最近よく見かけるのですが、sexとgenderの違いは何でしょうか。
sexだと差別用語になるときいた覚えもありますが、sexだとmaleとfemaleしか選べないというのも一因ですか?
genderだとmasculine、feminineとneuterの3つの選択肢があると聞きました。
本当のところはどうなのでしょうか。
よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

 「女性が男性の下に置かれた」根本的原因をお尋ねですね。

うーむ…たしかにそういう状況は歴史的に見ても地域的に見てもかなり普遍的なものですから、「何か」はあるはずです。けれど根本的に「これだ!」という端的な、結論的なものとなると、私は知りません。こちらの方面は不勉強でして。
 ですから、分かる範囲で。ただ一つ言えることは「男より女の方が下である」と見なしてよい根拠というのは無いだろうということです。「女が男より下と見なされるに至った原因と力学」という方向で考えてみます。

 genderではなくsexのレベルで見ます。文化とか社会といった後天的な要素ではありませんから「普遍的」な原因につながるかもしれません。
 で、男女の身体の違いに根ざした部分といいますと、何と言っても女性は子どもを産めます。人間の場合、新生児は非常に未熟な状態で生まれますから、出産後の母親は育児に忙殺され、それ以外の生産活動・社会活動から遠ざけられることがあります。ここに女性が「第二市民階級」と見なされるに至った原因があるとも考えられます。
 しかしながら、原始社会、古代、中世、近代と通して眺めますと、育児にかかる母親の負担は意外と軽かったことがわかります(もちろん地域によりちがいますが)。数家族の母親が共同で子育てをしたり、向こう三軒両隣的な小コミュニティで養育したり、あるいはジイさんバアさんまで含めた多世代で共同したりしております。母親一人に育児の負担が集中するようになったのは、近代に入ってからでもずいぶん最近のことです。「育児→社会参加不能→第二市民に」という図式は根本的なものとは思えません。男女差別は近代以前からあるからです。
 原始社会ですでに「男は狩りに、女は家に」という性役割分担があり、「メシ食えるのはオレのおかげだろ」的に男性が優位に立っていたという説も小耳にはさんだことがあります。が、これもイマイチ。というのは、およそ人間の食うものたるや八割がたは「植物」に由来するものであり、動物性たんぱく質の摂取は意外と少ないのです(イヌイットのような農耕不能地域住民は除いて)。すると「食えるのは男のおかげ」という論理も論拠に乏しい。実際には、女性たちによる「採集」がより大きな重要性を担っていた可能性が高いでしょう。するとむしろ「女の方がえらい」ことになっていてもおかしくはなかった。
 sexというレベルの違いから、ということでいちばん言えそうな気がしているのは「戦闘能力の差」です。戦争に行くのは基本的に男だけ。そうして生命を張って社会を守る働きをする者だから、社会運営にも主導権を握る。こういう要素が「男を上に、女を下に」動かす力学に働いていたのかもしれません。…しかし、実際には女性だって「やろうと思えばやれる」わけで、どうして男だけが戦場にということになったのかと、そこまで遡るとわからないことも出てきます。平均的に力が強い? …ということなのでしょうが、しかしそれでも「男は戦い、女は戦わない」という性役割分担自体、後天的なgenderであると言えると思います。(現在では日本も含めて「女性の兵隊さん」がいますし。)

 視点を変えまして、男女間の性的関係の歴史から見ます。暉峻隆康『日本人の愛と性』(岩波新書・ただし現在在庫なしとのこと)という本をその昔読みましたが、けっこう「納得」でした。
 ざっといきますと、平安時代くらいまでは、男女とも比較的自由に恋愛を楽しんでおり、性道徳も比較的緩やかだった(ある部分では現在よりも)。ところが鎌倉時代以降、封建体制がメインになってくると、土地・財産「相続」の相続の問題から「嫡子が紛れもなく父親の子であること」が重要になり、ここから女性に「貞操」が厳しく要求されることになった。これが明治以降の民法でも「家父長制」という形で固定的に残され、今日に至っている…と、だいたいこういう流れです。
 注目点は、「女性を家に縛り付けて所有する」ことが一般化したのは封建時代以降だということです。「女性の浮気は許さないが、男の浮気は甲斐性だ」という、いわゆる「性のダブルスタンダード」も、このあたりに根がありそうです。
 しかしながら、平安時代の女性は自由だった、社会的地位が高かったとは無条件に言えないように思います。中流・上流階級ならば入内(天皇への嫁入り)の可能性を期待してのことでしょうが、女子の誕生を喜ぶ傾向もあり、またそうした女性ならば教育を受ける機会にも恵まれたようです(清少納言のように、女官として採用されるためにも)。が、女性たちが主体的に何かを起こしたというようなことは、ほとんどなかったでしょう。
 また、日本以外に目を向けても、例えば「世界三大宗教」に共通する女性蔑視一つを見ても、はるか昔から「女は下」と見られていたとは言えるでしょう。(ただ、宗教に関しては必ずしも「女性蔑視」ではなくて「性欲の制限・禁圧」の問題とも言えましょう。ですが、それもまた「性欲の反動」にはちがいないと思います。男のスケベ心が、女性を宗教的救いから排除していたとすれば、これも立派な「差別」でしょう。)

 事の次第はそういうことですので、男女差別の問題は近代以降に限られるものではないのですが、しかし特に顕著な問題として浮上してきたのは近代以降でしょう。生産形態として農耕が一般的で、労働の場と家庭とが重なっていた時代は、女性も一人前の労働力でした。ところが、近代に入って労働の場と家庭とが切り離されてくるにしたがって「男は職場、女は家を守る」という図式が一般化し、同時に「メシ食えるのは誰のおかげだと思ってるんだの論理」による男性優位が確立してきたと考えられます。
 フェミニズムの論客、上野千鶴子さんあたりが一番問題にしているのも、このあたりに関わる「近代資本制」や「家父長制」の問題です。

 しかし…結局「根本的な何か」は…私にはわかりません。
 とりあえず言えること。
 まず、「ジェンダー」という性差は生物的なものとは別であり、先天的・自然的な差ではなくて、文化的・社会的に形成されたもの、後天的なものであるということです。したがって、男女差別を根拠づけるような「男はこうだ、女はこうだ」という男性観、女性観のほとんどは「いつの間にか心に刷り込まれた思い込み」でしかなく(「ジェンダー・バイアス」と呼ばれます)、そういうものとして相対化・解体が可能であるということです。
 問題は、そうしたジェンダー・バイアスの発生根拠なんでしょうね。ですが…うーむ…誰か、詳しい方にフォローしていただければよいのですが…。

     *

 もう一つ。言葉の問題ですね。特に職業名などで「-ess」など女性を表す語尾がついたりするケース。
 言語学的に言うと「有徴化」ということだと思います。例えば、市長さんは男性が普通だから、市長が男性の場合は「mayor」でよい。が、奇特にも女性が市長を務めている場合、「おっと、こりゃ珍しいや」ってな感じで「特徴を付した呼称」、すなわち「有徴化された」呼称として「mayoress」が用いられる、ということです。
 しかし、このような有徴化した呼称が用いられる背景には、「ふつう、女性には市長を勤めるだけの資質はない、市長を勤められる女性は特別な女性だ」みたいな、女性の能力一般に対する低い評価、はっきり言えば「偏見」が潜んでいるとも言えます。
 そういう理由からでしょう。特にアメリカでは「-ess」の付いた職業名や、あるいは「postman」みたいに最初から男性を表す言葉で作られている職業名などを、男女の別を含意しない中立的な言葉に置き換える動きが盛んです。「スチュワーデス」が禁句になりつつあるのもこの流れです(欧米では既に禁句らしいです)。挙句の果ては「historyはダメだ、herstoryにしよう」とか…。…なんかこう、ここまでいくと「言葉狩り」にすぎないのではないかと思わなくもないです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
やはり性差別の根本的な原因を探すのは難しいですね。でもserpant-owlさんの説明は、とてもわかりやすいです。
性差別というものは、今後どんなに女性が活躍してもなくならないものなのでしょうか。全くなくそうとするにはものすごい時間が必要とされると思いますが、やはりこれからの女性たちにとっても大切な課題の一つだと思います。

お礼日時:2001/04/22 23:01

 A・ギデンスという社会学者が、ジェンダーの「刷り込み・再生産」がどれほど日常的な、さりげない行為の中で行われているかを示す実験をしています。

ちょっと面白いかもしれませんので、紹介しますね。
 「べス」という名前の生後6ヶ月の幼児に対する5人の若い母親の反応を観察しました。母親たちは、ベスちゃんを喜ばせるために、しきりと人形をあてがって遊ばせようとしました。
 次に「アダム」という名前の、同じく生後6ヶ月の幼児に対する、別の母親グループ5人の反応を観察します。今度は、母親たちはアダムに電車のおもちゃをあてがって気を引こうと努めました。
 ところが、「ベス」と「アダム」は、違う服を着ているだけで実は同じ子どもだった…という実験です。

 おめーむちゃくちゃ性格わるいぞ>ギデンス …というツッコミは置いときまして、実に生後間もない頃から「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく」という刷り込みが行われていることを示す実験です。人は生まれて以降あらゆる局面を通じて「男」「女」へと作られていくわけです。前回の回答でも触れたように、人間は脳味噌未成熟なままに生まれます。そして、外界からの刺激に影響されながら生後1、2年の間で急激に脳細胞同士のネットワークが形成されます。となれば、脳そのものからして後天的なジェンダーが植え付けられているとすら考えられます。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので。
 ジェンダーという形で後天的に「押し付け」られた性役割というものを、完全に克服し脱却することは不可能でしょう。ここで仮に「ジェンダー=性差別の源」と単純に同一視してしまうと、「差別の撤廃は不可能」ということになります。
 けれどジェンダーというもの、必ずしも全面否定すべきものでもないでしょう。ある場合にはたしかに性差別を根拠づける「制度」としても作用します。しかし反面、それは「ある秩序へと自分を組み入れる手続き」を保証するものでもあります。人間誰しもTPOに応じた服装や態度、言動をとるのと同じ事です。会社へ行くときはスーツを着る。お葬式の席ではしめやかに死者を悼む。そういうふうに、与えられた情況に合わせることを「外界への隷従」と捉えるか、場への参加権を確保した上での「自己の積極的行為の可能性」と捉えるか。ここで違いが出てくるのではないかと思います。
 たとえば「従順な可愛い女」というやつ。この「オトコが決めた価値基準」に従うことが骨の髄まで習い性となってしまっている女性と、自覚的にこれを演じ、それなりに「オンナのシアワセ」を味わいつつも、時に自己を主張してオトコの股倉にケリをかます女性とでは多少のちがいがございましょう。まーその、人それぞれではございますが、後者もまた、元気があってよろしい!…ということで。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』にも「女は征服されることで支配することを知っている」という、なかなか深い言葉があります。「汝、女へ行くときは鞭を忘るな」という老婆の言葉の近くに。…でも、これだけで女性蔑視発言とは言えません。念のため。)

 労働問題など、比較的「見えやすい」局面での差別というのは、それだけ問題にもしやすいですから、戦いやすいし比較的に解決もしやすいでしょう(もちろん、個々の具体的場面では大変な苦労があるはずですが)。が、意識の根底にまで染み透っているような深い根を持つ部分となると、自覚化するだけでも大変で、上記のように克服不可能とも考えられます。
 しかし、何とか自覚化する作業が肝要なのではないかと考えます。その上で、流され、踊らされるのではなく、能動的・主体的に演じ、たまには裏切り、逆らってみる。そういう「身振り」が何かを変えていくのではないかな、と思います。

 それから、これは何も女性だけの問題ではないでしょうね。男の側も、「男」というジェンダーに縛られている部分があるはずですから。なんかこう、「フェミニズム」とか、そういう言葉を聞くと、男としては居心地の悪さを感じてしまいます。「男を悪者扱いする思想」みたいなイメージ、ありますからね。で、たしかにそういう要素、モノによってはあることはありますので、実は私自身もそういう居心地の悪さを心の中から払拭しきれないでおります。が、しかし、「女性の解放はいずれ男性の解放にもつながる」というふうに考えていきたいです。
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この回答へのお礼

とても面白い例をありがとうございます。
確かに、小さいころから「女の子らしく」または「男の子らしく」と育てている親を見かけます。思いもかけない刷り込みでした。
「女性の解放はいずれ男性の解放にもつながる」、女性だけでなく男性にもいろいろな意味での性の開放を考えてもらいたいです。
進んだ考えをどうもありがとうございます。

お礼日時:2001/04/24 08:35

 簡単に言ってしまうと、sexは単に生物学的・医学的な範疇での男女を指し、genderは社会的・文化的な男女の性役割や性格付けを含めた性差を指します。


 Sexという言葉自体が差別用語ということはありません。ただ、そういう生物学的・医学的な区分だけでは男女の(とりわけ人間社会における)問題は扱いきれず、肝心の問題を隠蔽しかねないという意味では、不十分な概念と言えます。その結果として、社会の中での男女差別問題などが論じにくく、扱いにくく、したがって解決しにくくなる。そういう意味で、間接的に差別を放任してしまう言葉とは言えるかもしれません。

 genderとして三つを挙げておられますが、理屈から言うと「社会的・文化的な性差」というのは、それぞれの社会、それぞれの文化に応じて無数にありうることになります。国連の人権委員会は、その基本的なものとして五つを定義しています。まず最初の二つは、
 1 「男」、つまり女性を愛する男性
 2 「女」、男性を愛する女性
…となります。すると次のは想像がつきますね。
 3 男性を愛する男性、いわゆるホモセクシュアル
 4 女性を愛する女性、いわゆるレズビアン
…さて、五つ目は……? って、クイズやってる場合じゃないって。
 5 性転換者(男→女、女→男)
という五つです。
 あくまでも国連の定義ですから、文化圏・宗教圏によっては容易には受け容れられない部分もあるでしょうね。

 なおも興味がおありならば「補足」をどうぞ。
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この回答へのお礼

だいぶわかった気がします。確かに医学的なものと、社会的なものを比べたらそこで違いが出てくるのは当然のことだと思います。それを「差別」にから切り離すためにgenderが出てきたのかもしれませんね。

問題は変わりますが、これまでの歴史を見て、女性が男性よりも下の階級に見られていたのはどうしてなのでしょう。
また、フランス語などは単語に女性か男性を意味する言葉を付けますよね。なぜそういうものがあるのか、そしてその基準などはあるのでしょうか。
よろしくお願いします。

お礼日時:2001/04/22 14:20

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Q尊敬しますは差別用語ですか?

「尊敬します」と告げたなら素直に喜んでいただけると期待まで
していたら「尊敬は止めましょう」と云われてしまいました!

なるほど、胡麻すりの手段としてや、親密になることではなく線
引きに使うのに有効な場合が多いかもしれません。云われた相手
に一層責任を感じ疲れさせるかもしれません。

そんな用法事例が多いなら尊敬もほぼ「どうでもいい人」に自己
満足で使うのであって、侮辱的な言葉の定義に入ってしまうので
しょうか?

それからというもの気になって「~様」「~先生」で呼ぶ時も、
呼ばれることも(普段ないけど)寂しくなるのはおかしいですか。

Aベストアンサー

 ことばと会話くらい、その人とその場のことであることはありませんね。
 質問者さんのお気持ちも、自分の経験の中で想像ができますし、お応えになった方のお気持ちも、幾つか想像や理解ができます。
 本当は胡麻すりではないのになぁ、というところなのに。同情します。お応えのお方もそういう配慮をさされて、仰っているのでしょうけれども、何か悩みますよね。
 言葉はその人、その場で、初めて意味が出てくるものですから(と存じますので)、仰るように、一概に「尊敬します」が胡麻すりの効果などばかりではないでしょうね。
 場と相手次第ですね。
 でも照れないですか、いう方も。いわれるほうも照れくさいのが日本人かもしれませんよ。面と向かっては。正直かも知れないが。
 線引き効果は持つ場合もありましょうね。
 いずれにしろ、人同士はことば以前に感じあいますよね。
 面と向かっていわれると、どうもなと思います。
 普通は口に出しずらいですよね。私だけかな。気持ちは通じるものではないですか。もっと間接の表現が、もっと工夫した、その場にマッチした言葉は思い付かなかったのでしょうか。具体的な真実本当を表現することばを、表現を。
 「尊敬します」はあまりに一般的ではないですか?安易な言葉の出しではないですか。工夫の足りない。
 
 「~様」「~先生」については、遠い関係ならいいではないですか?
 無難でしょう。でもそれ以上ではありませんでしょう。
 いわれたほうも、そうとっているでしょう。
 「~様」は手紙ならともかく、「~先生」は本当に先生ならいいし、関係ない議員であればいいでしょうが、付き合っている議員にはチャンか、さんですね。~~君はいやですね。

 ことばと会話くらい、その人とその場のことであることはありませんね。
 質問者さんのお気持ちも、自分の経験の中で想像ができますし、お応えになった方のお気持ちも、幾つか想像や理解ができます。
 本当は胡麻すりではないのになぁ、というところなのに。同情します。お応えのお方もそういう配慮をさされて、仰っているのでしょうけれども、何か悩みますよね。
 言葉はその人、その場で、初めて意味が出てくるものですから(と存じますので)、仰るように、一概に「尊敬します」が胡麻すりの効果などば...続きを読む

Q差別用語を使ったらなぜいけないのか

私は体が不自由な「かたわ」者です。
「かたわ」が差別用語として禁止されて、「身体障害者」と言い換えられ、さらに最近は「身体障がい者」というのが流行しています。
こういう言い換えは意味があるのでしょうか。
私はこのような安直な言い換えを見ると大変不愉快な気分になります。
「かたわ」という言葉を使っても、差別的に言っているかどうかは、その人の顔を見ればわかります。
差別用語の使用禁止は、ますます日本語の品質劣化を招き、差別行為を助長しているように思いますがどうなのでしょうか、皆さまの御意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

#27です。

>盲人のいる家庭で「めくら」という言葉が飛び交います。
>視覚障害者同士は平気で「めくら」を連発しています。

なるほど。
もしそうだとすれば、私にとっては新鮮な驚きでした。
つまり、お互いの信頼関係さえあれば、言葉そのものに差別意図はないのだから全く問題はない。
こういうことですね。
この言葉に対する私の概念を変える必要があるのかもしれません。

>言い換え語を使って「私差別していません」というのは、ちょっと安直なように思います。

これは最も本質的なことですね。
たしかにそういった安直さは存在しているでしょう。
大いに留意されるべき問題だと思います。
しかし、逆に差別用語自体を口にしたくないために言い換え語を使う方も多いでしょうね。
【言葉の問題として言うならば】表現の適切さの問題になるのかもしれません。
差別語でもなく言い換え語でもない言葉を発したとしても差別や侮蔑になる場合はあるわけですから、そういった意図の問題のみと絡めて論じてしまうと差別用語を論点として取り上げる意味がなくなるでしょう。
言い換えて良しとする欺瞞性に気づく必要がある、ということと、差別(を明らかに意図した)用語は禁止すべき。
ということは両立できない論理ではないと思います。
水掛け論になりそうですが^^;、これに関連して以下にもう1、2点だけお伺いいたします。

>日本民族の間でおおむね自然に生まれた言葉と考えていいと思います。
「めくら」は自然に生まれた言葉でしょう。

自然に生まれた言葉の中に差別用語は存在しない、とおっしゃっているのでしょうか。
そう思われるのであればそれもひとつの見解として受け止めるしかありません。
もし、そうではないということであれば、やはり禁止されるべき差別用語はあると考えるべきと思うのですが、いかがしょうか。
それとも、
>「堂々と『めくら』を使って喋ってみよ、差別しているかどうか俺様が判断してやるわい。」というのが私の本音です。

とおっしゃているることからすれば、あえて差別用語を使わせて糾弾することによって何らかの進展かある、とお考えになっておられるのでしょうか。

これにてしつこい回答者は引き上げることにいたします。^^
真摯にお応えをいただきありがとうございました。
    

#27です。

>盲人のいる家庭で「めくら」という言葉が飛び交います。
>視覚障害者同士は平気で「めくら」を連発しています。

なるほど。
もしそうだとすれば、私にとっては新鮮な驚きでした。
つまり、お互いの信頼関係さえあれば、言葉そのものに差別意図はないのだから全く問題はない。
こういうことですね。
この言葉に対する私の概念を変える必要があるのかもしれません。

>言い換え語を使って「私差別していません」というのは、ちょっと安直なように思います。

これは最も本質的なことですね。...続きを読む

QSimejiの「生きたくても生きれないやつだっているんだ。その人達の分も生きろ」 この言葉は正論

Simejiの「生きたくても生きれないやつだっているんだ。その人達の分も生きろ」

この言葉は正論だと思いますか?

どうでもいい質問ですけど回答くれると喜びまっす(*゚ー゚)v

Aベストアンサー

正論です。
嫁も子供もいて
誰が見ても幸せそうに
見える家庭
されども彼はガンに侵されて
あと一カ月の命
生きたくても生きれない

Aベストアンサー

あなた様が、どなたかから、そう言われた為、
その言葉の意味を御問いになっているということでしょうか?

Qする、しない、以外の人間の選択肢

結婚するべきかどうか悩んだ時期があります。
最終的には結婚する事にしました。

結婚する、結婚しない。
結婚に限らず、人間には、
する、しない、の二つの選択肢しかないように思われます。

それにもかかわらず、
どちらの選択もしていない状態になっている
物事はとてもたくさんあります。
2つの選択肢しか無いにもかかわらず、ほかに何かあるような気がして
悩んだり、欲深くなったりもしてしまいます。

する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。
する、とも、しない、とも決めていない状態は
しない、に含まれるのでしょうか。

Aベストアンサー

お邪魔します。
二者択一の選択しかないのか、と言うことですが、
これは、私たちはどうして、二つの見方をするのかと言う難問です。

>する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。

確かに、私たちの思考形式は二項対立の図式になりやすいですし、言葉自体がある対象を他の物から分けることによって「分かる」と言う図式ですから、言語によって取り出された対象とそれ以外の二項対立の形式は私たちの思考や意識・行動には二者択一の様相が顕著に見られますね。

しかし、此処で少し別の観点から考えてみましょう。
>する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。
これは私たちの行為に関する表現ですが、まず、志向性の問題が欠けています、つまり、何を、と言う選択がそれ以前に在ることです。
人間の本質的な事柄は、過去を保持して未来の計画を作り、意識的に行動することです、物質は物理法則に従い、植物も動物も程度の差こそあれ、環境の変化に反応するだけです。人間は環境の変化にそのまま反応するのではなく、過去の経験を保持して、未来の予測のもとに、反応を保留したり、抑えたり、増幅させたりして、行動に変えて行きます。こうして見ると、本質的には、「しない」が最初に現れてきます、次に、こうした周りの環境変化、他者との関係の変化のある部分を極端に増幅し、他の部分を反対に切り詰めてしまい、未来の計画の有用性に関連する事柄を意識の中心に固定するのではないでしょうか。つまり、志向性をもって世界を分節するわけです。尤もこの志向性はあまり意識には登らず気づくことも少ないですが、これらの志向性の選択の多義性の中から、選ばれた一つの対象に対する、肯定・否定の二者択一が意識に表面化するわけで、本質的に人間の行為・行動が二者択一と言う単純な図式に還元できるわけではないのではないでしょうか。(注

(注、最近、意識に現れにくい志向性と認識それ自体に志向性が在るのではと言う、近接した複雑・難解な議論もあるのですが。)

二者択一を単純な、する、しない、に分けてしまうのも、人間の意識の状態に関して、機械的な単純化をしてしまっています。例えば具体的な結婚と言う形式を分岐点として、二者択一を捉えられていますが、私たちの他者との関係は、親密性の度合い、その期間で、複雑な揺れ動きの中で動揺しているのが他人に対する意識です。そもそも、ある人と関係を持つのか、その関係を強くしたり弱くしたり、その時毎に、色々な選択を過去にしてきた結果、ある人との親密性を結婚と言う形式で固定させるかどうかを決断する場面に至るわけです。
具体的には、Aとならすぐにも結婚したい、Bとなら結婚してもいいかも、Cとは出来ればしたくないしDは問題外、と言った、現在の親密性の多様性やAとBとの期待度が逆転したり、ある日突然、Eと言う理想的な相手に巡り会うといった、状況や意識の流動的な動揺の連続の中で決断の場面を過去の一点に捉えて、そこで二つの選択があったと考えるわけですが、実際には、多数の判断・情報が過去の一点に至る前に、多種多様な判断や決断、誰かと離れたり、また他の誰かと接近したりと言った、動揺の繰返しの結果、現れた決断の場、その一点から考えると、二者択一しか無い様に見えるのではないでしょうか。

また、結婚する・しない、の二者択一も、現在の私たちの世界に、結婚と言う制度があるから、と言うことも忘れてはなりません。結婚と言う制度がそもそもなければ、親密性の相互的な度合いと快適さを、形式や法制度に関係なく、維持し続けることも可能です。こうして見ると、結婚と言う形式から考えている、つまり、先に結婚と言う形式を考えて、それを、肯定するか否定するかの二項対立に捉えているのではないでしょうか。

蛇足ですが「二者択一しかない」と言う表現ですが、これはなかなか単純な事ではないようです。
この「0101」の二者択一の組み合わせは、コンピュータや人工知能といった複雑な結果を創り出す事が出来て、決して単純な事ではないということです。数学的には「0101」の組み合わせで記憶の形式を表現できるとの事です。また、魚の形をしたロボットを作り、目のセンサーに光に反応して反対の鰓を動かす、と言う、YESだけの単純な反応が、ロボットが光を追いかける複雑な動きになってきます。

ところで、ご質問者様のような考え方は、常識的には何の問題もないのです、ただ、単純に考えて、これらから、人間の自由を否定したり、決定論的な考えに偏ってしまうと、少し問題があるのかな、と感じる程度です。社会の習慣に逆らって、独自性を強調するのも、大層なコストの掛かる事です、確かに人間の自由は危機にさらされていますが、無限定に自由と言うのも、結構怪しい事だと近頃は考えています。

長々駄文を連ね、批判的な回答とお感じになるかもしれませんが、哲学に詳しいわけでもないものが、出来るだけ哲学ぽく書いてみまし、否定するなり、ご笑納されるなり、ご自由に。

お邪魔します。
二者択一の選択しかないのか、と言うことですが、
これは、私たちはどうして、二つの見方をするのかと言う難問です。

>する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。

確かに、私たちの思考形式は二項対立の図式になりやすいですし、言葉自体がある対象を他の物から分けることによって「分かる」と言う図式ですから、言語によって取り出された対象とそれ以外の二項対立の形式は私たちの思考や意識・行動には二者択一の様相が顕著に見られますね。

しかし、此処で少し別の...続きを読む


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