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あえて悪をなし、対極としての善をきたえる、
という思想もあるようですが、
何かが間違っているように感じます。
皆さんはどう思いますか?

A 回答 (10件)

逆に、大した能力もないのに善ぶって足を引っ張り、


悪を助けるという思想もあるようですね。

この回答への補足

皮肉ですね。
恐れ入ります。。。申し訳ないです。

補足日時:2011/02/21 06:42
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この回答へのお礼

大した能力があるかどうか、いずれ判ります。
僕は闘志に燃えています。
いずれ、とくとご覧あれ。

お礼日時:2011/02/21 08:30

結論としては間違いであるということで間違いありません。

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 ANo.5,7


 皆さんのご回答を拝読して、ご質問をそういうふうに受け止めることもできるなぁと思っております。

 無論、偉大なANo.4のMMKYさんの反論ではなく、関連的敷衍であればいいと存じます、この生存し経験している世界は私たちはどうしても二元論的に構成し、受け取っていますね。
 ですから善だと思っていても、反面そうではないものを具有している、そうならざるを得ませんよね。
 ですから善を一途に進んでいても、悪の伴いは常にあるので、敢えて二元論を意図する必要はないと存じます。codex_regius

 更にANo.6の偉大なCODEX_先生の、【賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ】は私は賢明な友人から中学の時に何度も注意されました。
 だから聖者や賢者の叡智に学ぶように努力をしてきています。でも熱くて痛い思いで得た経験はこの愚かな常人には、読むことでは得られないものを得させてくれます。
 恥を堪えて(こらえて)ANo.5で悪の実践経験を実験したという投稿をしたのは、みなさんが理論でおっしゃっていることを私は自分の人生とこの生身でやった経験ですといいたかったのです。
 そしてそれは自己の変革や断絶をさせないですみます。
 どんなに素晴らしい思想や叡智でも、自分から生えてきてないとそれは文化侵略を受け入れ許すことに為ります。それで自己の継続をしていく事は困難です。
 ですから、そういうことも視野に入れた、異文化論の研究者がいたらどんなに遠くても教えを請いに伺います。
 異文化接触は避けられません。しかし自己の継続は大事です。どうかお教えをいただけますように。

 それから私たちは“悪”、“悪”といいますが、その“悪”たるものの構成要素を観察すると無論“悪”でも“善”でもない事に気付かされます。
 そしてその“悪”でも“善”でもないものの根源を昇りますと、やはり“善”でしかない事に気付きます。
 “悪”でも“善”でもない事、あるいは究極には“善”である事を、私たちの世界で、“悪”や“善”にしているのは、私たちの側の混乱と慌てふためきでしかないと存じます。
 だから“悪”も“善”もない。という事が本当でしょう。
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こんにちは、オタマさんの、言うとおりだと思います。


たしかに、間違っていますね。

善と悪は、同じ入れ物に入っています。
蓋を開けたとたんに、両方が出てきますからね。

善だけを行う人は無く、悪だけを行う人も無い。
わざわざ、悪を行えば、そこには、狂いが生じ、悪に、かたよってしまいます。

「頭で考えるのではない、感じるのだ」と誰かが言ってました。
だから、早めに、寝たほうが、いいと思います。
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No.5です。


 多くの賢者の話が出ていますが、その通りでしょう。
 悪に入れば、そこで理性も曇り、働かなくなり、且つ、影もみせなくなります。
 対比などはできない。
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善を規定した時、自ずと非・善は生じます。

非・善の肯定されざるものが悪と規定されるのならば、あえて悪を為す必然性はないんじゃないでしょうか。悪を思うだけならまだしも、悪を為す、とした場合、悪は実行されなければなりません。為すとはそういう意味です。
賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ、と言います。賢者を賢者たらしめるものは歴史から推測し得る思考力だろうと思います。だから賢者は悪を為す必要はない。過去の悪を学ぶだけで事足りる。為すという経験からしか善を鍛えられないとしたら、それは愚者の選択ということになるでしょう。
質問者さんが何かが間違っていると感じるのはその点ではないかと思います。
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 OtamaFJWR さん、私思うのですが。

善や悪ってそのものに固有的ではないですよね。
 人間、そのあり方と受け方、対処の仕方で善にも悪にもなる。それは個人の場合も集団の場合もそうではないですか?
 そして、私、ご質問のように徹底して悪をいろいろやってみました。それは太極としての善は鍛えることも知覚も認識にもつながりにくいものです。そういう経験をやりました。

 生身のままの私たち、そしてこの地上界の私たちは寧ろ、思考と志向において善の探求をする中で悪に出会いその中で善を対極的に知り、鍛えることができております。
 悪からリザレクトし己を引き起こし、起ちあがる事は不可能に近いくらいに困難ではあります。
 私の愚かな経験です。悪にもいろいろあるのですが、無方針とか機械的とか、無思想という生き方です。
 実験は20代半ばから30代の前半でした。心身と環境、そして人生には取り返しのつかない後悔です。
 卑怯や嘘搗きももやりました。
 これから自己を取り返すには、悪を憎んでではないのです。その中にいては憎めないのです、やめられないのです。意志と思想で出てくることはできません。
 後悔と悲哀から、自己を救い出すしかなかった。人間って最後の最後まで自己は捨てきれない。
 真の自己は悪を見つめている。卑怯で思想性がない自分はめぐり合わせという恵みで(恰も、芥川の蜘蛛の糸のように)昇らされてきた。蓮池の底からまだ水面への途中ですが。
 決して悪はわざともやる必要はない、善を追究する時に悪がしっかり鍛えてくれます。
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二元論をよしとする考え方もあるということですね。


一元論では進歩がないので二元論をあえて持ち込むという実践手法ですね。
これは、善のみ真実であるが、善にも段階的発展性を持たすために、あえて「悪とみえるもの」を持ち込み、より高い善性をもたらそうという試みですね。
成功すれば、より高い善性が達成され、失敗すれば善性を失い「悪がはびこる」という欠点はありますね。
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間違っては居ないと思います。


実際には事を起こさず(他人に迷惑をかけず)、小説やこんな質問サイトで思考実験をするということで宜しいのでは。
「罪と罰」のラスコりニコクとかおったまさんのようにですね。
有意義なことです。
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反面教師


ってのもありますねぇ。
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