どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。
▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~
たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。
時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。
しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。
永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。
ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
(アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。
これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。
この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか?
いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
No.26
- 回答日時:
ブラジェロンさんの無限に対する基礎的姿勢は、「把握」にあるように見えます。
違うかも知れませんが。数学の基本姿勢は、「認識」です。ありのままです。なので、把握も感性も両方受入れて、作られてます。最後はきっちり論理でまとめてきますが。
把握のみが唯一絶対でもなく主導権を撮るわけでもありませんし。そういう視点です。
僕の基本姿勢は感覚なので、むしろ実無限より、得体が知れない可能無限の視点の方が好きです。
可能無限の主観的スタンスは、数学というよりむしろ、日常に生きる人間の生活感覚に近いので、実生活への応用がやりやすい、と僕は思ってます。
無限なんてわからない、というのが普通の話ですし。
こんなとこでしょうか?
全体的に、前も書いたけど、途中でどうも場違いなのに気付いたので、どの程度書くか迷います。
おわり。
つづいてです。
前にも書きましたけれど 《可能無限》にしろ《実無限》にしろ 経験世界に属するものは 絶対としての無限ではないので ひとからげにします ここでは わたしは。
非経験の領域をどう説明するのが よいか。こういう問題意識です。数学もそのために活用します。
絶対を説明するとき 理性によるのも感性によるのもあるいは両方によるのも それは問題ありません。自由です。
No.25
- 回答日時:
こんばんは。
続きになります。
>妥当性のある想定をしたいからです。
その妥当性が、人の生まれつきの性格によって、違うと言うことになります。説明下手ですが。水掛け論とかじゃなく、本当に、そこの所の違いは人によって大きいと思いません? 何が妥当かなんて・・
>この地上で互いに入り組んでいる。その境界が分からないほどいわば縺れている
これは言い得て妙ですね。上手い表現だなーと思いました。
>わたしは 分けて説明する態度で来ています。考慮の余地ありでしょうか?
厳密にブラジェロンさんの気持ちを追った分けじゃないけど、多分これは考え方のルートが違うと思うので、問題ないように思います。
例えば、物理と古文がお互いそのよりどころを批判し合っても無意味ですし。
僕は、ボーダーレスを目指してるので、人が拠り所にしてる概念が気にはなるんですが・・
例えば、物理と生物があるとします。それぞれ拠り所にするスタンスが違いますよね。同じ客観世界に対してでも。
その時物理の、あるいは生物のスタンスを間違ってる、と言う物ではありません。
物理は物理の、生物は生物のスタンスを固持することで初めて見える世界があると思うので。
ただ、物理やさんなら生物のスタンスを参考にしてもいいし、生物学者なら物理のスタンスを参考にしてもいい、という風なことを言ってたんですが。
間違いとか、再考すべき、という話ではありません。
でも、やっぱちょっとこれも、場違いな話をふっかけてしまったみたいで・・
だから、分けるスタンスは素晴らしいんですが、分けないスタンスの人と意見交換するのもいいかも、みたいなはなしです。それはそういう切り口ですし。
>そのあとの段階に進んで さらに物言いをつけられても。
これは物言いでも揚げ足取りでもなく、こちらの説明不足です。申し訳ないです。
ぼくは、例えば論理と感性があるとき、どちらもが極限まで生かされてる状態がひとつの理想と思っています。
それは、在来ある言葉を借りると、中道、中庸、というたぐいの概念です。
なので、例えば、赤、青、緑、という3色が在るとして、僕は、そのうちのどの色が今足りないか、どの色が多すぎるか? という目で見て言ってます。
なので、最初の話では、心感性が足りないように見えたのでそう言いました。
後半、今度は、心と感性を重んじる、と言われたので、今度は立場が逆転しただけなので、それも変だなーと言いました。
2つが極限まで並び立つことを理想とする、と言うことを言ってないので、誤解を招きました。
>《認識・時間・空間・因果》 これらすべては 《相対的で移ろいゆく経験世界に属する》。
そういう見方もありますねー。・・・そういう立場ですね。
だいぶ前にブラジェロンさんと議論したときに、僕が、主観世界の壁は、絶対、無限、(永遠)、循環でできてる、と言ったことがあるんですが、同じだなーと今思いました。
認識=意識から来る能力なので、絶対と同じですし、つまり認識=絶対。
因果が繋がってないことは、閉じている。つまり因果=循環だとも言えるので。余談です。
可能無限と実無限の違いを理解するには、僕個人としては、感性と把握は、全く独立した人の内面の2つの要素であり、どちらがどちらに属したり、どちらかが優位に立つ物ではないこと、を知っていることが必要かと思います。
ブラジェロンさんは、とにかく存在=把握能力をよく使用されるので、感性と、把握を切替えるスイッチのようなものはないでしょうか?
僕はボーダーレスで、哲学にこだわるわけではないので、そんな認識になります。
でもそれはそれで、把握の専門家として、いつもすごいなーとは思っていますが。
>その数がひとつ特定できたとしたなら
同じはなしですが、感覚的に特定できない物が、無限大です。そして感覚は、把握と並ぶ独立した人間の内面要素なので、そのオリジナリティーを無視はできません。(というか、僕が感覚派の人間だから、自分が無視されたくない、という話ですが・・)
無限大が把握できないというのではなく、把握はもちろんできます。
でも一方、それは感覚的には理解できないものなんだ、というのも、同じだけの正当性をもっている、と言うことになります。
なので、感性の独立性を無視して、把握のみで突っ走るのなら、ブラジェロンさんの言われることに反対はありません。
というよりそもそもそういう話をしてなかったので、話が噛み合ってないです。この噛み合いの悪さが、どうしても取れないですー。
そもそも、無限の話は、数学において答えの出てる話ですし、哲学のスレでそれを持ち出すのだから、また違う解釈見解も有りだろう、と思って言ってみたんですが。
続きます。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
今回のご回答は それぞれ活きるのなら それでよいということになりませんか。
すべての項目で そのようだと思うのですが?
○ 感性にしろ理性にしろあるいは両方でにしろ 経験世界を超える領域については それらによって表象することはできない。
○ ただし その非経験の領域が ひとの心にとっては 非思考の場として出来上がる。これは 《絶対としての神》とそして《わたし》との対面の場である。
○ 非思考の場は いわば神というまぼろしを受け容れるわたしの経験行為がおこなわれるところであり 言ってみればわたしの心の窓である。
○ この心の窓においてわたしは 《絶対=非経験=無限=永遠》にあたかも触れている。あるいは 覆い包まれるかのように 触れられている。
こんなところでしょうか。
No.24
- 回答日時:
ANo.23の続き
bragelonneさん⇒月を描くのではなく――それを見させるだけでも 並大抵のことではないでしょうが―― 月を描いている《わたし》を そしてそのわたしの葛藤ぶりを 日常世界において互いに話し合う。その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
◆《絶対》を使いこなすことは難しいですね。すぐに言葉で使って、いろいろに出す事はできますが。
私自身は《絶対》も、そしてこの系統の言葉、タームに少々アレルギーに為りそうなんです。
猿猴湖面の月を捉えんとす、って絵がありますね。
桜、見に来て 桜、見る馬鹿っていう江戸川柳もありますね。月と月影はあるだけでいいのかと存じますが。
つづいてです。
◆ ~~~~~~~~~~~~~~
《絶対》を使いこなすことは難しいですね。すぐに言葉で使って、いろいろに出す事はできますが。
私自身は《絶対》も、そしてこの系統の言葉、タームに少々アレルギーに為りそうなんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ アレルギーともトラウマとも言ってられないという情況を――わたしは いま実際にこの思索以上にその情況に直面しているというのではないのですが―― 避けることは出来ない。というところを出発点にしている。
いまの問いについては このことのみに立ってわたしは世界を見ていますし ものごとについて考えています。
すなわち
☆☆ その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
☆ つまり外国人との交通を避けて通れないという意味です。
たとえこの島国のどこかに住み書斎に閉じこもって独りものを考えるにしても いわば――土俵では必ずしもなく――リングの上にあがって 理論としても実践(=生活)としても 対話をすすめていくよりほかに道はない。という意味です。
土俵を到るところにつくるという手もあるかと考えますが 相手にゆづるという行き方からすれば
◆ 猿猴湖面の月を捉えんとす、って絵がありますね。
☆ というふうに相手が 《湖面の月》を取り扱っているのが現実であれば わたしたちに最小限必要なことは もしそうだとすれば《それは これこれの理由で 〈ただの湖面の月を捉えようとしているに過ぎませんよ〉と説明する》ことです。説明しきることです。
ところが 《絶対・永遠・真理・全知全能》はなじみがなく なじみづらいとしても 《無限・かみ・信じる》という言葉はわたしたちも土俵の上で使っているのです。
ですから 定義とその詳しい説明が どうしても必要なのです。哲学がそれを――日本の哲学として・つまりあたらしい哲学として―― 出来ないというのは 敗北主義です。避けて通ろうとするなら 先人の知恵がもたらした《白鳥入蘆花》じたいも絵に描いた餅であると見なされるでしょう。
見なされることは――実質とは違いますから―― 敗北ではありませんが 人びとの心意気は――外国人に対して――やはり上がらないでしょう。
日本人の浮沈をかけた最前線にある課題のひとつだと見ます。
わたしと同じようにせよとは 言っていません。このように大事な問い求めに対して なぜ足を引っ張ることばかりをおやりになるのか。そういうお応えです。
No.23
- 回答日時:
ANo.22のお礼への返書
(a) 《白鳥入蘆花》――すなわち 所謂るさとりの境地として 《もののあはれを知る》類型あるいは《梵我一如》類型であると多少曲げて一般化してしまいますが――の推し出しを 大いに進めていくかどうか。それ一本で済むと考えるのかどうか。
◆《白馬入蘆花》ですと、臨済の偈であるそうですね。それが《梵我一如》の類型になるのか、《梵我一如》という境地を意識化していませんのでコメントを避けたいと存じます。
◆《白鳥入蘆花》で下村湖人が何を示したいのか、私達中学生はaggressiveや野心、功名心、名声での言行や心理を戒めたものというように思っていました。未だ社会的行動のことしか日々の生活の心理の中ではありませんでしたので。
◆無論《一本で済むと考える》ことなどはできなくても、bragelonneさんの何かの手掛かりになるかと存じました。私自身は不可視の事項の可視界への手掛かりの一つではないかと存じます。とことん希薄にしていった状況という存在を考えられないかと存じます。
(b)《白鳥入蘆花》ないし《梵我一如》の境地は 常態であるのかどうか。
◆このことはことばをそのままご紹介させて頂くことに今は止めたいと存じます。
・ 言いかえると 《一如である部分》と《一如でない部分》とがあるのがふつうではないか。
・ あるいは 白鳥なり蘆花なりのいづれにせよ その白が黒くなったり灰色に彩られていたりするという状 態は起こらないのか。もっと言えば その白の下にもしくは中に 赤い血も流れているのではないか?
◆前の“・”については、私は、意味上からありえないのではないかと存じます。
◆後の“・”についても、常に純白の白だと存じます。そして赤い血も滴る汗も涙も生きている過去の遺跡となるのだろうと存じます。
bragelonneさん⇒これを〔* すなわち《絶対=非経験=無限=永遠》のナゾを〕 われわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか?
やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
◆そういうことになりましょうか。口頭会話ができませんで、やほよろづの神々についての所感の交換が必要なのではないかと思いました。
☆ と同じ方向を向いているように思います。《我ら・我らの存在》も 日本語では《かみ》と呼ぶほどですから。《同じ白》だが 神の白は神の白 われら凡人の白はわれら人間としての白 というところでしょうか。
◆私は人間の神に由来する本性を白という表現をするならば、同じだと存じます。
bragelonneさん⇒天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
◆申し訳ありません。私自身はこのようには観念してはおりませんが、拝読しましたというコメント以上には書けません。
☆ 白鳥のほかにも鳥はいますし 蘆花のほかにも薄も萩もあるようですし というのは揚げ足取りに過ぎないとしても この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。そのことにもちらっとでも触れてもらえるなら ありがたいという思いもあるのです。
◆どの鳥でもよかろうし、鳥でなくてもよろしかろうと存じます。しかし、《白鳥入蘆花》の場合は白鳥であり、臨済では白馬だそうです。それ以外にはありません。この比喩は単なる比喩ではないのです。単なる伝統でもないのです。そして蘆花以外にはありえないのです。これも単なる比喩でも単なる伝統でもないのです。深い意味があります。ちなみに、インド神話には水辺の草にまつわるたくさんの謂れの話があります。主としてkusha grass(蘆)というものです。これは邪や地(土要素(土、水、火・・・といく))の磁力に対する重要なものとされてきました。
◆私も日々翻弄されながらの生活しております。【この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。】のは同じです。ちらっと触れることなどはできなくて、全部を曝け出しています。
この回答への補足
覚え書きです。
○ 尊敬の複数形
☆ はアラビア語でも同じく普及しています。
▼ アッラーフがみづからを称して《われわれは》というふうに 複数形で語るのはなぜか? ( Why does Allah refer to Himself with the plural pronoun? )
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl …
☆ 次のふたつの説が紹介されています。
(1) 天使らを数えに入れている。(He may be referring to the Himself along with His angels. )
(2) 《尊敬・尊厳》を示すもの。
・ 威厳(majesty;divine majesty)
・ 《王》としての自称(the royal we )
(3) ただし 単数形の場合もある。その場合は 親しさを表わすためである。(The "I" of Intimacy )
☆ 《クルアーン(コーラン)》の和訳のサイトを見つけましたが そこでは アッラーフの自称はどうも見たところ 単数形(《われ》)で統一して訳されているようです。
▼ 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html
☆ アッラーフ自身についての叙述は 単数形(つまりしたがって 《かれ》となる)であり アッラーフがみづから語るその発言の文において 複数形の代名詞が用いられているというもののようです。
クリヤさん お早うございます。ご回答をつづけて寄せていただきありがとうございます。
さて お書きの文章を全体として受け取るなら 四の五の言わずに 手法のもんだいについて互いの考えを明らかにするのがよいかと思われます。
次の文章が たたき台としては よろしいのではないでしょうか。
わたしは それはえらそうに上からものを言っていると思いますが 手法の問題としてかなり現実にもとづく重要な視点ではないかと考えます。
◆ (無住処涅槃) ~~~~~~~~~
大乗仏教では 《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》ということが言われる。
・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
(《岩波 仏教辞典》1989年版)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち 《白鳥入蘆花》――これをわたしがどれだけ理解し得たかをいま別とせざるを得ないわけですが――が かの者より与えられたなら この無住処涅槃の手法におもむく。こう考えます。極端に言えば 理論を放っぽり出してでもこの土の上に生きる でしょうか。
すなわち
☆☆ 天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて・・・
☆ うんぬんとなると考えます。
No.22
- 回答日時:
bragelonne さん、ANo.11のお礼でのお教えに感謝します。
私達の心性や心理、そして日常の気持ちではアニミズムてき畏怖観はあっても、かの西洋人の絶対とかの観念は根をもてていません。
(少なくとも、私krya1998においては。)
彼ら、または彼ら用の宗教書には何かにつけて、荘厳性と修辞性でくっついてくるタームですね。まことに煩い。
でも私は宗教性や心情、ないしは心性ではなく、所謂る不遜・傲慢になりがちなインテレクチュアル場面で自己に言い聞かせます。
何においても原因や根源、根因のないものはない。自分にしても人間しても、経験界やこの世にしても。
ということから前方を見つめて、それが絶対、普遍、無限なのだ、という観念を持とうとしております。
ご回答でも絶対が存在する、しない。という仰せがあります。どちらも存立し、存立しないと存じます。
それはご了解いただけると存じます。
非経験という語をご使用です。経験するものではない、つまり経験の対象でもないし経験結果にも為り得ない、という意味と存じます。
では経験する存在者、主格という存在としてはどうか。
或いは経験ではない、存在ではないものとしてはどうか?
という思考でおります。
白鳥入蘆花。(これは下村湖人ですが、臨済では白馬が入るとなるそうです)
白鳥を選んだのは湖人の直観と素晴らしいセンスです。
ヒンドゥでも、鳥は特に白鳥は魂を象徴することが多いのです。
馬はいわゆる経験界を生きていく、肉体、経験と紡ぎの用具カテゴリ、機能であるとされています(ヒンドゥでは)。
私は、白鳥と蘆花の世界が仰せの絶対の世界かなと、存じます。
これは最も当たり前、もっとも普通、もっとも根源というものだと存じますので。
まぁ日本人としての私は、此処までが精一杯ですね。
そして中学のとき、60数年まえですが、湖人に夢中になったことが今も継続しているというわけです。
荘厳性の修辞的絶対は、私はどうもなじめません。
私達がそれだ、もっとも普通、根源からきているものだ。
そこに存在しているものだ、という観念ですね。日本人的だとおもったら、やはりバガヴァッド・ギータもそういっています。
われらは神より来たれり、我らは彼の観念であり、我らの存在である。というのですよ。(60語くらい省略があります。)
この回答への補足
覚え書きです。
▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~
1章 1節: 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2節: この言は、初めに神と共にあった。
3節: 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《言》か《言葉》かは 日本語だけの問題ではないでしょうか。《事の端→言葉》というように薄っぺらに見られるのを嫌って 《言》を用いているのだと考えます。そこまで気にすることもないとわたしは考えます。
☆ 《 logos 》は 《 leg- : 拾う・あつめる・えらぶ→ 拾い集めたものをととのえる・まとめる・おさめたかたちにする》より。
・ lecture < leg-ture : 《〔文字を拾いつつ〕読むこと・講義》
・ intelligence ・ intellect < inter-leg-・・・:《あいだを拾う→分かる・知る》
☆ 子の父に対して 父の子が 《ロゴス》にたとえられるのは 精神における《記憶(また秩序)》という宝庫からふさわしい言葉を探し出し分かるようにする《知解》のはたらきに当てる。
記憶が 言わば光源としての父。子は そこから生まれる発耀。
これら父と子との両方から発出される聖霊は 記憶と知解とより心つもりを決めるという判断であり《意志》行為。
意志が愛にたとえられるのは 光源と発耀との両方から出る《明るさ・あたたかさ》との類似による。
☆ 《ことば》が 世界の創造にかかわったという言い方は 旧約聖書にもわづかながら見出されると言われる。
▲ (詩編) ~~~~~~~~~~~~
33編 4節 : 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。
5節: 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。
6節: もろもろの天は主のみことば( DaBaR ; Logos; Word )によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。
7節: 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 【Q:神が天地をつくったのか】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6148166.html
・No.6お礼欄:《宇宙はブラフマンと同質なのか 一体なのか》
・No.7お礼欄:《昼と夜、闇と光。この境界があるとすればなにか》
つづいてご回答を寄せていただきました。
そうですね。先を急ぐようなかたちになるかも知れませんが ふたつの事柄を思い浮かべました。
( a ) 《白鳥入蘆花》――すなわち 所謂るさとりの境地として 《もののあはれを知る》類型あるいは《梵我一如》類型であると多少曲げて一般化してしまいますが――の推し出しを 大いに進めていくかどうか。それ一本で済むと考えるのかどうか。
( b ) 《白鳥入蘆花》ないし《梵我一如》の境地は 常態であるのかどうか。
・ 言いかえると 《一如である部分》と《一如でない部分》とがあるのがふつうではないか。
・ あるいは 白鳥なり蘆花なりのいづれにせよ その白が黒くなったり灰色に彩られていたりするという状態は起こらないのか。もっと言えば その白の下にもしくは中に 赤い血も流れているのではないか?
さて
★ われらは神より来たれり、我らは彼の観念であり、我らの存在である。というのですよ。
☆ これなら
☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~
これを〔* すなわち《絶対=非経験=無限=永遠》のナゾを〕 われわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか?
やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と同じ方向を向いているように思います。《我ら・我らの存在》も 日本語では《かみ》と呼ぶほどですから。《同じ白》だが 神の白は神の白 われら凡人の白はわれら人間としての白 というところでしょうか。
このところわたしは数学のもんだいでコーナーに追い詰められていますが LTCM1998 さんのご回答に反応して次のように述べました。まづは お聞きください。
☆☆ (No.19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。
けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 白鳥のほかにも鳥はいますし 蘆花のほかにも薄も萩もあるようですし というのは揚げ足取りに過ぎないとしても この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。そのことにもちらっとでも触れてもらえるなら ありがたいという思いもあるのです。
月を描くのではなく――それを見させるだけでも 並大抵のことではないでしょうが―― 月を描いている《わたし》を そしてそのわたしの葛藤ぶりを 日常世界において互いに話し合う。その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
わたしの目の前にあるのは こういう課題です。どうでしょう?
No.21
- 回答日時:
数学についてお書きでしたので・・
>数の存在においてそこに +1することは出来るのではないか
もちろんできます。が、数の存在、といっている地点で、すでに認識と客観の視点に移動されてます。自分で気づかないうちに可能無限から実無限へ視点を変化されてる、と思います。
数学はまったく専門外ですが、
理解の範囲内で言うと、可能無限は、言葉の通り可能性、期待を示します。
1.2.3・・・∞、とありますが、 1.2.3は、そのものをダイレクトに知ることができます。でも無限大は、人は知りえません。知り得ないものに1を加えることはできない、と思うのですが。
そこに1を加えることができるのは、無限大なんて大きすぎてわからない、というスタンスを放棄して、視点を変更し、数の大小、という感覚を無視して、把握に徹し、無限大を一つの存在として、お書きの通り捉えたときに、初めて1を加えることが可能です。
でもそれでは、もう可能無限とは呼べないのではないかと思います。
数字が、大きい、小さい、というのは、もともと感覚ですし。
可能無限においては、∞、というのは数字ではありません。それは、いつまでも続く、という操作、手順を示す記号です。それに一を加える、というのは、操作と数字を混同されていると思います。
そこに視点の移動があるようなので、論理は首尾一貫していません。
>可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場
という、可能無限に対する一つの定義があります。
この定義が正しいかどうかしりませんが、仮にこれが正しいなら、1を加える、というのは意味不明になります。操作と数字は別物です。
僕の中の理解でも、無限というのは、操作や手順、ある種の動作であって、数字ではない、少なくとも1.2.3.というダイレクトに数字を扱う立場においては、無限というのは、無限に増やし続ける、という操作手順なので、数字ではない、という認識があります。少なくとも最初はそう習いました。
微分における無限小も、小さい数字ではなく、「無限に小さくして0に近づけていけば」という、やはり操作を示してたはず・・
このあたりはまともに扱おうとすると、言われるとおり、イプシロン-デルタ論法や、超準解析とかいうそうです。素人の手の出ない話ですが。
実無限においては、無限大は、一つの数字のように扱われるので、∞+1ということも、計算として成り立ちますが。
この定義が正しいなら? 可能無限の話をしているときに、+1ということは意味が通りません。
「数の存在において」、という地点で、可能無限から実無限に、スタンスを無意識に変更されているように見えます。
bragelonneさんは、数学は・好きなほうでしょうか? 僕は下手の横好きなので、断言はしません。
無意識の約束事とは、たとえばすぐ上に書いたようなことです。
>真無限は 経験世界にあたかも降りて来るという事件が 《わたし》の主観内において起こるという側面もあります
これは、なに???、とか思ってしまったのですが、たぶん個人的経験なんでしょうねー。
それならそれは、そういう悟り方もあるんだろうなーと想像するだけですが。もしかして、パズルの最後のピースが埋まるように、降りてきませんでした? 欠けた最後の一葉が落ちてくるような。
>推論の妥当性によってひらめくというよりは 推論が存在しえたという発見とそのおどろきをとおして というかたちの感性や心をとおしてであるかも分かりません。
人はもちろん、推論論理だけでなく、感性も心も人格も本当はみんな同時に持っていますが、ただ自分の主体がある場所は、普通は、それら全体にはわたらず、一部だったりします。なので、本人が自覚的な範囲を指すのか、裏側まで表現するのかですが。
>どちらを優先させるかたちを取っても 得られるところのものが問い求めていたものであったら 問題ないように思います。
もちろんそうです。ただ・・ まあ、それをいうと・・・議論がそもそも・・・
現実問題、その優先順位の混乱によって混迷する議論は少なくないみたいですし。ん~~
無限論も入れてみました。どうでしょうか? おやすみなさい。
つづいてです。
★ 無限論も入れてみました。どうでしょうか?
☆ わたしはまだ数学の能力を開発していませんので――ここでは あまがっぱさん ちょとつさん ひどっちさん 新たにエルティースィーエムさんが頼りですが―― いわば簡便法で述べています。
どういうことかと言うと:
○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。
○ あるいはだから その数がひとつ特定できたとしたなら その数に一を加えることも出来る。つまりその一定の数量よりも大きいという状態が存在すると言える。ならば 比べることができるゆえに 相対の世界であり経験世界である。
○ 《無限》は この経験世界を超えている。
☆ こう言おうとしているのみです。
これが否定されたなら 元も子もありません。とは認めます。
No.20
- 回答日時:
では、だだだーっと。
>《絶対=永遠=無限=無根拠》 想定し定義したとしても 表象しえないままです。
そのあたりのことは了解済みです。言い方が悪いのかもしれませんが、僕がいいたいのは、
絶対=認識の限界 永遠=時間の限界、無限=空間の限界、無根拠=因果の限界、という風に解体?し、再び構成する方向性です。
全部をイコールでつなげるのがかなり乱暴な面があることはわかっておられるでしょうか?
そういうことをいいたかったんです。ちょっと遅いですが。
ただ、それは、ここの質問文にはそぐわない、と判断したのですが・・。ある種の、話の厳密さや方向性の階層が違う、と思ったので。
そういう議論をする場ではなかったなーと話しながら気づいたのですが
>理性なり感性なりをとおして意識化したものは その限りで管理下に置かれますよ
ちょっと違うと思います。意識化すれば変質します。管理下におくのは好みの問題ですが、それは、無限を有限に変換してる地点で、同じようで別物です。意識下におくことは変質でもありますから。経験世界内の物事であってもです。
この例えがあってるかどうかわからないですが、スポーツにおいて、意識化すると体は動かなくなります・・あんまりいい例えじゃないか・・感覚とその意識化は、別物です。ここがまったくイコールなら、考えるほうは苦労しません。
>経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます
これは、そう望むからそうしているだけじゃないでしょうか?
言い換えると、きっちり区別されない領域の分け方もあります。望めば、特に論拠はなくともきっちり区別することも可能だ、という意味です。
きっちり区別される、と解釈することもできる、というのがより正確だと思うんですが、たいした問題ではないでしょうか?
それは数ある正解の選択肢の中から、自分の好む区別法を選んだ、ということだと思うのですが?
それもスタンスの違いとして、ここで話すことではなかったように思いますが。微妙だ。
>その数の特定としての表象ではなく その存在が表象され得るというものですから
ええ、それはそうです。でも、ただの存在の表象なら、レッテルとしての表現と変わりません。そこでストップでしょうか?そのあたりに方向性の違いを感じます。
レッテルとしての存在の表象に意味と意義を感じるかどうか、というスタンスの違いが見えます。
>存在を認識するということについての――《心と感性》を重んじています。
これは、難しいところですが、僕は心と感性と論理は、すべて一致する、と思っていますので、どちらに重きをおく、ということ自体が不十分に思います。
なるほど。ひつじさんは――あっ お早うございます。ご回答をありがとうございます―― 《絶対》が分かったあとの情況や課題について話をしておられる。ではないでしょうか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます
これは、そう望むからそうしているだけじゃないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まだ《腑に落ちない》段階での話をわたしはしております。
ひとはその存在が永遠ではありません。ですね? でも《永遠》という言葉があります。ではどのように定義すれば 誰にとっても共通の理解が得られるか? そこから上の区別を言っています。《そう望んで》行なうのではないわけです。妥当性のある想定をしたいからです。
直前の回答へのやり取りで こう書きました。
☆☆ 天の国(=絶対・非経験の領域)と地上の国(=相対世界)とは この地上で互いに入り組んでいる。その境界が分からないほどいわば縺れている。しかもその国境は 非武装中立地帯ではなくて 心の中で絶えずと言っていいほど戦争(葛藤)をおこなっている。けれども 天の国が来ているのなら わたしたちはすでにすくわれている。
☆ ですから (1) 経験世界とそれを超える非経験の領域とは 互いにはっきりと分けられる。そして(2) しかも《超える》という意味は 超えたもののほうが言わば優位にあることだ。非経験の絶対――要するに 神――が この地上の経験世界を覆い包むと 想定上 言える。
この(2)の段階では 《神が人間を覆い包む》状態は 人間にとって神のことばとわたしの欲望や理性との戦争をも部分的には意味する。要するに 絡み合いもつれ合っている。
ですから (1)の規定を批判して
★ きっちり区別される、と解釈することもできる、というのがより正確だと思うんですが、たいした問題ではないでしょうか?
☆ と物言いをつけておられる。こうではないでしょうか?
★ レッテルとしての存在の表象に意味と意義を感じるかどうか、というスタンスの違いが見えます。
☆ これも 《絶対》ということが腑に落ちたあとの それの用法をめぐる情況や課題であると考えます。わたしは 分けて説明する態度で来ています。考慮の余地ありでしょうか?
★ 僕は心と感性と論理は、すべて一致する、と思っていますので、どちらに重きをおく、ということ自体が不十分に思います。
☆ これは揚げ足取りです。《心と感性を無視したスタンスではないか》との問いに答えて言っているのですから。そのあとの段階に進んで さらに物言いをつけられても。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
僕がいいたいのは、
絶対=認識の限界 永遠=時間の限界、無限=空間の限界、無根拠=因果の限界、という風に解体?し、再び構成する方向性です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 趣旨説明をさらに充実したものにしないと 腑に落ちることは望めないというところでしょうか。
それは そのために質問を挙げているのですからそうなのですが ひとつ言えることはありますよ。
○ 《認識・時間・空間・因果》 これらすべては 《相対的で移ろいゆく経験世界に属する》。
☆ ということです。つまりその限りで 《絶対=永遠=無限=無根拠》という規定が成り立ちます。
ですから 一つひとつの事項について 一歩一歩です。
ひつじさんが その工程表をつくってくださってもよいと思います。そういう問題意識だと受け取りました。
No.19
- 回答日時:
「日本の知性は,利息の計算ができない知性だ」と喝破した人がいます.
数学が苦手です,と言って憚らない知識人を批判しています.
「無限」を論じたいなら,数学における無限の定義と概念を学ぶ必要があるでしょう.
限られた範囲の有理数(たとえば1と2の間)にも有理数は無限に存在する(有理数の稠密性)や,これに関するデデキントの展開,「たかだか可算」の定義も知らなければ,話になりません.
なぜなら,定義が曖昧なままで議論をすれば,常に定義を動かすことで話をはぐらかすことが可能になるからです.やや昔の話ですが日米ガイドラインの「周辺事態」の「周辺」とはどこか?というのと同じ類になってしまいます.
少なくとも集合論が理解できていないことは見て分かります.
「Wikipediaを読んで分かったつもりになる」のは学んだとはいいません.
百科事典に載っている程度のことが分かっただけ,というのは,司馬遼太郎が『坂の上の雲』で無能な伊地知参謀(乃木軍)に浴びせかけている批判です.
高木貞治『解析概論』を読めとは言いませんが,せめて高校生でも読める松坂和夫『数学読本(6)』は読んでいただきたいです.
……これで終わりにしようと思いましたが,あまりにも質問に対応していないので,一点だけ引用します.
問題は要求の形で提出されるのが常例である。かくかく、しかじかの事をやれという注文である。その注文の通りに、うまく行けば、問題は解決されたのであるが、いつでも、そういうおめでたい解決を期待するのは、虫がよいというものであろう。無理な注文はできっこない、というのも解決である。そんな注文には、以後取り合わないですむからだ。一例として、地上に天国を建設するという問題を取ってみるならば、それは矛盾を含む問題だから不可能だと、一蹴するのも一つの解決案であろう。ただし、不幸にして、この問題は明確ならざる問題である。それは天国の輪郭が鮮明でないからである。
(高木貞治『数学小景』)
エルティースィーエムさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
○ ~~~~~~~~~~~~~
天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。
けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。そのために 数論の情報をおおしえください。
★ 周辺における事態というときの周辺
☆ は流動的なのでしょう。定まっていません。しかもその解決は ひとそれぞれです。ほかの人間が別のひとの心の中に入って行くことも手を突っ込んで手術をしたりすることもかなわないという問題情況であるようなのです。
この問い求めにとって 数学の有益性いかんとなります。どうでしょう?
No.18
- 回答日時:
No.9 & 14 & 17です
>>>>>> No.14
「想定されたそのまま」を想定しうるというところ、すなわち
>>>
《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのまま
<<<
を含んで「全体」が想定されうるということ(そういった視線もありということ)です。
そうして、もう一つの言い方ですれば、そういった想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
<<<<<<
すなわち
>>> No.9
>===
「全体」の中にて、境界が生まれるとき、すなわち「わたし」といった概念が形成されるとき、その概念形成と同時に、境界内部と境界と境界外部とが形成される。「神」概念を、自身の境界内部を中心に外方へ延長して考えるか、境界外部を中心にして内方へ延長して考えるか、「わたし」概念が形成されたと同じ状況から類推して、他に複数の境界内部を想定し、その中心から外方へ延長して考えるか、「わたし」概念形成前(すなわち境界概念形成前)の「全体」と同一視して考えるか、あるいは、「全体」の外に(ないし、否定神学的に)考えようとするかにて、けっして重なり合わない「方向性」(視線)として捉えられ続けられる
===<
を、言い換えたに過ぎません。。。
上記文中での「わたし」および「全体」は、複数の交錯する視線にて、それぞれ異なった意味と方向性(動き)が含意されています。
このことは
>>> No.9お礼欄
★ ~~~~~~~~~~~~
また、別の視線(私の視線)からすれば、
>===
「全体」の中にて、境界が生まれるとき、・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この命題については 簡単に批判できます。
○ 《「全体」》とは何を言うか?
☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。
○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
☆ という意味です。言いかえると
○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
☆ これで はっきりするはずです。
<<<
での「簡単な批判」が「一方向に限定された見方」でしかないということでもあります。
いちばんの問題は――じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。あなたの見解について一番のもんだいは―― 《神》があなたの〔精神におけるでしょうか〕世界の中におさめられてあたかもあなたの(つまり 人間の)自由になるかのごとき扱いをしているというところです。
そんな神は 誰だってただちにお払い箱にしてしまうでしょう。占いやらこんど生まれ変わるときにはこうなりたいああしたいと夢見ている現代縄文人でないかぎり。まぁ ドラえもんをたのしむ幼な子もまだ哲学とは行かないでしょうから 仕方ありませんが。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
☆ という意味です。言いかえると
○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
☆ これで はっきりするはずです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
での「簡単な批判」が「一方向に限定された見方」でしかないということでもあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この場合は この《「一方向に限定された見方」》でなくては 要を為さないのです。《神》にかんするかぎりです。
○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
☆ でなければ 話が始まりません。
初めっから神があなたの心の中であなた自身がお手玉かおはじきをするかのように取り扱い自由であるのならば 何をか言わんやなのです。やんぬるかななのです。
★ 想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
☆ ただの論理操作でしかありません。この《全体》を超えているという想定でなければ その《絶対》のすべては経験世界に属するということになり その相対主義で押し通すのだと言っていることです。
相対主義が 関係主義の思想のみを言うのであれば 縁起共生説でもあり それはそれとして経験思想としてふつうの生活態度です。いまは相対を超える《絶対》の定義がもんだいなのです。
それとも 絶対は 相対の中におさまるとでも言うおつもりですか?
《はじめに〈相対〉という全体世界ありき。その全体に〈絶対〉もおさまる》 こういうご見解ですか?
《 ∞ ÷ n = ∞ 》という命題は 概念操作であるのだから 概念が属する相対世界にすべておさまるとでもお思いですか? ならばその無限大を見せてください。分かるように示してください。
できっこありません。
その無限をどう定義し扱うのがよいか。こういう問題意識を持ってください。
お手玉やおはじきではないのです。
* 《内と〔境界と〕外》といった視点だけでは 行きとどかないでしょう。少なくとも立体的・構造的になる必要があります。
《経験世界を超える》ということは 《経験世界に降りて(入って)くることが自由》という意味です。
《外のもの》が《内にある》ことはありません。《入る》とき《境界》の問題があるのです。《超えるもの》は 超えられたものをも覆い包んでいることになるので 入るのも自由なのです。
この《超えるもの》の自由を逆手に取って わが精神ははじめに全体なりきとうそぶいていては 人間がすたれます。サッカリンの砂糖漬け。神に甘え過ぎです。
No.17
- 回答日時:
No.9 and 14です
。。。やはり方向性の交錯するところですね。。。
《二重構造》を想定されるということ自体、すでに「相対的」だということを自身で認めておられるということではないのでしょうか?
さて、もし《二重構造》を想定しないとして、すなわち
>>>
言いかえると もし《二重構造》を言わないとしても たしかにその《経験世界という全体のなかにいる〈わたし〉に起こる対面》なのですからその限りで《神=絶対》はその《〈全体の部分〉になる》のですが そうなのですが これがあくまで《仮りの姿かたちにおいて》だということです。
つまり《神=絶対》は そのときにもつねに《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのままでいます
<<<
とすれば、
「想定されたそのまま」を想定しうるというところ、すなわち
>>>
《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのまま
<<<
を含んで「全体」が想定されうるということ(そういった視線もありということ)です。
そうして、もう一つの言い方ですれば、そういった想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
。。。サジはいつ投げていただいても結構です。。。
じねんさん なるほどこれは問い求めなのだと気づきました。ご回答をありがとうございます。
★ ・・・想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
☆ つまりこれはあくまで《わたし》の主観から見た構図であり それとしての世界です。
《わたし》の世界に入って来た――非経験の領域から降りて来た――なら その限りでそれは《わたしの世界という全体の中の部分になる》 こういう構図の取り方であり それをつらぬいたかたちです。
そりゃあそうなりますよ。《想定》したあと 想定はあくまで言葉でおこなうのですから その言葉を用いる限りで けっきょくそのものを表象し得るというかたちが――あくまで仮りの姿としてなのですが――はっきりと出来上がります。
そうなると表象しうるものは
( a ) 一方で あくまで仮りの姿だという側面をつらぬくか
( b ) それとも他方で すでに概念としてわたしの世界の中に入りこんでいる――つまり全体の中の部分になっている――という側面を重視するか
これら二つの見方の違いだということになります。こういうかたちでの
★ 。。。やはり方向性の交錯するところですね。。。
☆ です。
でも どうか
★ 。。。サジはいつ投げていただいても結構です。。。
☆ とご自身を甘えさせることなく やはり( a )をないがしろにすることは出来ないということ この一点をしっかりと見据えて すすんで行かれるようお祈り申し上げます。どぢゃ?
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