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なぜ善と悪は生じたのですか?

A 回答 (16件中1~10件)

ひとりのとき→すべて自己満足の方向でことたりる→善も悪もない


二人以上の時→自分ひとりだけの考えではやっていけない→自分も他人も納得すること(善)でおおむねやっていく→自分も相手もみとめないこと=やってはいけない→悪

社会ができた時の必須のルールとして発生したのではないでしょうか?

>善がなければ悪はない
善が出来たからその反動として悪も出来たと仰りたいのでしょうか。
そういうことではないと思います。善と悪はひとつのものの表と裏といった関係ではありません。遠く隔たったふたつの無関係のものです。それぞれ構造的に発生せざるを得なかったということではありますが。
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善とか悪とか言うけれど、戦争する人は悪いよ。

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少し極論になっちゃうけど、


この世が自然状態の社会であったとしましょう。つまり、ルールもなにもない、略奪、殺人なんでもかんでもしたいように欲求のおもむくまましちゃえ的な。
そんな状態になったら、当然、弱者と強者にわかれます、そうすると弱者は生きるよりどころが欲しいわけです。
そこで、弱者は善であり、強者は悪であるといちづけて、あいつらは悪い奴らだ思い、わたしは良い人だからよわくていいのと言い聞かせて、うっぷんが張らせるというわけです。しかし今の世の中は、そうではなく道徳や法律やルールがある理性的な社会です。ですから安全に暮らせるわけですよね。弱者にとってはありがたいです。
しかし所詮、道徳や法律、善と悪も弱者が自分を守るために作られたものと肝に銘じなければなりません。ですから執拗に狭量な価値観で善と悪を判断したり、自分勝手なルールや道徳観を振りかざして、正義感を主張することはさけたいものです。
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善と悪とはある行為に対する価値付けです。


宇宙にもともと価値があったとは僕は考えていません。
価値は生命が生み出したものだと思っています。

生物の本能にとってプラスかマイナスかによって快と不快が生まれます。
相手(異性)が生物の固体として優れているかを見極めるために「美」という観念が生まれます。
そういう感覚が高次になると怒りや悲しみやらの感情が生まれます。
言葉が生まれれば、それらは言葉となります。
猿がヒトになり、社会が生まれ、そして他人の行為を規制する必要が生まれます。
おそらくそのときに善と悪が生まれたのでしょう。

人間を殺すことだって物理的に見れば化学反応をし続ける物質が壊れるというだけです。
絶対的な価値がどこかに存在するという考え方をする人もいますが、人間が判断しなければ価値は生まれません。
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■どこから悪は生じるのか?


『全知全能の神が世界を作ったのであれば、どうして悪が存在するのか?』
ということは昔から問われてきました。
この問いに対して、キリスト教はオリゲネス(182年?-251年)の時代から弁明してきました。
これを神義論(もしくは「弁神論」)と言います。
伝統的・古典的な神義論によれば、悪は自由意志の行使の結果である、とされています。
どういうことかと言うと、人間が自由意志を持っているということは、
(ものごとの性質上)悪や罪を犯す能力も持っている、ということになります。
そうでなければ、人間には選択の余地がないということになります。
そして、選択の余地がないのであれば、それは自由意志がないのと同じことになります。
つまり、自由意志があるからには必然的に悪が生じる可能性があるということです。

■善と悪は対等なものなのか?

“悪は善に寄生する”という言葉があります。
どういうことかというと・・・
「ナルニア国物語」の作者であり、アマチュア神学者もであったC・S・ルイスはこう書いています。

「あなたがたは、ひたすら善のために善を行うことはできる。しかし、ひたすら悪のために悪を行うことはできない。人に親切をする気分ではないが、あるいはまた親切をしても喜びを感じないが、しかし親切をすることは正しいことだからという、ただそれだけの理由で、親切な行為をすることはできる。だが、人が残酷なことをするのは、前にも言ったように、それが快楽や、なんらかの利益を与えてくれるからなのである」。

「つまり、善が善であるのと同じ意味では。悪は悪であることはできないのだ。善は、いわば、それ自身であるが、悪は腐った善にすぎないのである。だが、腐ったということは、その前に善い物がまずあった、ということでなければならない。たとえば、われわれはサディズムを性的倒錯と呼ぶが。倒錯について語りうるためには、まず正常の性行為に関する観念をわれわれは持っていなければならない。その時初めて、どちらが倒錯かを判断できるのである。というのは、われわれは正常から倒錯を説明することはできるが、倒錯から正常を説明することはできないからである」。

以上、C・S・ルイス著、柳生直行訳「キリスト教の精髄」83-84ページより。

でも、まったく痛みや苦悩のない世の中であれば、
喜びとは何かということさえわからなかったと思います。
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善と悪は、相対比較概念ではなく、反対概念ですから、全ての元となる出発点から同時に存在したとは考えられません。

矛盾した存在が始発点から同時に存在していたなら、そこから先の宇宙の広がりに一歩も展開すらできなかったと予想できるからです。
であるとすれば、元々が善からスタートしたものが、どこかの時点である何らかの原因で悪が発生したと見るべきでしょう。
便宜上、反対概念の悪が発生したため、元々の方向性を善と名づけただけで、悪が発生しなければ、宇宙は単一方向のみに向かっていたわけですから、わざわざ、それを善と呼ぶ必要もなかったと思います。
もともとあったのが善で、あとから生じたのが悪・・・こう考えるのが妥当だと思われます。
問題は悪の発生起源とその内容を解くことだと思います。
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 善と悪 とは、どういうものですか

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>>善がなければ悪はない


逆でもいいと思います。


悪があるから、善が生まれた。

立法はこの過程だと思います。
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自分にとって(広義で)都合の悪いことを悪と名づけたのでしょうね、最初は。


対義語としての善でしょう。

広義で、と注釈したように、「都合の悪いこと」というのは多種多様です。
まず、人は生まれつき理性を(たとえ片鱗と言えども)携えてこの世に生を受けますから、自らの本能的部分が悪と映ることもあります。
異なる人種を抹殺、あるいはその権利を侵害するのは自国の民族にとっての善と思われた時期もありましたが、今は偶々そういった思想が受け入れられる時代ではないようです。
しかし、我が国では(というかどこの国でも似たようなものかもしれませんが)新型インフルエンザで数人が死亡しただけで大騒ぎしますが、年間自殺者が3万人を超えることに関して、それ以上の感慨を持って受け止める人はおそらく少数でしょう。
なぜかというと、この国においては、社会的敗者として自殺という道を選択するのはあくまで個人的な責任であって、他者としての社会が手を差し伸べて問題を解決することが特には善と認識されていないからです。
個人の総体としての社会が悪として働いた結果である、という単純な理屈に気づかないか、目を背けているわけです。

自殺する人にとって、他者、あるいは社会は悪と認識されることでしょう。
彼ら、彼女らは、自らにとっての善を現世で主張するタイミングを見失ったことになります。

善でも悪でもないもの。
それが世界の始まりだったはずです。
人間の【個人的都合】で善悪という概念は生じました。
つまり、感覚し、認識し、という能力が人間に備わっていたことが、善悪の生じた理由、ということになるのでしょう。
 
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>善がなければ悪はない



いえ。

人を殺さないことは善い事ではありませんよね。

物を盗まないことは善い事ではありませんよね。

勇気があることは必ずしも善い事ではありませんよね。



例えば川上で製造時に出る多量の汚水を川に流したら、川下の人は飲めなくなるじゃないですか。

で、川上の人がその工業で生活していたら、製造をやめることは川上の集団の生活危機を招くので、川下の人がやめろと言っても「はいやめます」とすぐ了承できず、他の川から水を汲めって言なるじゃないですか。

各勢力があって、統合をよびかけても、そうですかって簡単にはならないじゃないですか。
大和朝廷を祭ろわなかったので、エタと呼ばれて迫害されたって、日本の歴史にあるじゃないですか。

片方からみたら都合のいいことでも、片方からしたら都合が悪いことってあるわけで、片方から見たらいいことだと思っても、片方からみたら悪ってなることもあるわけです。
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