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よく革マル派だとか、マルクス思想なんて耳にしますが
なんのことやら?全く分からないので初歩から教えて
頂きたいのですが・・お願いします

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A 回答 (3件)

マルクスを知りたいのならば自力で調べることをお勧めします。

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 う~ん、初歩からといってもね。

マルクス主義と云う言葉を知らない人に革マルは何だと説明するのも難しいですね。

 マルクスってのは、ドイツの経済学者。
 革マルってのは、‘60年代後半に日本共産党主導の革新運動から、離れていったグループ(新左翼と呼んだ)が複雑に分派していった中の一派です。

 あとは下のURL「全共闘時代用語の基礎知識」で勉強するしかないでしょうね。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/zenkyoto.htm
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(1)カール・マルクス:



1818年ドイツライン州トリア生まれ。ユダヤ系ドイツ人。父はキリスト教に改宗した弁護士。ボン・ベルリン大学で法律・哲学を学ぶ。若くしてヘーゲルの影響を強く受ける。マルクスの歴史観は自ら認めるように基本的にヘーゲルの歴史観や弁証法を受け継ぐ。フリードリッヒ・エンゲルスは彼より2歳下の紡績工場主の息子。同じ思想傾向で意気投合し、終生の同志となる。後、経済的にマルクスを支えた。

(2) 19世紀前半の社会情勢:

その当時、ドイツは統一国家ではなく、英仏に比べて遅れていたが産業革命開始後の社会的激動期に彼は青年期を迎えた。最先進国、英国での労働事情、社会事情は今日では想像もつかないほど激烈・過酷なもので、社会保障もなく児童労働、長時間労働は当たり前。貧富の差も激しく、それは政府側の役人がまとめた青書でも裏付けられる。定期的に襲ってくる産業恐慌、失業者の群れ、スラム。富める資本家階級と貧しい労働者階級。それが当時の資本主義であった。

(3)共産主義の背景

英国を中心に欧州各地に様々な社会運動が起こり、その中に、Communism(=「共産主義」と訳される)があった。生産手段を共有化することにより、上記資本主義の「矛盾」を抜本的に是正しようとする、考えであり、マルクスやエンゲルスらのグループはヘーゲル、フォイエルバッハ、モーゼス・ヘスの思想を受け継いだため、資本家階級に替わって労働者階級こそが、次世代の主役となる必然性があると考え、且つ煽動もした。有名な「共産党宣言」(1948年)はマルクスの筆になるが、エンゲルスの筆になる「共産主義問答」がその下敷きになっている。

共産党宣言より前の若いマルクスの有名な言葉に「解放の頭脳は哲学であり、解放の力はプロレタリアートである」というのがある。

(3)唯物史観:

マルクスはヘーゲルの、「東洋的、ローマ的、ゲルマン的..」という歴史観を受け継ぎながらも、「逆立ちしている」と認識し、歴史の原動力は「経済」、即ち、「生産力と生産関係の矛盾」にあると考えた。社会の生産力が増大すると、今までの、生産関係、法律・芸術などが古臭くなり、生産関係そのものが入れ替わる。それが革命であると...。彼は、へーゲル風に、「アジア的、古典古代的、封建制的、近代ブルジョア的生産様式」という風に生産様式が変わって来て、「近代ブルジョア的生産様式」、即ち、資本主義も歴史的な必然によって、「共産主義」にとって変わられるとした。

資本主義は巨大な生産力や富を生み出し、皮肉なことに自らの「墓掘り人夫」である近代プロレタリアートをも生み出すというわけである。溢れた生産力に見合う生産手段の管理は共有化によってのみ可能と考えた。共産主義の目標は

「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」

である。マルクス・エンゲルスはこれを「科学的」と考え、マルクスはそれを実証するために経済学を猛勉強し、有名な「資本論」を著した。しかし、今日から見ると彼等が「空想的」と非難した、別の流派の「社会主義者」と本質的な差はない。

(4)レーニンとロシア社会主義

マルクス・エンゲルス存命中の19世紀後半、社会主義運動の中でもマルクス派は英国労働党に繋がるフェビアン協会、ロシアのバクーニン等の無政府主義者等と共に、最大勢力を誇っていた。今日のドイツ社会民主党は元々はこの流れを汲んでいる。マルクス自身は、「歴史的な必然によって労働者階級が資本家階級を倒す」のは西欧に限っていた。しかし、皮肉なことに、マルクス主義を掲げた社会主義運動が勝利を収めたのは遅れた農業国ロシアであった。自然発生的な1917年2月革命に続き、ある意味で最も過激なレーニンらのロシア社会主義労働者党左派(=ボルシェビキ)が1917年クーデタ的に勝利を収めた。当時、ロシアは第一次大戦下にあり、莫大な領土をドイツに割譲して単独講和を結んだ。「土地と平和とパン」が彼らの宣伝スローガンであり、目標でもあったから..。

レーニン・トロツキーらは、皇帝ニコライ一家を処刑したが、内戦で反革命軍に皇帝を利用されるのを恐れたからと言われる。日本を含む外国からの干渉もあり、革命後のロシアは昏迷を極めた。NEP(=新経済政策)で息を吹き返したものの、1924年にレーニンが亡くなり、陰謀家スターリンがトロツキーを排除する形で権力を握った。やがて、スターリンと手を握った同志も次々に追放・処刑され、スターリンによる恐怖の独裁政治が始まった。

ロシア型社会主義は経済の非効率、言論統制、軍事偏重など、がたがたになり、20世紀後半に次々と倒れていったのは衆知のとおり。

ロシア型社会主義の影響は大きく、中国、ベトナム、キューバ、アフリカ、そしてソ連に占領された東欧諸国何れも同じような社会経済システムを採用した。日本共産党も元々はこの流れを汲む。

(5)革マル派など:

日本では、共産党の他、学生運動などから生まれた、「ブント」(=共産主義者同盟)、そこから分かれた「革命的共産主義者同盟」が一時は力を持ち、70年安保当時は、無党派層をも巻き込み「全共闘運動」として盛り上がった。それ以前に革命的共産主義者同盟は、「中核派」と「革マル派」に分裂し、殺し合いまで発展した。よど号を乗っ取った「赤軍派」は「共産主義者同盟」の分派である。

革マル派(=革命的マルクス主義派)は最近まで「動労」などの組合活動にも潜入していた。
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