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江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

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A 回答 (3件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

回答から先に述べますと「武士階級」でした。

(1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。

(2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は武士階級としては、最下位に位置づけられました。

(3)江戸時代になってからも、足軽は武士階級の一番下位に位置しました。しかし、実際には、足軽の下には、中間、小者という最下位の身分も作られました。

(4)足軽は、下級ではあっても、士分でしたので、帯刀を許されていました。ちなみに、中間が腰に差していたのは「木刀」でした。小者は何も身に付けることはできませんでした。そして、小者が主人のお供をする時は「裸足」(はだし)でした。

(5)また、足軽以下は下駄を履くことは禁止されており、常に草履でした。

(6)家禄というものはなく、給金制度で、大方の大名などに仕える足軽は、年間5両2人扶持の安い給料だったため、内職などに精を出し家計を助けました。そして、足軽長屋に住んでいました。
<扶持の計算方法>
男扶持では1日5合の計算。
女扶持では1日3合の計算。
ですが、足軽は男扶持で計算されました。
5合×360日=1,800合。
1升=10合。
1,800合=180升。
1斗=10升。
180升=18斗。
米俵1俵=4斗。
18斗=4.5俵
従って、年間5両と米俵4.5俵を与えられたことになります。

(7)中には、内職が本業のようになり、職人肌になる者もいました。

(8)米沢藩の上杉鷹山などの時代には、下級武士が藩の財政危機を打開するため、新田開発などに従事しましたが、鷹山は、この者たちの藩を思う心に打たれて、士分を捨てることは許可しませんでした。

(9)米沢藩のように、農業をした者もいますが、江戸や大阪府内では土地を持つことは許されず、江戸や大阪府内の足軽はもっぱら内職で食いつないでいました。

(10)地方の大名の足軽では、農業をしていた者もいました。しかし、一応は立派な「武士」でした。
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この回答へのお礼

わかりやすく細かいご説明ありがとうございます。参考にします。

お礼日時:2010/08/04 14:46

>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?



江戸時代だと、底辺に属する武士扱いでした。
半農半士身分だと、有名なところでは「土佐藩の下士」ですね。
兵農分離が進んでいなかった旧長宗我部家臣が、この状態です。
普段は農業を行い、いざ合戦となれば武具を持って参戦。
山内家入城後、多くは帰農しますが一部は山内家家臣になります。
が、上士(山内家と一緒に土佐に入城した家臣)になる事は出来ず下士となります。
まぁ、武士とは名ばかりです。
江戸時代を通じて、下士身分(下士株)は売買の対象でしたからね。
(才谷屋)先祖が下士株を購入していたので、坂本家も武士扱いだったのです。
(本家筋の才谷屋が豪商だったので、坂本家は上士扱いだったとの説もあります)
先祖が下士株を購入していなければ、坂本竜馬は存在しません。
ただの、泣き虫寝小便小僧で終わっています。(笑)

例外的に、こんな変わった事例もあります。
伊予小松藩では、「農家の次男三男坊を、1年契約で足軽採用」しています。
1万石の小藩ですから、今の日本と同じで「慢性的な財政悪化・借金財政」だったのです。
ポンコツ与党は「増税する事で財政健全化を図る」様ですが、小松藩では「経費削減(贅沢禁止)、家臣の人員削減(解雇)」で乗り切っています。
安易に、年貢を上げる!事はしなかったのです。
某国のポンコツ選挙管理内閣首相も、藩主の爪の垢を飲んで欲しいもんですね。(笑)
藩としては、人件費削減が出来る。農家としては食い扶持が減る。一石二鳥ですね。
1年契約で足軽になった百姓は、契約期間中に限り「武士扱い」です。
武士扱いでも、農繁期には実家を手伝う事が許されていました。
この意味では、半農半士と言えますね。(笑)
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戦国時代の足軽はほとんどは召し放たれました。

(失職)
藩(幕府)に残れたものもいますが、ほとんどのものは武家奉公人扱いで、士分とは呼べません。
これらのものは家禄を得ているのではなく、奉公の代償として給金を得るのですから、半農とは呼べないでしょう。

なかには下士や郷士と呼ばれる待遇で、士分を得ています。
これらのものは基本的には士分なので禄が与えられます。
ただそれでは足りないので、農業も営んでいたわけです。

ご想像の半農半士といった形態のものは、下級ながらてっきとした士分で、農業は(身分上は)あくまで副業と考えるべきかと思います。
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Q半士半農について

江戸時代の藩に依っては下級武士や郷士が半士半農をしていた話を聞きますが、実際に田を耕して米を収穫する、つまり農民と同じような事までしてる例は少ないのでしょ?

Aベストアンサー

農作業は別に卑しい職業じゃありませんよ。
下級武士の大半は何らかの副業を持っていました。
内職などが主ですが、
土地があれば勿論、農作業もします。
基本的に武士の給金が米ベースだったため
米価の変動で経済状況が逼迫することがしばしばありましたし
下級武士が農民よりも貧しい場合もしばしばありました。

沼地などの開墾の際は、武士を辞めて百姓になった者も多くいますし、
蝦夷地開拓で北海道に渡ったのもほぼ全員が武士家族です。

地域的な格差がありますが、
薩摩などの下級武士はほぼ全員が農民と変わらない生活で、
土佐の郷士は、しばしば農民以下の生活。
これは戦国時代から皆兵制度があったためと、
山内家が他所からきて大名になった特殊事情があります。

他の土地でも武士を辞めて商家に変わるのも珍しくありませんでした。

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

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Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
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Q「たそがれ清兵衛」の50石取りとは

映画「たそがれ清兵衛」を観ました。(時代は幕末です)
この中で何度もでてくる50石取りの身分(給与)とはいかほどのものなのでしょうか?
貧しいということはわかりますが、具体的にどれくらいの経済状況なのでしょうか?

1石とは米の単位だと思いますが、そもそもお米で給与をもらっていたのでしょうか?
それとも現金ですか?
映画の中で病気の妻の医療費が毎月1両4分かかったとありました。
この金額を石高にするとどれくらいになりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なかなか感動的な映画でしたね。
一石は下記のようです。
10斗=2.5俵(=100升=1000合)約150キロ
50石ですと、125俵、約7.5トンです。
安房守伝記を見ますと、
幕末のころは一石は25万円相当と書かれていますので、125万円ですね。
幕末のころは、一両が5000円程度ですから
清兵衛は年収125万円(月給10万5000円程度)
妻の医療費(毎月1両4分)は7000円かかる計算です。
使用人もいますから、かなり厳しい生活ですね。

参考URL:http://bakumatu.727.net/iroha/mame-kome.htm,http://www.asyura2.com/0306/tyu2/msg/314.html

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Q武士社会の階級について

 最近時代小説(歴史小説)をよく読んでいますが、いろいろな階級の人が出てきて、その序列(エラサ)がどうなのか、もう一つハッキリしないので困っています。
 自分で一応次のように序列をつけてみました。
 武士(お城勤め)、郷士、足軽、若党、中間

(1)郷士につきましては難しく、維新後は士族ではなく、平民になっているようです。一方、足軽で一代限りではなく世襲で代々続いている家柄の場合は、士族になっているという記載のサイトがありました。
 こういうことから見ると、足軽の方がエライようにも見えますが、今でも残っている郷士の武家屋敷を訪ねてみますと、長大な長屋門で、脇には門番が訪問者を誰何するような出窓もあり、屋敷地全体は2千数百坪もあるような立派なものでした。また史説に寄れば、この家の始祖は、その藩の上士の五男で、藩主より広大な荒地をもらい帰農したのがその始まりであったとのことです。
 この門構えや屋敷を見ますと、足軽や徒士よりずっと上という感じを受けます。郷士にもいろいろあると思います。また藩によっても違うと思いますが、足軽より下とは思えませんが、どうなんでしょうか?

2)歴史小説などを読んでいますと、若党は主人のお供をするときには、木刀を腰に差しており、武芸にも励んでいたようです。
 そうすると、事あるときは主人に従って従軍するという風に想像され、士分ではないが家来のうち、中間は家来というより使用人(下男のようなもの)ということで、若党は中間より上という風に思いましたがどうでしょうか?

 興味本位の質問ですみません。歴史小説も時代考証がどの程度しっかりしているのか、怪しいところがあります。江戸時代に詳しい方のご回答をよろしくお願いします。

 最近時代小説(歴史小説)をよく読んでいますが、いろいろな階級の人が出てきて、その序列(エラサ)がどうなのか、もう一つハッキリしないので困っています。
 自分で一応次のように序列をつけてみました。
 武士(お城勤め)、郷士、足軽、若党、中間

(1)郷士につきましては難しく、維新後は士族ではなく、平民になっているようです。一方、足軽で一代限りではなく世襲で代々続いている家柄の場合は、士族になっているという記載のサイトがありました。
 こういうことから見ると、足軽の方がエラ...続きを読む

Aベストアンサー

若党は正式な呼び名ではなさそうで、難しいのですが士のようで、卒の足軽より上のようです。   まあ徒士見習いというところですか。    従って下士からの順序では徒士、若党、足軽、中間、小者になります。   作家は別な解釈をしているかも知れません。
郷士は藩により制度が異なるので、一律の序列付けは出来ません。
土佐藩の郷士はご存知と思いますが、米沢藩については、国境警備、地方行政の一部担当の御役屋郷士、半士半農の原方郷士、上級藩士の家来の陪臣郷士などありました。   原方は下士扱いです。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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Q8石2人扶持の身分は足軽ですか?

江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸...続きを読む

Q石高について

石高が具体的に想像できません。時代ごとで石盛がことなることは理解できるのですが、例えば加賀百万石や慶長年間の30万石とは、玄米にして何表にあたるのか、米にしたら何表になるのか、金額にしてどれくらいなのか、などの具体的なものを教えていただけませんか。時代ごと、地方ごとでその意味は異なるとは思うのですが、概略だけでも掴みたいと思います。

Aベストアンサー

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのうなぎを食べていたというのが実情で、しかも、精力がつくというので、人足などの肉体労働従事者が食べていたもので、一般的ではありません。

食品としては、海から取れるものは、各種の魚、貝、たこやいか、海草などで、池や川や田などでは、魚や貝が取れました。これらを調理して料理にしたのです。また陸では、米、麦、豆、粟・稗などの雑穀、大根、芋などを含む各種野菜、そして兎やかもの肉などがあり、例外的に、猪の肉などもありました。

しかし副食はそんなに多くなく、庶民だと、米に雑穀、豆から作った味噌や豆腐、それに野菜、魚、貝などが食物でした。やはり、米と雑穀、麦が多く、それに味噌、野菜を少し加えて、これで大体食事です。宮沢賢治の「雨にも負けず」にあるようなのが、江戸時代の食事です。

生活費は大体、食べるのに使ったのだと考えるのがよいでしょう。衣類や調度、その他、多少の道具も必要だったでしょうが、やはり食べることが主で、食べられることが、生活の条件だということになります。

だから、食べるための米の量で計算するのが、江戸時代の価値観では合理性があるのです。

一日に米五合というのは、そんなに食べないと思えますが、昔は、副食がないので結構食べたのです。米だけ食べたのでないので、雑穀も米に勘定して、副食もこれに入れます。すると、大まかに、1石は、200日分の米だと出てきます。

1石=10斗=100升=1000合 でした。それゆえ、1石半で、一人の食料一年はまかなえたことになります。5人家族で7石か8石です。もう少し多く必要だとして、庶民は、一年間に一家で10石あればよかったということになります。

最下級の武士で、禄高30石とかがありますが、30石でも、食べるだけなら、十分余裕があったということになります。

米10石が庶民の年間の収入だったと考えると、現代の庶民の年間収入を仮に300万円とすると、1石は30万円になります。米1升は、1.5kgほどで、1石は150kgだとすると、現代の安い米だと、1kgは500円かそれ以下です。1石は7万5千円になり、10石は75万円になって、先の300万円と合いませんが、江戸時代の方が米の価値は高かったのだと云えます。

中級武士は、禄高100石ぐらいありました。これは3000万円になり、非常に高給のように思えます。しかし、江戸時代は、人件費が無茶苦茶に安かったという事情があります。商家の手代や丁稚が一年、働きに働いても、大した給金はなかったのです。食べさせてもらうことが、給金の主たる部分だったとも云えます。

また武士は、人口の一割にも満たない、エリート階層だったのだということも重要です。中級武士だと、少なくとも4,5人の下男・下女などを専属で使っていたのであり、現代の日本で、4,5人の成人を丸抱えで雇うとなると、年間1000万円の収入では無理でしょう。一人300万円出すとしても、1200万円とか1500万円必要になり、これを考えると、100石の中級武士が年収3000万円というのは、それほど多い金額ではなくなります。

1000石の旗本というと、殿様であって、裕福ということになりますが、これは年収3億円ということになります。

1万石の大名は、石高30億円です。しかし、1万石の大名になると、相応の数の武士の家来を持たねばならず、小者や使用人など、抱える家来や使用人は100人は軽く超えたはずです(また収入は、以下の前田家と同様、15億円と半分になります)。

加賀100万石の前田家は、石高3000億円ということになりますが、これは大土地所有者でもあるのであり、日本の面積の50分1ぐらいを所有する大金持ちだとも云えます。(また、これは、加賀の総生産高で、課税がその半分とすると、1500億円が収入です。領地を持つ大名などは、領地からの税収が収入であったのです)。

徳川の直轄領を仮に1000万石とすると、徳川宗家は年収1.5兆円だとなりますが、これはむしろ、少ないのではないかという気がします。

1石30万円というのは、江戸初期の米の価値で、米の価値は段段落ちてきます。江戸末期には、1石10万円に、もしなっていたとすると、幕府収入は3750億円になります。

これでも多いように見えますが、幕府が何人の人間を養っていたのか、行政手順など、どれぐらい費用をかけていたか、こういうことを考えると、3750億円などでは、とても足りないということになります。

幕府1000万石1.5兆円は、純利益ではなく、粗利益で、ここから人件費その他諸費用を出さねばならないのです。それは大名家も同様で、武士の家も似たようなことになります。

なお、1石は2.5俵です。40石が100俵です。また玄米と白米は、昔は食用の米はほとんど精米していません。だから、そんなに差はないことになります。清酒用の米はかなり精米したようですが、分量的には、それほどではないでしょう(ただ、糠が出る程度には精米したはずです。糠も貴重な食料原料だったのです)。

(農家の次男・三男などが商家に丁稚などで働きに出ると、食事に、たくあん一切れ二切れとか、梅干が出たそうですが、これが何とも美味しく、魅力的であったという話があります)。

なお、参考2では、1石=5万円としていますが、これは話がおかしいのです。現代の米の価格をそのまま戦国時代や江戸時代に当てはめるというのが無理があるのです。一日5合が、一人の庶民の生活費で、1石=5万円だと、1合=50円で、一日5合は、一日250円となりますが、そんなはずはないのです。

1日250円なら、1年で9万円ですが、5人家族で45万円とは、現代日本では生活できません。米の価値が、江戸時代では、現代よりも遥かに高かったということを失念しているのです。

>参考1:石高とは
>http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm
 
>参考2:関ヶ原
>http://www.ryusaku-kuroya.net/sekigahara.htm
 
>参考3:上田藩の支配組織
>http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shinkei/yamashiro/kokudaka.htm,http://www.odc.ueda.nagano.jp/hansei.htm

 
江戸時代と現代では、ものの価値がまったく違うのだということを理解しなければなりません。現代は物品・商品が驚くほど豊富で、食品にしても種類などは無数にあり、その料理法も多数あります。

江戸時代は、初期の頃から後期へと、段段と商品・物品の種類は増え、食品やその調理形態も,時代と共に豊富になって行きましたが、とても現代の比ではありません。

間接的に呼んだ話では、例えば、うなぎの蒲焼などは江戸時代にはなかったと考えてよいのです。江戸後期には出てきますが、中期に、丸焼きのう...続きを読む


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