出産前後の痔にはご注意!

旧約聖書ヨブ記の最初のほうで、サタンに殺されたヨブの家族たちのことを考えると
すごく気の毒で仕方ないんですが、
彼らの死をどう解釈すれば、いいんでしょうか。

ヨブさんは、最終的に救われて めでたしめでたし…
あれ? 最初に亡くなった人たちのことは?
もしも自分がその中の一人だったとしたら、すごく嫌ですし、
物語として とても後味が悪いです。
どなたか、親切な方、教えてください。

※ ちなみに私はキリスト教徒ではないですし、この疑問が解決したからキリスト教を信じるという気持ちもないんですが、物語は物語として気になりました。

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A 回答 (11件中1~10件)

 No.3&8です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 亡くなった家族のことは、気にしないのが正解なのでしょうか。また、もし自分がその中の一人だったとしたら(そういうのは違うといわれましたが)
 それはそれで仕方ない、と思うしかないのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから ヨブという人から見れば そういうことになるでしょうね。

 家族のそれぞれから見れば またそれぞれの歴史があると考えます。物語がそれとして違ってくるのではないでしょうか?

 その人たちの死は ヨブのたましいの歴史からみれば ヨブを試すためのサタンのしわざであったと表わされた。
 その人たちそれぞれから見れば その一人ひとりの人生は サタンによって殺されたと一概には言えないと考えます。

 もっとわるい魂の軌跡があったかも知れないし あるいはヨブのために尽くそうとした人生であったかも知れません。わるければわるいなりに よければよいなりに それぞれ思う存分生きたと言えるのではないでしょうか? 寿命が短かったではないかといったことについては もうわたしには分かりません。


 あるいはもっと人間くさく解釈してみるならば:
 ヨブのたましいの自由をとうとび 家族の人たちはそのヨブのために尽くした。ということも考えられましょう。

 ★ しかし、ヨブさんには信仰が残りましたが、家族には信仰も何も残らなかったです。信仰が無ければ何も無いということなのかな、と、ここまで皆様にお礼を書いていて今ふと思いました。
 ☆ 信仰をつらぬいて愛が残ったと言い表わしたいところですが それは措いておいて:
 信仰の立ち場から考えるなら こうだろうと思います:
 ★ 家族には何も残らなかったです。
 ☆ といった《えこひいきへの残念さ》が残るというのは 人びとがそれぞれ一度はへそを曲げて自分の勝手に振る舞ったことがあるという事実から来ているという捉え方です。
 ぎゃくに言えば この世に一度もウソをつかなかったという人がひとり出れば そのような格差のようなものはなくなるだろうと考えられます。

 さらに単純に言いかえるなら:
 えこひいきがあると思えたり それを知って世の中は不平等だなと愚痴ったりすることのないよう われわれがその境地へあゆみ行くよう心に促されている。
 つまりはそのような恵まれる恵まれないといった現実にわたしたちが耐えられるかどうか これが試されている。
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この回答へのお礼

これは、新たな理解が進みそうです。いや、この瞬間進みました。ありがとうございます。
>ヨブのたましいの自由をとうとび 家族の人たちはそのヨブのために尽くした。ということも考えられましょう。
一旦、私の心は平静になりました。物語として、一応ベストではないですが、ベターな感じがします。

>さらに単純に言いかえるなら:
以下の部分は私の心のドス黒い部分を明らかにするようです。まさか、そこまでやってみると言うのですか・・・クリスチャンという人たちは!
目を背けたい感じがします。しかし、それを目指すというのですか。

他にもいろいろ教えてくださる方が多くて、もっと聞きたいことがあるのですが。きりがないのでここで終わりにしたいと思います。

ところで、皆様
一概に言えない、というところと、一概に言わなくてはならない、と主張されている箇所がいくつかあるような気がします。
すごく、そこの別を聞きたかったんですが(ヤバイくらいに)
もう自重します。とてもためになりました。また何かあったら、質問したいです。

お礼日時:2011/02/24 23:49

>友人たちに責められても「俺は悪くないし神も悪くない」と断固つっぱねた所は


ほんとに男の中の男だと思いました。熱い魂というか、これが信仰と言うものな
のかと。


んーーー。

本当にヨブは身に覚えが無いんですよ。
「あれかな? これやったからかな」とほんの微塵でも思い当たることも無いんです。

でも、神が間違うわけない。

だからこそ 何故なのか不明なので苦しいわけです。


うんとぉ

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html

ここです。

『これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて、
神の経験を暗くするとは。
男らしく腰に帯せよ。
わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。』



私が大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか

答えられるものなら答えてみよ


ってわけです。
すべてを知りえるものじゃないのに、なにすべてを知り尽くした上でものを言っているようにふるまいのか って神は言っているわけです。

ヨブは全部の理由は知りえない者です。
とうとう知りえないものはあるんです。
全てを知り尽くしたものにそうではないものが同等のものになろうとする。
それにヨブが気付いたわけです。
自分のやっていることは どんなことだったのかと。


まあ 作家の哲学ですが、なーるほど それなら引き下がれるわ と思いました。
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この回答へのお礼

>本当にヨブは身に覚えが無いんですよ。
「あれかな? これやったからかな」とほんの微塵でも思い当たることも無いんです。

私もそう読み取りました。だから友人たちに責められても自信を持って「お前らこそあんまそんなことゆーなよ(逆に心配気味に)」と言えたんだと思います。私だったら3秒で折れてます。そうだよなー、俺が悪いよなーって。しかもヨブさんがもしこれをやったら、本当はやってないのにやったと虚偽の申告をすることになって甚だ良くないということもなんとなく分かりました。
神様もヨブさんを信用していたと思います。信頼関係があったと思います。ただ、ヨブさんが思い上がっていたところもあったと思います。

ところで、すみあせんがヨブさん個人のことについて、今回は私はあまり疑問は無いです。あって1%くらいです。疑問は99%亡くなった家族のことについてです。
その疑問について回答者さんの答えは「自分が息子だったら じょーだんじゃない と作品を読むのは正しい読み方じゃないです。」
これだと認識しました。それだけで十分ありがたいです。
それ以上の知識は、私の小さな頭ではパンクしてしまいますので、勘弁してくださいw
また、何かありましたら、よろしくお願いいたします^^

お礼日時:2011/02/24 23:37

Ciaopolpoさん。



黙さんでいい、黙さんで^^;

俺のHNはたこだぞ?
たこごときの誤解に黙すな黙すな^^

(昼飯の「カゴメの野菜一日これ一本」吹いちゃうじゃないか)
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この回答へのお礼

このサイト利用するの初めてで、すみません、私は空気読んでないのかもしれませんが・・・回答ひとつひとつにお礼をつけて来ましたので、この回答は私宛では無いと思うのですが、御礼申し上げます。ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/24 23:08

 あらためまして こんにちは。



 世の中に 人間の能力と努力とによってだけでは どうにもならないコトはありますよ。

 あの悪人がどうして地位にも金にも何やかやにも恵まれて悠々と幸福の内に暮らしていることが起こるのか? 続くのか?
 たしかにあの人間はよい人だ。けれどだからと言って ほかの人びととの差があり過ぎるほど 才能も育ちも恵まれているのは解せない。なぜだ?
 
 こういうえこひいきが――そしてしかも どうしても納得の行かない不合理なえこひいきが―― 起こるのか?

 その答えは こうです:
 他人(ひと)をうらやむ心の思いが 人びとからなくなるまで そういうえこひいきの現象は 世の中に起き続ける。のだと。

 そういう見方が出されなければならないような世の中に 人間は一人ひとりがみづから進んで好き好んで――単純には ウソをひとつつくというへそ曲がりのおこないから始めて――つくって来た。ということだと考えます。
 その責任のない人間は ひとりもいない。あたらしく生まれて来る人間にしても 同じである。(人間存在は 自由意志の主体であり独立性を保ちますが ほかの人びととの関係性としても 成り立っている。いわば絶対的に人は互いに関係し合っている)。こういうことではないでしょうか?




 * わたしは 感情丸出し ばか丸出しで こんにちまで来ました。たこさんどうしのあいだに割りこみました。
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この回答へのお礼

こんにちは!

>世の中に 人間の能力と努力とによってだけでは どうにもならないコトはありますよ。
私もそう思います。

亡くなった家族のことは、気にしないのが正解なのでしょうか。また、もし自分がその中の一人だったとしたら(そういうのは違うといわれましたが)
それはそれで仕方ない、と思うしかないのでしょうか。

しかし、ヨブさんには信仰が残りましたが、家族には信仰も何も残らなかったです。信仰が無ければ何も無いということなのかな、と、ここまで皆様にお礼を書いていて今ふと思いました。

>* わたしは 感情丸出し ばか丸出しで こんにちまで来ました。たこさんどうしのあいだに割りこみました。

ところで、私はこのサイトを利用するのが初めてなので、こういうのは何が起きているのか分かりません。すみません・・・
回答者さん同士のやりとりは、私は絡まなくていいですよね。

お礼日時:2011/02/24 23:06

No4です。



ああ、また言葉が足りなくて、No6さんの誤解を招いてしまいました。

キリスト教のオーソドックスな解釈はNo3さんのご回答の通りです。模範解答です。ですので、もしNo3さんのご回答に異論があるのなら、キリスト教の聖書の教えに反論することになります。

しかし、私が回答の中で書いた言葉は、キリスト教にしてみたら、異端も異端。長年、牧師さんをなさって、今はセミナリオ(大学)で神学を教えていらっしゃる方の、ため息と共に吐き出した呟きです。

私の回答を元にキリスト教を語るのは、お門違いもはなはだしい。たこ八さん、どうぞ判ってください。

私は聖書関係の回答をすると、勘違いされて、今回のように罵られることが多いのです。知らぬうちに、日本人の感情を逆なでするらしいと気付きました。良くない兆候です。ですから、今回の回答を最後に、聖書については黙すことに決めました。

失礼しました。
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この回答へのお礼

イマイチ何が起きているのか私にはわからないのですが
>私は聖書関係の回答をすると、勘違いされて、今回のように罵られることが多いのです。知らぬうちに、日本人の感情を逆なでするらしいと気付きました。良くない兆候です。ですから、今回の回答を最後に、聖書については黙すことに決めました。
私は罵りませんし、何かありましたら、また回答お願いしたいです。

>No3さんのご回答に異論があるのなら、キリスト教の聖書の教えに反論することになります。
気になります。私は、信仰はありませんが、聖書には普遍性みたいなものがものすごくあるんじゃないかと疑ってます。いろんな異論もやすやすと取り込んでしまうのではないかと。
でなければ、こんなに長い時間、多くの人間に読まれてこなかったのではと思うからです。

お礼日時:2011/02/24 22:56

そら納得できんわなあ。

たまらんわなあ。
神とサタンの博打の手札にされた日には。

不条理な死は今日も世界のあちこちで起こっているんだけど、
何の罪もない人々でさえそうで、神や仏に呼べど叫べど、
災いは義人だろうが悪人だろうが等しく(ときに義人ほど)人間を襲うねんな。
このやりきれん運命というか、もうあーた、わっけわからん不幸こそは
ユダヤ人が知らん地で陥った悲惨な状況にもシンクロすると思うわけ。
(このヨブって外国人?)

  はあ?俺、真面目に信仰してたじゃん。
  何でこうなんねん?神様あーた何してくれてんの。

伝統的なユダヤ教はそこにとりあえず身が穢れているとか、
神様の気に障ったとか、東洋的には因果と応報とか、
キリスト教からは原罪の遺伝とか(神様の木に触った?)とか、
何かエリパズ、ビルダデ、ゾパルの説教トリオみたいなこと持ち出せるんだけど、

物語の最後でようやくしんがりのエリフが、
――このエリフという人物は「とって付けた」ような臭いが
ぷんぷんするんだよな――
ヨブも含めた人生の諸先輩に喝を入れるの。
聖書版ヨブ記は、未熟者の意見を議論の最後にもってくるんだ。

やっぱ新しい時代の若者はちょっとものの考え方が違うのね。
いいやねえ。新入社員。若さだねよえ。すべすべしてるねえ。
ちょっと、どれどれ・・・いや、ちがうちがう。

不幸がとことんまで人を痛めつけると罪とか穢れとか、
因果とか応報とかじゃ納得いかん時代にきてるねん。
命の軽重とか、神の深さとか人間の浅はかさとか
もっともらしい理屈付けは、はいはいもう分かりました。
もうそんな古っ臭い今日のキリスト教会みたいな論理じゃ
まかり通らん時代に突入しとる人の物語やねんヨブ記は。
民族や人間に納得できる根拠なく降りかかる不幸や災いは目の前にあるねん。
古い民話の骨格に肉付けされたのはそんな話じゃないやろと思うねんけど、
ヨブ記は、本当に素晴らしいけどむずかしい文学作品だよな。
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この回答へのお礼

因果応報が無いというのは、なんとなく分かります。法が無ければ何をやってもかまわない、というのは因果応報の悪用だと思いますので、もともと私は嫌いです。
駄目なものは駄目だ。
理由を言ってください、何故駄目なんですか?
理由もクソもあるか!駄目なものは駄目だ!
本当は、こっちのほうじゃないかと私は思います。
免許を取って50年無事故無違反のおじいちゃんが信号待ちで後ろから追突されて亡くなった時にも思いました。

お礼日時:2011/02/24 22:52

ああ、わかった。

 脇役はどうなるのか って問いですね。

えっとぉ、 物語にしろ映画にしろ、テーマがあります。

この物語の主人公はヨブ。

あとの妻や息子や家畜や家や友人やエリフや悪魔や神は装飾品です。


この物語はで 信仰がテーマなんです。

信仰するとはどういうことかを物語で説明しているわけで、

「悪魔に殺された息子はどうなるのか」とか「悪魔と神が談合してヨブを苦しめるってどうよ」 とか 「悪魔がヨブを苦しめるのを神なら止めろよ」とか、「ヨブの信仰心を試すにしちゃ やりすぎ」とか、「信仰心を試すために人が殺されて、それを黙ってみていられるなんて なんて冷血な神」 とか そういう読み方は正しくないんです。


イエス物語の磔刑の場面はもともとプラトンの善人の証明がソースです。
このギリシャの哲学者の善人の証明を、イエス作家は ヘブライ人の信仰心 を表す物語として借りたわけです。


ちなみにロード・オブ・ザ・リング、 指輪物語も、元ネタはプラトンです。
プラトンのギュゲスの指輪でプラトンはどういうことを語るために物語を作ったのかを知らないと、映画や指輪物語を読んでも、本当の面白さがわからず、「楽しかった」で終わっちゃいます。

おそらくプラトンのギュゲスの指輪に触発されて、それを信仰を表す作品に転用したんだと思います。


「指輪を使って姿を消すことができるようになったものが、悪事を働かないでいられようか。
大悪人とは、市場から物を盗み王妃をレイプしておきながら、それが誰にもバレないばかりか、最高に善い人だという名誉をもらっている人。
じゃあ 誉れ高い人が本当にその評判にふさわしい人なのかどうかどうやってわかるのか。」

とプラトンはみんなに問うたわけです。哲学の問答。

そしてこう考えた。
善い人だという高い評判を奪い罪人だと悪い付加価値をつけて、貼り付けになり鞭で打たれ、槍でさされたとしても、他人を恨むようなことをしないのなら、根っから人を恨んだり妬んだりすることの無い、清い人だったと証明できる」としたんです。

※古代は紫の染料はある貝からしかとれず、その色で染められた衣装を着ていた人は、人から信頼されそれゆえ地位が高くお金持ちだった。
紫の衣を着ている=人格者と高い評判を持つ裁判官とか大祭司とか。
それをパーツとして使ったわけですね。


イエスの磔刑の話を聞いて、「子供を殺されたマリアは被害者じゃないか。彼のたくさんの兄弟は罪人の兄弟とされ肩身の狭い思いをして暮らすことになったんじゃないか」と、別な考えをしたら、良い読者とは言えないわけです。


作家はそこを描きたいのではなく、信仰とはこういうものだってのを描くために作品を作ったわけですから。

イエスは実在していたのかとか そんな方向になったら、作家 がっかりでしょうね。


読書感想文の内容は、人によってさまざまですよね。
だけど、テーマが不明瞭で、ばらばらな感想を持たれるような作品にしてしまう、 それは駄作になる。

ある一定の割合の人が、作家が訴えるテーマを的確に捉え、作家の主張の本質を理解し、「この本はすばらしい」となることで、良質の本と薦められるわけです。

薦められた本を読んで、そういう人がいたんだ とか 作家の趣旨と違う捕らえ方をしたら、作品の価値は0になる。

誰も作家の訴えることを捕らえることができなかったら、読者が悪いのではなく作家の文才が足らなかったってことです。


絵。
訴える部分を明確に描写し、まわりをボカすことで、訴えるものを際立たせる。技法のひとつです。

写真だって 中心をどこに持ってくるか間違うと「おしいなぁ 構図がよければ もっと力のある写真になったのになぁ」となる。


映画に 退屈な日常が描かれているとしますよね。
我慢してずっと見ていると、やがて全部がつながり、「そういうことか」となることがある。
「すべてのシーンには一切無駄が無かった 必要不可欠なシーンだったのか」と読者を感動させたら良作。
本当に主題とは関係が無いエピソードばかりだと 無駄と呼ばれ、おしい となる。


息子らはヨブの状況を表すチョイ役。

自分が息子だったら じょーだんじゃない と作品を読むのは正しい読み方じゃないです。
メインはヨブの信仰心ですから。
中心はどこかわかると、それを軸にして読めて、作家の主張がわかり 良作 となります。
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この回答へのお礼

>自分が息子だったら じょーだんじゃない と作品を読むのは正しい読み方じゃないです。

「(書物の)正しい読み方」

ありがとうございます。覚えておきます。

お礼日時:2011/02/24 22:45

私の聖書の先生は、教会でお話をなさる時には、No.1さんのように、何とか皆に役立つモラルを抽出していらっしゃいましたが、個人的に教えてくださる時には、



・これは現代に生きる我々にはわからない問題である。ジョブは幹であり、その家族は、葉や蔦である。家族が亡くなっても、ジョブがある限り家は安泰であり、個人の幸せ云々よりも、家系の続くことを重視した古代父系ユダヤ人社会では、納得の行くアレゴリーであった。

・我々は自由平等博愛の世界に生きているが、どうやら神の目から見ると、一人ひとりの人間の命に重い軽いがあるようである。

というお話をなさった後、”結局、神の深い志は、浅はかな人間には分からない”といって終わりにされました。

聖書を理解することが、西欧文化を理解する早道だと思います。お勉強、頑張ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。上2つはなるほどと思いました。今の現代人には受け入れにくいと思います。”結局、神の深い志は、浅はかな人間には分からない”これで心が安らかになれる人は、かなり信仰の篤い人なんだと思います。私は薄いどころかゼロなので、ちょっと無理です。すみません。しかし、私個人の中では正解にしたいです。

お礼日時:2011/02/24 22:43

 こんにちは。



 ★ ~~~~~~~~
 サタンに殺されたヨブの家族たち

 もしも自分がその中の一人だったとしたら、
 ~~~~~~~~~
 ☆ という思いからの問いと受けとめました。
 これは ヨブというひとりの人間を主人公にして その立ち場から物語を描いています。おそらくそれだけの話だろうと考えます。

 家族の者らが《サタンによって殺された》としたら つまりそういう表現で捉えたとしたら それが 主人公ヨブの視点に立って見ているし表わしている。ということだと考えますし それだけのことだと思います。
 どうでしょう?


 その家族のうちの一人ひとりのそれぞれの立ち場に立って物語を編んだら また違ってくるかも知れません。一人ひとりに おのれのたましいの歴史があるというように思います。

 言いかえると ヨブその人のほうが そのほかの人たちよりも――家族の者にしても友人たちにしても その人たちよりも―― 神によってえこひいきをされていた。こういう歴史です。
 ヨブは初めから 信仰の人であり そのように恵まれており しまいまでそのたましいをつらぬきました。何が起ころうとです。とうとう神をのろうようになったとしても です。すべてたも(網)で掬われているようにして そのちからが与えられつづけたということだと考えます。神から離反したなら その離反したというコトじたいにおいてもです。
 信仰とは そういうものです。そのことの物語です。
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この回答へのお礼

>これは ヨブというひとりの人間を主人公にして その立ち場から物語を描いています。おそらくそれだけの話だろうと考えます。
なるほどと思いました。
しかしそれだけだと言われて納得度は50%くらいです。すみません。
クリスチャンの人は、悩みがあったら聖書にたちかえると聞きましたが(全員ではないとおもいます)
私は聖書から悩みが生まれました。

お礼日時:2011/02/24 22:40

関根 清三氏の講義を聴いたことがあります。


ちなみに彼は旧約聖書が専門の学者で、倫理学者で、日本基督教学会理事で、父親はキリスト教無教会主義の伝道者。

捕囚の民に思想(ヘブライ人)と自由民の思想(ギリシャ人)が、今日のヨーロッパ思想を築いているとしています。


で、新約聖書にこんな物語がある。 詳細には覚えてまえんが、アバウトにこんな内容です。

市場には職を求めている人たちがたむろしている。
男は建物の建築に必要な職人を市場に探しに行って、「君と 君と 君」ってピックアップして現場に連れて行き仕事を与える。

「もうちょっと人手がいるな」とまた市場に行って職を求めている人をお持ち帰りする。

そして夕方市場を通ると、朝いた人がまだそこにいて、「コイツずっと仕事にあぶれているのか かわいそうに」と思って、その人をお持ち帰りした。


仕事が終わり、みんなに賃金を払うわけですが、朝から夕方までずっと働いた人たちと、夕方につれてきた人に対する支払額を同額にしたんです。

因果応報というか、やった分に見合った額をもらう というのが普通の考えですよね。
8時間働いた人と1時間働いた人が同額は不平等だと思えますよね。

ですが、ご主人が雇う主であり、雇い主が1時間働いた人に対して8時間働いた分を支払おうが、それは雇い主の勝手であり、お金をもらう側は「1時間分しか支払うべきじゃない」と言うべきじゃない というのがイエス・キリストの考え方です。

払う側 つまり 神が決めることであって、人間が決めることじゃないから、神から与えられたものに対し文句を言うな

使用人は雇い主のやることに一切口出しすることはできない。
だって雇われてお金をもらう側であって、支払う側じゃないから。

これがヘブライ思想です。


不平等に対して、捕囚された(雇われた)者は、黙ってご主人がやることに口出しせず、ただ黙って自分に与えられた仕事をこなす、それが捕囚の立場、立場をわきまえろ ってことです。


で、善いことをしたら善い報いを受け、悪いことをしたら悪い報いを受ける。 
世の中よくできていて そういうものだ と思えますよね。

ヨブは信仰心が高く、善い人だと周りからも善い評判を得ており、家畜もたくさんいて 子供も3人いて 全く善い人間だから善い暮らしができているという まるで手本のような生き方をした人だったわけです。

そのヨブに災いが起こった。
ご存知の通りの災いです。
因果応報の考え方からしたら、ヨブは何かしら悪いことをしたために、こんなにまで悪い報い受けた ということになりますよね。

ヨブは何が悪かったのか さっぱりわからない。
友人もさっぱりわからない、が、しかし、こんだけむごたらしい災いを被った以上、絶対に何かとてつもなく悪いことをしたに違いない そうじゃないと説明がつかない。
説明がつく方法は、本人も回りの人の気づかないが、神にとってはふとどき千万な何かをやったから、当然の報いとして罰を受けたのだ 神が間違いを犯すわけがない。

そうなったわけです。

例えばスマトラ島沖地震や関東大震災の被災者で死んだ人は死に値する悪事を働いたから。
怪我をしたり家をなくしたりした人は、それだけの報いを受けるほどの悪事を働いたから。
神が罰を与える相手を間違えるはずがない。

という風潮が災害の後に流れた。 ヨブ物語を書いた時代も、そういう因果応報の考えがあった。


でも、物語を読んで、ヨブにどこにも落ち度は無いですよね。
関根氏は神の落ち度とはせず、因果応報の破れと言っていた。

この因果応報の破れによって不幸になった場合、我々はどうすればいいのか。
ヨブの場合は、神の前に立ったわけです。

神の御前の立つ と表現されていますが、要するに残ったものは信仰だけになり、身をねじり叫ぶように神を求める行為。
これが神の御前の立つことなんです。

幸せだった頃、ヨブはたくさんの幸福を持っていたので、神が必要ではなく、御前に立つということがありませんでした。
悪魔から幸福をつぎつぎ奪われ、信仰のみしか残っていない状態になり、やっと神の前に立つしかなくなったわけです。

さて、ヨブはとうという神の前に立ちました。(=全身で神を求めた)
そのことで、彼は因果応報の破れによるダメージから、信仰によってリカバリーすることができたんです。
悪魔はいろんなものを彼から奪いましたが、信仰だけは奪い取ることが不可能だった、その奪うことができない信仰により彼は自らを救った。
これを 神が救った とも表現します。

あ。ちなみに 私無神論者ので、倫理から回答しました。
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この回答へのお礼

幸福も受けとったんだから、不幸も同じように受け取ろうと言ったところや
友人たちに責められても「俺は悪くないし神も悪くない」と断固つっぱねた所は
ほんとに男の中の男だと思いました。熱い魂というか、これが信仰と言うものなのかと。
まあヨブさんのことは、上の箇所で感動したので私個人では特に何も無いです。
しかし、冒頭から終わりまで、ずっと家族のことは気になってました。

お礼日時:2011/02/24 22:26

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