これ何て呼びますか

どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

 たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。


 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~
 たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。
 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。
 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。
 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?

 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。
 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? 
 いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

A 回答 (45件中11~20件)

葬るべきは釈迦ではなく釈迦の仏教で、あなたが葬らなくてはいけないという以前800年近く前=像法に終わっています。

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この回答へのお礼

 そうですか。

お礼日時:2010/09/17 22:04

東洋ではこの絶対即無限即永遠・・・を「法」と言い、擬人化して「仏」と言ってきました。

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この回答へのお礼

 ★ 法
 ☆ ダルマですよね? これは 宇宙の原理としてのブラフマンであるなら 《絶対即無限即永遠・・・》のことでしょうが ブディズムでは 正反対なのでしょうね。
 ○ 諸法無我
 ☆ ですから。ブラフマン(梵)とアートマン(我)との梵我一如というときの《我》について 無我ないし非我と言っていますから。

 その同じ諸法無我に立つなら
 ★ 仏 
 ☆ もあくまで時間的で限りがありうつろいゆく存在が 或る程度において学習や修行や実践を経てそこに到った境地を言うのでしょう。つまり 《絶対》ではありません。
 ただし確かに ブッダのあとの人びとが この《仏性》を想定して 《絶対》ないしブラフマンに相当する概念としたかも知れません。本覚と言ったりしますから。

 まとめて言って ブッダにおいては すべてのものごと(諸法)はうつろいゆくものであり それ自体で独立している存在ではない(無我)。そうして 《仏性》は 潜在的に展望されていたかも知れないが 《絶対》として想定するなら 《無我》と矛盾するというかたちになっていたはずです。
 ブッダを葬って あたらしい思想として言うのでしたら たぶん おっしゃるようなことなのでしょう。
 と考えます。

お礼日時:2010/09/16 20:26

 実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。


 だからここに訪問申し上げて居るのです。シンボルが突然変わりましたね。変えたのか、代わったのか。
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この回答へのお礼

 シンボルは ニュウトラルさんへのおわびのしるしです。

 ★  実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。
 ☆ という弁明がつづくあいだは 雨模様でしょう。

 なんでわたしがこんなお守(も)りをしなければならないのでしょう。

 やがてまた台風が来るきざしでしょうか。

お礼日時:2010/09/16 09:15

   eternal や絶対とは。


  所詮はどうしても抽象的であらざるをえない。これについてどう手掛かりをもてるか。
  というご質問として理解しました。
  それで私なりの内心のことを打ち明けました。少しでもお役に立つだろうかと存じまして。

  抽象的なものは言語的にも具象性が確保しにくい。
  最後はsimplicityな自己の心性の涵養に行き着くかと存じます。
  バベルで人々が人間の知識や論理で天に届こうとしたが、無理であった。
  天界というところから、複数のアプリオリ・カテを引き寄せ、言語的知の中でさ迷うことになった。

  人間という基本存在のsimplicityなる心性は心がけたいと存じます。

  私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。
  そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。

  蘆花を進んでいくと、波風がないという情況から無に行き着きます。
  そして何にも囲まれていない、存在者が無としております。
  そういうのをことば表現するとなんというのでしょうね。
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この回答へのお礼

 草むらからいきなり襲うのではないだけ ましですね。
 まださほど遠からざる昔に信長も敵のどくろから酒を飲んでいましたからね。

 バベルの塔は 塔をつくることがわるいことだとはわたしは解釈しません。
 科学を発達させて得られる研究開発の成果は 人びとの生活のために活用していけばいいのです。
 名誉もこれこれの努力をおこなったその成果がこれこれだという達成感は きわめてふつうの感情です。それにとどめれば何の問題もありません。
 塔であろうが宇宙船であろうが 人間と社会のために役立つものであれば そこに自然と人間能力のめぐみに畏れつつ わたしたち人間が大いに自由に享受して行っていいのです。

 自分の心情に合うものでなければゆるさんというのは いかがなものでしょう。

 なんでわたしがこんな分かり切ったことを言い続けなければならないのでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。
 そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この言い草がつづくかぎり こころはひねくれていると見てまちがいはないでしょう。なぜ否定しなければならないのでしょう。
 もしわたしの挑発としての語りかけが 根も葉もない話だとすれば 怒るのがふつうの人間です。わだかまりがあるから 怒れないのです。
 これが 人間というものです。そのシンプルな存在のあり方です。
 へそが折れて曲がって曲がって折れて とぐろを巻いているのではないですか。
 と安寧のミサイルをわたしは撃ち込みつづけます。ひとえにわたしの自己防衛のためです。

お礼日時:2010/09/16 09:12

 私は意見を人に強制されることも、することもしてこなかったし、したいとも思いません。


 みんなと同じである必要も、希望も持っていません。同調してもらいたいとも思いません。

 何かが同じとか、仲間が居るなんて事で少しも自分に自信ももちませんし、自分ひとりだからといって少しも自信に影響を持ちません。
 正しいことを考え、正しいことを思う。それだけなんです。
 ましては自分の心情も信条も強制なんてする気持ちは全くありません。私に強制しようとしても強制されません。
 そんな質問を出さなければいけなかったのですね。bragelonneさんに醸成させてしまった情況が。
 なんか時々そうなるようですね。
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この回答へのお礼

 健忘症。

 

お礼日時:2010/09/15 18:13

 #30


 変換違い
 “自分に自身がないものでもないし、”⇒
 “自分に自信がないものでもないし、”
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 bragelonneさん


 #29かな。
 私のここでの見解の吐露がbragelonneさんの新しい質問、“人に心情を押し付ける人”へとなっているなんて思いもしませんでした。
 自分の思うことをただ投稿しただけで、心情ではなく考えることでした。
 考えることであれ、心情であれ、私はbragelonneさんにも、どなたにもそれらを押し付けたくもないし、おしつけていないのです。第一心情なんて押し付けられませんよ。
 私は自分の考えや思いを人に押し付けるほど、自分に自身がないものでもないし、主体性がないものでもありません。

 ところで、
 29での“いいえ お心を汲むことはいたしかねます。”と“三年の重み”って何ですか?
 理解不能です。
 三年って何ですか。年齢ですか?貴方は72を過ぎて私をそのようにいうのですか?
 そう私はあなたより確か年齢はうえだったと記憶しております。
 
 袂がどうのですから、ねぇ。不思議な話で、今まで一度も袂が一緒だとは思っていませんよ。
 どなた様とも。
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この回答へのお礼

 ☆☆ 三年の重み
 ☆ 初めっから――つまり三年ほど前から――わたしの質問への投稿は 押しつけ回答でした。


 そのほかは 詳述の必要がないとつたえます。分からないとおかしい。

お礼日時:2010/09/15 18:11

 #24です。



 bragelonneさん、補足欄でのお講義に感謝いたします。
指示人称や主格、動詞などの複数と単数に拘るのは、ヨーロッパ系の語族なのでしょうかね。今回のお講義でも単数に一人称を複数の指示で表示するお話がありますね。私達も単複は相互に入り混じり、一人称も謙譲的に複数表示することがありますね。


【・・・大事な問い求めに対して なぜ足を引っ張ることばかりをおやりになるのか。】
 博学なbragelonneさんに私が何かをいうことは無用かも知れませんが、なんか絶対ってことばって、俺達のは絶対だ。
 それでないものを尊崇していても、俺達の絶対ってお前達にも絶対なんだぞ、っていう話に繋がりかねませんよね。
 欧米の方々がいう言葉、この絶対っていう言葉にはそういう響きがどこかにありませんでしょうか
 勿論、私も何か絶対という存在を感じるし、前提にしているんですよ。
 この言葉って、使い方次第、使う場面次第、使う人次第なのでしょうね。
 (実は私の場合、押し切り、強制することをよくやってきて、多くの友人に顰蹙をかわれて居ます。
  それで、自分の内省として、そういう超越的存在者の存在を観(み)、思う事は大事ですが、外部的にそれを主張したり表明するのは注意が必要でしょうね。
  こんなことを小学校とかの古い友人が聞いたら、“おぅ?お前ぇいつからそんな分るようになったんだ?”なんていわれますでしょう。)

 要するに欧米人などの出してくる絶対者って、私達もおぅ絶対者!として受けることは受ける、その内部的観念内容や受け入れ方は、心性次第ですよね。
 そんなに固執し重要キーワードなんだ、じゃぁ大事だ。で一所懸命おんなじ思いにはなれなくても、同感するまでではないでしょうか。

 白鳥とか蘆花とかいろいろ出しましたが、これはこの絶対者の観念とは無論異なるでしょう。
 ただとことん希薄、無・超形象を推し進めると、その先にそれらしいものもありうるかも知れない、という提案としてbragelonneさんのお目を煩わせたということです。

 彼らがいう絶対者はそういうアクセスやアプローチでもないことは理解していますが、私が実践的に日常地続き的に思ったり、此岸の突端が蘆花であったり白鳥であったりする、ということです。
 ご質問に対して、私としては絶対者をこの方向に尊崇しています、ってな感じでした。

 欧米人って、こういう絶対者存在への思いの他面、個人と個別性というのも傾向として私達より強力かなと思います。
 そして個人の物理的生物的命にことも私達より強力に思っているようですね。
 いろいろ考えさせて頂きありがとう御座いました。
 bragelonneさんの足をひっぱるつもりはないんですよ。
 私も欧米の書物での絶対者という言葉にしんどい思いを持ちまして、bragelonneさんと同じように何とかしたいと思っているのです。
 そしてそれとは離れて、私は自分の“絶対者イメージ”のために、こんなことを考えている、とうことでご協力したいと存じました。
 意のあるところが伝わらなかったようですね。私は意地悪なことをbragelonneさんに思っていない事をどうかご理解ください。
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この回答へのお礼

 いいえ お心を汲むことはいたしかねます。

 三年の重みです。

 もし西欧経由の《絶対》概念とつきあうことができないというのであれば ひとつに思想としての鎖国政策であると見なしますし もうひとつに哲学(生活態度の練り直し)として弱い――あるいは 弱くてよいのだという開き直り――ということを意味するとやはり見なします。

 そこに 人間の心を見出すことは わたしにとってはありません。

 いつまでも――ゆくゆくは――自分の心情を押しつけようとしている態度でしかないと見なします。

 たもとを分かちます。

お礼日時:2010/09/15 10:46

>天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。



宗教学はまったくの専門外ですが,卑近な例で言えば「お湯と水の境目はどこか」というのに加えて,よく混ざってもいない“湯船”(下のほうが水…最近はあまりないですが)を想像すればいいのでしょうか.
となると,「定義が曖昧である」というしかないでしょう.
高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです.

>その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。

数論に限る必要はないでしょう.私自身,専門は数論ではありません(確率論および統計学).
「無限」と「非経験」の間にあるイコールが,高校数学までのところでも怪しいのでは?と思っています.だからこそ,この主張をされるのであれば,そのために前掲の本などで,ご自分の中に知識を取り込んで,その上で考えていただければと思うのです.
「思いて学ばざれば即ちなんとか」と論語にもあったと思います.

#21お礼欄
>0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。

それで経験世界と言うならば,0.9999…の先を見たことがあるか?という問いになります.
あるいは,生活空間のそこらに円がありますね,コップでもお皿でも,多少いびつかもしれませんが,円筒形であったり円であったりします.
そうすると,円周率πが出てくるわけですが,3.14159265358979……の最後を見ることはできません.コンピュータを使って膨大な桁まで迫っておりますが,割り切れるものではないことは数学上証明されています.完璧な答えが出ることはありえない.(絶対不可能)
また,A4の用紙をA3に拡大コピーするのは,√2倍です(面積なので単純にそれぞれの辺を2倍すると4倍になってしまう).この√2も,1.4142……と規則性もなく続くことが分かっています.
とすると,1から4までの間には,思いつくだけでも√2,√3,√5,√7,π,√10,√11,……面倒なので打ち切りますが,これだけの「先の見えない数」があるわけです.
√2やπの真の値を見たものがこれまでにいるか?と言えばノーです.
一時期叩かれた「およそ3」であろうと,3.14であろうと,真の値は分からないまま近似値を使っています.
すると,質問者さんの文脈でいえば,「非経験」になりませんか?

デデキントの「切断」は,ありふれた数の考えを問い直すものですので,一度読んでください.
言っていることは決して難しくありません.
無限集合についても,前掲の本が分かりやすいはずです.

永遠=無限も,数学から見るとイコールが怪しくなります.
例題を出しましょう.

「高さ1メートルの1本の木があります.この木ははじめの1年で1/2メートル(50センチ),次の1年で1/4メートル(25センチ)と伸びていきます.こうして,この木は毎年,前の年に伸びた半分の高さだけ伸びていきます.
(1)この木は何年たっても,決して2メートルには達しないことを示しなさい.」
(志賀浩二『中高一貫数学コース 数学1』)

要は,高校数学でいう「収束」ですね.
どんなに小さくても無限回数足すのだからいつかは無限の高さになる,ではないのです.
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この回答へのお礼

 ★ 高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです.
 ☆ 質問者の問い求めているのは 《意味がはっきりしていない〈絶対や永遠や無限といった非経験の領域〉について どう説明するのがよいか》です。
 《明確でない命題》について 無理にでも 普遍的な定義を持てるようにしましょう です。

 高木貞治の提起する問題は 別の質問としてやってください。

 ごめんなさい。つかれました。

お礼日時:2010/09/15 09:12

また忘れてしまった・・



こちら
○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。
 ○ あるいはだから その数がひとつ特定できたとしたなら その数に一を加えることも出来る。つまりその一定の数量よりも大きいという状態が存在すると言える。ならば 比べることができるゆえに 相対の世界であり経験世界である。
 ○ 《無限》は この経験世界を超えている。
 ☆ こう言おうとしているのみです。

 ですが、その通りだなーと思いました。あまりにその通りと思いすぎたので、スルーしてしまい済みません。
先にも書いたとおり、把握を先行させて論理的に考えるなら、全くその通りと思いました。
というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。


有限であるとは、比較可能だと言うこと。
無限とは、限り、つまり境界線がないため、社会常識でいう大きさが存在しないので、比較不可能であること。
大きさを知ることができないということは把握ができないと言うことで、それはこの世ならざるものだ、と言うこと、その通りだと思います。
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この回答へのお礼

 いやあ ですから この《絶対》ということを――けっきょく一般には 概念としてですが―― 一般に共有することができるためには どのように説明するのがよいか。この一点で あれこれ考えています。

 たぶんもう必要でないというひとはいないと思います。

 あとは説明の仕方です。

 この質問ではあまり触れていませんが これはけっきょく人の生活態度として見直すなら 信仰という非思考の場における心の志向性(明けや伸び)のことにそのまま移行して 問われる主題であるはずです。すなわち
 ★ というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。
 ☆ 《有限》なるわたしという人間が 《無限》なる神と 非思考の場で対面する。
 そこに生まれるのが 《信じる》という行為である。
 《信じる》は 神をまぼろしながら受け容れる行為であり その後の持続としての動態である。

 こういった切り口の主題でもあると考えます。

お礼日時:2010/09/14 23:10

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