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明治時代はどんな名前の男性が多かったですか?トメ吉とかそんな感じですか?

A 回答 (2件)

私の明治時代のご先祖様は、



父方、母方で

栄吉、大吉、土五郎、市平、又四郎、常吉、又次、、

とかですね。

天保生まれ(新撰組の近藤勇や土方歳三の時代)のご先祖様は、

又吉、又平、文四郎、、とかですね。
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元武士のみなさんは、西郷吉之助→隆盛のように、漢字2字でイメージのよいモノ。


庶民は、出生時に、太郎、次郎レベルではないかと。
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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q明治の人の名前

明治時代は下の名前を音読みすることがあったという話を聞きました。
谷干城(たてき)→かんじょう
西郷従道(つぐみち)→じゅうどう
臥雲辰致(ときむね、たつむね)→たっち
松方正義(まさよし)→せいぎ
伊藤博文(ひろぶみ)→はくぶん
木戸孝允(たかよし)→こういん
以上の人物は音読みするのは聞いたことはありますが、でも黒田清隆→せいりゅう、山形有朋→ゆうほう、大久保利通→りつう、というのは聞いたことがありません。
そこで思ったのですが、音読みするというのは一般的に行われていたことなんでしょうか?それとも一部で用いられていたものなのでしょうか?
またなぜこのようなことが行われていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 そうですね、黒田、山形、大久保さんの音読みは、私も聞いたことはありません。
 先に挙げられた谷干城以下はおおせの通り、音読みが多く、また音読みの方が正解の場合もあるようです。
 名前の読み方は、何時の時代もハッキリと決まったものがないというのが実情です。
 昔でも今でも、戸籍には読み方やフリガナは書いていません(戸籍の名前は自由に変えることはできませんが、読み方は本人の勝手でどうにでもなります)。↓
http://www004.upp.so-net.ne.jp/hitosen/ujina/ujina5.html
 ですから、明治の人の名前の読み方は、本当のところはよくわからないのが実情だと思います。
 挙げられた明治の有名人の読み方も、当時一般に呼ばれていた読み方(音読みが多い)から、本人が『ワシの名前の読み方はこうじゃ。』といった記録や御子孫の話などから、訓読みの方が正しいと判断して修正し、現在の読み方になっているものと思われます。
 それでは、昔なぜ音読みが多かったかと申しますと、実際に本当に音読みの名前も多かったですし、また訓読みは意外と難しい(どう読むのかわからない)ということがあります。
 だから、他人は漢字を見て、どうしても読みやすい音読みにしてしまう傾向があるように思います。語呂がいい、発音しやすいということもあるでしょう。
 例えば原敬は、『たかし』が本当らしいですが、当時から最近まで『たかし』と呼ぶ人は居ませんでした。みんな『ハラケイ』と呼んでいました。私自身も音読みの方が読みやすい名前で、会社では定年まで音読みの方が通っていました(チャンと呼んでくれるのは人事の女の子だけ(笑))。
 まあ、戸籍にフリガナがついているわけではなし、当時は今の区役所のように読み方を届けることもしません。
 テレビやラジオ放送もない時代ですから、正しい読み方が一般に伝わりません。本人も世間が違った読み方をしているとは、ウスウス気づいていたとは思いますが、気にしていなかったと思います。

 西郷従道の氏名届出のエピソードが面白いです。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93 
 山本権兵衛は『ごんべえ』じゃ『カラスがほじくる』を連想するので『ごんのひょうえ』にしたのでしょうか。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B 

 そうですね、黒田、山形、大久保さんの音読みは、私も聞いたことはありません。
 先に挙げられた谷干城以下はおおせの通り、音読みが多く、また音読みの方が正解の場合もあるようです。
 名前の読み方は、何時の時代もハッキリと決まったものがないというのが実情です。
 昔でも今でも、戸籍には読み方やフリガナは書いていません(戸籍の名前は自由に変えることはできませんが、読み方は本人の勝手でどうにでもなります)。↓
http://www004.upp.so-net.ne.jp/hitosen/ujina/ujina5.html
 ですから、明...続きを読む

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q平安時代の庶民の名前

 執筆中の小説に平安時代のキャラを出そうと思っているのですが、当時の庶民(貴族以外)がどんな名前だったのが全然わかりません。

 部曲の廃止とかで名字は勝手に名乗っていたらしい、とか、庶民の女性は「~女」が流行っていた、男性は「~右衛門、~左衛門、~兵衛」がほとんどだった、までは調べられたのですが、そこで行き詰まってしまいました。

 直接教えていただけなくても、参考となるサイトのURLを貼っていただくだけでも構いませんので、ご助力の程、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは、初めまして。
中古文学&平安時代にハマって◎◎年の専業主婦です。
平安時代の庶民の名前・・・との事ですが、まず女性名については
『日本の女性名』角田文衛著を読まれると大変参考になると思います。
皇族貴族から遊女まであらゆる階層の女性の名前を紹介しています。
ある程度の規模の公立図書館もしくは大学図書館に蔵書されているかと思いますので、確認してみてください。ちょっと前に復刊されたのですが、それは大変高価で豪華な装丁がされています。20年ほど前に刊行されたものは上下(上巻ですよ)に分かれていて手頃で読みやすいので、こちらをお薦めします。(ネット検索できる図書館はたくさんありますよ)
男性名に関してはこれといってご紹介できる専門書は知らないのですが、「~右衛門、~左衛門、~兵衛」は少しばかり年代が下るのではないでしょうか?(室町時代以降位かな・・・と。専門家ではないので余り適当な回答を差し上げてはいけませんが)貴族といっても天皇周辺の大貴族から六位以下の下人や位官を賜っていない者まで様々です。また庶民にも平安京に住む下層の貧民もいれば、京より遙か遠くの地方在住でも実際は大規模な土地保有者で非常な富豪である者(負名・田堵といいます)もいます。
角田文衛氏の『平安人物志 下』の<大春日兼平>という章に、長徳二年(996年)に京で強盗を働き逮捕された者の名簿の一覧がありました。そこには<藤井国成><田辺延正><伯耆?吉><津守秋方><能登観童丸>などといった名前があげられております。仰るところの<庶民>かどうかは確認できませんが、位官については明記がないので官人では無いと思われます。
余り詳しい資料をご紹介できなくてすみません。

こんにちは、初めまして。
中古文学&平安時代にハマって◎◎年の専業主婦です。
平安時代の庶民の名前・・・との事ですが、まず女性名については
『日本の女性名』角田文衛著を読まれると大変参考になると思います。
皇族貴族から遊女まであらゆる階層の女性の名前を紹介しています。
ある程度の規模の公立図書館もしくは大学図書館に蔵書されているかと思いますので、確認してみてください。ちょっと前に復刊されたのですが、それは大変高価で豪華な装丁がされています。20年ほど前に刊行されたものは上下(...続きを読む

Q明治の女性名はなぜ二文字のカタカナなのですか

明治の女性名はなぜ二文字のカタカナなのですか
明治の女性の名前を見ると、セツとかトセとかコノとかチカとか、カタカタ二文字の名前が多いですが、
何か意味があってカタカナ二文字なのでしょうか。
明治時代に漢字の名前だった女性もいると思いますが、例えばどんな名前でしょうか。

Aベストアンサー

江戸時代から続いた男尊女卑の影響と漢字の読み書きが出来なかった事情があったと思います。
江戸時代の武家は、篤子や雪子のように女の子に漢字を使ってましたが、民百姓(一般人)に苗字はなく、漢字の読み書きすら教育されてませんので、カタカナぐらいしか読み書き出来なかったのです。
男の子には〇左衛門や〇之助のような漢字を苦心して名付けたようですが、女の子の名に漢字は恐れ多いと思う一般人が多かったのだと考えられます。
キンさんギンさんのような名前は、おキンさんやおギンさんのような呼ばれ方をしてました。
しかし、江戸時代に武家に育った親は漢字の読み書きが出来たので、節子や竹子のような名前を付けてました。
医師でもあり文豪でも有名な森鴎外は、長女に茉莉(まり)次女は杏奴(あんぬ)と名付けてます。

Q明治や大正ロマンかおる、レトロな女性の人名

明治/大正ロマンかおる、レトロな女性の人名ってどんな名前がありますか?
袴をはいて女学校に通っていたようなハイカラさんの時代。
そんな時代に流行した、今では少し古風な雰囲気のする女性の名前をおしえてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
維新後にはそれまで皇室・公家・大名家などでのみ用いられていた「~子」型の名前が庶民にも広がっていきました。
明治五年生まれの樋口一葉の「夏子」、同八年生まれの大塚「楠緒子(なおこ)」、同十一年生まれの与謝野「晶子」、同十九年生まれの平塚雷鳥の「明子」などにもそれがあらわれているかと思います。
明治生命調べによると、その後大正に入り元年・四年には「千代」がその年に生まれた女性名の第一位だそうですが(「改元」の影響を受けての命名と思われます)、二年は「正子」、三年は「静子」、五年は「文子」、六年は「千代子」、七年は「久子」と、このようにずっと「~子」型の名前が一位を占めています。
何か特別「大正ロマン」の香りがする名前という感じでもないかもしれませんが、実際流行した名前はこういうものであったようです。
ご質問の趣旨に合うかわかりませんが、ご参考までに。

Q明治初期の筆記用具

明治初期(20年までの間)、学生などにとって一般的たっだ筆記用具は何だったのでしょうか?

調べていると万年筆、つけペン、鉛筆、筆、どれも存在はしているようなのですが、
まだこの時代、一般的なのは筆だったのでしょうか?
坂の上の雲などでは正岡と秋山は鉛筆を使っていたようなのですが…

ご存知の方、教えていただけますと嬉しいです。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

日本の筆記具は、ご存知の通り、長らく筆と墨でした。もちろん携帯には全く向かない筆記具です。
しかし、アイデアマンの集合体の江戸時代ですから、筆と墨を持ち歩ける「矢立」という携帯用筆記具がありました。それでもやっぱり使いにくいことは変わりません。
江戸時代に徳川家康や伊達政宗が、オランダ人から鉛筆を手に入れていたようですが、あくまで献上品の類で、日常的に使用していたものではないといわれています。
本格的に輸入され始めたのは明治時代になってから。輸入品ということで高価だったのでしょうか、使う人は少なかったようです。しかし、筆と墨よりも手軽で使いやすい鉛筆ですから、何とか国内で作ろうと、当時の人々は努力しました。
若者をヨーロッパに研修に行かせたりもしたそうですから、その熱意は相当なものです。その人々の中に、真崎仁六(まさきにろく)という人がいました。
この人がついに1887年(明治20年)、水車の動力を利用して鉛筆を国内で初めて量産することに成功し、広く世間に広まるきっかけを作ったのです。
ちなみに、この真崎仁六は、「真崎鉛筆製造所」を創業し、その後、この会社は「三菱鉛筆株式会社」となりました。

なのでぎりぎり筆のようです。

日本の筆記具は、ご存知の通り、長らく筆と墨でした。もちろん携帯には全く向かない筆記具です。
しかし、アイデアマンの集合体の江戸時代ですから、筆と墨を持ち歩ける「矢立」という携帯用筆記具がありました。それでもやっぱり使いにくいことは変わりません。
江戸時代に徳川家康や伊達政宗が、オランダ人から鉛筆を手に入れていたようですが、あくまで献上品の類で、日常的に使用していたものではないといわれています。
本格的に輸入され始めたのは明治時代になってから。輸入品ということで高価だったのでし...続きを読む

Q戦国時代の人々の名前について

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は御屋形、ある人は信玄公、ある人は信玄様とさまざまな呼び名で統一されなかったのには意味があったのでしょうか。

ある身分の人ならば織田様と呼び、ある身分の人は、弾正忠様と呼び、ある身分の人は信長様と呼んで良いなんていう規則もあったのでしょうか?

また農民とかならば、個人を特定するような名前自体存在しなかったのでしょうか。
小説で読んだ中では志乃とかお清とか名前はみかけたので、名前がないということはあるでしょうが、人々の命名規則等は存在したのでしょうか。
(苗字は名乗ってはいけないとか、こういう名前を使ってはいけないとか言う規則はあると考えています)
(また、将軍の姓を使った織田とかは名乗れなかったと思います)

苗字を名乗れるのは、どういう身分の人たちなのでしょうか。
小説の中で山崎屋とか商人の人々には名前があったと思うのですが、村里の人々での苗字はみかけませんでしたし。

質問がわかりづらいかも知れませんが、
1.身分によって相手を呼ぶときの名前に対し厳しい制約は存在していたのか。
2.庶民(農民、商人等)の人々の名前についてどういう命名規則があったのか。
(農民は名前のみ、商人は苗字(店の名前)のみ、武士は苗字+名前を名乗ることができたなど。)
3.また、命名規則があればどのような名前が多かったのでしょうか。
(農家の男なら五平、六平。女なら志乃、清など)
の3つ教えてください。
よろしくお願いします。

司馬遼太郎の国盗り物語を読んだのですが、すこし感覚が掴めなかったので質問させてください。

戦国時代の人々の一般的な名前はどういったものなのでしょうか。
たとえば武将でいえば武田信玄、織田信長、明智光秀の呼び名は有名ですが、これらの名前って現代の人たちが理解しやすいように略した名前ですよね。
武田信玄は徳栄軒信玄
織田信長は織田上総介信長
明智光秀は明智十兵衛光秀
といった感じで、苗字+名前の形式ではなく、ミドルネーム?みたいなものはどういう規則であるのですか?
ある人は...続きを読む

Aベストアンサー

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分の人たち、名主クラスです。

次に中大夫・平大夫・五郎大夫など大夫が付く人が10名・・・中介・江介・三郎介など介の付く人が6名、「大夫」や「介」は古代の令制の官位の呼び方ですが、すでにこの時代には農民が、一定の年齢に達した時、幼名から改名する際に使用していたようです。

新検校・惣別当・安寿など名の付く人が3名・・・「検校」や「別当」「安寿」などは、ご存知のように本来、寺院や荘園・官庁の役職名ですが、やはりこの時代ではすでに農民のレベルでも名乗っています。

次に、かい丸・牛丸と「丸」の付く人が2名・・・「丸」は本来、幼名に使用する文字ですが、牛飼いなどの運搬業に携わる人は、成人しても使用していたそうです。

平細工・孫太郎細工と「細工」と付く人が2名・・・彼らは手工業の職人だったと思われます。

残り24名は、この時代の農民の一般的な名前と言える物・・・藤内・源内・中江・孫太郎・孫二郎・彦二郎・平二郎・藤二郎・弥二郎・中三郎・惣四郎・孫五郎など、この中の「彦」や「孫」や「弥」は全国的に使用されている最も一般的な文字です。
「平」「源」「藤」「中」は貴族の姓を名前に取り入れています。
その後につく二郎や三郎というのは、お察しの通り、大抵は出生順の「○郎」と付けたようです。
彼らは、小百姓層の人たちです。

以上、先にも書かせていただいたように、これらの名前はすべて、中世の惣村の農民の名前・・・一揆の起請文の署名です。
女性の名がないのは、一揆の場合の署名は、一家の家長が代表して行う事が多かったためだと思われます。

長々と書いてしまいましたが、少しは参考になりますでしょうか?

質問1については、先の回答者さんが答えておられるので、2と3について・・・

時代は少し古くなるのですが、建武の新政が行われた1334年に、若狭の国・太良荘(たらのそう)で、地頭の交代を請求した一揆の起請文には、惣村に属する農民・59名の署名が書かれています。

それを例にあげますと・・・
この一揆のリーダーだったと思われる僧実円・僧禅勝といった僧の名の付く人が6名、大山貞重・中原吉安・物部宗弘といった姓と実名のある人が6名、この内3名は花押も持っていて、グループの中では上層の身分...続きを読む

Q明治時代の養子制度

戸籍をとって見ていると
明治の頃 本人が養子に行ったり
また 本戸籍に戻ったりしているのですが
この時代に こういう流れになるのは
どういった環境が推測されるのでしょうか
昔のことなので 聞ける相手は誰も無く
困っています

Aベストアンサー

こんにちは。特別に専門家とかではないのですが、明治~大正期の風俗といった方面に非常に興味があり、私の知っている範囲ですが少しだけお答えさせていただきます。

明治うまれの詩人に、室生犀星という人がいますよね。彼には自伝があるのですが、なんと2回、養子に行っています。しかも2回目は「隣のお寺」という、今の感覚からすると軽いノリ(笑)で行っています。

犀星の場合は、両親がともに早くに亡くなってしまったため、ということなのですが。

また、柳田国男なども養子にいっています(彼はもともとは柳田という姓ではありません)。柳田国男の兄弟たちは、皆それぞれ非凡な才能のある人たちでびっくりしてしまうのですが、兄弟なの姓がバラバラです。それぞれが別の家へ養子に入ってしまっているからです。

『この時代に こういう流れになるのは
どういった環境が推測されるのでしょうか 』
と、ありますが、
まずひとつには、今よりも子供の数が平均的に多いのだけれども、教育のシステムが今よりも整っていない→優秀な子供の場合、「家の跡をつがせる」という暗黙の了解のもとに養子として学費等を出資する・・というかんじではないかな?と思います。

今と法律なども違います。家父長制が根強く残っていた時代です。家と家との結びつきのための養子というものもあったかもしれません。
また、どのような理由から養子となったのかも、それぞれ違うと思います。「育てられない」という理由いがいに、賢い子を望まれて、名家に養子に出したという場合もあるでしょう。
また、もしかすると今よりも法的な手続きが簡単だったのかもしれません(養子縁組をすることでからんでくる問題(税金等)などのことが複雑ではないのかも?)←ちょっと旧民法等がわからないので、流してください。。

当時を生きていた人の書いたものを読むのがてっとり早いかもしれません。上記にある、室生犀星の自伝は『ある少女の死まで』という本です。
参考URLにあげたのは、当時のひとびとの記録として秀逸の本です。明治という時代がどのように人間を扱っていた時代なのかというのがわかるかもしれません。

(とりあえず、今とは非常に違うということは言えると思います)

参考URL:http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/8/3310910.html

こんにちは。特別に専門家とかではないのですが、明治~大正期の風俗といった方面に非常に興味があり、私の知っている範囲ですが少しだけお答えさせていただきます。

明治うまれの詩人に、室生犀星という人がいますよね。彼には自伝があるのですが、なんと2回、養子に行っています。しかも2回目は「隣のお寺」という、今の感覚からすると軽いノリ(笑)で行っています。

犀星の場合は、両親がともに早くに亡くなってしまったため、ということなのですが。

また、柳田国男なども養子にいっています(彼...続きを読む

Q子供の名前を考え中・・(男)歴史に出てくるお坊さんのような名前 教えてください

2月に 男の子を出産予定です。今 名前を 考えているのですが、今はやりの ありきたりな名前ではなく お坊さんの様な、歴史に出てくる様な・・・そんな名前を 探しています。

ご存知の 名前が ありましたら 教えてください。 

Aベストアンサー

>2月に 男の子を出産予定です
 おめでとうございます。体に気をつけていい子を産んでください。ところで、お坊さんの名前って人名漢字に引っかかりそうな人多いので気をつけて。

仏教彫刻、仏画でよく見かける人たちを挙げてみると・・
◎インド、中国の高僧
無着(むちゃく)、世親(せしん)、玄奘(げんじょう←三蔵法師ですね。)、鑑真(がんじん)、龍猛(りゅうみょう)、龍智(りゅうち)、不空(ふくう)、恵果(けいか)、善導(ぜんどう)、達磨(だるま)、慧可(えか)、慧能(えのう)

◎日本の高僧
義淵(ぎえん)、行基(ぎょうき)、良弁(ろうべん)、空海、聖宝(しょうぼう)、最澄、円仁、円珍、良源(りょうげん)、源信、良忍(りょうにん)、良尊、智光(ちこう)、泰澄(たいちょう)、重源(ちょうげん)、叡尊(えいそん)、源空(げんくう)、親鸞(しんらん)、蓮如(れんにょ)、日蓮(にちれん)、栄西(えいさい)、道元(どうげん)、隠元(いんげん)

◎その他
円空(えんくう)、木喰(もくじき)、良寛(りょうかん)

 うーん、見にくい!!ごめんなさい。私の一押しは「空海」(スケールのでかい偉大な人になりそう。字も読みやすいし)、良寛(優しい人になってくれそう)。
 あと、上にあげた人の中で特にイメージが良い人物は、玄奘(努力家のイメージ)、鑑真(努力家のイメージ)、重源(東大寺を復興した人)です。
 反対に、人によってはイメージが悪いこともあるのですすめない人は、親鸞、蓮如、日蓮(←人によってですよ。本当はすごい人だったと思います)。前に上がっている道鏡も怪僧ってイメージが強いので、子供の名前にはあまりすすめられません。

 日本仏教人名辞典(新人物往来社)とかもあるので、こういうのも参考にしてみては?何をやった人かも分かるし・・多分図書館の宗教か、事典か、芸術のコーナーにあります。それから、自分の好きな字を選んで音読みにするだけでもぐっと僧侶っぽく・・(大学時代、義博という知人は、「ぎはく和尚」と呼ばれていました。)

>2月に 男の子を出産予定です
 おめでとうございます。体に気をつけていい子を産んでください。ところで、お坊さんの名前って人名漢字に引っかかりそうな人多いので気をつけて。

仏教彫刻、仏画でよく見かける人たちを挙げてみると・・
◎インド、中国の高僧
無着(むちゃく)、世親(せしん)、玄奘(げんじょう←三蔵法師ですね。)、鑑真(がんじん)、龍猛(りゅうみょう)、龍智(りゅうち)、不空(ふくう)、恵果(けいか)、善導(ぜんどう)、達磨(だるま)、慧可(えか)、慧能(えのう)

◎...続きを読む

Q妊娠後期になってから膣が刺さるような痛み

32週の初産婦です。
30週くらいから、膣が刺さるような痛みが出ました。
体勢を変えたりすると長く続く痛みではないのですが、そうゆう方はいましたか?
もうすぐ検診なので、その時にも聞いてみますが
胎動がある時に、膣の痛みを感じるようです。
こうゆう症状がある時は、早産になったりするのでしょうか?
出産日の事も含めて、教えて下さい。

Aベストアンサー

現在、予定日を目前に控えた妊婦です。
たぶん、ほとんど同じ痛みを私も体験しています。
まさに膣が刺さるような痛み。膣とか、子宮口とかの方向に向けて、太めの針でズーンと刺されるような、結構な痛みが、9ヶ月くらいからたまに感じるようになり、臨月になってからはしょっちゅうです。
そして予定日1週間をきってからは毎晩、ものすごく「その痛み」があるんです。妊婦友達が複数いますが、少なくない人が同じ痛みを体験しているので、「きっと赤ちゃんの頭突きだろうね」と笑っています。

先日、かなり頻繁にその痛みがあり、その直後に検診に行ったら、赤ちゃんが随分下がっており、子宮頸管も短くなり、子宮口も開き気味。まさにお産に向けての準備として、赤ちゃんがメリメリと下降したんだなぁと思わせられました。

診察では特に異常もなかったし、後期特有の症状かな、と思います。
donpatiさんも検診で特に言われなかったのなら、少なくない妊婦が体験する痛みじゃないかしら?

お互い元気な赤ちゃん産みましょうね。


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