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武士って今で言うと公務員ですよね。特に江戸時代は、戦争もなかったのによく貧乏だったといわれていますが、どうして貧乏なのでしょう?領地からの収入がある範囲で生活すればいいような・・・。高そうな鉄砲だった買わなくてすんだでしょうに。農民が払えないという事態が頻発するようなことも・・・・ないですよね。

A 回答 (10件)

回答のお礼の返答ですが、


農民が増えても、農地が増えないと生産量は増えません。
江戸時代には農地開墾など行われましたが、
それには当然限界がありますし、無理な開墾は
土壌流出や洪水などの災害を往々にして招くため、
期待されるほどの収穫増はなく、むしろ被害が拡大し、
大飢饉を招いたというような例も少なくありません。
農家の家族構成が増えると農家の生活が同様に
苦しくなるので、人減らしといって、堕胎や嬰児殺しが
農家では横行しました。悲しい現実です。
そしてそれは江戸時代に限らず、戦前・戦中まで続きます。
農村は武家よりももっと貧しいわけです。
そして農家の生産収入を糧にする武家の生活も同様に苦しくなる。

米経済と貨幣経済の発達は、中学校の必修内容ですが、
どういう風になるかというと、
農家と武家は米という一次生産物の収入で生活しますが
これを米から金に換えなければなりません。
米価は変動します。そうすると収入が一定しなくなるわけです。
しかし一年に必要な生活費は大きくは変わらないので
お金が足らなくなるわけです。
ま、うまくしたら儲けるだろうと思うでしょうが、
一般に一次生産物の売却は流通の一番最初の原価になるため
値段が一番安い。そこから流通・問屋を経由して大都市で小売される段階では
値段も高くなり十分な利益を生むのですが、農家や税収を売る武家・大名家には
さほどの利益はもたらされないという構造なのです。
物価も変動しますが、貨幣経済になるから下がるというようなことはなくて、
不況や不作、逆に好況や豊作によって上下します。
(むしろ経済成長とともに物価は常に上がり続けると考えるべきです)
豊作貧乏などという言葉もあるように、ずっと米収入が平均的なら
まだいいのですが、天候に左右されるために、米の収穫高や質は
ばらつきが出る。
だから必ず、必要な資金を確保できない年がでてきて、
そういう場合は必ず借金をしなければならないので、
次の年の収入に影響してくる。往々として来年の米収入が担保になることが多いのです。
借金には利子というものがついてくるので、
だからどう転んでも、米農家や大名は裕福にはなりません。
逆に大名などに金を貸す大商人がますます豊かになり、財閥へと成長したというわけです。
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この回答へのお礼

なんども、ご丁寧にありがとうございます。平和で貨幣経済が成り立っていたのなら、そんなにひどい事はありえないだろうと今の感覚で当時を思うのは間違ってるのですね。現在でも農家は大変なことになってるようですし。米は保存がきくので、豊作になったら保管しておけばいいのでは、デリバティブで損失補てんすればいいのではないか、とかやりようがあるだろうと考えてました。金銀がなくても、藩札とか。

つまり、儲かる産業を持っていない普通の武士は生活が厳しいのが普通である、という感じなんですか。言われてみれば、現在だって自営業の人たちは銀行に頭下げて、借金して、なんとかやりくりされてますよね。しっかし、その貧乏武士を相手に成長した大商人はどうやって借金を返済させたのかが、気になりますが・・・、今でも国は借金で四苦八苦ですし、そんなに変わらないのかな。苦しいのは。

江戸は世界一の都市、究極のエコシティー、なーんて最近江戸時代の良さをアピールされることが多いので、いい時代だったのかなあというイメージがあったのですが。どの時代も甘くはないのですね・・。

お礼日時:2009/04/15 01:03

蛇足です。


戦前までの軍人、特に将校以上はみなかなり貧乏です。

海軍では、まず少尉になって礼装作ったら、その月賦が大変で、かつ維持が大変です。さらに、食費を払わなくてはいけません(兵・下士官は無料)。いいものを食べることはできますが、困ります。かといってタダの兵食を取り寄せて食べる、というのは体面にかかわりました。階級が上に行くと礼装も作り直し。接待したりされたり、と、これまた大変です。
あと、従兵がつきますが、たまには小遣いやらないと。部下にも飲ませる必要があります。

陸軍も礼装、食事はおなじですが(兵食と同じものを食するハードルは、海軍より低い)、馬を維持するという大問題がありました。兵士一人、馬最低2匹を給料で維持し、それで通勤します。この維持費がとんでもなく(飼料代などがすごい)、予備役になって馬を売りはらって、ヤレヤレという人が、ほとんどでした。
従兵と部下は海軍とおなじですが、陸軍将校は地方だと「その土地の名士」なので、余計におつきあいの費用がかかります。海軍とちがって逃げようがありません。

その代わり、陸海軍軍人は、尊敬されていました。武士も同様だと思います。
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この回答へのお礼

言われてみれば、現在では馬って金持ちしか持っていませんね。軍事ってお金がかかるんですね・・・・。うーむ。回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/14 02:18

#6様、すばらしい。



それは貫高制から石高制になったからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98% …

「知行100貫を与える。」
と領地を貰えばお金100貫を貰うのと同じです。

江戸時代は新田開発に加えて
農業技術の進歩で米の生産能力は大きく向上しました。
人口の増加に加えて消費も増大しました。

所が
貿易による金銀流出や金山の算出量が減少した事が重なり
貨幣の流通量はまるで増えません。

激しいデフレ(物価が下がる)が起きます。
何とか収拾が付くのですが、余剰気味の米価は元に戻りません。

つまり、米=金ではなくなったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。貨幣経済が出てきたのはわかりましたが、その言い方ですと、結局は貨幣経済が失敗しているような印象ですが。うーむ、貿易赤字なのはわかりましたが、鎖国してたのにそんなに大損ばかりしていたのか、?です。江戸時代はたぶん自給自足なのに、そんなにデフレになるものなのでしょうか・・・。って、米余ってたんですか。信長の時代は楽市楽座とか、いろいろ経済対策していたようなイメージですが、時代が逆境したのでしょうか・・・。

お礼日時:2009/04/14 02:06

弊衣破帽とは兵隊の格好をまねした訳ではないので、兵隊さんがぼろぼろの着物を着ていると国威にかかわりますのでありません。


 武士の命とされる刀にしても、間違って抜いて人を傷つけないためもあったのですが、竹光にしている場合も少なくなかったそうです。
 鉄砲などは猟でもしない限り持つ必要のないものでした。多くの場合藩が保有していました。
 要するに、武士の体面を保つ経費がかかりすぎで、正装した武士は基本的に一人で出歩くことはできず、かならず下男をつれていかねばならないとか大変だったようです。収入も役職についた石高で、世襲制なので息子を跡継ぎにさせようとしたら、若くして隠居しなければなりません。ましてや次男、三男となるとある意味穀つぶしで、いい養子あるいは婿養子先をみつけるのことが最重要課題です。避妊法もない時代なので、農民の間では「間引き」で子殺しもあったようですが、さすが武士ではあまり行われなかったようです。また、いろんな感染症があっていつ子供が死ぬかわからないので、沢山生んでおかねば、跡継ぎがいなくなればお家取り潰しになりますので貧乏しても子供を育てる必要がありました。
享保の改革では、行政官僚制度の充実を図るため足高制が導入され、役職在任中のみ支給する役職に伴う高が設定され、さらに幕末になり、有能な人材を優先する藩では、有能な次男、三男で取り立てられる人間が出てきたのです。
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この回答へのお礼

経費ってそんなにかかるのですか。ユニクロみたいな企業は出てこないのですかね。江戸では。つまり、江戸ではシャネルみたいな企業が、かなり割高な衣装やら鎧やら刀を売って、儲けまくっていたということでいいということなのでしょうか・・・。足高制なんてあったんですね。初耳でした。回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/14 02:14

当時の武士社会はお米がサラリーだった。


元禄の時代ぐらいから、お米の価値が減少し、経済が
貨幣経済に移行した。

参考書籍「峠の群像」堺屋太一
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。堺屋さんわたしも大好きです。本がいっぱいあって、あんまり読んでませんけど。

お礼日時:2009/04/14 01:59

> 領地からの収入がある範囲で生活すればいいような


武士が何時から領地を所有したのですか?知行権はありますが、領地は持っていませんよ。土地は農民や地主のもの

> 高そうな鉄砲だった買わなくてすんだでしょうに
武士を辞めるんですか?鉄砲使えない侍は要りません。帰農でもしてください。

武士の収入は知行地からの徴税(年貢)で生計を立てるか、殿から給料(米**俵)をもらうかの何れかです。それも徴税はその年の収穫量で決まりますので収入が安定しません。

それに武士が貧しければ、誰も野心(天下を取って貧乏になる!)を持つ人がいなくなるじゃありませんか!
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この回答へのお礼

え、武士って土地の支配権がなくて、税金徴収権だけだったということなのですか・・・・。全く知りませんでした。なんだか、現在っぽいですね。えっと、天下人って貧乏なのですか?豊臣秀吉の黄金の茶室とか、現金1兆円もってたとか、あったような・・・。

お礼日時:2009/04/14 01:58

それは世襲制度の特徴です。


土地からの米収穫に頼る税収は、領地が増えない限り
一般的に一定となるのはわかると思いますが、
平和で安定した社会では、人口は基本的に増加します。
武士の家で、2人以上の子供がうまれ、夭折せずに大人に成長できたとすると
当然、前代よりも多くの扶持が必要になるわけで、
それが二代三代とつづけば、大名家の税収は増えないので、
扶持の負担額だけが増え、歳出超過となるわけです。
また有名なことですが、米価は実際には一定ではなく、
豊作のときには安くなり、凶作のときには高くなります。
豊作のときには大量に売っても銭収入が確保できず、
凶作のときにはよそから米を買わないと生存に必要な食料が確保できません。
こういったことから、一次生産物に依存する経済では、
現実には安定せず、江戸時代の貨幣経済の発達にともなって、
各大名家は、年々歳出は増えるので借金を増やし、収入は減少傾向という構造的な問題をかかえ、
幕末に近づくころには大半が破産状態になっていたというわけです。
長州や薩摩など改革を行った有名な藩は、借金の踏み倒しとかで切り抜けましたが、
全般的に世襲制度の弊害を克服できずに、
明治維新では廃藩置県や身分制度の廃止という方向にうごくわけです。
武士はただの公務員ではなく、藩からの扶持で生活する年金受給者なわけで、
その負担の増大が藩の財政を潰す時限爆弾となるわけで、
世界史的に世襲制の国家が3代目、8代目ぐらいに滅ぶという周期的な破滅の原因となります。
これこそが世襲制度の問題で、封建的社会がいずれ崩壊するという構造的問題となります。

ま、回答としては、領地からの収入は、銭換算で増減するが、収穫量はほぼ一定で、
歳出である人件費は銭換算で定額でかつ増え続けるので、必然的に赤字となり、
役職は数に限りがあるし、扶持がもらえない次男坊や、郷士身分に落ちるその他の武士がでてくる。
そういったことから、世代を経るごとに貧しい武士家庭の数は増え、
武士の家庭は、なんとか役職にありつこうと、子供の教育に金をかけ
算術や剣術、習い事を奨励するので、ますます家計は苦しくなる。
こういう悪循環で、没落する武士が多数現れ、
税収確保のために厳しい年貢の取立てで、一揆が起るような状況も生まれるというわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。世襲制が悪いのは理解しましたが、平和で人数増えるのは、農民も同じでは?農民が増えれば生産も増えるような気もします。貨幣経済が発達すれば、物価が安くなって、米の値段が下がりそうな気もしますが、他の物価も下がりそうな気もします。うーむ、むずかしい・・・。

お礼日時:2009/04/14 01:47

これは、武士がじゃなく、天下を取った徳川家康が三河の田舎物で、年貢しか知らなかったせいです。


信長とか上杉謙信とか交易に税をかけることを知っていました。
上杉謙信が死んだときに蔵には膨大な軍資金が残っていました。
上杉謙信は領地支配じゃなくって、平和を維持して交易を盛んにして、関税とか、商人から莫大な税を取っていました。跡取りの田舎物の景勝は、交易の中心の当時の大都市直江津を燃やしちゃいましたが。バカです。新潟には豪商の屋敷が残っていますが、江戸時代、関税を武士がとらなくなったから、商人の中のひとりが、関税を取っていたためです。バカです。

江戸幕府は、今の政府でいうと、農林水産省しかないようなものです。
正確には、農省ですよね。漁業も、林業も非課税でしたから。
通産省のように交易での税収入はとらない。
外務省作って海外と交易もしない。
厚生省作って、薬屋から上納金を取らない。
金融庁作って、金貸しから上納金取らない。
今で言うと、消費税、相続税もありません。
幕府直轄の郵便とか塩の専売(赤穂藩はこれだけで大儲けしてましたよね)なんかもしません。
貧乏になって当たり前です。
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この回答へのお礼

なるほど、なんだか家康はすごく商売下手なような印象を持ってしまいますが・・・。赤穂藩といえば、忠臣蔵ですよね。金持ちだったのですか。税金とってないってことは、町人や商人は無税?なのですかね・・。農民だけが税金はらうということなのでしょうか。商売する武士があらわれなかったんですかね・・・。うーむ、回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/04/14 01:41

その辺の一端を知る手がかりが「武士の家計簿」

http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81 …という新書になっています。
これは加賀藩の経済官僚の家の家計簿が偶然発見されたことから、これの解読と考察を加えたモノで、筆者の語り口と相まって非常に面白い一冊に仕上がっています。

 さて、この本の主人公は下級武士な訳ですが、やっぱり貧乏です。なんせ我が子の祝い事に「鯛が買えないから、絵の鯛を飾ってごまかした」なんて逸話があるぐらい。
 ではなぜ貧乏なのか? 詳しくはこの本を読めば判りますが、端的に言うと「身分費用」というものが非常に高くついた、という一点に絞られます。
 
 要するに武士として振る舞うための儀式や進物などが生活費などに比して非常に高い。かといって、それらは武士としてのステータスですから、この商売を続けていくためには、どうしても節減するわけにはいきません。
 質問者様の例だと、つまり「高そうな鉄砲」がこれに当たります。無駄なことは現代の合理的な目(そして多分当時でも)からすれば分かり切ったことです。でもこれを買わないと、鉄砲を撃つという本来の役目をこなすことができません。なので厭でも買わざるを得ない。
 おんなじようなしがらみによる支出-上は参勤交代から、したは下人に対する小遣いまで-が実にいっぱいあって、これが武士を貧乏にしていたわけです。

 しかしこれをしないと世間体が悪かったり(それだけで昔の人にとっては致命的ですが)、つまはじきにされることで本来得られるべきネットワークの利益を享受できなかったり、へたすりゃ「士道不覚悟」で一家揃って失業です(しかもほとんど再就職の望みはない)。

 で、そのせいで、最終的な消費者である武士が半強制的に支出を余儀なくされたことで、結果的に周辺の産業の需要が維持されていた訳なんですね。
#鉄砲屋も武士ある限り一定の需要を持って維持することができるようになる
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。経済官僚なのに、下級武士なのですか。うーん、現在の感覚でいうと大学の学費が高いようなものなのかな?それにしても、本は面白そうですね。

お礼日時:2009/04/14 01:35

「清貧の思想」です。


武士などの高潔な日本人は、「低く暮らし、高く思う」という
清貧の哲学を持っていました。そして、「貧しくとも、心が満ち
足りていれば豊かと言うべし」といった考えを持っていました。
逆説的に言うと、貧乏である事で、心が豊かだったのです。
戦前の旧制高校生などは、「兵衣破帽(ヘーイハボー)」と言い、
わざと兵隊さんの衣服のように、制服を汚く着て、わざと破れた帽子を
被ったそうです。彼らは決して貧乏なわけではなく、むしろエリートでした。
現代社会に生きる我々には理解しがたい事ですが、かつて、貧乏である
ことがカッコいいという考えがあったのです。そして、その思想は
主に知識層(江戸時代の武士、戦前のエリートなど)が有していたと
いいます。
彼らは、私利私欲を一番嫌い、自らの利益を殺いででも公共の利益を
追求しました。
現在の公務員とは全くの別物ですよね。。
古き良き時代ということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。清貧の思想があったのは理解しました。言われれば、勝海舟なんかも貧乏だったと聞いたような気がしますし。

お礼日時:2009/04/14 01:29

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