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古今集恋の歌 最終歌。

ながれては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中

中の句での字余りのじれったさと言い、
恋の歌の最後にやたらと現実味がある感じと言い、
編者の何らかの意図や揶揄があるようにも思えますし、
歌自体、どこか奥歯に何か挟まっているような、そんな印象もあります。

何か、この歌の背景等ご存知の方がいらっしゃいましたら、このじりじりと痒いところに手が届かないじれったさを解消するご助力を頂戴したく思います。

そんなに、谷間をゆく川のように、夫婦間に「隔て」等生まれて来るものでしょうか。
この詠み手は結局、幸せな夫婦関係を築けなかった力不足を「世の中に良くある事さ」と思う事で、慰めているのではないかしら、と思ってしまうのですが。

それとはまた別に、「恋」でなく「妹背(夫婦)関係」を歌った数少ない恋歌、とも思われます。
それゆえ、か、妙な生々しさを感じさせる歌だなあ、と。。。

この歌に関する情報を頂きたく、質問を立てさせて頂きました。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

こんばんは。



参考資料が手許不如意のままで回答させていただきますこと、ご諒解願い上げます。

>ながれては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中

宣長の「古今和歌集遠鏡」(簡単な通釈)には、「紀ノ国ノ妹山トセ山トノ間ダサヘ 吉野川ガ流レテ来テ 中ノヘダテガアルカラハ ソウタイ人間ノ男女ノ中モ イツマデモ始メノヤウニムツマシウハナイハズノコトデ 久シウナレバオノヅカラカレコレガ出来テクルノモ ソノハズノコトヂヤ ハテゼヒガナイ山デサヘサウヂヤモノ」とあります。
http://www.milord-club.com/Kokin/nori/kan15.htm

>恋の歌の最後にやたらと現実味がある感じと言い、編者の何らかの意図や揶揄があるようにも思えますし、歌自体、どこか奥歯に何か挟まっているような、そんな印象もあります。

はい、確かに男女の仲(=世の中)について、たとえば、異口同音の夫側レスの質問に対する誰かさんの異口同音の回答のごとく、「イツマデモ始メノヤウニムツマシウハナイ、ヤガテマンネリニイタルハズ」と言いたげですよね。

でも、この前の歌が「浮きながらけぬる泡ともなりななむ流れてとだにたのまれぬ身は」(友則)とあることを考え合わせますと、これを承けた「ながれては」の歌は、やはり「いやいや、失恋したぐらいで死のうなんて思うものではない、あの妹背山でさえ吉野川によってその仲を隔てられているのだもの」と言うことで、恋の無常、はかなさ、当てのなさ、頼りなさ、不確実性等々を説いていると解されるのではないでしょうか。
そして、編者は、恋の部の末尾に、この理屈っぽく、とても名歌とは評しえない歌を配置することで、編者なりのやや厭世主義を装った?《恋愛観》を披瀝したかったのかもしれませんね。

さらに臆測をたくましうすると、巻頭の「郭公鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」には、「恋のあやめ(道理、筋道)」もわきまえない思春期の少年少女の、危なっかしくも純粋な恋が歌われているとすれば、末尾の「ながれては」には、私のように恋をするたびに憂き目に遭い続けてきた中年男が、その代償として得た諦観的な恋愛観が詠まれているような気がしてなりません。
その意味では、確かに巻頭と末尾の歌同士がそれなりにちゃんと呼応していると言えるのではないでしょうか。

>それとはまた別に、「恋」でなく「妹背(夫婦)関係」を歌った数少ない恋歌、とも思われます。
>それゆえ、か、妙な生々しさを感じさせる歌だなあ、と。。。

はい、私のようにエロカテに常住していると、「大台ヶ原に発する生命のエネルギーは、かき集められて、やがて吉野川の流れを形成し、妹山と背山とが作る秘かな谷間に向かって瀑流のごとくなだれ込む云々」とかと、ややもすると卑猥なイメージを結びがちですが、貫之をはじめとする編者たちは、色に関する本音はともかく、いずれ劣らぬお体裁屋揃いだっただけに、やはりこういう解釈にはちょっと無理があるかもしれません。
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この回答へのお礼

お礼が大変に遅くなりました。
申し訳ございません。

質問を立てた後、思いつきました。
恋の歌として一つの章にまとめなかったのは何故か?、と。

編集者の意図に重きを置いて読み直しましたら、おぼろげながら各章のまとまり方が見えて来ました。
恋の歌の最初の歌。
kadowaki様があげてくださった、まさに「ほととぎす鳴くやさつきの、、」。
恋に恋をする、から始まる「若い恋」なのですね。
そう意識しようとしまいと、それぞれの人の人生を貫いていく恋の、その道筋を、大きく章に分けて追っていっているのだと感じました。

ま、この「恋」と言う言葉。
私は純粋に「こころの問題」なんて、考えちゃいません。
恋とは、言わば「ひとの知性と肉欲の狭間を鬩ぎ合う力関係」です。
この鬩ぎ合いから、人は知性を育んで来たのだと考えます。
この悩みが無ければ、人類はきっともっと「おばかさん」だったと思っています。

でも、
>諦観的な恋愛観
とおっしゃられてしまうといささか、さびしい気が致します。
反抗期に「大人の優先順位のとり方」を「大人のずるさ」と解釈した幼さと通じる感覚ですが。汗

>やはりこういう解釈にはちょっと無理があるかもしれません。

いえいえ、編集側の意図など、読み手には知ったこっちゃありません。笑
古今集となると、つい真面目ーーに読みたくなりますが、実は実は、めちゃくちゃにエロエロ?な歌が満載だなあと思います。

例えば
670「枕より知る人も無き恋を、、、」
枕だけが知っている恋って、、、、んんーー?
この表現って、とてもとても素敵に淫靡?だと思うのです。
一体、そのひとと何をしたんでしょーか??って突っ込みを入れたくなります。爆

後は「下紐」など、衣服の部分名称が出てるとドキッとします。
いえ、単に私が妄想だらけなだけ、なのでしょうけれど。
確か、万葉集に「まさに今お互いの服を脱がせています」って歌がありましたっけ。
古典と言えど、変わらぬものは変わらないですものね。くすっ。

なので、頂きましたエロ?解釈は「それです!それそれ!」と言う気分です。苦笑
「恋に恋をする」から、「肉の悩みを引き受けて、知を育む」過程、でしょうか。
これこそが、恋の歌の全編を通しての意図、ではないでしょうか。

何だかもっと、お聞きしたい事、書きたい事があった気がするのですが、いざとなると浮かんできません。
残念。。。
丁寧にご教示くださり、ありがとうございます!

お礼日時:2010/06/18 04:14

こんにちは。

「川の流れと男女の仲」ということで、フランスの詩と少し比較してみたくなりました。
Le Pont Mirabeau──Guillaume Apollinaire (1880 - 1918)
http://www.toutelapoesie.com/poemes/apollinaire/ …

両者はあらゆる面で似て非なるわけですが、ある意味この「ミラボー橋」の詩にあるような男女の心模様、これをたった32文字(字余り)に凝縮してしまっているのは真に凄いことではないでしょうか。

そのどちらにも、川の流れを人生になぞらえ、空間軸と時間軸を強く感じるのですが、
アポリネールの詩のほうは、「月日は流れ私は残る」と言いながらも、ほんとうにゆっくりとなのですが、セーヌ河畔の歩みを少しずつ進めているという、そんな印象を受けるのです。
ときに、立ち止まり、思いに耽り、また一歩二歩、という感覚。
しっかりと、「自らが」踏みしめている実感のようなもの。

でも古今集のほうは、よみ人が一点不動のままに意識だけを川の流れとうつろいに向け水面に身をまかせているという、どことなく覚束ない印象を受けるのです。
「浮橋」などの、自由自在な可動性と不安定な感覚の発想にもどこか通じているような、そんな感じ。

日本の「川」が神聖な「山」に発するもので、氾濫や洪水なども含めた自然に対する畏怖や崇拝の念を多少なりとも帯びているとみなすならば、今回ご指摘の「良好な関係を築けなかった《力不足》」というご感想とはまた別に、「ある意味《為すすべのない運命》に身をまかせるまで」の心情が多少は含まれるのではないでしょうか。

あるいはどうでしょう、「無常観」と言いきってしまうのは、ちょっと行き過ぎでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

素敵な比較対象を頂き、見つめておられる世界の広さを改めて実感致しました^^

>これをたった32文字(字余り)に凝縮してしまっているのは真に凄いこと

詠み手のすごさもさる事ながら、そんな短い文からどどーーんと世界を広げていける、読み手の感性もすさまじいと思います。
つくづく、日本という風土・文化、日本語という言語の素晴らしさ。。。
と思うのは、見えている世界の狭さかも知れませんが。

母語というものの、代替し得ないチカラ、でしょうか。。。
それともやはり、日本語のチカラ、でしょうか。。。
私にはよくわかりません。

>ほんとうにゆっくりとなのですが、セーヌ河畔の歩みを少しずつ進めているという、

川の流れから、導き出される両者の違いは、国土の違いでもあるかな、なんてふと、思いました。
日本は湧水地から河口まで、その高低差ゆえ、短い。
川の流れの速度が、大陸に属する国と比べて速いのではないかしら。。。
日本人って、そのせいで意外とせっかちなのかも?。。。
勝手な分析です。苦笑

>日本の「川」が神聖な「山」に発するもので、
>「ある意味《為すすべのない運命》に身をまかせるまで」

ご指摘にハッと致しました。
ついつい、運命は拓くもので、受け入れるものじゃない、と言う私のせっかちさが露呈しました。
せっかく川の流れと言う、ゆったりとした題材なのですから、考える側もゆったりのんびりした方が良さそうですね。

>「無常観」

古今集編纂は、日本の国土文化の頂点を極めた時期であるかと思いますし、「無常」が時代感となるのはもっと下った頃と認識しておりました。
でも、為政者の認識は往々にして国民の認識より遅れるもの、とも思えますし、社会の底辺からのうねりが膨れ上がって動かされるものが政治と思われますから、この時代も華やかさを支えた「生活者」は、既にして無常観を強く持っていたかも知れませんね。

ありがとうございました。
何かまた、お気づきがおありでしたらじゃんじゃかお寄せください。

お礼日時:2010/06/10 02:22

 「睦まじいはずの妹山と背山の間に、文字どおり水をさした歌。

皮肉でやや意想外な恋の巻のフィナーレであるが、『古今集』の人生観がしぜんに現れたものか。」と小学館の完訳日本の古典9、『古今和歌集』の校注と訳をなさった小沢正夫、松田成穂両氏は、述べています。
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この回答へのお礼

早速の回答感謝申し上げます。

>『古今集』の人生観がしぜんに現れたものか。

古今集の人生観。。。
いい加減に文学史と日本史の復習が必須な気がして参りました。
せっかく頂いたヒントを掴みきれず、申し訳なく思います。
お勉強致します。。。

「現れた」この部分については、「(故意に)表現された」のだろうと、私は考えます。
古今集全編を通して、編集意図というものが実はとても強くありそうに思えます。

頂いた箇所、図書館で探してみます。
ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/10 01:57

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