No.18ベストアンサー
- 回答日時:
No.2、11です。
この辺で、一度ご質問に内在する根本的な問題点について確認してみませんか?
、質問者さんは、
>芳香・味わい・手触りは芸術に含まれ得るのでしょうか?
>音楽・美術等に比べると、上記の3種は比較的に軽んじられてきたのではないか、
と質問なさいましたよね。
そこで、私としては、「なぜ芸術のジャンルは、五官のうちの視覚・聴覚にもっぱら訴える音楽・美術に限定されてきたのか?」という視点、観点から回答させていただきました。
再度、私の回答の趣旨や拠り所について申し上げるなら、芸術的知覚というのは、対象(外界)に対して一定の距離を保ちながら、それを間接的に認識することではないかということになります。
もちろん、その点では科学的認識も同じですが、芸術的知覚だけは、既成の経験則(=科学的な知識)では対応できない経験、未知の対象と遭遇したときに惹起するのではないでしょうか。
だからこそ、芸術的体験においては、たとえば驚嘆、感動、恐怖、不安、快感、恍惚といった、ある意味合理的には説明しがたい、筆舌しがたい、言語道断の感覚に襲われるのではないでしょうか。
一方、こうした芸術的体験を、対象と直接触れ合うという「芳香・味わい・手触り」と比較したとき、やはり芸術的体験がどんなに感動的な、忘我の体験に思われようとも、必ずどこかに冷静な理性が多少は働いていますよね。
その点では、芸術的体験では、われわれは酔いつつ覚醒していると言えるはずで、これを可能にしているのは、やはり対象と主体との間に横たわる一種の《距離》であり、この《距離》を実現できるのは、「美術・音楽」だけではないか、これに対し、「芳香・味わい・手触り」に対象との《距離》を求めるのは不可能ではないかと思います。
その意味では、「芳香・味わい・手触り」をつかさどる嗅覚・味覚・触覚が卑官だからという理由で、これが芸術ジャンルから排除されるわけではなく、その直接性、対象との距離感のなさ故に、芸術たり得ないということになります。
それは、他でもなく、対象(外界)と距離を置かずに交わる(=触れる)というのは、われわれ知覚主体にとって危険きわまりないことだからでしょうね。
そうではなく、対象と深く交わる前に、対象の危険の有無を知るために活躍するのが《遠覚》としての視覚・聴覚であるからこそ、人間はこれを洗練させる方向で芸術を生み出してきたのではないでしょうか。
>『「視聴覚」の方式に乗っ取って、距離を設けますと、同時に集団が価値観を共有しやすくなりますので、「視聴覚」の対象の記録の技術が練磨されてきたのでしょうか?』
質問者さんは、もしかして、《芸術と非芸術とでは、どこがどう違うか?》ということよりも、芸術的体験の中でも、たとえば遊戯、祭儀、そこから派生した遊戯、演劇等に典型的に認められる集団的なオルギー、興奮、恍惚、共感、脱自、無我等の方により興味・関心をお持ちなのではないでしょうか。
もし、そうだとすれば、「音楽・美術だけがなぜ芸術とされてきたのか?」とか、「芳香・味わい・手触りがなぜ芸術とされてこなかったのか?」ということを敢えて問題にするには及ばないような気がしますが。
No.17
- 回答日時:
7番目の回答者です。
ご質問をいただきましたので,斎藤させて頂きます。いあや、西藤です、再答です。
質問は、には、あなたの事実誤認が含まれています。
スーパー歌舞伎が出てきたのは、猿之助さんの個性(時代を見る目)によるものです。
歌舞伎ばかりでなく、「伝統」を冠するものはほとんど、世襲可能なレベルなものと考えるべきでしょう。
歌舞伎などの伝統芸能の世界は、代々世襲が可能なくらいに低レベルな演劇能力しか必要がないのです。演劇能力の低さを様々な「型」で補っている訳です。「型」を芸にしているので、「演じること」を芸にはしていません。
また、アナログ型の本来的な「芝居」よりも普及に適しているかどうかというよりも、日本人の生活様式が西洋型になり、個々人が白人並みに鈍感になってきたので、そう言う鈍感人向けの演出の方が、喜ばれているだけでしょう。
もちろん、そう言った時代を見る目が、猿之助さんにはあったということであり、少し事情を知っていて、少し能力があり、伝統芸能従事者の一角に生を受けた凡人がいれば、他にも様々な革新的な新しい種類の歌舞伎が生まれる可能性があります。
《『アイススケートの試合での「芸術点」の様に、 西洋近代的な評価内容が、デジタル的な「採点」結果で表現されています故に、比較的に分かりやすく』
「分かりやすく」という認識は、採点というパフォーマンスの見せ方の問題であって、採点そのものは、個々の審査員の脳裏でアナログに行なわれています。
後はその脳内現象を、個々が、どのように言語化するかです。
西洋人に、能が最初に理解されたのも、芸術としてよりも、異国趣味からです。
ティーセレモニーに、「日本」の美を認める人が多いのも、西洋人の感性から見れば、異国趣味溢れているからです。
「静かでゆったりした能楽」をあなたは好まれているようですが、すでにあなた自身が、欧米人と同じ感覚や価値観を獲得したか、西洋コンプレックスが強く根付いたのでしょう。コンプレックスは、地に根付くのでなく、脳に根付くのです。
「静かでゆったりした能楽」を好む日本人はいません。
西洋化した脳が、机の上で考えた時、「能楽」という言葉が出てきます。
あなたの最初の質問は、感動システムを解析すれば良いので、もうとっくに結論の出ている、簡明な疑問のように思います。
この回答への補足
有り難う御座います。
「尊敬」の眼差しではなく、"respect"の感覚で、私もが「能楽」を鑑賞させて頂いていたのでしょうか?
私の拙い理解を補強させて頂きたいですので、
此のQ&Aの締め括りにもなり得る回答を
提供して頂けると助かりますから、宜しく御願い申し上げます。
No.15
- 回答日時:
>『芸術は「(内的な衝動の)爆発」なのだろう』という認識は妥当だ、と考えられますでしょうか?
次々と質問がわくのですねぇ(笑)。
芸術という広範な概念をたった一行の文章で記述する誘惑に取りつかれないでほしいです。
「象は鼻の長い動物だ」というセンテンスは象が属する哺乳類の中で、他がもっていない特徴を記述したものです。
この場合、象の上位概念である哺乳類共通の属性は吟味する必要が無くて、象だけの属性を言えば良いので衆目が一致するところだと思います。
さて、「芸術」にはその上位概念がありますか?
例えば、「人類の文化」を上位概念として、そのサブセットに芸術という括りがあると合意できれば、人類の文化に共通の事項を説明することなく、芸術以外の人類の文化(=たとえば哲学)との対比において、芸術だけが持っている属性を抽出し、代表させることができます。
「芸術は爆発だ」という命題を取り上げるとすると、じゃあ、「哲学は爆発じゃないのか?」、「理論物理学は爆発じゃないのか?」という付随命題が生じます。
岡本太郎の表現に反発するつもりはありませんが、それが妥当だとも思いません。
No.14
- 回答日時:
次々とご質問をいただきまして、ありがとうございます。
<非日常によるカタルシス>
それが、芸術たちの揺籃でしたね。
非日常の囲いを作って、そこに世界を作り出す。ヨーロッパではの神の国=教会や神殿でしたし、日本では、極楽=寺院でした。もっと昔には、晩御飯を洞窟の壁に再現して、祈りを捧げたか、踊り狂ったか、いずれ、浄化作用をうけたというよりもさらに衝撃的なエクスタシーに達したでしょう。鳥肌の立つような喜びが、その世界の中では、経験可能でした。そこから生まれてきたのがミューズだったのに。
その濃密だった経験を水増しして、薄めてしまったものはなんだったか。質問者さんは、それは物質的な豊かさであろうと思われる。私は、時の流れ、時代の風向きのせいだと思います。自然科学の発展のせいだという意見もあります。実は、豊かさと時流、そして科学の発展は全く同じもので、名前が違うだけかもしれません。
アメリカの教会は、今ではまるで町内会の趣があります。儀式による神秘性を捨てて、実利を取った当然の帰結でした。そこからは美しいものなど生まれないのでした。
未来につづく媒体は、コンピューターなのでしょう。YouTubeを制するものは、芸術も制するのでしょう。娘の世代の女の子達は、”ファイナルファンタジー”の世界は本当に美しい、とうっとりします。アナログ人間には理解できない感覚です。しかし、テレビゲームが未来の芸術になるのなら、私はうれしく受け入れようと思っています。
過去の話で恐縮ですが、”茶道”は五感をフルに喜ばしめる芸術だったのではないか、と思い至りましたが、どう思われますか?
この回答への補足
有り難う御座います。
返事が酷く遅延し、申し訳が御座いませんでした。
"茶道"に関しましての主観を此の枠で申し上げる為の事を考えますと、
体験が乏し過ぎる、と思われたものですから、
直ぐに返事を返信出来ずに留まっておりました。
確かに、"茶道"の場面では、
『派手な「視聴覚」情報』の誇張が自粛されていますので、
(触覚の表現が分かり難いのですが、)
他の感覚もが総動員されていますね。
ところで、最近のTVゲームの世界では、
非常に「視聴覚」への刺激が練磨されていますので、
仕事の現場で鍛えられていませんと、
其の程度の「非日常」にも振り回されてしまいやすい、
と思われますから、そういう世代の方が台頭なさいますと、
文化が大きく様変わりする可能性もが高まってくるのでしょうが、
自然への没入・一体化の価値を諭し続けることは、
今後にも必要なのかも知れません。
従いまして、遅れ馳せ乍ら追加で伺わせて下さい。
『日本で寺社仏閣へ「参拝」する緩慢な歩みは、
5感の統括の為に役立っている』と考えられますでしょうか?
御忙しい中へ御邪魔を致しますが、
御意見を宜しく御願い申し上げます。
自然科学的な「秩序」の安定よりも
寧ろ『「縁起」の積み重ねによる「混沌」』の方が、
東洋的な伝統技術の中では高く評価されてきましたよね。
No.13
- 回答日時:
No.3&9です。
★(No.9お礼欄) ~~~~
『文字が発明されていなかった時代に於かれましても、
何らかの抽象的な方式で意思の疎通を図っていた御蔭で、
伝統の継承もが叶えられた』
という認識が可能だと思われますでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~
☆ 可能なのではないでしょうか。
縄文土器は 無文字時代の人びとの自己表現であり文化でありそれとして芸術です。われわれ現代人は 芸術作品として見ているかも分かりません。
石器時代からは縄文時代は 一万年もつづいたそうですが その伝統の継承は叶えられたと認識できると思われます。
卑弥呼の邪馬台国の時代はすでに弥生時代に入っていますが――稲と鉄とがあらたに加わったわけですが―― そしてもし中国と交流を持っていたとすれば 漢字という文字を知ったでしょうが まだ文字を遣う時代には入っていないようです。まだまだ数百年を要したということでしょうか?
前回つぎのように書きました。
☆☆(回答No.9) ~~~~~~
相聞のうたとして取り扱うなら それとしての芸術作品と見なされます。もとは 口説きとそれに答える言葉であり それぞれ自己表現です。
抑揚をつけて声を張り上げるなら 歌謡となり からだを動かしおどってみたら 舞踊となります。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまりはこのような《うた・おどり・あるいは舞い》は 無文字社会の中においてもひとつの伝統として受け継がれたと考えられます。
万葉集巻一冒頭の一番歌は 相聞のうたです。
▲ (万葉集 一・1) ~~~~~~~
籠(こ)もよ み籠持ち 籠毛与 美籠母乳
堀串(ふくし)もよ み堀串持ち 布久思毛与 美夫君志持
この丘に 菜摘ます児 此丘尓 菜採須児
家聞かな 名告(の)らさね 家吉閑 名告紗根
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そらみつ 大和の国は 虚見津 山跡乃国者
おしなべて われこそ居れ 押奈戸手 吾許曾居
しきなべて われこそ座せ 師吉名倍手 吾許曾座
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
われにこそは 告らめ 我許曾歯 告目
家をも名をも 家呼毛名雄母
(オホハツセワカタケルのすめらみこと〔雄略天皇〕 )
◆ (中西進訳・編集あり) ~~~~~~~~
籠もよい籠を持ち堀串(へら)もよい堀串を持って
この岡に菜をお摘みの娘さん。
あなたはどこの家のひとか。名は何という。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そらみつ大和の国は すべて私が従えて支配しているのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしには おしえてくれるでしょうね。あなたの家をも名をも。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 作者のワカタケル雄略は 万葉集編纂のときから二百年ほど昔の人です。たぶんそのあとに文字を知ったし使うようになっています。しかも この相聞のうたは おそらくさらにその昔からの――歌垣などで――口説きのうたとしてうたわれていたものであるようです。
上の中西によると 次のように知られます。
◆ (中西進) ~~~~~~~~~~~~
本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首。その際
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そらみつ 大和の国は
おしなべて われこそ居れ
しきなべて われこそ座せ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
が挿入された。
(中西進:万葉集 全訳注・原文付き 1 1978)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《うた》の伝統は 文字のなかった時代と文字を持った時代をつうじて受け継がれて来ています。
この回答への補足
返事が酷く遅延しまして、失礼を致しました。
折角の機会なので、伺いたい事を纏める為に、
是だけの時間を頂戴しておりました。
そこで端的に伺います。
『芸術の背景になった思想の影響が言語にも波及して、
文法が出来上がってきた、という可能性は有りそうでしょうか?』
勿論乍ら仮説でも構いませんから、
何卒御意見を下さいませ。
No.12
- 回答日時:
#6、#10です。
『他者達にも快適性を齎す機能が芸術的な人工物へも期待されている、と思われますでしょうか?』
良い芸術作品は見る者/聞く者/触る者に対して、快適性をもたらすと思っておりますし、期待しています。
悪い芸術作品は見る者/聞く者/触る者に対して、不快感をもたらすこともあると思います。
したがって、芸術作品全体では、両方あり、「不快感をもたらすから芸術ではない」とは言い切れないと思います。
基本的に芸術は主観的ですから、万人に快適性をもたらす保証は無いし、万人に嫌悪されると言う事もないと思います。
うんこの匂いを人工的に作り出し、これは芸術作品だと言われて、それを嫌悪することはできますが、芸術の範疇か否かの議論は不毛であり、無用です。
この回答への補足
有り難う御座います。
『芸術は「(内的な衝動の)爆発」なのだろう』
という認識は妥当だ、と考えられますでしょうか?
私の勉強不足のせいで確認の連続になりまして畏れ入りますが、
御教授を御願い致します。
No.11
- 回答日時:
No.2ですが、再回答させていただきます。
思うに、「芸術」というのは一種の多面体のようなところがありますから、われわれがどういう角度、観点から、どういう面に注目するかで、「芸術」も多様な相を呈してくるのは当然のことですよね。
>『遠覚の認識内容は大衆によって共有されやすい故に、非日常的な領域への独り歩きをし、西洋近代科学の基を築いたのだろう』
私が多面体的な諸相を持つ芸術の「遠覚」(視覚・聴覚)に注目したのは、美術と音楽を鑑賞する場合に限ると、対象(美術品、音源)と享受者(鑑賞主体)との間に一定程度の距離を介在させていることが明かだからです。
私の場合、このことと芸術の範疇がもっぱら美術・音楽に限られてきたこととはどのような相関関係にあるのかという点に興味・関心を抱いたわけです。
その点、芸術体験(鑑賞)とは、遠くから対象と触れたり、融合したりすることにほかならず、だからこそ、そのための知覚機能が「視覚」と「聴覚」に限られるのではないでしょうか。
遠覚の「視覚」「聴覚」に較べると、「嗅覚」「味覚」「触覚」による知覚というのは、近覚どころか、直接体験そのものであり、鑑賞(享受)主体に一種の生理的、官能的な反応が起こることですからね。
なお、質問者さんのおっしゃる「遠覚の認識内容は大衆によって共有されやすい云々」というのは、西洋における遠近法(一点からの透視法的な認識方法)の歴史や権威を問題になさってのことですよね。
ところで、当然ながら、人間の営為は全て芸術である、芸術体験(鑑賞)は五感をフルに活用することだという発想も成り立ち得ますが、その場合、たとえば文化と芸術との差異も、芸術的な体験と官能的な体験との差異も消滅してしまいますから、当然ながら、芸術と非芸術との差異や「芸術の範疇」を見定めようという意味も消滅してしまうのは避けられませんよね。
この回答への補足
有り難う御座います。
返事が酷く遅延しまして、申し訳が御座いませんが、
追加の質問を纏めるべく、御時間を頂戴しておりましたから、
御忙しい中へ御邪魔を致しますが、下記の通りに質問をさせて下さい。
従いまして、率直に伺います。
『「視聴覚」の方式に乗っ取って、距離を設けますと、
同時に集団が価値観を共有しやすくなりますので、
「視聴覚」の対象の記録の技術が練磨されてきたのでしょうか?』
勿論乍ら仮説でも構いませんから、
御意見の提供を何卒宜しく御願い申し上げます。
No.10
- 回答日時:
>人工的な物は、『認識主体に「快適性」を感じさせ得る「手段」』として機能している、という認識で宜しいのでしょうか?
よろしくないと思いますよ。
まず、芸術はそれ自体が目的に成りうるものですから、なにかの手段と決めつけないで欲しいです。
また、人工的な物は必ずしも快適性を感じさせるものばかりでなく、武器や痴漢撃退スプレーなどは不快や、究極の不快=死をもたらすものもあります。
この回答への補足
すいません。言葉不足でした。
其の儘を引用させて頂いたつもりでいたのですが、
引用であることをもっと明確に強調するべきだったのでしょうか?
つまり前回の補足入力欄へ入力した内容には、
「芸術的な人工物」の意味を託しております。
従いまして、更に厳密に申します。
『他者達にも快適性を齎す機能が芸術的な人工物へも期待されている、と思われますでしょうか?』
言い直しで畏れ入りますが、御教授を御願い致します。
No.9
- 回答日時:
No.3です。
★(No.3補足欄) 『芸術に「伝達」の役割りが必要なのか否かを判断なさるなら、 / どちらだと思われますか?』
☆ 人が生きることが《自己表現》であるとき その《わたし》が一般に社会の中に生きているなら 《伝達》ないし意思疎通は ふつうにおこなわれる。こう考えます。
その意思疎通のつながりが広く 社会的自然であり文化行為だと考えます。
そうして確かに一般にその自己表現を何らかのかたちに表わしたモノ・コト これをひとつの成果として切り離して静止させておくかのように作品として取り扱う。このとき芸術という見方が出て来るものと考えます。
相聞のうたとして取り扱うなら それとしての芸術作品と見なされます。もとは 口説きとそれに答える言葉であり それぞれ自己表現です。
抑揚をつけて声を張り上げるなら 歌謡となり からだを動かしおどってみたら 舞踊となります。
取り立てて《伝達》を心つもりの中に持たなくても ほかの人に見られたり受け止められたりすれば 意思疎通が成るかたちですから 伝達されるものと考えます。
これでよかったでしょうか。
この回答への補足
有り難う御座います。
仰って下さっている内容に関しましての重要なポイントが御座いますから、御忙しい中への御邪魔で畏れ入りますが、
更なる質問をさせて下さい。
そこで唐突乍ら伺います。
『文字が発明されていなかった時代に於かれましても、
何らかの抽象的な方式で意思の疎通を図っていた御蔭で、
伝統の継承もが叶えられた』
という認識が可能だと思われますでしょうか?
回答を頂ければ助かりますから、宜しく御願い致します。
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