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幕府と朝廷がある時代って、日本の土地に現代でいう国が2つある状態でしょうか??

A 回答 (9件)

 「国家」という言葉を使う時には幾つかの側面(意味)があります。


1つは仰るとうりの「領土」としての「国家」、そしてもう1つは「政治システム」としての「国家」。
一見して別の問題であるかの様な印象を与えますが、両者には密接な関係があります。「領土」は単なる区域を示す指標である他に、「その空間を領土として認定する根拠」が求められます。この「根拠」が法と呼ばれる規範であり、それを定めるのが「政治システムとしての統治組織」です。
 さて御質問の「幕府と朝廷の関係」ですが、この問題に関しては歴史学者によって様々な見解が出されているのが現状です。この中で中世に関する見解としては大別して以下の3つの見解があります。
(1)「権門体制」
(2)「東国国家論」
(3)「二つの王権論」

大雑派に言ってしまいますと、この中で(1)は「権門」と呼ばれる「王家」「公家(朝廷)」「寺家」「武家」が「相互依存」と「相互補完」の形で有機的に連関することで民衆を支配していた、とする理解の仕方
(2)は鎌倉幕府の性質から見て「幕府」の支配が「東国の武士団」を中心として経営されていた、とする見解
(3)は中世の権力構造を「国家」として見るよりもそれよりは緩やかな「王権」として見る考え方
です。
 (1)と(2)は「中世の日本には国家があった」という点で同じ様に見えますが、そこで示されている「国家」は(1)が近代的な国家をイメージしている(しかしこれを支持する学者は「モデルとしての近代国家」をそのまま転用してはいないと説明しています)ことに対して(2)は「近代国家」をモデルとすることへの異論から発しています。そして最も大きな違いは「国家のあり方」を決める要因である「法的根拠」の問題です。
 ご存知のように鎌倉時代以後の三つの幕府には「式目」と呼ばれる法体系がありました。けれども「式目」は全ての権力(先に示した4つの権門)に及ぶわけではありません。あくまでも「武家」を対象とする法律でした。その一方「公家」や「寺家」を管轄する法は「律令」と呼ばれる体系があります。この意味では「二つの政治権力」が一つの国土に存在していた、との認識には誤りはありません。そこにあるのは「権威の装置としての朝廷」と「権力としての幕府」であり、武家の棟梁である征夷大将軍が同時に幕府の頂点(実質はそうではないのですが)にあるピラミッド構造を構築するために朝廷から「お墨付き」を貰っていた関係があります。
 そして問題の(3)ですが、これは一口で言いますと「ずるい考え方」と言われています。「国家」ほど厳しくはなくさりとて定義付けをしないで説明される「王権」という定義を突然に持ち出すことで「中世という社会」をどの様に見るか、との問題を棚上げしてしまっていることで批判を免れていません。また同時に(3)を主張する学者には「史料を読めばそれで歴史を理解することができる」とのマニアックな側面が多分に見られます。
 「数多くの史料の山に分け入ってそれを整理し」「過去の先学が残した成果を検証し」そこから新たな歴史像を読み解いて理論を構築する。彼らはこうした作業を放棄していると批判されても反論することも困難でしょう。
 少し見解が入ってしまいましたが、私が現時点で最も妥当であろうと考える説は(1)の権門体制論です。
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質問者様は、今の日本には国が二つある、とお考えでしょうか。

多分、日本はひとつの国だと思っておられるでしょう。実際に、日本はひとつの国ですが、天皇制という君主制と内閣総理大臣を頂点とする内閣制民主主義の二つの異なる制度を持つ国でもあります。
つまり、幕府と朝廷がある時代と統治システムは何にも変わっていない、ということであり、当時でも日本はひとつの国であったといえます。

統治システムからみた「国」というのは、内政的な機構と外国との折衝のための機能で考え方が変わります。現代でもアメリカ合衆国などは、州が一般的な国の統治機構であり「アメリカ合衆国」はその集合体として、外国と交渉するということになっています。そのため、州を越えて警察が捜査することができなかったり、法律や規制が州ごとに違ったり、ナンバープレートも各州で必要だったり(営業車両は必要)、州兵とアメリカ兵(国兵)が別の指揮系統だったり、とアメリカ合衆国のいろいろなものは州=国と考えるとわかりやすいです。逆に国側から見るとから見ると、FBIやNSAなどのような強い権限を持つ「連邦捜査官・国家安全保障局」のような組織が無いと、州をまたがった犯罪やテロに対応できないといえます。


またカナダやオーストラリアなど旧イギリス連邦の国は、現在でもイギリス国王の統治を受け入れるという意味で「提督」(多分に伝統と名誉職ですが)がおかれまのですので、そこの点だけ見れば、カナダやオーストラリアなどは独立国ではなく、イギリスの統治下にあると解釈できてしまいます。
しかし、他の国は日本を含めて独立国だと考えていますし、実際に入国審査や関税など独立国の機能はちゃんと持っています。

このように国の統治機構というのは時代や文化、歴史的経緯などで様々な方法があり、外国の方法を基準に考えて判断することはできません。

日本については、朝廷が征夷大将軍を任命して鎌倉幕府が開いた時点で、朝廷は君主であるが実質的な政治と統治は幕府が行うということになりました。それ以来、現在の内閣制も「民主的な方法(選挙)で選ばれた代表を天皇が任命して統治を委託する」という方式をとっているだけで朝廷(天皇)から任命されて統治を委託されている、という点では幕府の時代とまったく同じです(もちろん細かい違いはありますが、歴史的な敬意からするとほとんど同じです)

現代日本をひとつの国と見るならば、幕藩体制時代もひとつの国だったといえます。ちなみに、幕藩体制のころの外国人のレポートによれば、藩をひとつの国と捉えて幕府は連邦政府のようなものだ、とする報告もありますので、当時の政府は300程度ある藩が「国」だったという見方もできるのです。
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朝廷の代理で幕府が政治を行っている状態です。



そもそも幕府の意味って、大軍を引き連れて遠征に行った将軍の陣地の事ですから。
戦国時代の戦のシーンで武将が天幕や旗が一杯立った陣地にドカッて座ってる場面がありますよね?あそこの場所の事です。
現代風に言えば、前線司令部の事です。
あくまでも「前線司令部」ですから、本部は後ろにあるのです。
でっ、その本部というのが朝廷。
朝廷と幕府の関係は、こう考えれば分かり易いと思います。

実権は幕府が持っていましたが、建前上はあくまでも朝廷の方が上なんです。
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>幕府と朝廷がある時代って、日本の土地に現代でいう国が2つある状態でしょうか??



♪ブッブー♪
鎌倉幕府・室町幕府・桃山時代・江戸幕府とも、「朝廷からの政治委任」なんです。
実質上は、時の実力者(権力者)が武力・経済力で全国を支配しました。
が、形式上は「朝廷からの任命・委任」という手続きをふんでいます。
将軍、左大臣・太政大臣・関白も、手続きをふんでいますよね。
(慶喜は、政権を朝廷に還す。大政奉還を行なっている事実でも理解できるでしよう)
天皇・朝廷の辞書には、「NO」という言葉はありません。
逆に、NOという言葉が無かったので血縁関係で現在に続いている訳です。
(決して、万世直系子孫ではありません)
NOと言わないので、時の権力者から御所造営など多少の援助を受けたのです。

江戸時代は、朝廷は貧しかったようですよ。
家康の時代は、3万石。これで、数十万人の皇族・貴族・使用人を養う必要があります。
家屋の修理とかも含みます。
幕末でも、10万石ですからね。
京都の言い伝えでは・・・。
孝明天皇が、皇太子(後の明治天皇)を連れて町を散策している時。店の前に並べているお菓子は、隠したそうです。
皇太子が「お菓子が欲しい」と駄々を捏ねて、孝明天皇が支払いが出来ない事を不憫に思うからだとか。
天皇家でも、この状態。
雨漏りがする家屋で、必死に歌留多(百人一首)の内職をしている下級貴族の姿が見えます。^^;
平成の世。皇太子殿下の長女・愛子親王個人に「毎月300万円の食費」を支給しているのと大きな違いです。
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>日本の土地に現代でいう国が2つある状態でしょうか


質問者さんのイメージする「国が2つある状態」というのが、ちょっとわかりません。例えば朝鮮半島のように、北と南で別の国家が存在しているという状況でしょうか?

幕府と朝廷の両方が存在していた時代は、鎌倉・室町・江戸時代ということになりますね。それぞれの時代、その中のそれぞれの時期によって状況は違うので一概には言えませんが…。

飛鳥時代から平安時代までは、朝廷、つまり天皇や天皇を中心とした貴族などが国を統治していました。しかし鎌倉幕府ができたことで、「政権」は京と鎌倉に2つできたわけです。ただ、日本全国が二分されたというわけではなく、どちらかというと二重に支配されていたというイメージの方が近いと思います。

元々「征夷大将軍」というものが天皇が任命するという形をずっと取り続けていたことからもわかるように、形式的には朝廷(少なくとも天皇)は幕府の上位にあったと言えます。だからと言って、朝廷が絶対的な権力を持ち続けていたわけではありません。将軍や幕府が「自分たちは天皇に日本を統治する許可をもらったんだから、自分たちの言うことを聞きなさい」と、朝廷の威を借りていたようなものです。
あとはそれが形骸化していた時代と、その事実を盾に朝廷が力を持って幕府と勢力の綱引きをしていた時代があったということです。

一般庶民から見れば、天皇は延々と続く日本のトップの家系で、権力云々というよりも精神的な面での存在感が強かったと思います。幕府というのは、その時々の力の強い人たちで、だからこそ入れ替わりがあったと言えます。
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現代でいう国


なんてのは 現代にしか無いから、それを現代以外で考えると間違える。

土地を一円支配するシステムというのは、太閤検地のころにようやく成立した。
それまでは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E3%81%AE% …
こんな感じ。

税金で考えると、現代は国が地方公共団体も含めて統一的に徴税しているが、太閤検地の前はバラバラ。

千代田区のたばこ消費税は、千代田区が勝手に決めて、千代田区の徴税官が徴収する。
千代田区の現地領主が京都の権門(摂関家だったり天皇家だったり、延暦寺だったり)に納税するという感じ。
千代田区のたばこ消費税が摂関家に納税されるが、酒税は天皇家に納税するだったりとバラバラ。

鎌倉時代で言えば、承久の変後 公家と武家が助けあって統治しましょうやという流れになります。
公家も武家も「正統」があるべきだという考えがあります。

この正統が確立できないうちに、鎌倉幕府が倒れます。
室町幕府が京都にいたのも正統を京都の場でサポートし続ける必要があったかとも言えます。

戦国時代を通じて、一円知行が進行し、日本全国を統一的に統治する体制ができた段階で、朝廷は、武家権力の一部に吸収されます。
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私論が混じってしまうのですがまず



平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷を倒し
時神代の昔から敵対していた東の大国が滅亡した事で平和になりました。
そして天皇である第50代桓武天皇は軍隊を廃止します。
なので自分たちを守るために武士が政治の中心『幕府』になります。

はっきりいって江戸時代の朝廷には力はありませんでしたが
征夷大将軍などの任命は天皇発信で理由は簡単に宣伝目的です。

それをふまえつつ幕府は武士を中心にしつつ朝廷の顔を立てていきました。
日本は神国、天皇は神の子孫なんかというくらいですからそういった意味でも日本には天皇という存在が必要だったと思います。

幕末の動乱期では幕府に不満な人たちが天皇に付いたというだけの話なので朝廷と幕府が睨み合っていたとしても国が二つあったわけではないと思います。


私の勘違い、もしくは間違っていたらすいません
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南北朝時代はともかく(幕府が作った朝廷「北朝」があった)、国が二つではありません。


幕府とは、政治を行う機関です。いわば、政治を朝廷から任された機関です。強引に権力を取ったともいえるでしょうが。朝廷が政治を行っていたのは、平安時代まででしょうね。
国が二つとは、二大権力が、独自に政治をしているということですね。
イギリスなどでも、国王が政治を行っているわけではありませんね?
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もともと天皇を中とした朝廷が政治を司って来ましたが、天皇より力を持った武士が現れ(初代は源頼朝)天皇に代わり政治をしたのが幕府です。

途中を端折りますがこれは明治維新まで続き、天皇に政治を返そうという動きが大政奉還と言われます。
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