電子書籍の厳選無料作品が豊富!

悪意は悪意で返すべきなのか?

よく掲示板で相手のことを想って言っているのではなく、相手を貶めることで自分の優越感を得たり、相手を傷つけて苦しむのを想像して楽しむための書き込みを見ることがあると思います。
もちろんネットの世界だけではなく、リアルの世界でもありますが、そういうものにはどう対処すべきだと思いますか?

無視する、説教する、やり返す などなど

A 回答 (23件中11~20件)

 ずっと溜め込んでいていたことをあえて表現すると、やはり新たな気づきと、それを元に思索することができますね。




 例えば、自分が外を歩いているとき、あることを思い出して怒っていたとします。

 それを見て、他人が「せせら笑っていた」とここでは仮定しましょう。(何が原因でせせら笑っているのか、あえてその反応を確かめてみたことがあるのでこの仮定は状況によりますが、間違いないと想います。そうでなくとも、「相手が私のことではなく、何かのことでせせら笑っていて、それがどうにも我慢できないという現実はあるのは間違いないから)

 さて、なぜ自分が怒っていたのでしょうか。未解決の問題があるからです。

 さて、その、怒っている自分を見て、なぜ他者はせせら笑っていたのでしょうか。それは、怒りを抑圧せざるを得ない環境にいて、その反動として躁的な態度を、その時(だけども限らないが)とっているからだろうと思われます。抑圧した人間と根本的な問題を解決していれば、そのような人間は目に入らないか、黙って見過ごすことが出来るでしょう。その人間は自分の鏡であるが、裏合わせ鏡である、つまり反対の人間と引き合ったのでしょう。

 ここで怒りに任せて対処したら、社会的制裁がなくとも、チャラになるだけで良くも悪くもなく、同じ問題を繰り返すでしょう。

 しかし、どうにも解決策が見つからない(と思われる)時は そいつと同じ人間になってしまうよりは、一旦リセットしたほうが良いかもしれませんね。下策と言えますが、、、。

 普通の人間は、妥協して「気のせいだ」などと思ったりします。それはそれ。
    • good
    • 0

例えばここのような掲示板で、あなたが質問し、それに対する回答が


あまりにもひどいと感じたとき、今後こうすればいいと思います。
質問をするだけしておいて、回答は一切見ないようにする。
    • good
    • 0

補足



悪意で返す
ということを分析すると

悪意で返すは、回答の形式をとらないという事実に注意しましょう。

質問者に決定的な情報を与えることなく

 バカに影響されるお前がバカだと 乱暴な理論を振りかざし、

回答者に対し、「ああしろ・こうしろ」とべき論ばかりを唱える。

現実世界の自分はというと、失業保険・年金・寄付金・国費等みんなのオカネで生き延びている。

決定的なのは、「教えてやっともいいが教えない」という
傲慢な態度です。たった一人の個人の態度です。

問題はそういう人に教える知識も能力がないという事実でしょう。
    • good
    • 0

「返す」というのは、何を返すのでしょう?


無駄なエネルギーを費やすだけ損です。
「けなされた」事がイヤだという事は、そんなカスに良く思われたいという事?
子供に「バーカ」と言われて腹が立つなら、あなたも同レベルだということです。

もし、あなたが自分の正当性を把握していて、それを悪く言う人がいたなら、
その真の意味は『私は正しい評価能力がありません&他人に自己主張したがる
自我の目覚めの未熟な人間です』という事です。
もちろんここは質問サイトなので、答えてあげてもいいですが、その応答に
“俺は正しい答えを知りたいんじゃなく、自己顕示したいだけだ”という姿勢が
見えたら、放置して他の真摯に質問している人のために労力を使いましょう。
    • good
    • 0

nanetto


まずネットに限定して話を進めましょう。

ネット上では、
前提である
「相手のことを思って」というのが、偽善的議論を容認する規定性です。

悪意を持っている人は普通、「自分は社会のことを考えている」と主張し、
「相手」と「社会」を掏りかえる技術を駆使してオレオレ理論を展開してきます。

「実のところ、わたしが、社会である」という出発点を武器として、他人に言いがかりをつけるのが楽しみであるというのが、悪意のメカニズムです。

ここで言う悪とは他者が作り上げた価値及び成果を「公」の名の元に利用し、自分が」つくりあげたものとして宣伝することです。物理的にみてこの人たちに「感謝」というものはない。

資本主義経済学者の基本論理は、

I) 社会性の前提=
全ての人間は、ある意味偽善者である。
全ての人間は潜在的キリスト教者である。
全ての人間は善である。さもなくば善になることが出来る。
善の出発点は私である。
私は他人に善をわからせることで、自分が善として振舞うことができる。

その善の行為を、
意地悪ととられても、他人をいじめることで他人が偽善者から変化することに貢献することが出来ればひとつの成果である。

II) 人間になるために必要なこと=
人間の代表者とは、私である。
権力者は、ばか者であり、私の意見を聞くことで自分を善に近づけることが出来る。
まだ真人間になっていない下層民は、私の意見に賛同し、わたしの善行を敬うことで私のレベルにまで自己を高めることが出来る。

つまり、
わたしを尊敬することで、認識を深めることが出来る。

私を理解する為には私の文章を読むべきである。
社会のことを思って発言している「ま人間=わたし」を尊敬するべきである。

と永遠に自己主張が続きます。

はっきりしていることはそういう人と同じレベルにある人間は発言者一人だけであるという事実です。他人とコミュニケーションが取れていないのは他人が悪いというのが基本政治路線・常套経済路線です。

大事なことは社会の始まりが、他ならぬこの「わたし」であると主張すること。
もうひとつ、
わたしは、他人の世話が出来ず、現実の中では一人ぼっちであり、
他人の世話になり続けて今までギリギリやってきた現実を無視して
「わたしは社会のことを考えている」
ともっともらしいことを述べることです。

よきにつけ、わるきにつけ、
質問者様のテーゼは、悪意の始まりは誰かという責任論を、もみ消す為の屁理屈として機能しているようです。

悪意を語る際、悪意の発端について語らないのは、片手落ちです。
    • good
    • 0

ごめん。

 イエス様になれます

 の間違いだったかも



>そういうものにはどう対処すべきだと思いますか?
>無視する、説教する、やり返す などなど

 見極める でしょうか。
    • good
    • 0

訂正



× 結局は、他者からの悪意であれ、行為であれ~

○ 結局は、他者からの悪意であれ、好意であれ~


 しかし、人間社会はある意味制約と枠組みをあえて作った、命をかけたゲーム・学校・創造の場 のようなものでもあるのでしょう。

「法律があるから手は出せない」という悔しい雰囲気を察して、相手も安心してそのような反応を見せるのでしょう。しかしそれも、怒った人が社会と世界に依存しているくせに自我を強く出し、他者をあまり省みない、わがままな部分があり、そういった雰囲気を察しているということもある。あるいは行動・発言しようとしてしなかったのが原因である、ということもある。

 今の自分の怒りが、何をしなかったかが故に発生しているのかを検証し、今後の自分の行為振る舞い検証し見直す機会と思えば良いかもしれないですね。

 そしてもっとこれを極めていくと、、、。

 お釈迦様になれますw
    • good
    • 0

 人を怒らせて歓び、その「人を怒らせて喜んだ顔」を見て、こいつは人を怒らせて喜ぶ奴だな と思うと怒りがこみ上げてきます。

その怒った顔を見て、そいつはさらに喜びます。その、さらに喜んだ顔を見て こいつは人をとことん怒らせて喜ぶ奴だ と思うと、殺したくなります。そういった雰囲気を察してさらにそいつは嬉しがります。

 そいつをぶん殴れば、そいつのためにも自分のためにも社会のためにも良いだろうと思っていても、法があるのでそれはできません。また、もし誰にもばれない状況であるにせよ、「自分の手だけは汚したくない。また、わずかでも罪悪感を持つ可能性もあり、罪悪感を持ちつつ生きるのは自分にとってマイナスである。」という考えもあり、やはり出来ないでしょう。

 人の反応でしか充足感を感じたり刺激を感じることが出来ないと考え、そいつが一人でいるときはさも惨めで虚無感を感じているであろう、と考えて 無視するようにしています。

 結局は、他者からの悪意であれ、行為であれ、自分が注目されることでしかエネルギーを供給することができないのだろう、というのが結論です。
    • good
    • 0

「悪意は悪意で返すべきなのか?」



これは、人の有り様に関する非常に根本的な問題を孕んでいますが、基本的には、
「【なにで】返すべきか」ではなく、
「【どのような気持ち(=感覚)で】返すべきか」という視点で検討するのが妥当ではないかと思われます。

この意味で、「【悪意で】返す」のは好ましくありません。
これが、何事かの建設的解決などに結びつくことはないでしょう。
建設的解決としてひとつ考えられるのは、悪意によって受けた抑圧をとりあえず相手に投げ返すことによって、抑圧の内部留保を回避し、それによって精神の安定を得る、という効果は確かに期待できます。
しかし、この場合であっても、「【悪意で】返す」のではなく、「要らぬものを押し付けやがって」という程度の単純な、いわゆる「喧嘩腰」での純粋(あるいは単純)な応酬が好ましいでしょう。
その意味で、正々堂々たる喧嘩は潔いと言うことができます。

【悪意】というものは、そもそも、
「他者に悪を(強引に)付与することによって、その相手を貶め、そのことによって相対的に自らの精神的拠りどころを得たい、という意志」のことです。
端的に言うと、自立できていない人間、あるいは、自らの力だけでは自立できなくなっている人間が、必要に駆られて止むを得ずに頼ってしまう、低劣なアイデンティティ確保の手段にすぎません。
相手と同様に【悪意で】返して、一時的にすっきりしたつもりでも、後々、忸怩たる感覚に囚われることになるのは目に見えていますが、それは、このような理由によるものでしょう。
「>説教する」という方法も有りでしょうが、これは方法論と同時に、相手に、それを受け止めるだけの資質がなければ逆効果です。

おっしゃるように、
「無視する、説教する、やり返す」
色々な対処ができるでしょう。
ただ、基本的な姿勢としては、
『「相手に、そういった悪意が生じている理由」について幾許かでも想像してみること』が重要であるように、私は思います。
そこを通過したあとは、それぞれの『個人のキャパシティの範囲で』、どのような対処をしても、大差はおそらくないでしょう。
状況に応じて、ということです。
逆に言うと、ここを通過しない対処は、どのようなものであっても効果は期待できないでしょう。

なぜかというと、(何らかの要因に基づく)自らの不健全性に対する悲鳴が、他者への悪意となって表明されているわけで、「他者に対して悪意を表明すること、【それ自体】」が、その(悪意の)本来的な目的ではないからです。
  
    • good
    • 0

それを防ぐために法があるのです。

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す