

No.2ベストアンサー
- 回答日時:
上から下はけっこうあって、武士の子でも医者や百姓になる人は多く、特に次男以下は養子の口がなければどうしようも無いので、武士以外の職業に就く方は多かったようです。
池波正太郎の鬼平によれば、400石の旗本の子どもとして生まれた父親の長谷川宣雄は、甥が跡を継いだことで武士として見切りを付け、巣鴨で百姓をやっていたが、本家の当主である甥が臨終になり、呼び戻されて跡を継いだことになっており、これがなければ百姓になっていたと作中では言われています。
また、町人が下級武士になる例も多く、武士身分が株として売買されているため、有名な勝海舟の祖父の銀一は貧農の生まれで、江戸に出て高利貸しで成功し、子どもの平蔵に御家人株を買い与え、武士にしています。
樋口一葉の父親も山梨の農民出身ですけど、同じく御家人株を買って武士になっており、このあたりは入れ替えがあります。
要するに、武士の収入は米ですから、農民が転職して農業が荒廃しないようにしていただけで、けっこうアバウトです。
ちなみに現代中国も同じで、都市の戸籍と地方の戸籍があり、地方の農民が都市に移住できない制度ができていますけど、根本は同じです。
回答としては、職業選択の自由は昔からあり、人によっては自由がないと言うことです。
No.4
- 回答日時:
#2 でもいわれてますが, 「家を継ぐ」のは 1人であり, その他は何とかして生きていかなければなりません.
武家の場合でも「他の武家に養子に出る」こともあれば「農民に戻る」などの道を選択しなければなりません. 本当かどうかは知りませんが, 「農民以外になったら武士には戻れない」という話もあったりします.
農民も同様で, 同じ村の他の農家に養子に行ったり商人 (丁稚) や職人 (見習い) になる, 武家で働くなどいろいろな道が考えられます. 丁稚でも見込まれればより良い立場になることはできます (理論上は「店を継ぐ」ことも可能) し, 武家で働いていたところを足軽としてとりたてられた例もあります. このことも後押しとなって, 農家の子供であっても読み書きそろばんを学ぶことは珍しくありませんでした.
なお, 「足軽」は武士と農民を結ぶ中間的な階層で「家」としては成立していません.
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