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子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。
そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。
毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。
11ぴきのねことへんなねこ
11ぴきのねことあほうどり    馬場のぼる

ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。
私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。

あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。

「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、
「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。

勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。
でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。

両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。
両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。

あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。

子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。
子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。
例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。

「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。
そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。
(ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??)

そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。
この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。

11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。

よろしくお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

こんにちはー。



先の投稿は別にして、この本図書館で読んでみました。
UFOの話の方です。
で、感想です。
暖かくかわいらしいと思うのは、僕は猫が自己肯定できてるからだと感じました。

この猫たちには、理解も共感もないですが、別になくてもいいと思います。
理解しなくても共感しなくても、なんというか、受容というか、分かってるというか、
それがあれば、あとはやりたい放題していいんだなーと思います。
暖かいのは、いわゆる愛ですよねー。
愛は、言換えると言葉で表現すると、なんにもないことだし、この童話の話にぴったり当てはまる概念だと思います。
無でもいいと思いますが。

わかり合えなくても思い合えるーー
この童話の場合、みんなにたような性格の猫ばかり、のような気がするので、
理解や共感を意識的にしなくても、お互い相手と自分を了解できてます。納得、あるいは受容です。

でも人間の場合、その性格と環境の幅は、この猫とは比較にならない多様性があります。
その多様性ゆえ、ものすごく複雑な文化も創り上げていますが、それ故相互の了解は、ずっと難しいです。

相互に相手を、あるいは自分を了解できないときに、理解や共感で乗り越えよう、とする努力も猫の場合とは比較にならないやろうなーと思います。

多分、理解や共感が本質だ、という誤解があるのではないかしら?
それらは、手段だと思いますー。本質ではないので、状況次第ではなくてもいい、という物ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

>多分、理解や共感が本質だ、という誤解があるのではないかしら?
>それらは、手段だと思いますー。

本質ではないのは何となく分かるのですが、では「何の為の手段?」としばし悩みました。
先に上の回答への返信を投稿した後に戻ってみたら、何となく、
「関係を滑らかにする為の手段」かな、と思いました。
若しくは、関係を潤滑にした事での「生き易く生きる為の手段」かな、と。


ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/17 12:15

ちょっとつけたしです。



善意で行う、というんは、ダンテさんの言葉です。
地獄への道は善意が敷き詰められてる、という感じのです。

あと、質問の3つのうちで、僕は断然関係性が好きです。小さいころから関係こそすべての本質だと感じます。
人間の一番基本的な性格分類、のつもりです。
哲学する人には、存在(自己存在)が大事、と思ってる人が多いみたいです。
もうひとタイプが現実的な人、リアリストさんです。
わかってるとやり取りが楽です。
質問の意味説明でした。
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この回答へのお礼

>関係こそすべての本質だ

光明灯るお言葉ですね。
自分の存在から全ては生まれて来ると言う意識が、社会生活に置いてとても有力に感じます。
望む未来の関係から、現在の己の言動を逆算して来た私としては、結構やり難く分かり難い感覚です。

ひとりの人間から端を発する「関係」の糸が無数になってしまっている現代では、「(自己)存在」に重きが置かれざるを得ないのもうなづけるところです。
それ程に、関係の膨大さで(相対的に?)存在が弱体化されてしまっている、と言う所かも知れません。

こう考えて行くと、私ってかなーーり、原始人?的性格なんだなあ、とか思います。
原始コミュニティーであれば、なんだかとっても居心地よく居られそうな気がします。
現代にそれを望み現実化するならば、引きこもりとなるのでしょう。
うん、まさにそれをやっているところですが。、。苦笑

無理無く私らしいのは「関係重視」です。
ホント、自己存在は関係の中に浮かび上がって来る程度で構わないのです、私としては。
でも、それでは現代社会の中を私として「私らしく」生きる事は叶わなさそう。。。

現代の膨大な関係の糸の中で、私は私として既に野心を生み出してしまいましたので。

難しいです。。。

お礼日時:2010/05/17 11:59

こんばんはー。



>ねこたちは、ひとそのもの、私そのもの、読み手そのもの
そりゃそうですねー。
感情移入して読むのが当り前ですし。ちょっとはっきりさせたかったんです。
この本を何度か読んでみて、これを読んであったかみを感じる、というのは、なんなのだろう? 感性が豊かなのかなと思いました。

付け加えると、無理解っぷりが暖かいのは、無理解でも生活が上手く言っている、という事実があるからですね、本の中で。
自然体で生きてるときが一番上手く行く、という意味も含まれてるかもと思いました。自然体といっても、深い深い深層心理まで含んでの自然体ですが。

僕個人としては、中心一番重要部分だけ押さえれば、そんな考えることはないと思ってるので。趣味で考えるのは別だけど。

>含蓄ある言葉
そんなたいそうなものじゃないんですが、僕が、そもそも死ぬのが怖くて長年悩んだので、こういうテーマは、よく考えました~。



>穢れ
そういうのはありますねー。全く自覚のないうちにいつの間にか心に忍び込んで偏見ができてる、というのはあります。
ねこには本当に深い心のところまでそれがない、やりたいほうだいですが

女性特有の差別は、僕も母に言われるまで知りませんでしたが、わかるようになるとすさまじいわこれは、というのが実感です。人間って馬鹿なのね・・うる。でも歴史を積み重ねてきて少しずつ賢くなってるはず・・。というか人は善意で差別するので、なんともいえません。僕も人のことは言えません。

この固定観念に乗っかって安易な判断は、多分一切してないんじゃないかしら? 
固定観念だらけの人がやりたい放題のときは、極端な話悪逆非道の限りを尽くす、しかも善意であるいは仕方がないといって、みたいなこともありえますが、猫たちはゆがみを与える既成概念から自由なので、いいですねー。


上の自然体とは、人間が安易に物を把握するために作り出したさまざまな固定観念からも自由なことを意味するのかな?と思いました。
この本のねこの世界は、人間世界みたいな言葉が言葉を作る、といいますか、うそがうそを産むようなややこしさはないと思います。
うそというと人聞き悪いですが、猫は勝手気ままが故に地に足がついている。人間は、言葉が独り歩きして遊離する、というニュアンスです。複雑な脳という道具を使いこなしてこそ人間だとは思うんですが・・

>「当事者」と「当事者以外のひと/存在」
そういうキーワードですかー。
もしよければ質問ですが、yukkinnさんは、存在と関係と現実では、どれに一番こだわられますか?

では。
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この回答へのお礼

遅くなり過ぎました。
いつもありがとうございます。

>無理解っぷりが暖かいのは、無理解でも生活が上手く言っている、という事実があるから

これは現実の生活でもままあることですね。
まあ、「理解し合っている」と思って互いに生活して来たのに、ある時ふと何かの切っ掛けで「なーーんだ、全然違う事考えていたんじゃん!」って気付く事。苦笑
そうしたらまた、理解を求め合えば良いのであって、手と絆を繋ぎ直せば良い訳で。

気付いた時には修正不可能なレベルの無理解は、そもそも気付きの切っ掛けがそれ以前にあったのではないか?とも言える訳で。

>自然体とは、人間が安易に物を把握するために作り出したさまざまな固定観念からも自由なこと

安易に把握を試みるのが問題なのですよね。。。
私にも憶えが多々有ります。
大抵過ぎてから気付くので、毎度後追いで後手後手です。
それこそが「成長」であると言えば聞こえは良いですが、どうなのでしょう。。。汗

>存在と関係と現実

私は現実は「現実じゃないかもしれない」とか、いつもふぁんたじー(苦笑)な事を思っていますので、現実は最後です。
次に存在と関係。。。。

私は私と言う存在を「器」のように感じております。
そして、いつも何となく己を軽んじています。信用していない。
だから、一番重要視しているのは「関係」だと思います。

でも、一番重要視「したい」のは、存在かもしれません。。。

お礼日時:2010/05/17 11:43

>すっかり放置状態になっていました事、申し訳ありません。



いや 私も返信来たよメール来るまで忘れてました。


>きぐるみ様はアニメにお詳しいですよね。

いや広く浅くをモットーとしているので、どのジャンルもかじる程度です。


>「ブレイブ・ハート」の映画で発狂しかけた人間です。

ああ キリスト教圏で行われていた処女権を題材にしたものですよね。
本当にそんなことがあったのか と観たあと調べたことがあります。


>性が絡むといつもの屁理屈思考が吹っ飛んでしまいます。

私はあまり質問しないのですが、最初に質問したのが、日本のキリスト教徒は本当に日本女性を海外に売り飛ばしていたのか?って内容でした。
すっぱだかで奴隷市場に鎖でつないで日本女性を売っていたってほんとう?
日本のあちこちの豪族に兵器を売りつけお互い戦わせ内乱をおこしてもらい、兵器の代金としては若い日本女性で支払ってもらい、海外に売り飛ば現金化していたって本当? という質問でした。
強そうな豪族に加勢をしてキリシタンにして、その人を日本のトップに座らせ、日本をキリスト教国にしようとした過程で起こったとされるキリスト教の人身売買問題。
使節団の訴えの文章はローマ・カトリックの図書館に残ってはいると思うんですけど開示されないみたいです。
天正遣欧少年使節がその旨を書いてやめろと教皇に宛てて直訴した書簡が実在するのか、つかめなかった。


この後、ねこたちはやっぱりひょうひょうとしたのでしょうね^^

満足だったでしょうね。
食べないで持って帰ってみんなで少しずつ食べるようにすれば、「いい猫だぁ」って褒められるわけですが、「少しじゃなくてたくさん食べたい 今食べたい」「みんなに大きな魚をつかまえたと自慢したい」というのを満たすには、今たらふくたべて、捕まえたという証拠として骨もってかえればいいわけです。

名誉とか見栄より、現実問題が子供は大事。
大人になるとしがらみがあって、不必要な見栄とか名誉を選ぶから、欲求不満になるが、子供はそんなもんいらないんので、食べちゃうことを選ぶわけです。
素直といえば素直。
この子供の頃の心を思い出すってのが、その童話じゃないかと。


>私は、Iの結果をmeと照合して反省会、でしょうね。。。

いやいや 新しいIを作るのが健全な成長らしいです。
例えばお母さんが学校から帰ったら宿題をしなさい って要求するとする。
帰って宿題をするいい子というのはお母さんからみた自分と 思われる(me)
でも、アニメも見たい(I)
両者を満たすには、「このアニメが終わったらご飯の前までに宿題を終わらせる」とお母さんに言う。
Iもmeの欲求も満たす新たなIを形成したわけです。


>「囚われている」「支配されている」「後悔している」
>この手の言葉。この表現で自分を表す事に、自分が反乱を起こします。

じゃあ 一見妥協しているようで、実は譲歩で新たなるIの獲得ってことにしたらどうでしょうか?
妥協は負けですが、譲歩は余裕があるからできるわけで。

他人が望む自分になると、自分じゃないじゃないですか。
しかし、他人が望む自分がどんなものか知りつつ、自分らしさを保つってのは、支配されているわけじゃあない。
知っているのと知らないのとではずいぶん違うわけで。
自分の置かれている立場を第三者的に遠くから眺め、ふむ って思って生きればいいんじゃないかと。
結局、他人はあなたの幸せを作るってのは不可能じゃないですか。
あなた自身が満足していなければ、他人は満足かもしれないけど、あなたは不満足。
しかも他人の欲求を満たしたとしても、それがあなた自身の問題なら、決して他人の満足は満たないわけで、他人は不満足のままなので、「もっと もっと もっと」とあなたに要求することになる。

例えばAさんは不足感を感じて、Bさんに「食べろ」と要求し、Bさんが食べても不満。
もっと食べろ とイライラして言う。
でも いっくらBさんが食べても、Aさんのおなかは満足することは決してない。
自分が腹が減っているのだと気づいて自分が食べないと。
なのに気づかないってのは錯誤が起こっているのだと思います。
その錯誤を起こしている人の言うことに振り回されると、自我を失います。
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この回答へのお礼

すっかりお忘れの質疑と思います。
いつも丁寧にありがとうございます。

今回のきぐるみ様とのやり取りで、今度心理カテにでも論点を絞って自己分析質疑でもお願いしようかしら、と思いました。
質疑の中心とはずれていくので悩む所ですが、お聴きしたい事が次々に出て来てしまって、
でも、質疑とは関係無い、、、、どうしよう、、、って。苦笑

>「このアニメが終わったらご飯の前までに宿題を終わらせる」

そう言う組み立ての出来ないこどもでした。私は。
アニメを見た後に宿題が不可能なんです。
アニメの世界に入り過ぎて戻って来られない。。。
だから、せいぜい夕食でも食べて肉体刺激で意識変換しない限り現実回帰しない子でした。

宿題をすれば、何かしらないけれど細かい所が気になって終わらないし。
まあ、宿題=あまり楽しく無い、と言う刷り込みの御陰で余裕しゃくしゃくな時間確保でなかったのが救いです。

>じゃあ 一見妥協しているようで、実は譲歩で新たなるIの獲得ってことにしたらどうでしょうか?
>妥協は負けですが、譲歩は余裕があるからできるわけで。

言葉は単なる手段で道具でしかないのに、時に大きな力を発揮して人を救いさえします。
きぐるみ様は「言葉の力」をよくよくご存知なのですね。

乱高下の激しい時期の最中に、直接のやり取りが出来ました事、嬉しかったです。
重なる無礼をお許し頂けましたら幸いです。。。

お礼日時:2010/05/17 11:22

追加しますねー。



僕は以下のように思うんですが。極論です。
お礼の文が生死に傾いてる気がしたので、なんかこの場に乗じて・・


僕の感想では、残酷と感じるのは、現実から逃げてる、とも見ることができます。
つまり死んでいく鳥に失礼かもしれません、たぶん。辛い中で死んでいったんだ、と相手を決めつけるのは、相手を勝手に不幸扱いするのは、失礼かも・・
だから僕はお葬式で「忌中」とかくのは本当に失礼だと思っています。死者を冒涜してるんじゃないかしら? たぶん・・ 死んだ後、忌まわしいと言われる身にもなって欲しいもんです、ほんと。ぷんぷんです(僕も心せまい!)。残った人のためだとは思いますが、死んだ人がどう思うかの想像力に欠けてると思います。 昔から言うところの、穢れ、ですね。

死を慈しみ尊ぶ気持ち、命の尊厳があるなら、多分そういう感想にはならないんじゃないかなー?

それがまさに お遊びや幻想、というよりは、ヴァーチャルリアリティーだと思います。
ヴァーチャルリアリティーは、本当の現実にはかなわないと思います。

残酷と感じるまさにその時は、僕も猫やアホウドリの気持ちが分かってないのではないかな?と自分で思います。
なにも考えてない、とも言えますが、人間がそれをやるなら、ありのままとか、受容と言いますし、難しいです。
外から見ただけの判断は止めて事実を死を見据える勇気を持ちたいなーと、自分に言い聞かせるところです。なかなかこの癖は抜けないですが・・極限、これは癖だし変えられると思います。
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この回答へのお礼

遅刻魔で気まぐれな質問者に、丁寧に毎度ありがとうございます。

>残酷と感じるのは、現実から逃げてる、

心のうちに行き来する思いに「残酷」と言う名前を付けた時点で、現実を切り分けて都合よく加工している感じがしますね。
でも、そもそもが「言葉にする」段階、或はその前「見る」段階で、既に切り分けと加工は施されている訳です。

つまり、当事者以外ははなはだしく我が侭勝手、なのでしょう。。。

>昔から言うところの、穢れ、ですね。

ふっ。。。
私は女です。
穢れの筆頭に上がる存在ですね。。。
体の変化のまっただ中の中学生当時、源氏物語を読んで、帝が危篤の桐壺更衣を宮中から下がらせる時の涙に怒り心頭!でした。
死=穢れ、とするからこその決まり事。
「穢れ」について調べたら、真っ先に「女性」と上がって来て、
その理由が、月のもの、とある。。。
「ああ、私はけがれているのね」と理不尽さ?に泣いた記憶があります。

話がそれまくっています。大汗

キーワードは「当事者」と「当事者以外のひと/存在」かもしれませんね。

お礼日時:2010/04/10 12:47

こんばんはですー。



お礼の文を読んでると、ちょっと細かい話になってきて、これ本読まんとあかんかもーと思えてきました。
本屋さんー、たぶん駅前にあったし、機会があれば・・

実のところ読んでないので、ほのぼのかわいらしいをやはりよんで感じないとねー。

というので、問題ないところで、
>もしも、ねこたちがあほうどりを食べちゃって、
それが故に「残酷な現実」を感じ取るとしたら、
その現実は、sheep67様のおっしゃる「お遊び(=幻想)」でしかないのでないか?
猫が残酷な現実を感じるんでしょうか? yukkinさんのことですか?
猫はそもそも感じないと思いますが。
サバンナと同じで、それを観察あるいは体験する人の問題だと思います。当事者である猫も、食べられるアホウドリも、それは思わないんじゃ?
食べられたくないから全力で逃げて、捕まったら食べられる、それで終わりです。
というか、それを気にして僕もこうやってそのシーンを描写するのはほんと人間らしいですが。
まさに、生きてる間を気にしないで、生と死を気にする人間らしい、と言えばそうですし、極限を考えることができるのが、猫や鳥と違う、人間の特権ですねー。
極限ー生や死のことを考えることで、混乱している人間の有り様は人ごとでなくよく分かります。

無邪気の素敵さがいいんでしょうかねー?
読んではないですが、猫も擬人化されてるところがありますか?
いわゆる本当の自然の猫と違って、僕も少し混乱しそうですが。
やっぱり読まないと、これ以上言えないかも・・
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この回答へのお礼

すっかり遅くなりまして申し訳ありません!

>猫が残酷な現実を感じるんでしょうか? yukkinさんのことですか?

これ、拝見して、「むむっそう言えばどう感じたんだ?誰が??」となり、
頭がストップしておりました。。。汗

うう、、あ、、、思いっきり「ふぁんたじーー」な事を言わせて頂ければ、
このねこたちは、ひとそのもの、私そのもの、読み手そのもの。
。。。だめでしょうか?苦笑
物語に入り込み、とけ込み、漬け込まれて、すっかり美味しくなってしまう私です。
論理的思考の欠片も無い。。。。爆笑

>極限を考えることができるのが、猫や鳥と違う、人間の特権

そうですね。。。
「問う」と言う行為それ自体、可能とするのは人間だけなのかも知れませんね。

>生きてる間を気にしないで、生と死を気にする人間らしい、

うーーーーん。。。
含蓄たっぷりのお言葉をありがとうございます。^^

お礼日時:2010/04/09 17:20

こんにちは。


いつものごとく、何ら哲学的な見地からは程遠い回答で、ごめんなさい。
単なる感想文にすぎません。

さきほど「11ぴきのねことあほうどり」を本屋で一読してきました。
長らく愛されているロングセラーのようですね。
私自身、初見でした。

>「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。
>この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。

はい、あの絵本の魅力の一つとして、気負いのない絵のタッチが挙げられると思います。
ひょうひょうとした顔のねこたちが、風の向くまま気の向くまま、
絵本の中で縦横無尽に動いていますよね。
ラストの大どんでんがえしによる意外性も、もちろん魅力なのでしょうけれども。

あの絵は、一筆書き出来そうなほどにしなやかで気楽な感じ、
それでいて、どことなく≪笑い≫を誘い出していますよね。
やはり、一般的な童話絵本の挿絵以上に、漫画風に視覚的に訴えるところ(情報量)が大きいのではないでしょうか。
そしてあの独特の世界観、おっしゃるところの「温かみ」を醸し出す上で、欠かせないように私の目には映るのです。

でも仮に、ねこたちの絵を省き、字面だけ純粋に追うとするのなら、どうなのでしょうね。

追憶と過去を交差し志向させるように、読み手の内的心性に訴えかける昔話や童話とは対照的な、
冒険譚に必要不可欠な外的志向性/自発性に富んでいる絵本であるということ。
そしてその性質が、時に社会道徳や他者からの評価からの束縛を受けず無縁のものであり、
むしろ現実のあるがままを受容することにより得られるであろう心地良さが、
おっしゃるところの「温かみ」として感じられるのかもしれないのかなと思いました。
「無理解と共感の欠如」の状態も厭わない、まあ、それでもいいじゃあないの、という感じでしょうか。

それにしてもあのねこたち、
読者をさんざん楽しませ笑わせてくれて、「次は何しよう?」っていう感じに、
ち~っともへこたれちゃあいないのですから(つまり一連の続編の存在) 
ほんと、たいしたものですよね。

だけど、なぜ11匹なのでしょうね?
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この回答へのお礼

ましゅまろほわほわ^^ありがとうございます。
コーヒーに溶かすと美味しいだとか、、、お人柄そのままな気がします。

わざわざ書店に足を運んで頂いたとの事で、ご厚意に報いるべく、返信を焦っておりましたが、言葉がちゃんと整列してくれず、、、整列させようと言う意志を放棄した質問者の、いつもの遅刻癖をお許しください。

もう良い加減、壊れる前に思考のコントロールを辞めなくっちゃ、と考えた末の整列意志の放棄です。
ですので、脈絡がアヤシい文章となるかも。。。
適当にお読み下さいませーー

>あの絵本の魅力の一つとして、気負いのない絵のタッチが挙げられると思います

何かと文字情報に縛られがちな私に、新たな風。
どうして「思っても見なかった視点」と言う物はこうも暖かく感じられるのでしょうか。
この暖かさはそのまま、質問を立ち上げる時の疑問点でもあります。

昔話や民話、寓話、童話とは、元々が「現実世界の厳しさや残酷さを教える為に書かれた」と言う説を何処かで見た事があります。
「本当は怖いグリム童話」とか、以前流行った時期がありましたね。
そう意識して読んだ訳では無いけれど、「赤い靴」や「スーホの白い馬」、「安寿と厨子王」あたりの「人の死」が絡んで来る物語は、子ども心に「解けない謎」の感覚を残しています。、

>でも仮に、ねこたちの絵を省き、字面だけ純粋に追うとするのなら、どうなのでしょうね。

字面に囚われがちな癖に、絵本を選ぶ時は、今も昔も「絵」なのですが。
それゆえ、好みの絵で無かった11匹のねこシリーズなのです。
それなのに、結局気になるのは「物語」と言う文字情報。。。
公平性を欠く思考だなあ。。。と思います。苦笑

読書を始めると途端に、自我境界を失うように思える私。
(元々世界と繋がる力が希薄なようです)
境界を失って(と思って)感じるものが、共感なのか?自らの記憶との擦り合わせなのか?それとも全く別のものなのか?

現状として、ばばばあちゃんシリーズを読んだ方が良さそうな質問者です。
ご存知でしょうか?

>だけど、なぜ11匹なのでしょうね?

ホント。
とらねこたいしょう以外のねこたちは一緒くたにされている感じです。
いたずらをするのに必要な頭数、でしょうか。^^

ありがとうございます!

お礼日時:2010/04/02 14:33

>そうは言ってもきぐるみ様の回答は、私にはどう読めばよいのか?どう読んでほしいのか?がうまく掴めないのです。



アニオタの話は同じアニオタしかわからない。 みたいな感じ?


ゲド戦記って読まれたでしょうか?
ファンたちは<帰還ー最後の書>が出版されたときブーイングを起こした。

『俺たちは魔法の力を失ったただの男の話など聞きたくもなかった。男たちにレイプされて殺されそうになった女の子の話など聞きたくもない』

そのようなブーイングを起こした読者たちに、筆者は必死に説明を試みたそうです。
日本語に翻訳した清水真砂子さんは「I know,I know だからもうやめて」と言ったのだそうです。
私もI Know(見える)です。


>きっと、好きに読んで!ってお考えなのでしょうけれど。。。

読者が作者の意図したものとは遠く離れてものを感じてしまった場合は、作者に世界を描く文才が無かったか、もしくは読める人が読めがわかる賞を取るほどの高度な作品か、どちらかですね。


>いつも「相手の期待」に添って動いて来ました。

meですね。 相手にとって私I(つまりme)はどうであるべきか を考えて行動していたわけですから。


>その期待はどう読むか?となると、本から引っ張ってきたり、道徳や倫理から引っ張ってきたり、、、

うん あんぱんまんの欲求を満たせないとバイキンマンと呼ばれる。
しかし、あまりにもあんぱんまんが強くなりmeだらけになると I(私らしさ 私の個性)を喪失してしまうんです。

思い出しましたが、11ぴきのねこは、他のねこたちに大きな魚をつかまえたことを自慢するため、戻るまで食べないでおこうとしたんですよね。

「よくやったね」ってあんぱんまん すなわち親 に褒めてもらうつもりだった。
親の望むとおりの子供になれば、親から褒められる 愛される 安心だ。

でも 結局 自我を完全に奪われたわけじゃないので、自我は「食いたい」って強く求めるわけです。
親に愛される自分(me)の欲求と 私(I)の欲求とのぶつかりあいが夜で表されているのではないかと。
だって見えないから夜?

超自我(あんぱんまん)とエゴ(自我)の戦いののち、エゴが勝ったから食っちゃった。
親に褒められる自分じゃなくて、自分らしさが勝っちゃった。

という作品かな?


>無理解に出会った時、私はとてつもなく否定的な感情に捕まってしまう事が多いです。

他人をあまりにも過信しているからじゃないでしょうか?
奪われた自我を取り戻し、自分に自信を持たないと。


>まるで、無理解など有ったのか?無かったのか?すら忘れてしまうような、変化の無さ、なのです。
>その様子が、私の経験と照らし合わせて相対的に「暖かい」と感じたのです。

ヒルベルの作品の終わりも、暖かいというか、それに似た静けさを感じました。
芥川龍之介の地獄変の終わりの方もそんな感じ。

狂気が去った後の世界。
ヒルベルが狂気だって言っているんじゃなくて、ヒルベルを処分した人達が起こしたのが狂気。
まともな人の中にある狂気。
圧倒的な破壊力を持っていたのはヒルベルじゃなくて、彼を取り巻く人たち。
神ですから、通り過ぎるまでじっとしているしかない。
神が去ったあと、緊張がほぐれて暖かさを感じるのではないか と。


>あ、、、もしかして、コツは「適当さ」なのかしら。。。。

感性じゃないかと。
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この回答へのお礼

きぐるみ様、また来てくださりありがとうございます。
すっかり放置状態になっていました事、申し訳ありません。

>アニオタの話は同じアニオタしかわからない。 みたいな感じ?

きぐるみ様はアニメにお詳しいですよね。
私はそこそこ、、、程度です、アニメ好きなのですが。
エヴァは、、、丁度チルドレン世代なので、見ると切り込まれ過ぎて落ち込みます。苦笑

ゲドは未読です。
読まなくって良かったかな、と思いました。笑
「ブレイブ・ハート」の映画で発狂しかけた人間です。
性が絡むといつもの屁理屈思考が吹っ飛んでしまいます。
どうにもならない厭な記憶と照合される所為です。。。

>超自我(あんぱんまん)とエゴ(自我)の戦いののち、
>エゴが勝ったから食っちゃった

この後、ねこたちはやっぱりひょうひょうとしたのでしょうね^^
Iの結果とmeが葛藤するなど、このねこたちには起こりえない事のように思えます。
「食べちゃったーーあー美味しかった!!あはは」かな。

私は、Iの結果をmeと照合して反省会、でしょうね。。。

>他人をあまりにも過信しているからじゃないでしょうか?

そう言うつもりも無いのですが。。。つもりだけなのかなあ。。。
只、、、「予想外」に弱い思考故、「そう思われているとは知らなかった!」と言う時の衝撃が倍増すると言うか、これ迄の関係の蓄積を全て洗い直してひっくり返す作業を、頭が勝手に始めてしまうので、衝撃を自作している気もします。。。

>奪われた自我を取り戻し、自分に自信を持たないと。

「奪われた」のでしょうか?
この質問と同日にライフカテゴリにて別質問で軽く炎上を起こしました。
「囚われている」「支配されている」「後悔している」
この手の言葉。この表現で自分を表す事に、自分が反乱を起こします。
自分で自分の状態をこれらの表現で認識する事を、おそらくIが全力で拒みます。
ものすごい屈辱。。。だそうです。。。

奪われた、、、と認識すべきでしょうか?
そうしなければ、取り戻せないのかな、、、奪われたとすると。
奪われた私も、奪った人も、共に屈辱的だなあ、と思ってしまいます。

>感性じゃないかと。

自由に感じ取る力。。。感じて動く心を見つめる力。。。
行動の前の取捨選択に手間取っているなあ、と常々思う質問者です。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/27 03:23

すんません、


長文になったのは、下手な鉄砲数打ちゃ当たるで、思いつくままです。
性格環境の違い等で言葉が通じないのはよく経験するし
とにかくいっぱい書けば、どれか一つくらいましなのもあるかな・・という書き方ですから。
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こんばんはです。

お久しぶりでしたー。


>世界は世界のまま
>無思想、無思考、と言う感じ
言ってることは解るんですが、矛盾はしないはずです。
なにも考えず、つまりもう任せてしまう、というのは、信頼と裏表の同じことじゃ? 信頼しても、何もやらなくていいし、自然や流れに任せても、何もやらなくていい、結果が同じなら、見かけの概念が違っても同じ、と思うんだけど・・
ケセラセラと信頼は、見掛け違って中身同じ、と思ってます。


罪悪感ーー例えば、サバンナを弱肉強食の掟が支配する、なんて言ってるのは人間だけで、当の動物はなんも気にしてないんですから、おかしいもんです。おなかが減って狩りをするのは、おなかが減ったからであり、相手が憎いからじゃないですし。必要だから食べるのだし善も悪もない。だからサバンナは、怨嗟の炎が渦を巻く地獄・・にはなりません。

他には、秋に枯れる葉っぱが、「まだ死にたくないんだー!」とかいいながら散っていくわけでもないし、人間の脳みその妄想にかかったら、秋のもみじ葉の風流でさえ、ばたばた葉っぱが死んでいく光景にも見え、枯れ葉は累々と横たわる死体です。
そんなけったいな想像力を持てるのが人間の特権ではありますが。でもそれはお遊びだなーと思います。エンターテイメント?

この間万博のエスキモー展に行ってきて、エスキモーの人は、獲物は自分のために、罠にかかってくれるんだ、だから必ず祈りを捧げて食べると書いてありました。本当にうらやましいし、命にそれだけの全力の敬意を払える文化がうらやましい。

それは、人間の特権意識かなー、植物動物とは違うと思うからと思うあまり、同じ所まで、違うと勘違いしたのでは?
動植物と人間は、違いますが、進化の延長線上でつながってますし。


真、善、美、正義、論理的整合性というのは快感だし、
その逆は不快感です。フロイトさんの言うとおり、大人になってもそこは変わりません。
快感に快感以上の価値を持たせるのは、確かに人間の特権だし、それで複雑な社会も作れますが。
猫は、おそらく、快感を快感以上の何かだと思う知恵はないでしょうねー。好き放題やっていたら、楽しい、暖かい、それは、人間も同じですし。もともと、そうできてる、と思います。上のような、人間特有の、変な演出や知恵や概念を気にしない限り。



最後大難問書いてはりますねー。
無意志が暖かいということは、意志は冷たい言うことですね。すごいわかります。意志だけが単独であるのはいやです。感性も伴ってないと、寒々します。猫と違って人は意志は捨てられないけど、それに並び立つ感性や共感(変化の理解)があると、結果的に意志もなくなったように見えます。
コントロールですか・・これも、コントロールを捨てて任せるのは、確かに滅茶苦茶怖いですねー。はい本当に怖いです。

無意志で世界を受け入れると書いてはりますが、受け入れるのは、すごく意識的な、意志の極限だと僕は思うんですが・・視点の違いかな?
バンジージャンプみたいな。
無意志で世界を受け入れた先が、自分が元、あるいは昔いた場所だ、と思いません? 僕は思うんですが・・
ちなみに、世界とは何か?というと、世界は感性とおもいます。
時間変化に伴いどんどん変化する感性に対応してますし。
だから世界の受け入れは、感性の受け入れ、自分の半身の受け入れじゃないでしょうか?
それが本当に自分に必要だと確信しないとそんな怖いこともできないし、確信したらその確信が気合いをくれますし。


本来動物みたいに、お互いありのままでいようねー、というのが当然の共通合意になってる状態でなく、
上に書いたみたいに、人間はただの楽しみに、いろいろ付加価値をつけて、あたかもそれが実在かのような演技をしてます。ヴァーチャルリアリティーです。

いつまで弱肉強食の演技をするか、できるか? というところですが、
僕自身は、愛情や相手への感情移入を強める、自分の壁を壊すくらい理解を強めることで、結果的に意志の自分を手放そう、という方向性だけど、これは個人的な方法論ですし、
あまり具体的な部分は、人の性格の違いも出るので、わからないですが。

世界を受け入れていない状態と、コントロールを続けるしんどい状態は同じ物と思います。経験上。
世界を受け入れてないと、世界は自分の把握し操る対象となりつづけますし、しんどい作業が続きますねー本当に!

今は議論されるほど元気じゃないんですかねー? 疲れておられるんだったら、少し癒されてから、の方がいいんだろうなーと余計なお世話ですが。まあでも書き込まれてるのなら、大丈夫かー。


崩壊は言葉の問題ですが、受け身でそれをやらされるのじゃなく、上のような確信と主体性があってやるなら、それは自分が消えることにはならないと思います。別のタイプ?の自分になるのでは?
無意志という意志、みたいな・ この辺は、極限の話です。


以上全く個人的意見でした。
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この回答へのお礼

sheep67様、再回答ありがとうございます。

>なにも考えず、つまりもう任せてしまう、

そっかあ、「任せる」つまり思考後の行動を含んでのお考えですね。
11ぴきのねこたちは、結局「何も起こらなかった」んです。
あほうどりを食べたいねーって話しながら、結局食べられなかった。
水玉猫の宇宙船を横取りして宇宙旅行に行こう!って話してて、結局行けなかった。

うーーーん、私の思考って、かなーーり偏狭です、狭量です。

でも、例えお話の先に、あほうどりがねこたちに食べられちゃっても、
水玉猫が宇宙に帰れなくなっても、きっと私が受け取った無意志の暖かさ?は変わらず感受したように思います。
だから、思考後の行動や結果もが、私の思考から漏れていても、
質問としての意義が無くなったり変わったりは、しなさそうですね。。。

>おなかが減って狩りをするのは、おなかが減ったからであり、
>相手が憎いからじゃないですし。

ねこたちがあほうどりを食べたかったのは、コロッケに飽きたからであって、
あほうどりが嫌いだからでは無い。
まあ、あほうどりの身になって考えちゃ、いないけれど。

>だからサバンナは、怨嗟の炎が渦を巻く地獄・・にはなりません。

だから、あほうどりがねこたちに食べられちゃったとしても、
この絵本は「残酷な現実」を描く絵本、にはならない気がするのです。

>でもそれはお遊びだなーと思います。エンターテイメント?

もしも、ねこたちがあほうどりを食べちゃって、
それが故に「残酷な現実」を感じ取るとしたら、
その現実は、sheep67様のおっしゃる「お遊び(=幻想)」でしかないのでないか?

理論としてそう思うのではなく、無理も何もせず、この屁理屈屋さん?の私にそう感じさせるこの絵本のちから?は何なのだろう??と改めて思います。
無力のちから?かなあ。。。

>真、善、美、正義、論理的整合性というのは快感だし

快感ですか。。。。すごい。。。そうですね。
快感と快感が相容れない場合、ありますよね?あれはどうなるのかなあ。
そのあたりが「本能が壊れた」所以、でしょうか。。。

この後、色々と書いてみたのですが、見事な散漫っぷりに削除。
後で出直します。
ひとまず此処迄は人目に晒しても良いと思えるので、返信です。

丁寧にお付き合い下さり、ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/19 16:33

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