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創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか?

創価学会信者の知人がいます。
一緒に祭などには行きますが、鳥居をくぐって本殿でお参りすることはしません。
なぜかと尋ねてみると、創価学会には本尊があるから云々と言います。

どうやら日本の神と外来の仏との区別がよくついていないように思えますが、創価学会の信者の方々は皆、こういう考えなのでしょうか?


そもそも日本の神とは土地、民族、国などを護るものであって、個人の悩みは解決しません。
山や海などの自然の幸、連綿と続く歴史、そのような自然の営みの上に人間社会が成り立っていることを自覚し、敬意や感謝の念を持つことが神道の意味であります。
個人的な細かい単位での悩みや救いの解決は、仏教やキリスト教のような外来の宗教の仕事です。
神道はそれとは畑が違っており、日本が外来の宗教を受け入れてこられた理由もそこにあるわけです。

外来の宗教は国を越えてやって来る時点で、本来の土地との繋がりは薄れます。
そのため、人間の生き方や倫理や救いを説くような、どの土地でも対応可能なものにモデルチェンジします。

一方で神道は、日本からは離れていませんので、あくまで土地や自然に対する感謝・敬意に立脚しており、グローバル化仕様の宗教のように『教え』を説くことはしていません。

もし創価学会が自らの畑を飛び越えて、神道との共存共栄までもを否定しているのであれば、これは日本という国を否定していることにも繋がらないのでしょうか?

国、土地、民族、自然、祖先、靖国の英霊、天皇、そういうものに対する敬愛の念を担う神道を、生き方、悩み、倫理、救いを説く個人メソッドでしかない外来宗教が否定しているのだとしたら、それはかえって人間の本来的な繋がりを破壊することにもならないのでしょうか?

詳しい方のご回答をお待ちしております。
よろしくお願いします。

A 回答 (16件中11~16件)

ANo.2です。

たびたび失礼します。
お礼ありがとうございました。

ご質問者様の疑問点が良く分かりました。
ご質問者様は、神道は一般的な意味での宗教としては捉えてないと言うことですね。
その感覚はわたしも良く分かります。確かに、わたしも神道には宗教とは違った印象がありますし、人間の精神的な歴史として神道には多く共感するところがあります。宗教と言うより、文化という感じでしょうか。
ご質問者様が神道の信者であると思ってしまったので、ちょっと回答はずれてしまいました^^; すいません。

まあそれでも、神道はあくまで日本の文化の一部分に過ぎないので、日本という国を否定しているというのは言い過ぎだとは思います。文化は変わるものですし、普遍でなければいけないというわけではないですから。
まあその点において、ご質問者様が神道を宗教と捉えていないにしても、神道というものを人に強要してしまっている趣は感じます。人によっては神道は宗教と捉えている以上、ひとつの宗教を人に強要するのはあまり良いことではないとは思います。

ただ、ひとつの宗教を非難したりするのは良くないことなので、創価学会だからどうだという結論は申し上げませんが、もし彼らがご質問者様の神道の捉え方を理解できれば、別に拒否しなくなることもあるんじゃないかと思いますよ?
理解できればの話ですが・・・

彼らが拒否するのは、神道を仏教と相違する宗教として捉えているからだと思います。他宗教を拒否する度合いは違うと思いますが、まあ創価学会の場合はその度合いが強いのでしょう。
創価学会は単純な宗教としてだけでなく、ひとつの組織として成り立っていますから、多くの人間を統率する上でも自身の宗教を絶対的なものとして扱ってしまった方が効果的というのもあると思います。
その善し悪しは別として、創価学会にはそういう一面があることは確かだと思いますね。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そのとおり
『宗教と言うより、文化という感じ』
ですね。

庶民は村の神々を崇めて暮らして来ましたし、戦国武将は天皇から認められた将軍を目指しはしたが、決して自らが神になろうとはしませんでした。
人間の上に神がおり、そのもとで営む。その概念が文化となり、歴史となったのだと思います。

ヒトは集団行動性動物ですので、シンボルやボスなどの絶対者を作り、その下に集まって生きて行く習性があります。
神学者のルドルフ・オットーは著書『聖なるもの』において、自然と対峙したときに、何か厳かで、人間よりも遥かに大きなものを感じ、神秘や恐れの感覚が生じることを『ヌミノーゼ』という言葉で表しています。
ヌミノーゼのような絶対他者の存在を感じるのは、おそらく人間の本能なのでしょう。
その本能によって、人間が連綿と築いてきた歴史は、まさに自らの基盤でもあると思います。

何度か書きましたが、外来の宗教は人間の具体的な苦しみや悩みを救う『教え』は持っていますが、外来ゆえに、神道の分野である土着のアイデンティティについては担えません。
創価学会が神道を否定したり、また『神道の分野もこちらのご本尊が包含している』と言うのであれば、それはいかなる考え方によるものなのか。
それを純粋に疑問に感じたので、質問してみました。

当然、あれだけの大きな宗教団体ですから、その辺りの理論構築もなされているでしょうしね。

ですので、私としては神道を強要してもいませんし、あくまで見解を書いて、皆さんの意見を待っていたまでです。

何か仙石官房長官の国会答弁のように、結論まで大回りをしてしまい、すみません
f^_^;

お礼日時:2010/11/09 16:18

学会の方は、いろいろなところに学会の建物があり、そこに参っているのだと思います。



私の話は噂で聞いた話なのですが、、、

学会の方たちは、みんな他の所で参ることはありませんし、足も踏み入れないそうです。

なぜなら、自分たちのお参りをするところがあるからだそうです。

学会だけを信じて、他のものを信じないからだと思います。

また、選挙の時になると公明党を応援します。

それがなぜだか知りたく、学会に入ってみた方もいます。

ですが、出るのが大変だったそうです。

学会については、【そういうところもあるんだな~。】程度に思っておくのがいいと思いますが……
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

それではまるで一種の全体主義のようですね。

他をシャットアウトすることで存在するものほど危うく儚いものはありません。

人間はものを知り、自分の頭で考えてこそ深みを増すものだと思いますが、疑念を挟む余地を消し、考えるという行為をやめてしまったら、人間である意味がないような気がします。

熱心な宗教信者というのは、上から与えられた教えをコピーペーストのように振り撒くだけのマシーンのように見えたりすることが多いですよね。
私にはああいう姿を見ると、人間としての死を感じてしまいます。

お礼日時:2010/11/08 23:07

ANo.2です。


お礼ありがとうございました。

>サッカーファンが野球を否定しているようなものかな(笑)

そのとおりです!
あまりに上手な例えだったので思わず回答させていただきました(笑)

わたし自身、創価学会も良く知りませんし神道も良く知りません。
はっきり言うと宗教というもの自体に歴史的な興味があっても精神的な共感はあまりありません。
そういう無宗教人間から見えると、神道は「明治政府の押し付けた虚像のようなものではなく、集落の民が、自分たちを育む郷土に対して愛着を抱き、自然のサイクルの中の一つとして存在していることを意識して、全体に感謝するところから始まっている」なんてことすら気にしたこともないです。
それは、神道を深く学び共感している人だからこそ知っている事柄であって、一般の無宗教な人がそこまで考えて神社に行くこともないように思います。創価学会に入っている人なら、尚更なんじゃないでしょうか?

確かにわたしは神社に初参りにも行きますしお葬式でお経も詠みます。ですが、はっきり言ってこれらはわたしにとって単なる「習慣」であり宗教じゃありません。宗教という意識がないから、複数の宗教的な習慣が共有できているだけのように思います。

例えば、神道に信者がお葬式でお経を詠むって言うのはあり得ないでしょう。
これはその人が神道を宗教として捉えているからです。創価学会であれなんであれ、ひとつの宗教をちゃんと宗教として信じる人が他の宗教の習慣を拒否するのはいたって自然な反応かなとわたしは思いますよ。

もっと言えば、仏教・キリスト教などの外来の宗教と日本の神道とではそもそもの担う役割が違いジャンルが違う、という考え方自体が「神道」の考え方なのかなって気がしますね。
例えば、わたしは正直ご質問者様の言っていることはあまり良く分かりません。そのような「教え」を知らない無宗教のわたしにとっては、宗教は宗教だからです。また、何かしらの宗教の信者である人々にとっても、やはりジャンルなんて関係なく宗教は宗教と思っていると思います。
そもそも、ジャンルが違う宗教は共存できる、という考え方そのものが「神道」の教えなんだろうなという感じがします。

つまり、ご質問者様は宗教的な考えに捕らわれずに考えていると思いながらも、すごく宗教的な考え方にとらわれ、それを他宗教の信者に押しつけてしまっているわけです。
「仏教と神道はジャンルが違うんだから、別に仏教徒でも神社を拒否することはないじゃないか」というのは、あくまで神道信者の言い分でしかないんです。
それは、結局神道の教えを強制してしまっているだけです。

心から宗教は自由と感じているのであれば、これは気にすべき問題じゃありません。
受け入れるかどうかはそれぞれの自由です。それを疑問に思ったり間違いだと思った時点で、神道を人に押して付けてしまっていることになってしまうと思います。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

たびたびのご回答ありがとうございます。

私は毎年伊勢神宮に行き、靖国神社へも参拝し、また地元のお祭りにも参加します。
しかし私自身は、神道を何かの宗教として捉えたことはありません。
神道は、郷土愛の延長にある愛着や敬愛の念が元であり、仏教のように何か具体的な悩みの解決を教示してもらうわけではありません。
そのような悩みや救い、また生き方を手取り足取り教えてくれるのは『宗教』だと思っています。

私は哲学が好きなので、自身の悩みについては自分の頭で考えるので、考えずに教えを信じることで救われようとする宗教にはあまり価値を見出だせません。

では、神前で何を拝んでいるのかというと、それは『現実』そのものだと考えています。

今は自然界の連鎖だとか、そういうものが科学的に言われているので分かりやすいかも知れませんが、全体の中の自分を感じようとしているのです。

自然のサイクルの中に人間が存在している事実。
コミュニティの中に自分がおり、また自分がコミュニティを支えているという関係性の事実。
国家と市民としての関係性。
人との縁。
…etc
そうしたものを『全体と自分』というテーマに置き換えて捉える一つの手掛かりとして、神というものがあるのだと思います。

お祈りすれば叶えてくれるような非科学的なスーパーマンが神ではありません。
今でこそ科学が発展し、自然界全体からみたサイクルも理解されてはいますが、昔はやはり山の神や海の神がいて、その恵みに感謝をし、人間より大きな絶対他者(神、自然)を肌で感じる形として神が必要だったのでしょう。

神=自然界
であるのです。

人間は苗を植える。
その苗が育つのは、人間の力ではなく、太陽や雨などの恵みである。
そして、育ったものを人間がいただき生き延びる。
よって、自然のお恵みに対しては感謝を忘れない。

そういう関係性を常に認識し、全体から自分を俯瞰して『現実』を捉えるような視点が神道の源なのだと思っています。

科学が発達した現在、神道は衰退しています。
しかし、全体の中の自分という視点を失っては、集団行動性のヒトという動物は危機に瀕します。
地図を持たず、俯瞰して自分の位置を確かめられなければ、方角も分からずにさ迷い、アイデンティティも見失うでしょう。
個人主義、核家族、プライバシー云々で人の連帯がズタズタになり始めている近年、伊勢神宮を始めとする寺社めぐりをする若い人が増えたりもしているそうです。
そのような傾向を見ると、やはり現実を捉える視点としての神様は、多少なりとも必要なんだろうなと、ちょっとは考えてしまいますね。

お礼日時:2010/11/08 22:20

こんにちは。



私も質問者さまと同様の考えです。私も親しい知人が学会人です。

創価学会と言うよりも、日蓮上人が排他的であったのが理由かなと思います。釈迦の教えである「法華経信仰」ですからね。日蓮は親鸞と仲が悪かったようで、現在も創価学会と浄土真宗はお互いを認めていませんね。親鸞もやや排他的です。親鸞の教えは「阿弥陀仏による浄土信仰」です。浄土真宗もまた、神社へのお参りは良しとしていません。結婚式も七五三も仏前式を勧めてきます。


ただ、やおろずの神を信仰する古来からの信仰と、現在の神道はすこーし違うのですよ。現在の神道の多くは明治時代からです。廃仏毀釈ですね。国が政策として神道を強要したわけです。靖国神社がその代表だと思います。
古い神社で山そのものがご神体というところもあれば、靖国のようなところもあるわけですね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

そのとおりですね。
日本における神道というものは、山そのものを御神体とするような考えから生じてきたものだと思います。

私は靖国へも行きますし、天皇陛下の一般参賀にも行きますが、明治新政府が推し進めた神道は、やはり作りものでしかないような匂いがします。
それは、国民全体からするとごく一部でしかなかった武士階層の出身者主導で作り出した神だからであり、やはり庶民が自然界から感じ取っていた神とは温度差があったと思います。

現代に生きる私は、武士のような生き方をするわけでもなく、また当時の庶民ような村社会に生きているわけでもありません。
多くの情報を知り、歴史を知られる立場にいます。
これまでのいろいろな社会層の神を総合し、その中から共通する普遍的な感覚を抜き出して、神と感じるしかありませんね。

日本の八百万の神は、感謝する対象ではあるけれども、個人の悩みの解決はしないし何も救いません。
逆に外来の宗教は、悩みは解決するけれども、土地や民族は護りません。
畑が違う二者なのに、畦を越えて一方を良しとしないというのは、よく分かりませんね。

お礼日時:2010/11/08 19:54

詳しい彼らの考え方ははっきり言って良く分かりませんが、歴史的に見ると創価学会の前身である創価教育学会の創立者である牧口常三郎と戸田城聖は、第二次世界大戦下の当時の政府の国家神道を強く拒否し逮捕され、牧口にいたってはそのまま獄死しています。


創価学会信者が、神道を拒否するのはそのような歴史背景があるのではないでしょうか?

まあ、私から見れば、神道もまた宗教のひとつでしかなく、神道を否定したからと言って「日本という国を否定している」とは思いません。
宗教は自由ですから、はっきり言って共存を肯定しようと否定しようとその人の自由だとわたしは思います。別にひとつの宗教のみを信じる人がいても良いと思いますし、複数の宗教を信じる人がいても良いと思います。共存共栄というのは、あくまで別に他の人が信じることまでは否定しないという意味であって、自分が信じるかどうかは自由であるべきでしょう。
創価学会を信じろと強要するのは余計なお世話だと思うように、神道を信じろというのも余計なお世話だと思います。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

もちろん信仰は自由ですし、内発的動機によらなければ意味がありません。
どちらも信じない人もいれば、その逆の人もいて当然だと思います。


しかし、創価学会の例を知り、同じジャンルではないのになぜ否定するのかが気になってしまいました。
仏教・キリスト教などの外来の宗教と日本の神道とでは、そもそもの担う役割が違います。
前者が母ならば、後者は父のようなもので、もし創価学会が神道を否定しているとしたら、それは子供に対して
『母を愛するならば、その証として父は敬うな』
と言っているようなもののように思えてしまいます。
サッカーファンが野球を否定しているようなものかな(笑)



尤も、明治新政府が国を強化する政策の一貫として神道を利用し、行きすぎて様々な悲劇が生まれたことも否定はしません。
その犠牲になったのが創価学会の祖であるとすれば、自分が痛い目に遭った神道を否定することも、人間の感情ですからあるでしょう。

ただ、そもそもの神道は、明治政府の押し付けた虚像のようなものではなく、集落の民が、自分たちを育む郷土に対して愛着を抱き、自然のサイクルの中の一つとして存在していることを意識して、全体に感謝するところから始まっています。

神道というと、近代の戦争が部分的に切り取られて曲解されることが多いので、いろいろと難しいのですけどね。

お礼日時:2010/11/08 15:43

基本的に、アクティブな宗教は他の宗派と相容れる事はないでしょう。


教義の面で共存共栄なんて有り得ないですね。それは創価学会だけとは限りません。

ただ、その場にいっても手を合わせない等、そのあたりの判断はさまざまですよ。
第一、創価学会員なんてたくさんいますが、皆が同じ行動ではないです。
少なくとも、俺の知人は手を合わせないだけで、そういった場所行っていますよ。

八百万の神と言われるほど、神の種類はたくさんあります。
「神道」の全てが靖国の英霊や天皇とは結びつかない。

第一、靖国は戦争を正当化するための詭弁でしかない。
その結果、惨敗し、自国の民衆を大量死させました。
質問者は、神道をもう一度学びなおした方がいいと思いますよ。
土着の神々と異なり、国家神道は明らかに政治が宗教を利用しただけです。
古代エジプトの太陽神の方が、よほど健全ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2010/11/08 23:21

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