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子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。
そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。
毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。
11ぴきのねことへんなねこ
11ぴきのねことあほうどり    馬場のぼる

ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。
私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。

あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。

「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、
「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。

勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。
でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。

両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。
両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。

あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。

子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。
子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。
例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。

「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。
そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。
(ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??)

そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。
この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。

11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。

よろしくお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

読んでないので何とも言えませんが、純粋だからじゃないですかね。


いわゆる大人と言うのは、まわりの事ばっかり考えて、自分の意志を押し殺すこともしばしばあります。

しかし、自分の望むままに生きたいのではないでしょうか。
特に、子供っぽい単純な願いほど純粋で強いものですので、
それを美しいと感じるのかもしれません。
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この回答へのお礼

早々に、ありがとうございます。

>純粋だからじゃないですかね。

子供向けだから、と言う視点は省いてお願いしたいです。
あつかましいお願いですが。

純粋で強い、はそうかもしれませんが、
では、自分の丸焼きを想像されて舌なめずりされているアホウドリにとっては、純粋やら強いやら、言っていられません。
でも、両者は思いっきり互いの思惑を外れているのに、ちゃんと共存しています。

絵本を例にしていますけれど、現実社会のさまざまな関係は、実は「互いの思惑を外れているのに成り立っている」ではないでしょうか。

あ、美しいとは思いません。
ただ、「暖かい」と思ったのです。
ねこたちとアホウドリ、あるいは水玉猫の「結局は何も起こらなかった関係」を、美しいとは思いません。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/16 20:46

子供向けの童話は、勧善懲悪もののほかに、大人の常識とは逆転したストーリーのものもあります。



特に逆転の内容は大人たちに癒しを与えたりするので、最近童話ブームになっているのだと思えます。

逆転の内容。
例えば、あんぱんまんよりバイキンマンの方が子供たちに人気がある。
ヤッターマンよりヤッターマンの敵側の方が人気がある。
やっつけられる側なのに、何故もこう子供たちに好かれるのか?

あんぱんまん=大人、バイキンマン=自分 の構図。


11ぴきのねこは歯医者の待ち時間で読んだことがある気がするが、ほとんど内容は覚えていないので、、、


>11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?

ふーん 無理解ぶりが暖かく感じる?
天然さんが人々から愛されるのと一緒かも。

無理解ぶりがイタイものもあります。
<ヒルベルという子がいた>という童話。

孤児で施設にいるヒルベル。
困った子供で、大人たちは手を焼きますが、園長先生だったかな?その人だけは寛容さを持って接していたんです。
ヒルベルのやることは、他の人達には理解されません。
手の焼ける問題児だって思ったわけです。

ヒルベルは他の先生のように自分を叱りつけない園長先生が大好き。
大きな問題をまた起こすわけですが、ヒルベルは園長先生が施設の子を自分の子としてひきとっていると知り、自分も養子としてひきとって欲しいと思ったんです。

だけど、問題を起こしたとき、園長先生は「処置なし」って言ったんです。


・・・・・・・

今まで、ヒルベルの目線になるように腰をかがめるような接し方をしていた園長先生が、かがむのをやめて、立ち上がって大人の視点からヒルベルを見下ろし「処置なし」って判決を下したわけです。
偽善者。
こういう偽善者の方がタチ悪い。 というかイタイ。


「そうじゃないのに  そうじゃないのに そうじゃないのに。ああ ヒルベル ヒルベル ヒルベル」と読者はなすすべもなく泣くしかないわけです。

「かつてここにヒルベルという子がいた」という出だしから始まっています。
「前はいたがもう今はいない」ってことです。
処分されたので いない ってことです。

無理解ぶりが痛すぎる童話です。

ヒルベルが処分され平和が戻りった施設で、ふっと誰かの頭にヒルベルが思い出されて振り返るが、友達に呼ばれて「まってー」って言って、前にいる仲間に合流する風景を想像した。


うわーーーーーん! 
読み終わったあとしばらく泣き続けました。


11ぴきのねこはそんなひねった作品じゃなくて、小さい小魚でも群れをなせば大魚も倒せるんだぞーってことを言っているんじゃないかと。

大魚 つまりヒルベルを倒す。
倒すんじゃなくて、、、ねぇ・・・
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この回答へのお礼

あ!素敵に貴重な方が来てくださって嬉しいな。
回答ありがとうございます。

そうは言ってもきぐるみ様の回答は、私にはどう読めばよいのか?どう読んでほしいのか?がうまく掴めないのです。
きっと、好きに読んで!ってお考えなのでしょうけれど。。。

余談ですが、
私は自分のズレを物心付く頃には意識していたのかな、
いつも「相手の期待」に添って動いて来ました。
その期待はどう読むか?となると、本から引っ張ってきたり、道徳や倫理から引っ張ってきたり、、、まあ、両親の小言から主に構築して来ました。
だから、家族に赤ん坊がやって来るまで、ずっと「子ども」が怖かった。
だって、子どもって何にも期待などして来ないから。
相手の期待が読めないと、私は行動の取りようが無かったのです。

子どもはありのまま、と言うか、見せられたように、と言うか、
良くも悪くもそのまんま、世界を見ているように思います。
子ども本人の感受性に照らし合わせてもいるのでしょうか。。。

>ふーん 無理解ぶりが暖かく感じる?

無理解に出会った時、私はとてつもなく否定的な感情に捕まってしまう事が多いです。
その所為で、視野が窮屈偏屈。世界の見方まで変えてしまうように思います。

でも、「11ぴきのねこ」では、無理解の後先で、世界の見え方が何も変化しない。
まるで、無理解など有ったのか?無かったのか?すら忘れてしまうような、変化の無さ、なのです。
その様子が、私の経験と照らし合わせて相対的に「暖かい」と感じたのです。
私の経験が冷たすぎる(自分で冷たくしている)だけとも思います。

もしも、あほうどりがねこたちに食べられちゃっても、この絵本は淡々と何も変わらず描写を続けそうな、そんな感じです。
距離のとり方が絶妙、と言うか。
世界の眺め方がどうしようもなく寛容で柔軟で、自然体、と言うか。

>11ぴきのねこはそんなひねった作品じゃなくて、

ひねりは皆無、と思えます。
まるっきり「そのまんま」「見えたまんま」。

私も、そのまんまで世界を見ていたい。
無理解も全て、そのまんまで、自分の認識で世界を狭めたり冷たくしたりしないで、ちゃんと感じていたい、と思います。
そのコツ?が、この絵本の適当さ?に見えた気がしたのですが。

あ、、、もしかして、コツは「適当さ」なのかしら。。。。

お礼日時:2010/03/17 20:01

あ、、違った。


ヒルベルはお医者さんの先生の養子になりたかったのに、連れていかれそうになって暴れた。
それをお医者さんは「いつもの発作だ」と誤解したわけです。

ここで腰をかがめて、ヒルベルの話を聞いてあげたら、誤解は解けたわけです。

そのあと薬漬けになってベッドで植物人間のように横たわっているヒルベルを想像してしまう。


カッコーの巣の上でって映画もそうです。
結局、問題を起こし続けるマクマーフィーは精神病ではないが、社会・集団にとっては危険人物だと判断され、前頭葉を切り取られて人形になってしまった。

その他の患者は、処分を免れているだけ。
電気ショックなどをもって治療と称して体罰を与えることで、従順な人に変えようとしている病院側のやり方に、マクマーフィーは立ち向かったわけですが、手術されてしまって敗北。

病院側は決して悪人じゃないわけですが、、、
患者が問題を起こさないでいてくれれば、成果が上がっていると自分たちのやり方の正しさを確認できて、<自分たちは>満足なわけで。

で、結局 植物人間になってしまった処分されたマクマーフィーを見て、彼を助けるために殺して精神病院から抜け出し社会に出たone。
薬で凶暴性が抑えられていたoneをマクマーフィーが覚醒させてしまったわけで、これもまた怖いわけで、、、、
難しい問題なわけです。
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こんにちはー。



おこり地蔵は、人間にとって何が大切かを示唆する話だと思います。
だから、おこり地蔵と、この猫ちゃんの話は、何が大事かを指し示す、という意味で同じものを表現してる、と、しばらく考えて思いました。

当初は、質問者さんの言われるとおりと思ったですが。
そのあと、その瞬間を、時間の流れを無視して、無理に現状だけを、薄い意味での今の瞬間だけを切り取るなら(=把握のみに頼る)、ネガティブにしか取れないと感じました。
なぜなら、希望はパンドラの箱と同じで、時間の矢の先にあるから、かしら?


なのであとは認知の問題だと思います。
2つの話が指し示すのは、目に見えない物こそ大事、という青い鳥や、サンデクジュペリの言ってることと通じますし、
そんな目に見えない何かを正気で認めるかどうか?みたいな。


信仰にもつながりますが、信じることの大切さかなーと。
ただ、猫の話は、信じることには焦点の当たってない表現だし、
おこり地蔵のほうは、そこに焦点の当たる表現方法ですが。
まあでも、世の中理屈じゃないんだーと思うのは、理屈大好きな僕には辛いですが・・


そんな論理でも可視的な物でもないものを、明確に認知してるかどうか、という自覚的な話しじゃないでしょうか?


あと、下の方の返事で書かれてた純粋、というのは、別に子供だけの言葉とは思わないんですが・・大人でも純粋な人はいるんじゃないかなー。身近にいる訳じゃないけど。

無理解と共感の欠如は、今の瞬間を把握で切り取って、空間認識的に捉えると(いわゆる現状、という風な)、そう見ると、そりゃーダメと思いますが、
流れ、傾向、つまり、時間軸に沿って変化していく、ということを中心にして読むと、2つともいい話だなーと思います。
どっちにしても、極限の話ですが。


別の言い方ー猫の無理解っぷり、というのは、把握による今の瞬間の馬鹿さ加減。
暖かくかわいらしい、というのは、多分、感情の、あるいは人間の内面の流動性から来る物と思います。時間軸に沿った、変化と傾向です。
人の現状今の状態でなく、その人が、いい方へ向かう傾向ベクトルがあるか、あきらめて悪い方へ向かうベクトルを持っているか?という視点で見ると、
お地蔵さんの前で死んだ女の子は、明らかにいい方へ向かうベクトルを持っているし(お地蔵さんも)、猫の話は、読んでないので分からないけど同じじゃないかしら。
この2人は、お地蔵さんも女の子も、周りのネガティブに引きずられず、信じるものを信じてます。
(周りの戦争や死体や、そういうものに心を持って行かれてない、という価値観の問題で、お地蔵さんはおそらく仏法を、女の子はお母さんを信じています。信じるから、気持ちや理性を状況に奪われないという仕組みで、信じる、という強い集中下においては、他のことは目に入らないです。常識を見るか、信じる現実を見るか?みたいな・)


そういう、上っ面でなくいい方向へ向かいたいという傾向性時間変化は、見えないものを信じることで可能になると思います。というか、いわゆる現実を見る限り、悲観は当然だと思うし、
可能性を信じる限り、楽観は当然だと思います。
(例えば、猫や赤ちゃんは、絶対的に信じるものがありますしー)
でもこの辺りが僕も割り切れてないところで・・・微妙。。

この2つが論理的に乖離するのは、「信じる」と言うことが、決して論理的に表現説明できないから、と思います。
それは理屈抜きを意味しますし、無条件を意味しますし、論理すら排除します。とどのつまり・・でも、
でも感性や直観の極限を、何とかして形に表せるなら、もしかして可能ではないか、と僕は思ってます。
それはもちろん、論理や理性の否定ではなく、その前提条件の仕組みです。

追加ー
胸が温かくなるというのは、情緒的、感情の仕組みです。
感情とは、変化を象徴として人の脳が把握している物、と思います。
つまり、感情とは、時間経過に伴って変化する状況の変化の解釈の、具現化だと想像します。
質問者さんは、猫の心情の、物語のストーリー内での、時間経過に伴う猫の気持ちに、一時的には、ちゃちゃ入れてやろうからかってやろう、という傾向があっても、長い目で見て=長い周期とスパンで見て、悪くならないでおこう、良いところから離れないでおこう、という傾向性を感性で読み取って、暖かくなったんだと思います。
長い目、とは、永遠であり、それは、今一瞬にもなりますよねー。
把握と感情は、全く等価値な人の内面だと思いますし、どちらが欠けてもまずいと思います。
無理解と共感の欠如は、やはり、この2つのうちの、どちらかだけが優先して重要だ、本質だ、と感じる人の直観に由来する、と思います。
2つは、感性と把握は、全く平等だ、というのは、めっちゃいつも言いたいことです。
夏目漱石さんが、情に棹させば流され、知に棹させば角が立つ、と言うように、どちらかだけに棹さすなんて考えられないと思います。
時には思考優先、時には感性優先、でもその実体は、両方を自由に使い分ける、というそういう状態を、まあ・目標ですねー。


自分で言ってて口幅ったいけどまあ・・・理屈と言うことで。

この回答への補足

お久しぶりです、、、になりますでしょうか。
回答頂きありがとうございます。

私事ですが、勝手な事情から疲労と空腹でふらふらですので、あまり真剣に私の一字一句にこだわらず、御読み頂けると幸いです。

>何が大事かを指し示す、という意味で同じものを表現してる、

あ、私の感想はちょっと違います。
「おこりじぞう」は明確な思想?思考?があって、それを伝えたいと思っています。
でも、「11ぴきのねこ」は真逆に感じます。
無思想、無思考、と言う感じ。
無批判とも言えます。

多くの人は、意識的にも無意識的にも、周囲を見回す時に、自身の思想/思考/経験等から生じる、批判?のフィルターを通して物事を見ます。
ちょっと強めの言葉で言えば、偏見とか独断とか、って言葉になるかと。
そして、物事を思考する為に、結局は「世界を切り取り」ます。
「切り取った世界を閉じる」事で、人は対象物の思考と批判?を可能にしています。

「11ぴきのねこ」では、世界は世界のまま。
見えた範囲、見た範囲、見たもの、見えたもの、やって来たもの、落ちていたもの、思った事、、、、
あーーーーでも、絵本である以上、何かしら「切り取って」いる、とも言える。
んーーでも、そうじゃない。
何て言えば良いかな。。。。

ねこの話は、信じるも信じないもない、と感じます。
生きるも死ぬもそのまーーんま。
あほうどりを食べたい、とねこたちが思う事が、あほうどりの命に関わる事だなんて、一言だって書かれていないし、思う必要も無さそうな。。。

人が動植物の命を奪って食して、命を繋いでいる事。
この事に罪悪感を問いたくなるのが人間ですが、だからと言って、食べずに生きる事が出来る訳じゃない。
他者の命を奪って自らの命にする事の正誤や罪悪なんて、実は存在しない?と思わされるのです。

sheep67様のおっしゃる「時間軸」。
これかなあ。
万物流転、国破れて山河在り、ハードボイルド???。。。。

何一つとして、こうしようとか、変えてみようとか、視点がどうこうとか、、、「コントロール」と言う物が見当たらない感じです。
無意志?の視線が、こんなにも暖かく感じてしまうのは、きっと私が自分をコントロールしようとし過ぎるから、かもしれません。
その結果としての、疲労であり、故障であり、病です、きっと。

無意志で世界を受け入れて、世界はともかく、自分が崩壊しないのか?
崩壊しないならば、私はそうして生きて行きたいです。

補足日時:2010/03/18 13:34
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

思うままに書いたら長くなりました。。汗
補足欄にて。

お礼日時:2010/03/18 13:36

yukkinn66さん、こんばんは。



恥ずかしながら、「11ぴきのねこ」シリーズは未読ですが、例によって汲めども尽きない豊かな湧水のようなネタに釣られ、ノコノコと出て参りました。

>両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。
>両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。

>あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。

ここまで拝読してきて、これまでの自分の乏しい経験やかつて読んだ物語やらが次々と記憶の奥底から蘇り、めいめい勝手に「我こそが本件の例に該当する」と言い張りたがりましたが、そのいずれに対しても、ピッタリ感という点で微妙に今一物足りなさを感じずにはいられませんでした。

さて、「両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。」という点についてですが、この「わが身のみです」というのも、よく考えてみれば、その中身、内容、実質となると、実はいろんなレベルに分かれてくるのではないでしょうか。

たとえば、現実のいろんな人間関係の中で、われわれが純粋に利己的になったとして、はたして実際にはどれだけ一方的に他人を犠牲にし、自分の利益だけを得るということが可能なのだろうか?と考えてみると、これが意外にも難しいような気がしてなりません。
ちょうど、われわれがどんなに主観的になろうとしても、純粋主観の域に到達するのが至難の技であるように。
あるいは、池で溺れたわが子を泳げない母親がわが身を省みずに助けようとするのは、愛情によるのか、はたまた我欲(「わが身のみ」)によるのか、とか。

>「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。
>(ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??)

たとえば、一対一の格闘技等に類する競技で、戦いの後に互いに健闘をたたえ合うのは、必ずしも儀礼的な挨拶としてだけではなく、ある意味お互いに純粋に「わが身のみ」のことしか考えずに深く交戦し合えたことを喜び合い、祝福し合わずにはいられなかったからとは考えられませんか。
もしかして、男女が互いに「わが身のみの」性欲を主張し合うことが、そのまま互いの望むところとなり、その結果として、互いに「わが身のみ」の充実と慰藉に至るのとも通底するような気がしてなりません。

以上、私の回答にしてはややお利口さん的すぎるのが不満ですが、ご参考までに。

この回答への補足

興味を持って頂き光栄です。
回答ありがとうございます。

>汲めども尽きない豊かな湧水のような

素敵な形容を頂きましたが、
実のところは話は跳ぶし、思考は明後日に向いがちだし、
注意散漫、収拾不可能、と言う事もありますよん。苦笑

「我が身のみ」の程度、について、ですね。。。

言葉少なな絵本と言う事で、
ねこたちとあほうどり、またはねこたちと水玉猫のそれぞれの思惑も
最小限の言葉でしか語られていません。
これを「程度の分析」となると、思いっきり独断と偏見でしょうか。笑

只、、、、「思いっきり利己的」と言うレベルは、
実は実は、明確な他者の存在無くしてはあり得ない。
明確な他者の存在を意識すると言う、前提無くして成立し得ないような。。。

ねこたちは、、、適当に「我が身のみ」。
他者(あほうどり/水玉猫)の存在とその意志に対する意志も朧げなら、
ねこたち自身への明確な意識も無いように思えます。
(良いなあ。。。^^
 毎日「自分、自分の思い、自分の望み、自分の、、、」と問いかけ続けるのって、結構面倒。。。)

>池で溺れたわが子を泳げない母親がわが身を省みずに助けようとするのは

愛情と言えば愛情。
自分の健康、時間、趣味、生き甲斐、、、全てを費やして子どもの生存にかけるのが、出産後数年の母親ですが、
その「子どもにかけた手間ひま」の分、掛けた労力の証?としての「子ども」を失いたくない、失ってたまるか!私の労力はどうなるんじゃい?と言う、これこそ「我欲」。

子への親の情、と言う物は、
払った時間と労力とお金、そして今後の計算を含み(苦笑)、
それでもちゃんと「小さな可愛らしい、ただただ守りたいもの」と言う思いも含み、
見事に分離不可能な混合物です。

利己と利他の混合具合を意識し易い?「親の愛情」ですが、
混じりけ無い思考等きっと、無いのでしょう。

ねこたちは、他者(あほうどりと水玉猫)の認識が朧げであるが故に、
自らの欲求を省みる必要も無かった、、、かも。
親の子への愛情であろうと我欲であろうと、その強さ故に、思いの内訳を問い直す必要を感じてしまうように、
あほうどりを只食べたいと思った、
水玉猫を変だと思った、変なヤツには食べ物はやらない、と思った、
さほど強くない欲求だったから、問い直しの必要が無かった。

んーーー?
「さほど強くない欲求」ならば、やはり問い直しは思い付かないものだろうか。
ちょっと、根拠に欠ける気もします。。。

「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」については、
上げてくださった格闘技の例と、(例に依って^^)男女の性欲の例は、
「存在する」と言う論拠としてあげてくださった、と受け取って良いのですよね。

分かり合えなくとも素敵に実りある結果、双方に利のある結果、と思うと、やはり男女の(男女でなくとも、ですが)性関係は外せない所です。
互いの思惑も求める所も、全てが食い違ってちぐはぐなのに、双方我が侭になればなる程に、双方共が得たいものを得られる、と言う。。。

双方の「我が身のみ」の筈の充足が、何故かいつの間にか相互理解の深化に繋がって行く辺り、人生に於ける失敗や汚点に対する対処法が透けて見える気もします。。。

補足日時:2010/03/19 13:56
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
頑張って纏めよう!と思わずに書いて行くと、冗長になる事!(汗
適当に読んで頂けたら、と思います。

補足欄にて。

お礼日時:2010/03/19 14:11

こんばんはです。

お久しぶりでしたー。


>世界は世界のまま
>無思想、無思考、と言う感じ
言ってることは解るんですが、矛盾はしないはずです。
なにも考えず、つまりもう任せてしまう、というのは、信頼と裏表の同じことじゃ? 信頼しても、何もやらなくていいし、自然や流れに任せても、何もやらなくていい、結果が同じなら、見かけの概念が違っても同じ、と思うんだけど・・
ケセラセラと信頼は、見掛け違って中身同じ、と思ってます。


罪悪感ーー例えば、サバンナを弱肉強食の掟が支配する、なんて言ってるのは人間だけで、当の動物はなんも気にしてないんですから、おかしいもんです。おなかが減って狩りをするのは、おなかが減ったからであり、相手が憎いからじゃないですし。必要だから食べるのだし善も悪もない。だからサバンナは、怨嗟の炎が渦を巻く地獄・・にはなりません。

他には、秋に枯れる葉っぱが、「まだ死にたくないんだー!」とかいいながら散っていくわけでもないし、人間の脳みその妄想にかかったら、秋のもみじ葉の風流でさえ、ばたばた葉っぱが死んでいく光景にも見え、枯れ葉は累々と横たわる死体です。
そんなけったいな想像力を持てるのが人間の特権ではありますが。でもそれはお遊びだなーと思います。エンターテイメント?

この間万博のエスキモー展に行ってきて、エスキモーの人は、獲物は自分のために、罠にかかってくれるんだ、だから必ず祈りを捧げて食べると書いてありました。本当にうらやましいし、命にそれだけの全力の敬意を払える文化がうらやましい。

それは、人間の特権意識かなー、植物動物とは違うと思うからと思うあまり、同じ所まで、違うと勘違いしたのでは?
動植物と人間は、違いますが、進化の延長線上でつながってますし。


真、善、美、正義、論理的整合性というのは快感だし、
その逆は不快感です。フロイトさんの言うとおり、大人になってもそこは変わりません。
快感に快感以上の価値を持たせるのは、確かに人間の特権だし、それで複雑な社会も作れますが。
猫は、おそらく、快感を快感以上の何かだと思う知恵はないでしょうねー。好き放題やっていたら、楽しい、暖かい、それは、人間も同じですし。もともと、そうできてる、と思います。上のような、人間特有の、変な演出や知恵や概念を気にしない限り。



最後大難問書いてはりますねー。
無意志が暖かいということは、意志は冷たい言うことですね。すごいわかります。意志だけが単独であるのはいやです。感性も伴ってないと、寒々します。猫と違って人は意志は捨てられないけど、それに並び立つ感性や共感(変化の理解)があると、結果的に意志もなくなったように見えます。
コントロールですか・・これも、コントロールを捨てて任せるのは、確かに滅茶苦茶怖いですねー。はい本当に怖いです。

無意志で世界を受け入れると書いてはりますが、受け入れるのは、すごく意識的な、意志の極限だと僕は思うんですが・・視点の違いかな?
バンジージャンプみたいな。
無意志で世界を受け入れた先が、自分が元、あるいは昔いた場所だ、と思いません? 僕は思うんですが・・
ちなみに、世界とは何か?というと、世界は感性とおもいます。
時間変化に伴いどんどん変化する感性に対応してますし。
だから世界の受け入れは、感性の受け入れ、自分の半身の受け入れじゃないでしょうか?
それが本当に自分に必要だと確信しないとそんな怖いこともできないし、確信したらその確信が気合いをくれますし。


本来動物みたいに、お互いありのままでいようねー、というのが当然の共通合意になってる状態でなく、
上に書いたみたいに、人間はただの楽しみに、いろいろ付加価値をつけて、あたかもそれが実在かのような演技をしてます。ヴァーチャルリアリティーです。

いつまで弱肉強食の演技をするか、できるか? というところですが、
僕自身は、愛情や相手への感情移入を強める、自分の壁を壊すくらい理解を強めることで、結果的に意志の自分を手放そう、という方向性だけど、これは個人的な方法論ですし、
あまり具体的な部分は、人の性格の違いも出るので、わからないですが。

世界を受け入れていない状態と、コントロールを続けるしんどい状態は同じ物と思います。経験上。
世界を受け入れてないと、世界は自分の把握し操る対象となりつづけますし、しんどい作業が続きますねー本当に!

今は議論されるほど元気じゃないんですかねー? 疲れておられるんだったら、少し癒されてから、の方がいいんだろうなーと余計なお世話ですが。まあでも書き込まれてるのなら、大丈夫かー。


崩壊は言葉の問題ですが、受け身でそれをやらされるのじゃなく、上のような確信と主体性があってやるなら、それは自分が消えることにはならないと思います。別のタイプ?の自分になるのでは?
無意志という意志、みたいな・ この辺は、極限の話です。


以上全く個人的意見でした。
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この回答へのお礼

sheep67様、再回答ありがとうございます。

>なにも考えず、つまりもう任せてしまう、

そっかあ、「任せる」つまり思考後の行動を含んでのお考えですね。
11ぴきのねこたちは、結局「何も起こらなかった」んです。
あほうどりを食べたいねーって話しながら、結局食べられなかった。
水玉猫の宇宙船を横取りして宇宙旅行に行こう!って話してて、結局行けなかった。

うーーーん、私の思考って、かなーーり偏狭です、狭量です。

でも、例えお話の先に、あほうどりがねこたちに食べられちゃっても、
水玉猫が宇宙に帰れなくなっても、きっと私が受け取った無意志の暖かさ?は変わらず感受したように思います。
だから、思考後の行動や結果もが、私の思考から漏れていても、
質問としての意義が無くなったり変わったりは、しなさそうですね。。。

>おなかが減って狩りをするのは、おなかが減ったからであり、
>相手が憎いからじゃないですし。

ねこたちがあほうどりを食べたかったのは、コロッケに飽きたからであって、
あほうどりが嫌いだからでは無い。
まあ、あほうどりの身になって考えちゃ、いないけれど。

>だからサバンナは、怨嗟の炎が渦を巻く地獄・・にはなりません。

だから、あほうどりがねこたちに食べられちゃったとしても、
この絵本は「残酷な現実」を描く絵本、にはならない気がするのです。

>でもそれはお遊びだなーと思います。エンターテイメント?

もしも、ねこたちがあほうどりを食べちゃって、
それが故に「残酷な現実」を感じ取るとしたら、
その現実は、sheep67様のおっしゃる「お遊び(=幻想)」でしかないのでないか?

理論としてそう思うのではなく、無理も何もせず、この屁理屈屋さん?の私にそう感じさせるこの絵本のちから?は何なのだろう??と改めて思います。
無力のちから?かなあ。。。

>真、善、美、正義、論理的整合性というのは快感だし

快感ですか。。。。すごい。。。そうですね。
快感と快感が相容れない場合、ありますよね?あれはどうなるのかなあ。
そのあたりが「本能が壊れた」所以、でしょうか。。。

この後、色々と書いてみたのですが、見事な散漫っぷりに削除。
後で出直します。
ひとまず此処迄は人目に晒しても良いと思えるので、返信です。

丁寧にお付き合い下さり、ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/19 16:33

すんません、


長文になったのは、下手な鉄砲数打ちゃ当たるで、思いつくままです。
性格環境の違い等で言葉が通じないのはよく経験するし
とにかくいっぱい書けば、どれか一つくらいましなのもあるかな・・という書き方ですから。
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>そうは言ってもきぐるみ様の回答は、私にはどう読めばよいのか?どう読んでほしいのか?がうまく掴めないのです。



アニオタの話は同じアニオタしかわからない。 みたいな感じ?


ゲド戦記って読まれたでしょうか?
ファンたちは<帰還ー最後の書>が出版されたときブーイングを起こした。

『俺たちは魔法の力を失ったただの男の話など聞きたくもなかった。男たちにレイプされて殺されそうになった女の子の話など聞きたくもない』

そのようなブーイングを起こした読者たちに、筆者は必死に説明を試みたそうです。
日本語に翻訳した清水真砂子さんは「I know,I know だからもうやめて」と言ったのだそうです。
私もI Know(見える)です。


>きっと、好きに読んで!ってお考えなのでしょうけれど。。。

読者が作者の意図したものとは遠く離れてものを感じてしまった場合は、作者に世界を描く文才が無かったか、もしくは読める人が読めがわかる賞を取るほどの高度な作品か、どちらかですね。


>いつも「相手の期待」に添って動いて来ました。

meですね。 相手にとって私I(つまりme)はどうであるべきか を考えて行動していたわけですから。


>その期待はどう読むか?となると、本から引っ張ってきたり、道徳や倫理から引っ張ってきたり、、、

うん あんぱんまんの欲求を満たせないとバイキンマンと呼ばれる。
しかし、あまりにもあんぱんまんが強くなりmeだらけになると I(私らしさ 私の個性)を喪失してしまうんです。

思い出しましたが、11ぴきのねこは、他のねこたちに大きな魚をつかまえたことを自慢するため、戻るまで食べないでおこうとしたんですよね。

「よくやったね」ってあんぱんまん すなわち親 に褒めてもらうつもりだった。
親の望むとおりの子供になれば、親から褒められる 愛される 安心だ。

でも 結局 自我を完全に奪われたわけじゃないので、自我は「食いたい」って強く求めるわけです。
親に愛される自分(me)の欲求と 私(I)の欲求とのぶつかりあいが夜で表されているのではないかと。
だって見えないから夜?

超自我(あんぱんまん)とエゴ(自我)の戦いののち、エゴが勝ったから食っちゃった。
親に褒められる自分じゃなくて、自分らしさが勝っちゃった。

という作品かな?


>無理解に出会った時、私はとてつもなく否定的な感情に捕まってしまう事が多いです。

他人をあまりにも過信しているからじゃないでしょうか?
奪われた自我を取り戻し、自分に自信を持たないと。


>まるで、無理解など有ったのか?無かったのか?すら忘れてしまうような、変化の無さ、なのです。
>その様子が、私の経験と照らし合わせて相対的に「暖かい」と感じたのです。

ヒルベルの作品の終わりも、暖かいというか、それに似た静けさを感じました。
芥川龍之介の地獄変の終わりの方もそんな感じ。

狂気が去った後の世界。
ヒルベルが狂気だって言っているんじゃなくて、ヒルベルを処分した人達が起こしたのが狂気。
まともな人の中にある狂気。
圧倒的な破壊力を持っていたのはヒルベルじゃなくて、彼を取り巻く人たち。
神ですから、通り過ぎるまでじっとしているしかない。
神が去ったあと、緊張がほぐれて暖かさを感じるのではないか と。


>あ、、、もしかして、コツは「適当さ」なのかしら。。。。

感性じゃないかと。
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この回答へのお礼

きぐるみ様、また来てくださりありがとうございます。
すっかり放置状態になっていました事、申し訳ありません。

>アニオタの話は同じアニオタしかわからない。 みたいな感じ?

きぐるみ様はアニメにお詳しいですよね。
私はそこそこ、、、程度です、アニメ好きなのですが。
エヴァは、、、丁度チルドレン世代なので、見ると切り込まれ過ぎて落ち込みます。苦笑

ゲドは未読です。
読まなくって良かったかな、と思いました。笑
「ブレイブ・ハート」の映画で発狂しかけた人間です。
性が絡むといつもの屁理屈思考が吹っ飛んでしまいます。
どうにもならない厭な記憶と照合される所為です。。。

>超自我(あんぱんまん)とエゴ(自我)の戦いののち、
>エゴが勝ったから食っちゃった

この後、ねこたちはやっぱりひょうひょうとしたのでしょうね^^
Iの結果とmeが葛藤するなど、このねこたちには起こりえない事のように思えます。
「食べちゃったーーあー美味しかった!!あはは」かな。

私は、Iの結果をmeと照合して反省会、でしょうね。。。

>他人をあまりにも過信しているからじゃないでしょうか?

そう言うつもりも無いのですが。。。つもりだけなのかなあ。。。
只、、、「予想外」に弱い思考故、「そう思われているとは知らなかった!」と言う時の衝撃が倍増すると言うか、これ迄の関係の蓄積を全て洗い直してひっくり返す作業を、頭が勝手に始めてしまうので、衝撃を自作している気もします。。。

>奪われた自我を取り戻し、自分に自信を持たないと。

「奪われた」のでしょうか?
この質問と同日にライフカテゴリにて別質問で軽く炎上を起こしました。
「囚われている」「支配されている」「後悔している」
この手の言葉。この表現で自分を表す事に、自分が反乱を起こします。
自分で自分の状態をこれらの表現で認識する事を、おそらくIが全力で拒みます。
ものすごい屈辱。。。だそうです。。。

奪われた、、、と認識すべきでしょうか?
そうしなければ、取り戻せないのかな、、、奪われたとすると。
奪われた私も、奪った人も、共に屈辱的だなあ、と思ってしまいます。

>感性じゃないかと。

自由に感じ取る力。。。感じて動く心を見つめる力。。。
行動の前の取捨選択に手間取っているなあ、と常々思う質問者です。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/03/27 03:23

こんにちは。


いつものごとく、何ら哲学的な見地からは程遠い回答で、ごめんなさい。
単なる感想文にすぎません。

さきほど「11ぴきのねことあほうどり」を本屋で一読してきました。
長らく愛されているロングセラーのようですね。
私自身、初見でした。

>「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。
>この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。

はい、あの絵本の魅力の一つとして、気負いのない絵のタッチが挙げられると思います。
ひょうひょうとした顔のねこたちが、風の向くまま気の向くまま、
絵本の中で縦横無尽に動いていますよね。
ラストの大どんでんがえしによる意外性も、もちろん魅力なのでしょうけれども。

あの絵は、一筆書き出来そうなほどにしなやかで気楽な感じ、
それでいて、どことなく≪笑い≫を誘い出していますよね。
やはり、一般的な童話絵本の挿絵以上に、漫画風に視覚的に訴えるところ(情報量)が大きいのではないでしょうか。
そしてあの独特の世界観、おっしゃるところの「温かみ」を醸し出す上で、欠かせないように私の目には映るのです。

でも仮に、ねこたちの絵を省き、字面だけ純粋に追うとするのなら、どうなのでしょうね。

追憶と過去を交差し志向させるように、読み手の内的心性に訴えかける昔話や童話とは対照的な、
冒険譚に必要不可欠な外的志向性/自発性に富んでいる絵本であるということ。
そしてその性質が、時に社会道徳や他者からの評価からの束縛を受けず無縁のものであり、
むしろ現実のあるがままを受容することにより得られるであろう心地良さが、
おっしゃるところの「温かみ」として感じられるのかもしれないのかなと思いました。
「無理解と共感の欠如」の状態も厭わない、まあ、それでもいいじゃあないの、という感じでしょうか。

それにしてもあのねこたち、
読者をさんざん楽しませ笑わせてくれて、「次は何しよう?」っていう感じに、
ち~っともへこたれちゃあいないのですから(つまり一連の続編の存在) 
ほんと、たいしたものですよね。

だけど、なぜ11匹なのでしょうね?
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この回答へのお礼

ましゅまろほわほわ^^ありがとうございます。
コーヒーに溶かすと美味しいだとか、、、お人柄そのままな気がします。

わざわざ書店に足を運んで頂いたとの事で、ご厚意に報いるべく、返信を焦っておりましたが、言葉がちゃんと整列してくれず、、、整列させようと言う意志を放棄した質問者の、いつもの遅刻癖をお許しください。

もう良い加減、壊れる前に思考のコントロールを辞めなくっちゃ、と考えた末の整列意志の放棄です。
ですので、脈絡がアヤシい文章となるかも。。。
適当にお読み下さいませーー

>あの絵本の魅力の一つとして、気負いのない絵のタッチが挙げられると思います

何かと文字情報に縛られがちな私に、新たな風。
どうして「思っても見なかった視点」と言う物はこうも暖かく感じられるのでしょうか。
この暖かさはそのまま、質問を立ち上げる時の疑問点でもあります。

昔話や民話、寓話、童話とは、元々が「現実世界の厳しさや残酷さを教える為に書かれた」と言う説を何処かで見た事があります。
「本当は怖いグリム童話」とか、以前流行った時期がありましたね。
そう意識して読んだ訳では無いけれど、「赤い靴」や「スーホの白い馬」、「安寿と厨子王」あたりの「人の死」が絡んで来る物語は、子ども心に「解けない謎」の感覚を残しています。、

>でも仮に、ねこたちの絵を省き、字面だけ純粋に追うとするのなら、どうなのでしょうね。

字面に囚われがちな癖に、絵本を選ぶ時は、今も昔も「絵」なのですが。
それゆえ、好みの絵で無かった11匹のねこシリーズなのです。
それなのに、結局気になるのは「物語」と言う文字情報。。。
公平性を欠く思考だなあ。。。と思います。苦笑

読書を始めると途端に、自我境界を失うように思える私。
(元々世界と繋がる力が希薄なようです)
境界を失って(と思って)感じるものが、共感なのか?自らの記憶との擦り合わせなのか?それとも全く別のものなのか?

現状として、ばばばあちゃんシリーズを読んだ方が良さそうな質問者です。
ご存知でしょうか?

>だけど、なぜ11匹なのでしょうね?

ホント。
とらねこたいしょう以外のねこたちは一緒くたにされている感じです。
いたずらをするのに必要な頭数、でしょうか。^^

ありがとうございます!

お礼日時:2010/04/02 14:33

こんばんはですー。



お礼の文を読んでると、ちょっと細かい話になってきて、これ本読まんとあかんかもーと思えてきました。
本屋さんー、たぶん駅前にあったし、機会があれば・・

実のところ読んでないので、ほのぼのかわいらしいをやはりよんで感じないとねー。

というので、問題ないところで、
>もしも、ねこたちがあほうどりを食べちゃって、
それが故に「残酷な現実」を感じ取るとしたら、
その現実は、sheep67様のおっしゃる「お遊び(=幻想)」でしかないのでないか?
猫が残酷な現実を感じるんでしょうか? yukkinさんのことですか?
猫はそもそも感じないと思いますが。
サバンナと同じで、それを観察あるいは体験する人の問題だと思います。当事者である猫も、食べられるアホウドリも、それは思わないんじゃ?
食べられたくないから全力で逃げて、捕まったら食べられる、それで終わりです。
というか、それを気にして僕もこうやってそのシーンを描写するのはほんと人間らしいですが。
まさに、生きてる間を気にしないで、生と死を気にする人間らしい、と言えばそうですし、極限を考えることができるのが、猫や鳥と違う、人間の特権ですねー。
極限ー生や死のことを考えることで、混乱している人間の有り様は人ごとでなくよく分かります。

無邪気の素敵さがいいんでしょうかねー?
読んではないですが、猫も擬人化されてるところがありますか?
いわゆる本当の自然の猫と違って、僕も少し混乱しそうですが。
やっぱり読まないと、これ以上言えないかも・・
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この回答へのお礼

すっかり遅くなりまして申し訳ありません!

>猫が残酷な現実を感じるんでしょうか? yukkinさんのことですか?

これ、拝見して、「むむっそう言えばどう感じたんだ?誰が??」となり、
頭がストップしておりました。。。汗

うう、、あ、、、思いっきり「ふぁんたじーー」な事を言わせて頂ければ、
このねこたちは、ひとそのもの、私そのもの、読み手そのもの。
。。。だめでしょうか?苦笑
物語に入り込み、とけ込み、漬け込まれて、すっかり美味しくなってしまう私です。
論理的思考の欠片も無い。。。。爆笑

>極限を考えることができるのが、猫や鳥と違う、人間の特権

そうですね。。。
「問う」と言う行為それ自体、可能とするのは人間だけなのかも知れませんね。

>生きてる間を気にしないで、生と死を気にする人間らしい、

うーーーーん。。。
含蓄たっぷりのお言葉をありがとうございます。^^

お礼日時:2010/04/09 17:20

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