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”聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません”と教会で発言する人がいて反発してしまいました。その人は家では仏教もやっているそうで、なんだかな~と思ってしまいます。その人はやっぱり"仏様の教えを受け入れなければ絶対に救われません”というんでしょうね。やっぱりこちらの発言にも反発してしまいそうです。

素直に”そうですね~”といえない自分は病んでいるのでしょうか?また、自分の友人はクリスチャンなのですが、このコの場合だと、素直に”そうですね”といえるコです。ですけれど、正論振りかざしたらなんでも頷いてついて行っちゃうのも何か問題な気もします。ついて行った先がカルトであったならなおさらです。

教会で聖書を受け入れられない人はプライドがあるからだといわれました。僕自身調べてみて聖書を受け入れられないのはプライドがあるからだと確認しました。ずっと理由はそれだけだと信じてきました。

でも本当にそうでしょうか?理由はプライドだけとは違う気がします。

悪いですが、盲目的クリスチャンの方は答えないでください。また僕の頭がおかしくなるので・・・。

大体口をそろえて盲目的クリスチャンの人は”聖書を信じなければ絶対に救われない”、”プライドがあるから受け入れられない”といいますね。目が見えているクリスチャンならば”分からない”といいます。

絶対に救われない、聖書以外に道はない、という思考に恐ろしさを感じるのは僕だけでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

「聖書を信じなければ絶対に救われない」に関しての回答は質問者さんを混乱させるので控えるとして(私はクリスチャンではありません)、別件について一言。



教会で「聖書に書いてあることを信じなければ」と発言した方。
根本的に発言が矛盾しています。

キリスト教は一神教。
仏像などの偶像(クリスチャンの方の説明だと「他宗教の像」)を拝むのはキリスト教の信仰に確実に反しています。それは聖書に明確に書かれています。

その方が心から「家では仏教」を信仰されているなら、それは聖書に書いてあることを受け入れていないことになり、発言が矛盾します。

あと、私は過日仏教系の宣教師(?)の方に「これこれの念仏を唱えなければ確実に滅びます。だから唱えてください。この宗派以外は全て邪教です」と40分ほどレクチャーされました。
話は聞きましたが、気分が悪くなりました。

「否定的説得」から始める宣教は受け入れ拒否をされます。
だから質問者さんが受け入れられなかったのはプライドからではなく、レクチャーした人の手腕(?)の悪さだと思います。

よい宣教師は(時代と状況によって変わりますが)否定文では話をしないものです。
「私の神以外を信じるなら破滅します」ではなく、
「私のお伝えする神の言葉を聞いてください(あ、どっかで聞いた台詞だ)」という風に。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

発言された人は、よく考えてみれば、ものすごくいい加減な方だったんですね・・・。そんな人に長年振り回されてきたなんてばかみたいです・・・。

牧師も否定文で話すし、その他の人もだいたい否定文だし、そういう教会だったんでしょう。

去っていった人たちもいますが、その去っていった人たちに対して戻ってくるようにお祈りをするありさまでした。問題は自分たちの心の持ちようにあるというのに・・・変です・・・。

自分達が世界で唯一正しい信仰の道を歩いているのだと信じて疑わないみたで怖いですね。

僕はあの教会で死まで追い詰められました。もうこりごりです、ああいうたぐいの人々は。

宗教って難しいですね、一歩間違えばカルトですからね(^^;

お礼日時:2010/06/26 02:07

>宗教って難しいですね、一歩間違えばカルトですからね(^^;


一言だけ。
難しく受け取らなくていのでは。。。
朝起きて「おはよう」といい
食べる時に「いただきます」といい
感謝する時に「ありがとう」といい
夜寝る前に「お休み」という。
これ全て仏様や神様や親に感謝してません?
日々の生活の中で広い意味で宗教してると思いますよ。

では。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

それもそうですが、感謝だけでは狭い意味での宗教になるのではないでしょうか?

子供向けのような気がします。。。

お礼日時:2010/06/28 20:59

40代既婚男性です。


家内がクリスチャンです。(私自身は家に仏壇と神棚がある旧家の長男で、クリスチャンではありません。)

>”聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません”<
こういう発言をする人にも困ったものですが、同じ事を言われても人によって返事が変わってしまうbarrett09さん自身もどうなんでしょうか?
言い回しとか違う言い方をされるんでしょうか?
同じ事を言われても返事が違ってしまうという事は、発言内容よりも「発言した人自身」が嫌いなだけじゃないでしょうか。

>僕自身調べてみて聖書を受け入れられないのはプライドがあるからだと確認しました。<
との事ですが、どこにそのような事が書かれていたんでしょうか?
勉強不足で申し訳無いんですが、教えて頂けるとありがたいです。

私が思うに信仰を持っている人は、そこに「救い」を求めているように思います。
聖書を読んでみると「おかしい」と言うところもありますが、「なるほど」と思う所もあります。
この「なるほど」というところだけを信じて、「おかしい」部分を無視する方が「聖書に書いてあること・・・」という発言をされるのだと思います。
聖書の矛盾を認めてしまうと救われないと思いこんでしまっているんでしょう。
家内が「聖書にある矛盾を認めた方が楽なのに・・・矛盾を認めた上で信仰を持ってもいいと思うんだけど」と言った事があります。

「これを信じないと救われない」との考えは、「信じることで自分は救われた」と思いこんでいるだけのような気もします。
こう言う人ほど色々悩んでいるようで「どこが救われてるんだ」と思われる人が多いのかな。

>絶対に救われない、聖書以外に道はない、という思考に恐ろしさを感じるのは僕だけでしょうか?<
私は「恐ろしさ」と言うより「かわいそうだな」と思います。
狭い世界だけ見て生きて行くんですから。
本人は幸せだと思っているんでしょうから「大きなお世話」かも知れませんが。

日本にはこんなことわざがありますよね「イワシの頭も信心」
長文失礼しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>同じ事を言われても返事が違ってしまうという事は、発言内容よりも「発言した人自身」が嫌いなだけじゃないでしょうか。

いやそんなこともないです。たしかにこの発言をされた人は最初は普通に思っていましたが、あまりの頑固おやじさと慇懃無礼と例の発言で嫌いになりましたが、他の僕が好感を持っていた人、仲のよいクリスチャンが似たような発言をされたときは、がっかりしましたが、嫌いにはなりませんでした。


>家内が「聖書にある矛盾を認めた方が楽なのに・・・矛盾を認めた上で信仰を持ってもいいと思うんだけど」と言った事があります。

それは失礼ながらよくある押し付けですね。僕なら傷ついてリストカットしてしまいますよ。とはいえ洗礼を受ける直前までいって受けなかったけれど最終的に信じましたけれど・・・。

矛盾は僕はまったく気になりません。だって人間、愚かな弟子達(^^;が書いたものですから完璧ではないでしょうし・・・。大切なのはキリスト自身の言葉だと思います^^

>僕自身調べてみて聖書を受け入れられないのはプライドがあるからだと確認しました。

これについては聖書にではなくネットで修道院かなにかのところに書いてあったのです。実際牧師もこのように発言していたし、よくいわれるらしいですよ。

>私は「恐ろしさ」と言うより「かわいそうだな」と思います。

それもそうだなと思います。僕も昔はクリスチャンってかっこいい!と思っていたんですけれど、蓋を開けてみたら本当にかっこいい人は稀です。クリスチャンでかっこいいのは本当に純粋で清貧な人ですね。なんか信じない人達は地獄へ行けばいいと思っているような邪心のある人達は、ださいです。

長文失礼しました。

そろそろ締め切りたいと思います^^

お礼日時:2010/06/28 21:19

福音派のクリスチャンです。

こんばんは
>素直に”そうですね~”といえない自分は病んでいるのでしょうか?・・でも本当にそうでしょうか?
もちろんプライドもあるかもしれません。しかし、僕らには選択の自由がありますし、教会の広告の仕方が下手な所もあり興味が湧かないというのもあるでしょう。
あるいは聖書的に言うと神様の定めた時間があって
まだ、その「時」ではなかったとも捉えることができます。


>その人は家では仏教もやっているそうで
日本人の特有の「家」の宗教の影響だと思います。本当は信仰は個人の自由ですが
家族の目があると、すぐには辞められないでしょう。人生を通して最終的に1つになっていくのではないかと思います。

>絶対に救われない、聖書以外に道はない・・
*過去の経験との比較なんでしょうが多様性を認めないのは怖いですね。
様々な教派があり、聖書のどの記述を大切にするかで方針が決まります。


だから自分に必要だなと思えば、居心地の良い場所を選択
すれば良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>絶対に救われない、聖書以外に道はない・・
*過去の経験との比較なんでしょうが多様性を認めないのは怖いですね。
様々な教派があり、聖書のどの記述を大切にするかで方針が決まります。

そうなんですよ、怖いと思います。

>だから自分に必要だなと思えば、居心地の良い場所を選択
すれば良いのではないでしょうか。

ありがとうございます!教会いなかくなってからは自宅で勉強していました。

お礼日時:2010/06/28 21:22

クリスチャンではないですが、信仰はしてます。


一応、盲目的ではないつもりです。
その上でまだ勉強中。。。
キリストも仏様も尊敬してますよ。
今も尚、人類を救おうとしている偉大なる親ですし。(笑)


>聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません。
受け入れるとかではなく、知る必要があるのでは?
ついでに、偉大なキリストが今いたとして、
『聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません。』
を言うかどうか。。
結論から言うと、その人ももう少し勉強が必要では?と思います。

>教会で聖書を受け入れられない人はプライドがあるからだといわれました。
みなさんありますよ。(笑)
すいません。聖書は読んだことないので分からないのですが、
プライドはいけないって書いてあるのですかね?
偉大キリストはプライドについて、どの様に伝えているのですかね。(笑)


>目が見えているクリスチャンならば”分からない”といいます。
これが一番正しいと感じます。
親である偉大なキリストの事を子が完全に理解するのは難しいのではと思います。
永遠にムリかも。。だから親が伝えた聖書という教科書を子は勉強する。


と思います。(笑)
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます。

>結論から言うと、その人ももう少し勉強が必要では?と思います。


僕もそう思います。

関係ないですけれど、なんで笑っていらっしゃるのですか・・???

お礼日時:2010/06/25 02:16

キリスト教の狂気の意味ですが、私の学んだ内容です。

多少でも、仏教を知っていると、日本人というものは、仏教に影響されているのだなって思うに違いないはずです。

仏教では、「すべての人を救います」と宣言します。つまり、私たちは全員救われます、と言います。分かりにくいかもしれませんので、病院の例えをすると、病院では、来る患者さん、全員を治療します。きわめて常識的ですね。

ところが、健康な人は、おかしな所があることに、気がつかないのです。それは、瀕死の重傷の人でも、順番に治療していくのです。もちろん、仏教は、お釈迦様に近い人から救っていくのです。罪の軽い人、重い人関係がないわけです。これは、本当に私が、ある大学病院で経験したことなのです。実際に、その発言に驚きました。

キリスト教の狂気というのは、100人の患者さんがいようが、1,000人の患者さんがいようが、その中で一人のために治療しようとします。その一人は、瀕死の重症なのです。他の患者さんからは、なぜ、その一人が選ばれたか分かりません。なぜ、あの人が選ばれて、治療を受けているのだろう、自分たちは、前から待っているのに、と文句が出ます。しかし、医師は、たった一人のために、救おうとします。

母が子を思うのも狂気です。どこの子どもでもありません。たった一人の自分の子どもを死に物狂いで救おうとします。神の愛も同様です。しかし、神は、子どもから愛してもらうことも要求します。

仏教の持つ考え方というのは、博愛的・論理的ですが、人への救いの期限を問いません。仏教は、信仰することを望まれても、神のような愛は存在しません。真面目な生活をしていれば、いずれ救います、と言うだけです。だから、輪廻転生という概念が生まれます。

実際に病院でも、全員を治療するというのは、ある意味で建前論で、医者に、「治療はいつになるのでしょうか」と聞くと、「順番です」と言います。いつになるとは答えません。

「公平」という名の残酷さやニヒリズムがあります。日本人の多くは、その残酷さを受け入れようとしているように思います。日本の経済や政策の考え方も同様です。平等さが、結局は、困っている人を救っていきません。99人を救うために、一人を犠牲にする考え方です。極めて、政策的です。

もちろん、仏教側からの、この反論はあるかもしれませんが、仏教の教えとして、99人を犠牲にしてまで、一人を救う教えがあるのでしょうか。それはないはずです。ただ、本来は、仏教は、全体を救うというような教えがないからです。

「宗教は、人を優位と劣位に別け、その優位にある部分に快さを感ずるわけです。」これは、日本では、あまり表に出てくる話ではありません。救われる人と救われない人、天国に行ける人とそうでない人の中で、自分が選ばれた人で、救われるということで、そうでない人たちと差別化され優位に立つことに喜びを感ずるわけです。

それが、宗教としての喜びではないでしょうか。しかし、そういうことを言うのは、日本では、はしたないので言葉にしないだけです。本当は、そうした差別的なものを越えていかなくてはならないものがあるものだと思います。

それと、原理主義というものは、私は、本来、聖書の書かれたメッセージ性を正しく認識できないことに問題があるように思っています。ただ、
「聖書の文字に従えば従うほど、原理主義であり、カルト化していく」
という言葉があります。聖書というものは、2,000年前から数世紀に渡って、当時の人たちが、ユダヤ人だけでなく、多くの人たちに、神の言葉を残そうとして、また、その時の思想や一部の人たちの考えで思想を壊されないように神話化したのではないか、と思っています。

だから、翻訳された文字を文字として従おうとすれば、必ず、間違いが起ると思います。エホバの証人の話を聞く限りは、極めて現実的で、真面目にその内容に従おうとしているようですが、私には、どう聞いても、そこには悲観的な世界しか思い浮かばないのです。

キリスト教の持つ神話を否定して、そこに従って行くことに、彼ら自身の喜びはあるはずですが、それは、キリスト教の持つ本質的なものを失ってしまっているような気がしてならないのです。聖書をどう読むかという問題に尽きるのだと思うのです。聖書を文字を追って読んでも、一向に、本質的な部分が見えてこないわけで、キリスト教がキリスト教として、つないできた、日本的に言えば心があるのだと思うのです。

私の知り合いのドイツ人のクリスチャンは、聖霊を感じると言っていましたが、それに尽きるように思っています。いくら聖書を読んでも、その文面に従っても、その本質的な部分を見逃したら、意味がなくなってしまうと思うのです。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます!

とっても勉強になります^^

>「宗教は、人を優位と劣位に別け、その優位にある部分に快さを感ずるわけです。」これは、日本では、あまり表に出てくる話ではありません。救われる人と救われない人、天国に行ける人とそうでない人の中で、自分が選ばれた人で、救われるということで、そうでない人たちと差別化され優位に立つことに喜びを感ずるわけです。

僕も心あたりあります。牧師に貴方には宝くじが当たったようなものなのだよ。貴方はSPECIALなんだよ。といわれていい気になっていましたね。数年間は優越感に浸れましたしそれが喜びでもありました。孤独ではありましたが。

時期に根拠のない優越感も消えてゆきました。思えば劣等感の裏返しの優越感だったと思います。信仰を持つ初心者の陥りやすい過ちでしょうね。

>それが、宗教としての喜びではないでしょうか。しかし、そういうことを言うのは、日本では、はしたないので言葉にしないだけです。本当は、そうした差別的なものを越えていかなくてはならないものがあるものだと思います。

そうだと僕も思います。それが宗教としての喜びだとは思いたくありません。そんな宗教はチープです。僕が牧師に貴方はSPECIALだといわれる以前の小さな宗派問わない信仰心?の方がよっぽどちゃんとしてた=優越感など持っていなかった。

牧師に貴方はSPECIALだ、と吹き込まれてから人生おかしくなったと思います。それを真に受けた自分も悪いのですが・・・。

>私の知り合いのドイツ人のクリスチャンは、聖霊を感じると言っていましたが、それに尽きるように思っています。いくら聖書を読んでも、その文面に従っても、その本質的な部分を見逃したら、意味がなくなってしまうと思うのです。

聖霊ですか・・・。僕にはよく分かりませんが、時にマリア様だとかエホバ神だとか超越的存在について考えてみて、本当に存在すると仮定して、どう生きるべきか考えてみたりしました。自分の意思を超えたもの、自分より優れたものの意見に耳を傾けるというかそういう事は大事ですよね。なんでも自分だけを頼りにしていては、成長できないというか・・・。やはり超越的存在に学ぶ、(仏教ならば先祖?とか)というのが大事だと思っています。

きっと"聖書を信じなければ絶対に救われない”といってた人は、それは自分の、個人の考えであって、超越的存在の考え方を語ったわけではないと思います。まだ勉強不足でしょうね、僕なんかと違って正式のクリスチャンですが、だからといって勉強が足りてるとはいえないはずです。

教会で正式に洗礼を受けてるからといって未信者に対して優越感を持っていたり、先輩風を吹かせたり、未信者を甘くみているのにはあきれますね。

長年の悩みが解決してきて、すっきりしてきました!^^

お礼日時:2010/06/25 02:43

本来、「救う」「救われる」というものは何かということになってしまいます。

絶対やゼロサムを用いて、「救う」「救われない」というのは、仏教系の宗教団体の「地獄に堕ちる」という言葉と同じ根を持つ発想です。その考え方は、同じ信者内での競争原理だとは思います。ただ、それが、不用意に外に向かわないことを願いたいものです。

「聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません」ということを、絶対視し外に向かって行われ始めるところから、心の崩壊=カルト化が始まっているものだと思います。本来は、一般のキリスト教教会なら、そのうちには正すことにはなるだろうし、教会内で自浄作用があるはずです。しかし、もしも、そういうことを教会内で奨励しているなら、そこから離れたほうがよいと思います。こういう問題は、議論すべきことではありません。

むしろ、「聖書に書いてある」の聖書というものは何か、ということを追求していくと、現代のものは、かなりオブラートを包んだ表現になっていて、現代のものは、かなり内容が一見は分かりやすいものの、それを、翻訳だけで、専門家の手を通さずに解するというのは、時として、間違った方向に進むことも多いものです。また、その研究は、並々ならぬ勉強が必要なはずです。

「聖書」に絶対を持ち出すというのは、イスラームのコーランとは事情が違い、一般キリスト教の方では、キリスト教に単なる恋に恋をする程度としか思えないので、いずれ醒めるとは思います。伝統的なキリスト教教会では、そのような考え方は戒められるはずです。

私たちは、他者や他宗教の人たちと共存していかなくてはなりませんし、日本人の場合は、見かけ上、無宗教という人が多いにも関わらず、その考え方が複雑です。どちらかというと、カルト系の信仰が深く入り込んでいるようです。かなり間違った考えの心霊主義(スピリチュアリズム)が蔓延し始めています。

ご質問者さんは、どのようなキリスト教の解釈なのかは分かりませんが、キリスト教の持つ狂気というものはご理解できますか。ところが、一部の信者たちは、その狂気に快さを感ずることがあります。『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』というものも、『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』というものも、狂気だと思います。その快さは、そうでない人たちにとって、不快に感ずるものがあると思います。しょせん、宗教は、人を優位と劣位に別け、その優位にある部分に快さを感ずるわけです。

ところが、本来は、そこには緻密な理屈と意味があるわけです。キリスト教というよりも、新約聖書には深い意味があると思うのですが、絶対論の考え方からでは、その意味を理解することが出来なくなってしまいます。たかが、2,000年程度前の古代ギリシャ思想の影響を受けた人々の知識は、基本的な科学的な知識を含めて、現代人の考え方とは大幅に違うわけがありません。だからこそ、そんなに、現代語の訳の聖書どおりに信じるということではなく、その意味を心から理解するように心がければ、「聖書は絶対」というような考えとは違った見方が出来るようになるものだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

いろいろと書いてくださって勉強になります。

>キリスト教に単なる恋に恋をする程度としか思えないので、いずれ醒めるとは思います

その人は単にキリスト教に恋をしている程度なのかもしれませんね。今頃醒めて仏教をやっているかも・・・。

>キリスト教の持つ狂気というものはご理解できますか。

理解できます。いろいろ黒い歴史も学びましたし、教会内の人間関係において狂気めいた方もいらっしゃいました。

>『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』

これについては、僕は憎しみに憎しみで答えても意味がない、ということだと解釈しています。本当に敵を愛す事が出来れば素晴らしいけれど、心の奥底では憎んでいるのに親切にしているならば慇懃無礼だし狂気ですね。

>その狂気に快さを感ずることがあります

原理主義者とかそうでしょうね。

>宗教は、人を優位と劣位に別け、その優位にある部分に快さを感ずるわけです。

これはどういう意味ですか?

>その意味を心から理解するように心がければ、「聖書は絶対」というような考えとは違った見方が出来るようになるものだと思います。

そうですね。心からの理解が大切ですよね!

お礼日時:2010/06/23 21:23

「聖書を信じなければ絶対に救われない」と「聖書以外に道はない」


というのは違う気がするのですが。

「聖書を信じなければ絶対に救われない」は、
言いなおせば「聖書を信じれば必ず救われます」となりますし、
特段、聖書以外のものに触れていないと思います。
よって、反論するには、「聖書がダメな理由」を説明しなければならない気がします。

でも「聖書以外に道はない」だと、
あまりにも説が曖昧すぎるので、
反論というか、質問をしたくなりますね。
・聖書以外とは何を指しているか?
・聖書以外のものと聖書との違い

私はそんな感じです。

でも、国によっては大変なことにもなるでしょうし、
日本であっても安全性が保障されてるわけでもないので、
ちょっと、不用意な発言は怖い気がします。。

その教会にいる人が、全員、健全な宗教家であれば良いでしょうが。
怯えすぎかな。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>「聖書を信じなければ絶対に救われない」と「聖書以外に道はない」
というのは違う気がするのですが。

よくわかりませんが、聖書以外に道はないというような雰囲気だったです。ですがその人は仏教もやっていました(笑)

>その教会にいる人が、全員、健全な宗教家であれば良いでしょうが。
怯えすぎかな。。

いや健全な宗教家なんて稀です。(^^;

皆おかしかったです。

お礼日時:2010/06/28 21:29

こんちゃ!



ある会社で営業をしている人がそこの商品を否定してたら売れないでしょ?
コレはいいんです!って信じていないと
営業活動なんてできないでしょ?

それと同じだよ。
売り言葉に過敏に反応するってことは
あなたはどっか病んでるのかもしれないよね?

思考だと思うから怖いのかもしれないけど
案外言ってる本人は営業しているだけなのかもしれないよ。

聖書って一番古い4つの福音ですらキリストの死後50年も経ってから
書かれてるものなんだよね?
だいたいああいう宣伝文をマトモにとりあうことじたい
ナンセンスだと思うよ?
うちの母はクリスチャンだったけどそういう勉強してる割に性格は?だったもの。
宗教は自由だから他人に迷惑さえかけなきゃいいとは思うけど^^
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

営業的発言ですか・・・いわれてみればそれもそうですね。

真に受けた自分はなんだったんだろう^^;

お礼日時:2010/06/28 21:24

素直に”そうですね~”と言えちゃう人の方が病んでる気がします。



ただ、わたしはクリスチャンではないですが理屈は分かるような気がします。
その人がどういった意味で言ったのか分かりませんが、”聖書に書いてあることを受け入れなければ絶対に救われません”というのは、核心を省いてしまったいるだけかもしれません。

「聖書だけが正しい教えであるため、受け入れられない人は救われない」と言っているのであれば、それは間違いだと思いますし、むしろ「そうですね」と言えてしまう人は病んでいると思います。

ただ、「聖書という人の道を説いたものを素直に受け入れる清い心を持った人は救われる」という意味で言ったならその通りだと思います。
つまり、そこに「聖書」に拘る要素はないというところがポイントだと思います。
聖書だろうとなんだろうと、本当にすばらしい道徳や理念を説いたものを素直に受け入れる心がある人は救われるのは、その通りだと思います。そして、それを邪魔するのは一応にしてプライドだったりします。

逆に言えば、どんなに聖書を受け入れていても、その他のすばらしい道徳や理念を説いた宗教を認められない人、ようは聖書のみが絶対であると思いこむ人は、その時点ですでにただの狂信者であり心が病んでいると思います。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

>聖書だろうとなんだろうと、本当にすばらしい道徳や理念を説いたものを素直に受け入れる心がある人は
救われるのは、その通りだと思います。そして、それを邪魔するのは一応にしてプライドだったりします。

僕もそう思います。

>逆に言えば、どんなに聖書を受け入れていても、その他のすばらしい道徳や理念を説いた宗教を認められない人、ようは聖書のみが絶対であると思いこむ人は、その時点ですでにただの狂信者であり心が病んでいると思います。

そうだと思います。とっても参考になりました^^

お礼日時:2010/06/28 21:32

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