807.html
 ☆☆ (その趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 簡単には 個人的な所有ではなく さりとて 国有ではなく また 社会的所有でもなく 《個体的な所有》と呼んでみます。個人としての私有財産という概念 これを基礎として それに 同時に 《関係的な所有》という概念を 絡ませます。経済的な成果の半分は 関係的に・総合的に みなの業績によって もたらされるという考え方です。これは 非現実的な思想でしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 起源については 《総有》といった考え方ないし歴史事実も示唆的であるように思います。

 さて ご回答内容がよく分かりません。わたしの説明は飲みこんでもらったということでよろしいでしょうか?

お礼日時:2010/03/06 19:18

【QNo.5307920 罪をかぶせること?】


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5307920.html
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この回答へのお礼

 ★ 【QNo.5307920 罪をかぶせること?】回答No.3
 ▲ (刑法第三十八条:故意) ~~~~~~~~~~~~~~~
  罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。

   ☆ ザビーヌ事件の犯行者は 誘拐・監禁・虐待の意思を持っています。

 2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。

   ☆ 犯行の前から終わるまで 意図しておこなっています。

 3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。

   ☆ 知っていたはずですが そういうことなのでしょう。つまりこの項目は別ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どうでしょう?

お礼日時:2010/03/06 08:47

おはようございます、bragelonneさん。



●★ (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?
 ☆ という主題のもとに考える筋道がよく分からないのですが どうも焦点がちがうように思うのですが どうですか?

罪とは何か?

罪にあたるものってなにかなぁー?と

罪が先に規定されているからおかすおかさないの基準があとからうまれてくるんじゃないの?

で、ジャジメンはだれか?となれば―――――人

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆  この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。
 ☆ これは《可能性》の問題ではなく 事実です。書き間違いました。
 全部で六人を誘拐し そのうち四人は殺害してしまいました。ザビーヌとかのじょのあとに連れて来られたレティティアのふたりは 生還しました。むろん裁判も行なわれ 済んでいるようです。
 背後の組織についてのうたがいは うたがいで終わっているようです。

補足日時:2010/03/06 09:22
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この回答へのお礼

 お早うございます littlekiss さん。ご回答をありがとうございます。

 或る日の朝いつもと同じように自転車で通学している途中 バンのくるまが前をさえぎったかと思うと 二三人が出て来て 瞬く間にかのじょをくるまの中に連れ込んで走り去った。監禁した。虐待した。
 この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。人身売買は 昔の貴族だとか町の名士だとかも何人か裏のつながりとして絡んでいるのではないかともうたがわれています。

 でこの意志行為は 人間の意志そのものを無きものとする内容を持っているので 人間の意志行為としては認められない。よって無効である。

 この判断は まちがいか? してはならないのか? 哲学ではないのか?――こういう問いです。



 ▲ (ヰキぺ:無効) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8A%B9
 無効(むこう)とは、効力が生じないこと、またはそのような状態をいう。
 法律上、特に民法上では、法律行為や意思表示がその有効要件を満たさないために、最初から確定的に効果を生じないこと、または、そのような状態にあることを指して使われる。
 ▲ (ヰキぺ:公序良俗) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%BA%8F% …
 公序良俗(こうじょりょうぞく)とは、公の秩序又は善良の風俗の略であり、これに反する事項を目的とする法律行為は無効とされる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2010/03/06 09:11
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この回答へのお礼

 そうですね。

 ★  【私人間効力】
 ☆ 憲法とか刑法とか特定の法律のもんだいとしてあまり考えていなくて つまりそういう意味で 人権の侵害ということは 存在としての《わたし》の自己表現をいっさい踏みにじるという一般的で或る意味で抽象的な理念において捉えていると言うことかも知れません。でも身体の拘束なり抵抗し拒否する意志を無視することなりは 表現の自由を侵すことなはずです。

 そういう意味で 次のように単純な筋道なのですが?
 ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり 公序良俗の違反ないし 自由や人権の侵害 この行為については 無効が成立するということではないですか? この一本の筋道で考えておりますが どうですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 何かが足りないのか。法律のいづれかを特定して条文にも沿って明らかにしなければならないと言っておられるのか。・・・どうですか?

お礼日時:2010/03/06 01:34

(1)ひとは罪をなぜおかしてしまうの?



罪の構成要件は?


●―――――無効の行為だと判断してはならないか?

“ 記述されざる構成要件要素 ”がある場合があるから


【錯誤】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4

錯誤(さくご)とは、

一般的には、

人の

主観的な認識と

客観的な事実との

間に

齟齬を

生じている

状態の

ことをいう。



民法においては、

伝統的理解によると

内心的効果意思と

表示行為から

推測される

意思(表示上の効果意思)との不一致をいう。

刑法においては、

主観的認識と客観的な

事実又は評価との不一致をいう。

これは犯罪事実に関する

「事実の錯誤」と

自分の行為が法的に許されているか否かに関する

「法律の錯誤」に

分類される。
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この回答へのお礼

 ううん。どうなんでしょう?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?

  罪の構成要件は?


  ●―――――無効の行為だと判断してはならないか?

  “ 記述されざる構成要件要素 ”がある場合があるから
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むつかしいのですが まづ次の記事を参照します。

 ▲ (ヰキぺ:構成要件) ~~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%88%90% …
 ・解説
 罪刑法定主義の観点から、構成要件は、条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。
 ただし、刑法の謙抑性の立場から、法の適用を限定するものについては法令に規定されず判例で認められるものがあり、これを《記述されざる構成要件要素》という。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次に
 ★ (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?
 ☆ という主題のもとに考える筋道がよく分からないのですが どうも焦点がちがうように思うのですが どうですか?

 つまり 公序良俗の違反ないし 自由や人権の侵害 この行為については 無効が成立するということではないですか? この一本の筋道で考えておりますが どうですか?

お礼日時:2010/03/06 00:27

 こんばんは、Hidocchiです。



 この場をお借りし、美しい”詩”をお送りいただきまして、厚くお礼申しあげます。

 この事件につきましては、実を申しまして、愚生のオツムでは回答することが非常に困難な問題でございます。

(1)ひとは罪をなぜおかしてしまうの?
(2)法益の問題か?それともモラルの問題なの?
(3)偶発性の問題はどうなっているの? (http://dell-support.okwave.jp/qa5684019.html No,53からでございます)

 いろいろと頭の中をよぎり、どうご返答させていただいてよろしいのか 非常に悩む問題でございます。

 誠に申し訳ございません。恐縮の極みでございますが、もう少しヒント(問題の方向性)をご教示きただけないでしょうか? もちろん、哲学の問題かと解しております。

 ご返答の程、いただければ幸甚に存じます。よろしくお願い申しあげます。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 アポロンの詩は お贈りするなどとおこがましいことを申してたいへん失礼しました。
 というのも 《異邦人》の感覚といった問題は とうぜんのごとくわたし自身のそれでなのですから けっきょくふつうにお応えを為したという格好なのだと思います。
 そういうふうにお受け取りくださいまし。お礼をおっしゃっていただきありがとうございました。


 * 拉致された――それは無効だ。こういう判断が なぜふつうに成されないのでしょう? きわめて当たり前のことだと思うのですが いったいどうしたものでしょう? という思いがつづいていました。それゆえ設問に及びました。お分かりいただけると思います。

補足日時:2010/03/06 09:32
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 アポロンはどうでしたでしょうか。またまた 異邦人の問題になったようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) ひとは罪をなぜおかしてしまうの?
 (2) 法益の問題か? それともモラルの問題なの?
 (3) 偶発性の問題はどうなっているの?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。そうですね。とりあえずこれらの問題は 括弧に入れておいてくださいますか。一般に犯罪行為について その人間の意志行為を 無効だと見なすこと この判断は なぜいけないのか? なぜ哲学ではないのか? この一点に集中したいのですが どうでしょう?
 たぶん そのときには そうは言いつつも これら三つの問題点なども深くかかわって来ているのではないかと思うのですが どうでしょう?

 直前のふたつの回答でのやり取りもご覧になってください。
 そうして わたしは決して前回の【Q:ザビーヌ事件について】においてみなさんと共に問い求めたところから離れたわけでも考えを変えたものでもありません。けれども まだ結論としてはっきりしていないところがあるのかも知れないと どうしても思われました。尋究しうるところまですすめておきたいと思っております。よろしくどうぞお願いします。

 * むしろなぜ哲学としての判断でないのか――判断ではないし してはいけないと見る側から その根拠を知りたいところですが その展望はまだわたしにもよく見えていません。分かっているのは 例の《無主体の過程》説にかかわっているであろうということのみです。いわゆる構造主義の前提にある人間観=社会観なのではないかと思っているのですが。
 挙げていただいた三つの問題点など犯罪行為にかんする事柄や観点から迫ることも よいでしょうか? わたしには うといところがあります。

 * ぎゃくに言えば Hidocchi さんから頂いたご回答に賛同しつつ わたしはその見解において自信があると言おうとしているのかも知れません。そうなると 意地のわるい質問にもなりますが たとえとして出させていただくなら 回答No.1のごとく 一般的に見て結論内容にかんしてまだ はっきりしていないところがやはりあるのではないか。なぜ通じていないのだろうか。なのですが。

お礼日時:2010/03/05 23:35

こんばんは、bragelonneさん。



●―――――哲学のものではないのか?

ほじゃ、このあたりから

【うそと真実の弁証法】
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclien …

この回答への補足

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ヨブ論は 出ませんでしたか?

 ★ 【うそと真実の弁証法】
 ▲ (同上 p.10/12) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 《真実》と《うそ》は、それ自身を見るかぎりでは、同じ姿をしていて、うそとも真実とも判別しがたい。
 それのちがいは、根本的には、それが表わしているもとの対象の本質に、それが一致しているのか否かということにあり、この一致・不一致を検証していくことで、真実とうそは、まるで反対のものとなって、あらわれてくる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まちがいです。《真実》も《真実ではないといううそ》もあくまで《わたし》の主観内容にかかわります。
 《うそ》は それをつくとき こころに動揺や不安を自然にともないます。やましさや 後ろめたさをおぼえます。それだけのことです。そういう定義で足りると考えます。
 つまり 本人は 絶対的に知っています。死ぬまで知っています。

 たとえば このように定義したうその場合には そのウソが《表わしているもとの対象の本質に、一致している》にもかかわらず 本人が知らずにいて・従って勘違いによって自分の内面ではウソだと思っていたという場合さえ含みます。
 従って わたしのこの定義の場合には あとで そのウソが その悪影響が少なくて済み軽かったとか ウソ自体は軽いものなのに思わぬ悪影響を及ぼしたとかいう結果をともなったとしても とりあえずには問いません。一般に自己表現という行為において おのれの主観として自分の心や意志を曲げたという判断かつ実行のことを言います。

 これが《うそ》の問題です。
 一般に《無効》の行為は このウソから出るものと考えます。
 自分のにしろ相手のにしろその存在を抹殺するというウソは 意志行為であるにもかかわらずもはや人間の意志行為だとは見なされない。つまり 無効だと判断する。
 このようにザビーヌ事件を無効と判断することは なぜいけないとなるのか? なぜ哲学としての判断ではないのか?
 このように問うています。どうでしょう?

 * 次の《信仰》についての定義は ひどすぎます。
 ▲ (【うそと真実の弁証法】p.12/12)~~~~~~~~~~~
 宗教は、信仰をもってするもので、信じることが肝要である。
 信じるとは、知的なせんさく・懐疑を停止し、与えられた主張・真実といわれるものを、そのままにまるのまま素直に受け入れることである。
 真理・真実は、知的ないとなみのもとにあるのだが、宗教は、この知の働きをいわば信というマヒ剤によってマヒさせ停止させるのであり、うそであっても、無批判に受け入れていくことになる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《信仰》は 知性ないし経験思考が及ばないところについて――もしくは 及ぶか及ばないかが分からない領域について――つまりは従って《非思考》として わが心にかすかに捉えたかに思える志向性のことです。こころの窓のことです。
 《宗教》は この信仰を二人以上の人間が 互いに同じものとして持つと強引に見なすところから――つまりは 錯覚を現実だと言いくるめるところから――出発するまやかしであり ウソの意志行為です。
 宗教にかんしてわれわれは決して《無批判》ではありません。と言うよりも その出発じたいが 信仰の自殺行為です。組織をつくるときから 無効です。
 《信仰》は 非思考ですから なぞであり つねになぞです。むしろ《懐疑》しつづけます。あらゆる懐疑をもってしても なぞであり続ける領域について 《わたし》が相い向かうとき こころの明けもしくは伸びとして 信仰が芽生えます。その内容には 大きく分けて有神論と無神論とがあります。有神論の中に その神の名をどう呼ぶかで いくつかの信仰形態があります。この信仰の形態別に 無効の行為として宗教が発生しています。

補足日時:2010/03/05 23:04
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