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世の中、良いこと・善いことばかりだったらいいですが、それって理想ですよね。

自分の周辺にもいますが、存在が悪という人(思考様式が悪)がいます。

そういう人の存在も世の中の一部ですよね。

当然、自分にも悪は存在するでしょうし。

私は悪い部分を否定し、善を目指しました。ある意味理想郷にいて、悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて受容してみたいのですが。

悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。

また自分の悪い部分をどう認識すればいいのでしょうか。

悪との向き合い方がわかりません。
そして統合すればいいのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

善人から良いものを悪人が取ったなら、悪人がそれを持っているはずです。


そうなると悪人も善人らしく更新されていることでしょう。

「悪」の定義ですが、自由意志により善より先立って被害者意識を持っていることです。
なので善人の存在が悪の前提となり、回避するより報復措置が対応策の結果となります。

ここで両者の善悪の繋がりは終わりです。

善人は自分に罪がなくとも
罰を受けることで善悪を自動的にチャラにしてもらえたことなので
罪を認識することで与え前提を変えることができます。善人は許されるでしょう。
与えること=許すと同義です。
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この回答へのお礼

悪の定義が被害者の主観によって感じられる。

悪を判断するのは何よりも被害者。

自分ももし被害があれば判断に自信持ちたいと思います。

それって大事な感覚だと思います。だれも思いつきません。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/02/19 22:35

根源的には、人の生きる目的は精神的充足感の追求である


以上、価値とは「精神的充足量の増進に寄与するかどうか」
です。
ところが、そうした直截的な価値に対し、社会性の発達において、
社会全体に共通の利益が生じ、短絡的ではない(場合により
自己中心的な充足追求に反する)価値=善悪が発生したのです。

それはその社会集団の中でのみ共有されるもので、たとえば
イスラム教徒にとって、キリスト教徒の善は、悪の権化です。
そうしたトラップを避けるには、自己の持つ社会性を先入化せず、
「悪いからしない」のではなく、「それをする事で社会を阻害し、
結果的に自己も損するからしない」という、ゲーム理論の応用
として、自律的に社会行動をとるのが良いでしょう(お金をもらう
ためにイヤイヤ働くのではなく、助け合うために働く)。
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悪の定義によるんですけど。


人に迷惑なことはしないことです。
行動についてはシンプルです。

沸き起こる悪の心については、冷静に眺めることです。
たとえば、嫉妬しはじめたら、「あっ、自分嫉妬してる」って
天井から眺めるイメージです。

こうやって、自分の悪の心を自覚することで、
冷静になれます。
冷静になれば、「なくさなきゃ、なくさなきゃ」ってあせるよりも、
ヒュンって消えます。

悪い人はとにかく関わらないことです。
他人を変えることはできません。
変えられるのは自分だけ。

心が豊かな自分になれば、心が貧しい人が寄ってこなくなります。
身近にいるなら、「オレもまだまだだなぁ」って思って、
距離を置くことですね。
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悪の定義を何に置くのか、ということだと思いますよ。


善や悪は立場によって見解が違います。
アメリカにとっての善とイスラム原理主義にとっての善は全く違いますよね。
なので、悪を受容するには、今までの悪の定義を変える必要があります。
悪が受容できない理由はなんでしょうか?
受容できない原因が悪の定義の根本にありますので、その解釈を変えることで受容できる状態に転換できるはずです。
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 こんにちは。




   ▲ (コリント前書 14:20) 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。


 というのが あります。
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 回答してみたいと思ったので、いろいろと考えてみました。



 pkuobeさんはよりよく生きる為の指針として、道徳を置いているように思います。
 善悪の基準を道徳に置いているようにも思います。

 悪との付き合い方、とは自分の中にある悪や、道徳から外れた生き方をする他者とどう接すれば、あるいはどう受け止めればよいのかということかと思います。

 道徳的生き方はとても良いことだと思いますが、そのことに拘りすぎると道徳的でない生き方をする他者を、批判の目で見ることになりがちで、まずはその“悪”に気づきましょう。

 「存在が悪という人がいる」という表現を使うことは、裏を見れば自分の存在は悪ではないと、思っているはずで、これは少々うぬぼれと思われます。
 でも無理に消す必要はありません。(自然消滅が理想です)

 自分の悪い部分を否定してきたので今は理想郷にいるけどまだ悪い部分が残っていて、それは受容してみたい、とのことですが認めたい悪、の存在があるんですね。

 人の主義・主張は、好き嫌いという「好みの大木」から生える枝葉のようなもの、と思ってみてください。
 道徳的にみて自分の中の許容(受容)したい悪、とは好みから発生した悪でしょうか。
 よく分かりませんが、善悪に対する人の主観はその人の「好み、あるいは性格」に大きく影響を受けると思えば、他者の生き方もある程度受容できるように思います。自身の内部の“悪”も許容できるのだから。

 

 
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「「存在が悪」という人」は、居ません。


・・・「罪を憎んで人を憎まず」というやつです。
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私は「善」と「悪」があるというようには考えません。


あるのはより良くなろうとする状態だけがあると考えます。
ですから自分も、たくさんのことに気がついていなかった時があるように、
他の人も、まだ気がついていない状態の人がいると考えます。

たとえば人を中傷して噂する人は、
その行為が他人を悲しませるだけでなく、
自分の行為はやがて、自分に返ってくることを未だ知らない人なのです。
でもこの人もいずれは、否応なく自分のした行為に気がつくようになり、
そのような自分を変えたいと望むようになる「時」が訪れます。

歩みの早さの違いこそありますが、
すべての人々が、上に述べたような歩みのどこかの途上にあると考えられます。
ですから未だ「気づく」ことなく「おれおれ詐欺」をしている人を、
「悪」と決め付けることはできないと思うのです。

そこにいるのは、他人の悲しみが未だ理解できない人であり、
自分のした行為は、必ず自分に戻ってくるという「宇宙の法則」を
未だに知らず、気づいていない人なのです。
でもいずれこの人にも間違いなく、自分の行為を悔やむ「時」が訪れます。

自分の中の気に入らない部分を「悪」ではなく、
学ぶ必要のある、まだ未熟な幼い部分と捉えるのがいいと思います。
なぜなら私たちは日々変化しており、絶えず異なる瞬間瞬間を呼吸しながら、
自分を変容させているからです。

私たちがそうであるように、
すべての人が、自分の今いる認識のレベルにおいて、
自分にできる最善を尽くして生きていると思います。

そのような「眼差し」で自分を、他人を眺めることができると、
人を、自分を批判したり嫌悪する苦しさから解放されて生きることができます。
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どのような人間として生まれるかは、自分では選べません。



自分も悪人として生まれる可能性があったという事実を謙虚に受け止めれば、そこから先は各人が考えることだと思います。

私は無関心でいることしかできませんが。
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> 私は悪い部分を否定し、善を目指しました。

ある意味理想郷にいて、
悟りをひらいてます。しかし悪い部分もあるはずで否定じゃなくて
受容してみたいのですが。

受容というよりも?、、自然・本質的?な人間心への上乗せの部分だと
思うんですけど?、、否定・排除はもとより、変容という一色でもなく?
上乗せによる本質部分の変容という、、層・構造体というか?

というのは、私は意識体・人間心が、白から青のグラデーションの
細い棒を束ねた円柱状に見えたり、地層のように見える為なのですが、、

> 悪い人をどういった目でみればいいのでしょう。

これは霊的見地になりますけど、、存在というのは全て、天界という
充満の御体内に於ける(充満物質・モニター?)、天界の想念による
表現であり、、それらは意味・印象・概念という無形の本質を
核・本(魂・意識体)とし、、
そこからの多くは?、、放射物・写しとしての映像としての存在(有形・我々・物質)

本は全てが充満の御体であり、、どのような意識体・性格・レベル
であるかは、天の想念次第であり、、たとえどのような悪の意識体・性格
であっても、実の所は誰にも責任や罪という物はないと一応言え、
問えないだろうと、、
責任・罪などを問うのは、現世などの制限と限界の次元・社会にとって
必要・求められ、欠かせぬ定義でしかないだろうと・・・如何でしょ?

つまり、天の采配・さじ加減で、人はどのような存在・性格・人間性
にもなり得るという事などを自分なりに確認・理解・認識すると、
悪に対しての新たな・本質的、重要な見方が上乗せになるだろうと思うのですが

私は人々の愚かさにすっかり汚された、愛とか許しという言葉が嫌いですが、
高次元の存在や魂は、霊的な本質の理解がある為に(采配・さじ加減で
人はどのような存在にもなり得る)悪・悪の意識体・悪の事象・愚かさ
などに対して、それも・全てが天の表現であるという理解があり、

為に、どのような悪・愚の存在・事象に対しても、親しみ・慈しみを感じるのだとか、、
つまりこれが愛と許しの具体的・詳細な仕組みと理解なのだと

なにも知らずに、ただ愛を唱えるのではなく、耐える許しでもなく、
理解と上乗せ(それによる変容への歩み)、それが愛と許しだろうと


どう向き合うべきか?というと、普通は受動的になるしかないでしょうが?
理解から時に来る、外的介入・導き・守護も勿論あるにはあるでしょうけど?

能動的にいうと?私は割りと積極的に、霊的働き掛けを自他共に試行します
そうせざるを得ない面もありますけど
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