ネットが遅くてイライラしてない!?

江戸時代町人や百姓は武士を怖がっているという印象があります。
実際はどうだったのでしょうか?
町人や百姓が武士と話す時どんな感じなんでしょうか?
お願いします。

A 回答 (3件)

武士と平民の身分差というのは、現代人が想像するほど大きなものではなかったようです。



武士というのは多くが兵農分離以前は「豪農」であり、江戸時代になって専業武士となって各大名の家臣になった者、農業に専念して庄屋・名主となった者は「元は同じ」です。

経済力で言えば、大名から知行・扶持を得て生活する武士より、庄屋・名主の方が高いことは珍しくなかったでしょう。これは現在の「公務員と中小企業オーナー」の関係のようなものです。公務員は一定の収入を保証されていますが、事業に成功した企業オーナーが公務員より裕福な生活をしているのはごく普通ですね。

武士と平民という身分の壁がありますので、富裕な商人や名主・庄屋であっても、歴々の武家(供を連れて歩いている武士)に行き会えば礼をして道を譲ったでしょうが、その程度のことです。

なお「斬捨御免」という制度は、「武士が気が向いたら平民を斬っても罪に問われなかった」などというものではありません。
「『正当な理由があれば』武士が平民を斬っても罪に問われない」
というものです。

「正当な理由」というのは、「ヤクザが武士に侮辱を加えた」といったケースです。この場合、武士はヤクザを斬り捨てねば、

1) ヤクザに侮辱を加えられて、ヤクザに勝つ自信がないのでそのまま立ち去ったことが発覚した場合
←武士の面目を傷つけたということで、処罰を受ける。

2) ヤクザに侮辱を加えられて、刀を抜いたがヤクザに負けてしまった
←武士の風上にも置けないということで、切腹処分。(1)のケースより重い処罰を受けます。
なお、江戸時代の平民は丸腰を強いられていたわけではなく、「脇差」と称して一本の刀を差して歩くのは原則自由でした。ヤクザはアウトローですので、「長脇差」と称して武士の刀と同じ寸法のものを差すことが黙認されていた(取り締まりきれない)状態であったようです。

となりました。ですので、剣術に自信のない侍は、ヤクザに出くわさないように気をつけて歩いたそうです。

武士が、ヤクザ者でない平民を斬った場合には厳しく事情が調べられ、
『武士に正当な理由がない』と判定された場合には厳しく罰せられました。平民を守るのが武士の役目なのですから、当たり前のことですね。

こういう質問では「平民が御家人の株を買って武士身分を得ることが出来た」という回答が必ず出て来ますが、これは「御家人の養子になることで、平民出身者が武士階級の末端に加わることが可能であった」とういうことです。
平民側が多額の持参金を出したり、借金を肩代わりすることが武家の養子になる条件となりましたので、俗に「御家人株を買う」と言ったのですが、決して「カネを幕府に払えば御家人の身分を買えた」訳ではありません。
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この回答へのお礼

なるほど。やはり身分の差はそんなに大きくなかったんですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/09 14:07

士農工商という階級の序列は徳川幕府が作ったもので、それまではそのような身分の区別はありませんでした。

あったのは公家と武士とそれ以外の民という区別でした。徳川幕府が頭に描いた日本の社会は農民が作った作物、主として米を根本とし、これによって経済を動かすことを頭に描いていたので、工と商は眼中になかったのです。結局このことが徳川幕府を崩壊に導くのですが、農民を支配するには武士をおそれさせなければならないので、強圧的な政策をずっと続けており、農民は確かに武士を恐れていたでしょう。農民は生かさぬように殺さぬようにというのが伝統的な幕府の方針でした。ところが商人と職人は徳川幕府の支配の外に置かれたために自由な活動が許され、経済的には武士階級を支配してしまうようになりました。ですから経済的に武士階級を従属させてしまった町人は武士を恐れてはいなかったと思われます。
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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/09 14:11

回答しておきます。



町の人や農家の方は、突然「切り捨て御免」とやられるので怖がっていました。だから、住む場所も違いますし、代官所などに呼ばれるのを怖がっていました。将軍職などへの直訴などは、徳川吉宗の享保の改革までは、死罪に相当しており、相当覚悟が必要だったと推定されています。

よって、武士に呼び止められるというのは、今で言うところの「親父狩り」のような恐怖があったのだろうと推定しています。

財を成した商人などは、武士を自衛用に雇っていたでしょうから、毎度の時代劇のごとくでしょう。

では。
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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/09 14:02

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Q武士と農民の違い(江戸時代)

歴史の授業で疑問に思ったことを質問します。
江戸時代の武士と農民の違いは何なんでしょうか。
武士は武器を持っていて、農民は持っていない。
農民は農業を営み、年貢を納め、武士は年貢を納められる側。
このぐらいしか分かりません。(↑も合っているか不安です・・・。)
それから、この二つの身分はどこでわかれたのでしょうか。
秀吉のときの兵農分離でですか。
それでは兵農分離のとき、その前に定められた制度(名前は忘れましたが、確か自分の耕している土地は自分の物になる、というようなものだったような気がします。)によって、土地を持っていた人が農民(百姓)で、その前に支配していた人が武士なのでしょうか。

長々とすみませんでした。

Aベストアンサー

明確に武士と農民が別れたのは、兵農分離のときでしょう。でなければそもそも木下藤吉郎が豊臣秀吉まで出世できるわけがありません。

他の方の回答にあるように、農民(自作農民)が出来たのは墾田永年私財法の効果です。これにより農民が自作耕地を守る為に武装化していき、武士が発生します。
つまり当初は農民=武士だったわけです。

それが鎌倉・室町に公的権威(守護・地頭など)になることによって、支配階級化してきたのです。
ですのでこの時代には皆同じ農民出身だけど、納税者と収税者に別れてきていたのです。しかしまだ非常に不安定な状態だったといえます。
これがはっきり分離するのが戦国時代の後の太閤時代で、そう考えると各地に興った武士階級の天下取りへの参戦は、室町まで残っていた公家の権威がまったくなくなったので、空いた席に座れば日本一、という戦乱だったといえ、だから日本各地に無数の木下藤吉郎がいたといえるでしょうし、織田信長が平定するまでは「加賀は百姓のもちたる国」と言って、地域運営に農民の力が非常に強く出た土地であったようです。

しかし太閤時代・江戸時代になっても完全に兵農分離したとはいえません。実際、もともとの出自はみんな農民で「自分は本家筋で農家を継いだけど、3代前の次男坊は殿様について戦功を上げたから、うちの分家は武士だ」などというのがたくさんあり、じゃあ本家の三男坊は勉強も良くできて持ったいないから、「うち(分家で武士)に子供がいないから養子に来てもらって後を継いでもらうか」などという例もたくさんあります。
そうなると農民の本家が代替わりすると「うちの弟は、養子行って武士だ」となり、もともと同じ血筋ですので、武士と農民が分離している印象がありません。

これが江戸のような都会になるとお金で御家人株を買うということいつながっていくのです。
つまり当時の日本人の意識では、たまたま殿様について戦って居残ったら武士、農地を守ったら農民、という程度の意識しかなかったのだと思います。
それが証拠に、明治になって四民平等になったらあっという間に身分制度がなくなってしまいました。

これは西洋の民主化(いまでも上流階級だけのサロンは残っている)やインドなどの平等化(法律上は平等だがカースト制度が色濃く残る社会)に比べれば、実にあっさりと身分制度が崩壊したように見えます。
しかし事実は、身分制度が崩壊したのではなく、元々強固な身分制度など無いに等しかった、のが正解なのだと思います。

明確に武士と農民が別れたのは、兵農分離のときでしょう。でなければそもそも木下藤吉郎が豊臣秀吉まで出世できるわけがありません。

他の方の回答にあるように、農民(自作農民)が出来たのは墾田永年私財法の効果です。これにより農民が自作耕地を守る為に武装化していき、武士が発生します。
つまり当初は農民=武士だったわけです。

それが鎌倉・室町に公的権威(守護・地頭など)になることによって、支配階級化してきたのです。
ですのでこの時代には皆同じ農民出身だけど、納税者と収税者に別れて...続きを読む

Q百姓と町人の違い

江戸時代のことを調べています。
百姓と町人の身分の違いなんですけど,両者には身分に上下はなく,移動や通婚もあったと理解しています。また,農山漁村に住んでいれば「百姓」,都市部に住んでいれば「町人」住んでいるところでこの身分は把握されていたようです。ですから村にいる鍛冶屋や大工は百姓。ということになります。

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Aベストアンサー

町奉行(幕府、諸藩)に支配されていれば町人、それ以外の代官、郡奉行等に支配されていれば百姓ですね。そのほかに渡り奉公人などは武家に雇用されていれば武士、雇われていないときは町人となります。
把握する根拠としては、それぞれ支配組織(名主や町名主)に把握されていたかどうかでしょう。宗門改帳についてはいまの戸籍のように常時更新されているわけではなく、その内容についても作成者により内容にも精粗があるので適切ではなかったかもしれません。

Q江戸、農民や商人は武士の暴力からどう身を守ってた

質屋で武士を相手に商売してる人とか高利貸しとか、武道教育を受け日本刀を携帯し武装してる侍からどうやってお金を取り立ててたんでしょうか。
法律上は、切り捨てごめんが正当性を証明できないと重罪と書いてあっても、あの時代は監視カメラもDNA鑑定も指紋捜査もありませんよね。
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えーとですね、一度貴方様の頭の中にある江戸時代や侍に対する知識を『消去』しましょう。
貴方様の頭の中の知識はいい加減な時代劇がベースになっていますから。

モラルや犯罪面は武士の方がずーっと厳しいのですよ。
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ですから、無用な争いが起きないようになるべく町人とは交流しないようにしていたのです。

町人に対する事件で特定の武士の名前が上がったら、その時点で武士としては大変不名誉なことであり、処罰されます。
犯人であろうが無かろうが、犯罪がらみで名前が出たという事自体が問題なのです。
でっ、当然、その武士には調査が入ります。

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Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
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ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q信長・秀吉・家康のホトトギス

上記三人の人柄をホトトギスを用いて表現した文句は有名ですが↓

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これらは彼らの人柄をわかりやすく例えるために後世に詠まれた、とこのサイト内の他の質問から知りましたが、これらを考えた「誰か」というのは特定の人物として存在するのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

作者不明だそうです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/think/zakki_08.htm

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む

Q江戸時代の結婚について

江戸時代の(特に後期・幕末)結婚についてですが、身分制度で結婚できる・できないがあったと思うんですけど、どういう人同士が結婚できたんでしょうか。例えば、武士と農民は結婚できないとか、男が農民で女が武士なら結婚できるとか(これはあくまでも例です)。教えてください!!

Aベストアンサー

江戸時代は一見身分の固定された時代と思われがちですが、武士の次男、三男が部屋住みの身分に見切りを付けて、医者になったり百姓になったり、町人がお金で武士の身分を買ったり、けっこう身分は流動的でした。
勝海舟や樋口一葉も武士階級の出身といっても、元々は勝海舟は按摩の孫ですし、一葉の祖父も農民です。
こういう社会ですから、結婚も身分を問わず行われ、上級武士でも、同じ武士身分の養女にすることで町人と結婚できると言う抜け道があり、少なくとも身分帳に載る身分同士は結婚や養子縁組があったと思われます。
身分帳に載らない、エタ、非人と呼ばれる身分は、さすがにある程度の規制(差別)があったようです。

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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