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いじめはなぜ悪いのか、教えてください。


いじめられっこです。
いじめが悪いことだと思います。
でも、考えていると、なぜ悪いのかわからなくなってしまいました。

いじめはなぜ悪いのか、教えてください。

A 回答 (40件中21~30件)

うーん(;=ω=)


「いじめ」という行為をコミュニティーで片付けますか。
コミュニティーの中では「いじめ」は起こりうるものだから仕方の無い事。
だから良い事でも無ければ悪い事でもないと。

直接言います。
じゃああなたはいじめられて嫌ではないのですか?
苦しくは無いのですか?
恥ずかしくは無いのですか?

人の心は機械なんかじゃないはずです。
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この回答へのお礼

返信ありがとうございます。

確かに私はとても嫌でした。
大変傷つき、悲しかったです。

人は機械なんかじゃありません。
だけど、人は動物です。
しかもよりにもよって、社会を形成することではじめて生きることができる、
走るのも泳ぐのも遅い、頭の大きな動物です。

私はそれが、とても嫌ですが……。
むしろメカになりたいし、みんなメカになってほしいです。

(だれもが、感情なんて持たなくなれば、
 相手の立場に立ってものが見れるし、
 ほとんどすべてのもめ事は起きないような……気がします。
 気がするだけで、もめ事がなくなるなんてありえないことなんでしょうけど……。)

お礼日時:2010/11/13 17:34

なにやら議論になっているようですが途中から口を挟むのもなんですから、


当初の質問にだけ私の考えを述べますね。

>いじめはなぜ悪いのか?
自分がいじめられる可能性があるからです。

人間は群れで生活する生き物で、個体の能力よりも集団の和を重要視するように進化してきました。
たとえ最強無敵の個体が一つあっても、大自然の驚異などには太刀打ちできないと判断しての事です。
その集団の和というのが、法律や道徳に代表されるルール群です。

そして、人間は群れの利点として、
例え一面では個体としては劣っていても、
集団の一部となったときの貢献や役割分担、知識の継承や病気への抵抗力など
個体一つでは対抗できない「多様性」というメリットを獲得したわけです。
そういった条件の中で、一面だけで判断して劣っている個体を排除してしまう事は、
そのメリットを損なわせる結果になりますし、
また、本来人間という種族の個体間の優劣など、大したものではありません。
ことに子供がボタン一つで隣国を吹き飛ばせる現代において意味のある違いには成りえません。

「誰だって簡単に排除され得る」社会で、集団がお互いを守っていくには、
「弱者を切り捨てない」というルールがなければお互いを信用できません。
集団となって団結するにあたり、お互いがお互いを攻撃しないという了解がなければ、協力できないわけです。

一つの個体の強さのみを追い求める進化を遂げれば、いじめは当然許容される文化だったでしょう。
その点、人間は群れることで成功し、今地球上で最大のいじめっ子として君臨しているわけですが。

いじめ禁止のルールが破られる原因としては、
「その集団の中に、弱者を守る余力が無い」場合、
「すでに外部から個体の安全が脅かされている」場合、
「集団の利益が、多様性の価値を上回ると判断された」場合、
「そもそも守るべき仲間と認識されていない」場合などが考えられます。

いじめは「可能な限り行うべきことではない」ですが、
「世の中から消えてなくなる日は来ない」というのが、私の考えです。
生きるという営みそのものが、すでにいじめと密接に絡みついてしまっています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます^^


「自分がいじめられる可能性があるから」、「いじめは悪い」のですね。

>いじめ禁止のルールが破られる原因としては、
>「その集団の中に、弱者を守る余力が無い」場合、
>「すでに外部から個体の安全が脅かされている」場合、
>「集団の利益が、多様性の価値を上回ると判断された」場合、
>「そもそも守るべき仲間と認識されていない」場合などが考えられます。
とても面白いなと思いました。
最後の、「そもそも守るべき仲間と認識されていない」ですが、とてもよくあることだと思います。
こうして、仲間を作ることを苦手とする弱者(マイナーになりがち)が、淘汰されていくわけですね。

人間が、自らの持つ多様性という武器を意識し、行動するのはいつなのでしょうか。

多くの人は、「自分もいじめられる可能性があるから」、いじめをします。
いじめグループに加担して、弱いものをいじめる側にまわれば、自分のいじめられる可能性は低くなるからです。



強いもの、弱いもののはなしをします。

誰だって簡単に排除され得る社会で、集団を構成する個人がまず自分を守るためには、
核爆弾のスイッチを手にしたような、その集団において強烈な力をもつ存在に膝をつく他ありません。
長いものに巻かれ、強者にあやかることで安全と発展が保障されます。
一つの個体の強さは、他に確実に利益をもたらします。
弱いものには何も期待できません、誰も相手にしません。
なぜなら、誰にとっても利をもたらさないからです。

そうではないのでしょうか。


人は、常に
>「すでに外部から個体の安全が脅かされている」場合
こうした場合に身を置かれているのではないでしょうか。
最初から保障された安全なんてどこにもない。
生きるということは、常にサバイバルなのですね。
いじめという現象はなくなることがない。
だからいじめられっこは、
いじめという現象を繰り返す以外に、
排他されぬよう強くなるしかないのですね。
なんだかそんな感じがしてきました。


※いじめという現象を繰り返す
  逆にいじめっこになっていじめっこをいじめたり
  いじめられっこという立場を利用していじめっこをいじめたり(私は自殺もこれに含まれると思います)して
  いじめ現象に囚われ続けることを指して用いました。

お礼日時:2010/11/13 18:08

 人が嫌がる行動をすることは、基本的に悪いことだとされています。



いじめられることが好きでたまらないという少し変わった人からすれば、悪いことではないと思いますが、人間の99パーセント以上の人は、いじめられることは、心身共に傷つきます。だから悪いことなのです。

この回答への補足

「人が嫌がる行為」をしても「悪くない」ときはどうなのでしょうか。
この、「人が嫌がる行為」は「悪いこと」という論理には、
例外や条件はありませんか。
絶対のことですか。
だんだんわからなくなってきたので、どうかわかるように教えてください。

補足日時:2010/11/13 18:29
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「いじめ」は、「人が嫌がる行動」で、
「人が嫌がる行為」は「悪いこと」だから
「いじめ」は「悪い」のですね。

とてもロジカルでよくわかりました。
私もそうだと思います。


私はいじめを悪くないことと決定づけるような論の運びをしていましたが、
あなたの意見を見てすこしモヤモヤしてきました。
いじめを悪くないこととすれば、それは繰り返されていきますよね……。

お礼日時:2010/11/13 18:29

NO16です。



 お礼ありがとうございます。

お礼文を見て・・・

 双方に悪いところがあります。

良い子だな~って思いました・・・
 自分にも原因があるって思っているんですよね・・・
そんな原因なんてないよ・・苛める側が苛める為の理由の為のもっともらしい理由なんだよ・・
 自分も悪い所があるんだって思える貴方は優しい子だなって思ってしまいました。
本来なら怨んでもおかしくないのにね・・


私がいじめが悪いことかどうかわからなくなったのは、
いじめっこの自己正当化と責任転嫁の言葉のためです。
いじめや嫌がらせをされて当然という理由をたくさん挙げるのですね。
いじめられっこが持ついじめ対象になりそうな特徴から(くさい、きたないetc)、
いじめられっこのせいでこんなめにあった、あんなことがあった等など……。
こうして人に傷つけられるときもあるが、ときに人を傷つけるようなこともある自分に、
akyhiroさんの言うような権利がはたしてあるのかどうか疑問に思ったのです。
こうした言葉が、いじめ仲間を効率よく増やしたり、
いじめグループを自己正当化する「いじめの常套手段」であることは知っているのですが……。

 うん・・ 言われ続けたら自分も悪いのかな・・・って思っちゃうよね・・・
なんか辛いよね・・・
 

自分をまもることは、人を傷つけることと表裏になることがあります。
「自分をまもる権利がある」と、「人を傷つける権利がある」。
知らず知らずのうちに、姿を変えてしまうことがあるように思います……。

 この気持ち凄くわかります。
我が家の長男が小学1~5年まで苛めに合いました、現在元気に中学に通っています。
 苛めをするグループの子達の中には良い子もいます。でもリーダーが怖くて 次に苛めのターゲットが自分に来るのが怖くて息子を一緒に苛めている子もいました。
 自分を守る為に・・・ですよね・・・
自分を守る為に息子を傷つけました。
 1人1人は弱い子なんだと思います。
リーダーの子も息子を苛めることにより注目を浴び 強さを見せしめ仲間を増やしまとめます。
仲間の子も自分が次の被害者にならない為にリーダーの指示に従います。
 おかしいよね・・・従っても何もとくがないのにね・・
自分を守るために人を傷つけることを選ぶ子達 この子達が勇気を出してリーダーに逆らってくれたら良いのに・・・って何度も思いましたよ。。。
 でも 心が弱いんでしょうね・・・苛められている息子を見ているから逆らう勇気よりも自分がされたら怖い恐怖心が勝ってしまうんでしょうね・・・
 
 私も貴方の言う姿を変えてしまうって気持ちは凄くわかります・・・

現在 苛められた息子はいじめっ子グループの数人とは仲直りしました。
 一人一人は本当に良い子なんですよ・・・
でも グループに入りリーダーがいると自分を守る為に平気で人を傷つける・・・
 1人1人が強ければそんな事もないのにね・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は良い子ではないです。
おとなしく、礼儀正しく、素直で聞きわけが良い子とは、とても違うと自分で思います。笑 ^^

息子さんに関して、大変つらい想いをされたのですね……。
自分が同じクラスにいてやれば、どんなことができたろうと、
きっと何度も何度も、繰り返し考えられたことだろうと思います。

書くのがとても苦しいことなのですが……。
こどもにとっては、学校というせまい世界がじぶんの世界のすべてです。
だから、従って得するかということより、従わなかったらどうなるか、考えるのかなあ……。

お礼日時:2010/11/13 19:26

>核爆弾のスイッチを手にしたような、その集団において強烈な力をもつ存在に膝


をつく他ありません。
>長いものに巻かれ、強者にあやかることで安全と発展が保障されます。
>一つの個体の強さは、他に確実に利益をもたらします。

>こうして、仲間を作ることを苦手とする弱者(マイナーになりがち)が、淘汰さ
れていくわけですね。
>人間が、自らの持つ多様性という武器を意識し、行動するのはいつなのでしょう
か。


長いものに巻かれる強さ、それはすでに「集団」の強さであり、「個体」の力ではありません
その集団において強烈な力をもつ存在、ボスは簡単に入れ替わりますし、また排除もされます
そこには「小さな集団(個体)」は「大きな集団」には勝てないという事実があるだけです

しかし、そういった群れを重視する進化を遂げたせいで、
ただ一つ、いつどんな時にも絶対的な長所として崇められてきた個体の特質があります
それが「社交性」です

より大きな集団を構成できたほうが強く、より多くの人材を使えたほうが強い
例えどれほど「多様性」に富んでいようとも、結束できない集団は集団とは呼べず、勝ち目がない

ただ力が強いだけ、ただ頭が良いだけでは生きていけませんが、
ただ人の扱いが上手いだけなら生きていけるんです
「多様性」が「社交性」より価値を持つためには、
「集団の威力すら無意味」にならなければいけません

近年になって「個人の自由」が大きく叫ばれるようになってきたのは
いわゆる核の分散による全面戦争的なものの皮肉な影響のような気がします
人の扱いが上手くても生きていけるとは限らない
どんな人間でも死ぬときは無差別に死ぬ
「多様性」が何よりも重視される世界、
それは個体の性質に関係なく、くじ引きで人が死んでいく、
破滅的な予想の産物かもしれません
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに多様性が支持されるのは、伝染病などすべての人が平等にさらされる大きな脅威であることが多いですね。
集団全員がいじめられている場合、集団の構成員どうしでのいじめは起こりにくいとも聞いたことがあります。

長いものに巻かれる強さについては、よくわからなかったのですが、
さしせまって破滅的な予想をされている世界に生きているわけではないので、
いじめが絶対的に悪いとは言えないのではないでしょうか。

>多くの人は、「自分もいじめられる可能性があるから」、いじめをします。
>いじめグループに加担して、弱いものをいじめる側にまわれば、自分のいじめられる可能性は低くなるからです。
これに関しても、もしよろしければご意見下さい。

お礼日時:2010/11/14 01:11

「みんな仲良く」という言葉自体が「協調性の無い者を排除しようとしている」


という矛盾をはらんでいます

破滅的思想の広がりつつある現代ですが、まだまだ、「集団」の優位は認められているわけです

>多くの人は、「自分もいじめられる可能性があるから」、いじめをします。
>いじめグループに加担して、弱いものをいじめる側にまわれば、自分のいじめられる可能性は低くなるからです。

つまり、いじめが「悪」だとわかっていながら、とりあえずの個人の安全を優先させた。
「集団の利益(個々の安全)が、多様性の価値(善)を上回ると判断された」わけです。
この判断が間違っているとするためには、
集団の利益の価値を下げるか、多様性そのものの価値を上げるかしなければいけません。

集団の利益を下げるには、いじめグループに加担しても安全は保障されない、となり、
多様性の価値を上げるには、前述の通り個性の差異が無意味になるような危険が全体に訪れなければいけません。

すでに「いじめグループに加っても結局自分は守られない」ことに気づいている者はいると私は思います。
しかし、「いじめられている相手を助けても、自分が被害にあった時は助けてもらえない」
そういった判断から「双方に関わりを持たない」=無視、という立場をとるものが一番多いのではないでしょうか。
「いじめている側」の社交性は大したことがない、だからそちらに加担しない。
しかし「いじめられている側」の社交性も0、だからそちらにも加担しない。

「多様性」の利点が常に最大限に生かされるには「社交性」がどうしても必要です。
二つが揃わなければあまり意味が無いのです。
「社交性」を重視しなくなった時点で、それは群れの利点を放棄したようなものですから
それは原始の個体の能力差の世界に戻っていくでしょう。
そして人間はもはや、個体で放り出されても生きていけません。

今の世の中、代わりになる人材はいくらでもいるのです。
非調和が許されるほどの天才、ともなればよほどの能力を持っていなければなりません。
そして、うっかり敵の手にそんな人材が渡る(自分の利益にならない)くらいなら、
排除してしまったほうがよいと考える者もいるでしょう。
人類の破滅を願うマッドサイエンティスト、という扱いで。

結局は「みんな仲良く」=「協調性の無い者の排除」という矛盾に戻っていくしかないわけです。
体力のある者より、知性のある者より、集団の和を持つ者を優遇する差別的な世界に。

いじめと差別をなくすには、無限の資源と完全無欠な技術によって、個体の安全が無条件に守られるようになる必要があります。
代償として一切の精神活動や肉体活動、生命活動そのものが一気に退化していくと思いますが。
ロボットの世界ですね。

この回答への補足

ということは、いじめは集団の和をもつためには「良いこと」なのでしょうか。

補足日時:2010/11/15 01:45
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「みんな仲良く」という言葉自体が「協調性の無い者を排除しようとしている」
>という矛盾をはらんでいます

必ずしもそうとは限らないけれど、
(というのは少なくとも私は絶対にみんななかよくといって誰かを排除しようとなど思ったりしないからです)
「みんな」というものが指す対象によってそういった矛盾がおきそうですね……。

お礼日時:2010/11/15 01:45

いじめが極限に達するとどうなりますか。



物にあたったり、家族や友達にあたったり、いつでも不機嫌になたり、
ひどい場合、人が怖くなったり、しゃべれなくなったり、自傷はじめたり。

私は、いじめのせいでそうなってしまいました。

人が怖くて、しゃべれなくて、被害妄想に苦しめられて、自傷を続ける毎日。
いじめられなくなった今でも、好きな人と過ごせる今でも、
ちょっとしたことで不安になって、怖がって、泣いて切る。
いじめられた日々がなければ、きっと普通の高校生活を過ごしていたんでしょうね。


いじめは、いじめられた人をおかしくしてしまいます。

苦しめるとか、そういう問題だけじゃなくて、その人の行動や、性格を変えてしまうんです。


だからだめなんですよ。

この回答への補足

すみません。
自分の視点に囚われ、自分のことしか考えていない回答だったと思います。

>人が怖くて、しゃべれなくて、被害妄想に苦しめられて、自傷を続ける毎日。
>いじめられなくなった今でも、好きな人と過ごせる今でも、
>ちょっとしたことで不安になって、怖がって、泣いて切る。

落ち着いて読み返し、改めて、ショックをうけました。
とても悲しいです。
no.27さんは、それほど怖くて辛くて、大変な想いをされたのですね。
命があってよかったです。
切ると、痛いですね。もがいておられるのですね。
意見をいただけて本当に本当にためになりました。

>いじめは、いじめられた人をおかしくしてしまいます。
これは本当にそうなのだと思いました。
いじめっ子が他人から自分になっただけで、今も続いているのでしょうか……。
不幸の記憶を何度も何度も思い出し、囚われ、幸せなときも頭のどこかで不幸を期待して、探して、ないときは自分で作って、もとの泥沼にはまっては絶望して、安心する。不幸を願うように繰り返し攻撃を受けたからですね。。
あがき続けるのは、本当に本当につらいことだと思います。

いじめにあって、辛い想いをしている人が、いじめは悪い事じゃないんじゃないかなんて言うような人間に対し、
なにひとつ怒ることなく自分の過去を晒すということは、なかなかできないことだと思います。
本当にありがとうございました。
私はあなたのような方が、いじめっこの自己実現の材料になることはどこにもないと思います。
人を傷つけて得たものなんて、何の実にもためにもならないはずです。だから、no.27さんが傷ついてもいじめっこには何のためにもならないと思います。
自分が、自分からも愛されていい存在であることをしっかりと信じるために、no.27さんがこの先何度も報われ、とびきりの幸せが訪れることを心から願っております。

補足日時:2010/11/17 06:36
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「人となりを変えてしまう」から、いじめは悪いのですね。

つらい体験をされたのですね。
治らないままの傷が多いほど、傷つきやすくなると聞きました。
いじめられ続けると、脳のはたらき(?)が変わるとも。

恐怖に対する感受性が高くなるのでしょうかね……。

他人を変えてしまうような恐ろしい力がいじめなのですね……。
貴重なご意見でした。とても、ためになります。

お礼日時:2010/11/15 01:55

ANo.23の者です。


補足に対して回答させていただきます。

確かに相手がされて嫌な事でも、一般的にいじめに値しないものもあります。相手がたとえ傷ついても、その人の将来や現実を考えてその人のためにした行為であるならば、いじめではないと思います。

心から良いと思ってしたことであるならば、その人にとってたとえ嫌だと感じたり、苦痛に思ったりしても、いじめではありません。しかし、いじめというのは、心の中では「本来はしてはいけないこと。相手を意味もなく傷つけること」という自覚を持っています。だから悪いことだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます^^

いじめの例外について、
「いじめ」とは「相手を『意味もなく』傷つけること」である。
一方、「相手のためを想ってその人のためにすること」は「いじめ」ではない。
ということは、「いじめ」は「相手を『意味もなく』傷つけること」で、
「相手のためを想ってその人のためにすること」にはなりえないんですね。

さらに、いじめは悪いことであるとする根拠について、
心のどこかでは、「本来はしてはいけないこと。相手を意味もなく傷つける『悪いこと』とだ」いう自覚を持ってなお行うから「悪いこと」なのですね。なるほど。


今更ながら、いじめの定義です。
●文部科学省によるいじめの定義
当該児童生徒が、一定の人間関係にある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を受けているものとする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
●警察庁によるいじめの定義
いじめとは単独又は複数の特定人に対し、身体に物理的攻撃又は言動による脅かし、嫌がらせ、無視等の心理的圧迫を反復継続して加えることにより、苦痛を与えることをいう。

落ち着いてよく見ると、「『いじめ』が悪い」ではなく、
「悪いこと」を「いじめ」と定めているということなのでしょうか。

お礼日時:2010/11/16 23:11

こんにちは。



回答しようと思いましたが、ANo.28様の回答と、そのお礼の文章からして、必要なさそうですね。^^
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
こんにちは^^

No.29さんは、
定義からしてそうだというこという意見をお持ちなのですか。

できるだけ多くの人の意見を聴きたいので、よろしければお願いします。

お礼日時:2010/11/17 14:06

No.29です。



お礼、ありがとうございます。

>定義からしてそうだというこという意見をお持ちなのですか。
いいえ。そういう意見は、持っておりません。

>できるだけ多くの人の意見を聴きたいので…
では意見ではなく、物理法則を説明させていただきます。

物理法則、相対性定理及び絶対性定理が、生物に与える影響により、生物は絶対的な本能として、以下の行動をします。

低等な生物:
(1) 低等な生物は、より高等な生物に対し、攻撃を加えようとする。
(2) 低等な生物は、群れを形成しようとする。

高等な生物:
(1) 高等な生物は、より低等な生物に対し、攻撃を加えない。
(2) 高等な生物は、より少数で生命を維持しようとする。


低等な生物の(1)については、直接的、間接的、肉体的、精神的、等の手段がとられる。
これらの手段の実行を、「いじめ」と総称する。

低等生物と高等生物の対比例:
(1)人間より、低等な生物、犬は、より高等な生物、人間に、噛みつこうとする。
 犬より、高等な生物、人間は、より低等な生物、犬に、噛みつかない。

(2)人間より、低等な生物、ライオンは、より高等な生物、人間を襲おうとする。
 ライオンより、高等な生物、人間は、より低等な生物、ライオンを襲わない。

(3)人間より、低等な生物、サルは、より高等な生物、人間を襲おうとする。
 サルより、高等な生物、人間は、より低等な生物、サルを襲わない。

(4)猫より、低等な生物、犬は、より高等な生物、猫を襲おうとする。
 犬より、高等な生物、猫は、より低等な生物、犬を襲わない。
(猫は単独、犬は群れを作り生活し、知的水準の高い人ほど、猫を好む事が知られている)


その他、低等生物の特徴を、以下の質問の答えとして、列挙していますので、以下を参照してください。
http://okwave.jp/qa/q6252192.html
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この回答へのお礼

こちらこそ、回答ありがとうございます。新しい意見が聞けてうれしいです。

ヒエラルキー的なイメージを抱きました。
「いじめ」は「より本能行動に近い?」ので「いじめが悪いこと」であるのでしょうか。

リンク先拝見いたしました。
このような視点は持ったことがありませんでした。
考えてはみたのですが、
主に学習や思考による行動形態を示す種には、特に応用できないように思います。
たしかに、人間は条件反射の性質を強く持っています。
しかし人間のとるすべての行動を、本能行動とみなすことは実質的に不可能です。
だから、行動形態を本能だけで判断することは危険である気がします。
これについていかがですか。


「鈴は綺麗な音が出てよいし、小鳥は空を飛べてよい」
ということなのではだめなのでしょうか。
人間はかみつこうにも立派な歯が無いし、
ライオンに噛みつけば逆にかみ殺されてしまうくらいの身体能力しか持っていない。
猿が人間を襲うのは住処を奪われてお腹がすいているからである気がします。可能なら、餌と住家を半分にすればいいのです。
また犬と猫という種の異なるものを対等に比べることはできません。

人間は、生命力にかけて、ゴキブリよりはるかに下等ですよね。
脳が発達し、言葉を使い社会を形成することが人間の特徴です。これは環境にとって害をなすこともあれば益となることもあります。
この特徴は差別や迫害として排他するように現れることもあれば、また逆のかたちで現れることもあるのではないでしょうか。

脱線しますが、生物の樹が多岐にわたり茂り、 細菌も魚も小鳥も人間も同一の時間帯に存在するわけは、
それぞれの種が比類のない生存手段を持つからではないのでしょうか。
食物連鎖を通してそれぞれの種が重なりあい、地球全体としての生命を守っているのではないでしょうか。

お礼日時:2010/11/18 22:38

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