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こんにちは。
私は介護の仕事に就く者です。現場で、独居老人を多く目にします。孤立化する高齢者を見て、社会の現状に対する問題意識が芽生えました。
高齢者の社会的孤立を防ぐにはどのような方法が考えられるでしょうか。
よろしくお願いいたします。

また、インターネット検索したところ、以下のようなページに当たったので、これをざっと読んで見ました。

参考URL:http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/239 …

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A 回答 (5件)

私の福祉哲学は、視覚障害を負った方のマラソンの伴走を完遂できなかったという、苦い経験からスタートしています。



ところで、哲学と述べてしまいましたが、少し考えてみると、もっと根源的な、論理的な手続きを経ないアプリオリな認識であろうと思います。直観(直感ではない)といっても良いかも知れませんし、身体感覚、超合理の信念といっても良いかも知れません。
「~故に価値がある」
というのは、なるほど合理的かもしれませんが、例えば価値相対主義などの批判を呼び込まずにはいられないかもしれません。偽薬効果の心理学的解析では、根拠を必要としないアプリオリな「効く」という信念が最も効果的だと云います。また、こうした超合理の信念はヒュームが明らかにしたように、人類の脳に刻み込まれた機能です。
この、超合理の信念を以て
「尊い(=あるがままを自然に受け入れる=受容)」と感じられれば、
そこから「共に働く」「共に苦しむ」「共に生きる」という理念が生まれてくるのではないでしょうか。

この理念は、実はもうだいぶ前から提唱されているのです。障害支援者の最も根源的なスタンスは「コン・パティエンス(共に苦しむ者)」だと云うのですから。そして、その立場は従来の「与える福祉(保護主義)」に手厳しい批判を加えています。
強者が弱者を保護するのではない。掛け替えのない共同体の一員同士として、同じ目標に向かって「共に進む」のだという、新しい福祉の理念です。
北欧でノーマライゼイションが生まれたのは、その時の彼らの強固な共同体主義ゆえでしょう。
時を経て、価値相対主義が蔓延り共同体が崩壊した日本に輸入されても、その理念が抜け落ちてしまうのは必然です。

初めに戻ると、マラソンの伴走に失敗するまで、私の中の福祉は「与える福祉」でした。
けれど私は役に立てなかった。走り方も、走る喜びも知らない私が、「共に走る」などと言うことが、できるはずもなかったのです。

「共に働く」
「共に暮らす」
「共に苦しむ」
「共に生きる」
この理念が、生半可な覚悟で身につくはずがありません。
施設経営者、行政、福祉系大学の「産官学の利権トライアングル」にとって、そんな理念は効率化の邪魔でしかないのです。末端の支援者がそれにおもねるのは、止む得ないといって差し支えないでしょう。

だいぶ
まとまりませんが。
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この回答へのお礼

>「共に働く」
>「共に暮らす」
>「共に苦しむ」
>「共に生きる」
>この理念が、生半可な覚悟で身につくはずがありません。

おっしゃるように、これらは自然なこと、アプリオリなことであると私も思います。しかし、経済合理性を追求する以上、私のような立場の人間にとっては、お金にならない福祉=長く続けられない労働、なのであり、共に生きる事は実質的には困難を極めます。雇われる立場である限り、このようなアプリオリな事柄について満足することはできないだろうと思っています。

障害者や高齢者がいることは自然なことである、このように認識されるのはいつの事だろうと思います。高齢化社会=危機、ではなく、高齢化社会=長寿社会=吉、と言う風に捉えられるようになる日は来るのでしょうか。

ご回答、大変勉強になりました。

もし、受容や、「共に生きる」と言うことが実現したならば、それは大変明るい社会像を生み出すと思います。
誰しもに、アプリオリな、不合理性、自然性が宿っています。経済合理性のみを追求する社会からの脱却は、誰しもに余裕をもたらす柔軟な社会構造を生み出すだろうと思います。
スピードを重視し、ナンバーワンを重視し、競うことで成長を促してきた現代の風潮とは別に、持続可能な社会を実現するのは、おっしゃるようなアプリオリな事に根源をもつ、共に進むこと、共に在る事、共に生きることであるかもしれないと、ご回答を読んで思いました。

お礼日時:2011/07/03 22:24

定年の無い社会を目標とする理念の確立。



十年ほど知的障害支援の現場にいました。老人福祉に限らず現在の福祉には、人生の意義とリハビリテーションに対する哲学が欠如しているように思えます。
実習に入ってくる福祉系の大学生に尋ねてみると、そうした福祉の根幹である基本的価値前提に対する哲学を学ぶ機会は全く無いようです。ひたすら制度利用屋を生み出すのが大学のカリキュラム。
そして制度を作り上げた厚労省の目標は、ただただ「生き長らえる」ということ。役人は「人生の意義」という数値化できないことは、面倒臭くて点数稼ぎにもならないので、考えてもみないようです。お題目としてはQOLと唱えてますが、制度創出には繋がりません(哲学がないのですから)。
本来福祉とは、人間の幸せとは何か、を追求具現していく実践的学問であるにも関わらず、パターナリズムを忌避するあまりに思考停止を是とし、利用者の為になることではなく、差し障りのないところで制度利用の報酬を受け取ることを目的にしているのが、福祉業界の実情ではないでしょうか(特に門戸開放の進んでいない知的障害分野では「利用者を盾にとる既得権益集団」と言って差し支えないでしょう)。

以下曾野綾子氏の「戦争を知っていて良かった」から抜粋です。

基本的に動物が自分で餌を捕れなくなり、自分で水を飲みにいけなくなる時は死ぬのであって、それは決して人間性を冒すものでも乱すものでもないと、私は思うのである。もちろん人間は野生動物のように全くなすすべもなく生から見放されるのではない。栄養も衛生も、投薬も医療も慰めの言葉も穏やかな日常の暮らしも、充分に考えられた挙げ句の結果である。だからもって瞑すべしだと私などは思うのだ。
ただそのような処遇を受けるには、いくら年寄りでも、原則としては自分のことは歯を食いしばってでも自分ですること、できれば人のために働き奉仕することを光栄に思うこと、などといった姿勢ができていなければならないだろう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。定年の無い社会を目標とする理念の確立ということですが、私も人が長く働くことには賛成です。もちろん個人の意思が尊重されねばならないものですが、現役でいること自体が、その人の生きがいを持続させ、結果健康でいられる時間が長くなると思います。

人生の意義とリハビリテーションの哲学ということですが、障害の方を見ると特に考えさせられることかなと思います。私も少しの間ですが、知的障害者や重度心身障害者と関わった事があります。彼らが、どの程度の意識レベルにあるのか、見当もつかないまま接していた覚えがあります。それでも話しかけたり、接触したりしながらコミュニケーションを図るのですが、それがどこまで通じていたのかは判らずじまいです。


>利用者の為になることではなく、差し障りのないところで制度利用の報酬を受け取ることを目的にしているのが、福祉業界の実情・・・

そうかもしれません。実質、末端で働くものには微々たる報酬しか配られませんし、これではサービスのカイゼンも期待できないでしょう。モチベーションも持続しないですし、長く働けるものでもありません。福祉の質の向上は期待できないでしょう。
私は、障害者や高齢者が生きているということの多様性に、価値を見出せないだろうかと考えています。
特に重度の方は、生産に従事することができず、ただ存在することだけに意味があるような人々であると思います。しかしそれが厄介者ではなく、価値のあることなのだと見ることができれば、社会も積極的に福祉へ重きを置けるようになってくるのでは無いでしょうか。
哲学をする機会を、周りの人に与えているというだけでも、その人の存在価値は計り知れないものがあると私は考えます。決して見世物ではなく、より多くの人に、障害者や高齢者に接していただける機会を創出できたならば、それは世間への大いなる貢献にもなると考えました。


福祉の業界にも、きりりとした哲学が生まれれば、また世間の様相もがらりと変わってくるものであると、今回のご回答を読んで思うことができました。

お礼日時:2011/07/02 14:45

>むしろそういったストレスが健全な生活を成り立たせていると見ることもできます。



でもそれを無理強いは出来ませんもんね・・・。とっても優しい高齢のおばあちゃんが始めてデイサービスを経験したあと 「楽しかったけど、疲れたわ・・・」 とポツリ。それ以来その方はデイサービスを一回も利用しなかったそうです。全ての人によりよいサービス、全ての人が利用できるサービスは現実的には無理ですよね。


>しかし同時に、何か幼稚園でするような事を高齢者にしてもらっているところなど、高齢者にそれが相応しいと思うのは、サービスを提供する側の思い込みではないかという疑問もあります。

これは大いに共感します。紙風船バレーをやらせたりお遊戯的なことが非常に多いですね。女性は比較的意欲的ですが、男性は社会で培われたプライドが許せないでしょう。狙いには身体機能の維持・向上があり、出来るだけ楽しく出来るだけマンネリ化させず、なおかつ皆で輪を持ってということになると必然とそういう催しが多くなるのですね。現場も色々苦慮していると思います。


>事実、「家にいて欲しくないやろうから、ここに来ている」とおっしゃる方もいます。十分に人生経験を積まれた方々に提供するサービス内容として、もっと相応しいものを提供できるはずではないかと思います。

ある程度人数が集まってとなると何がいいのでしょうかね。80後半以上の方だと出来ることも限られるでしょうし、医療面での視点も当然必要で、各分野に精通したスタッフが求められますね。


>問題となる独居は、自立能力、自活能力が乏しく、一人ではとてもやっていけないような高齢者の方々の独居であります。極限の例は、ゴミ屋敷の中、病気の治療もせず、精神病や認知症を患い、食事を取ることもままならない、そういったものです。

こういった方は今現在各方面からどのような支援を受け、どんな生活を送っているのでしょうか?対象になる方は国や地域にどのくらいいるのか?現状と実際に行っている試みなどを把握する必要がありますね。こういった方はある種の精神的な病気ももっているでしょうから、行政が中心になって行くしかないと思いますが・・・。


>高齢者が必要とされるような社会と言えば語弊もありますが、高齢者に居場所のある社会でなくては、誰もがいずれは日陰に追いやられるという、暗い社会像が形作られてしまうと思います。

個人の価値感や考え方、文化や人口、インフラなど地域特有の問題などなど、今のエネルギー問題のようにこれがあれば全てがまかなえると言うものは絶対に出来ないですよね。既存のシステムを維持しつつ、内職のようなコミュニティや訪問医療の充実化など、試行錯誤していかなければならないと思います。それについての制度作りや財源の問題もありますので、問題はそうたやすくないのは事実ですね。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
おっしゃるところ、どれも一理あることであり、勉強になります。
色々と多くの問題がある中で、少しでも明るい社会を形作ってゆければよいなと思いました。

>こういった方は今現在各方面からどのような支援を受け、どんな生活を送っているのでしょうか?

わかりません。。ただ、以前、家屋や店舗の整理屋をしていた時に聞いた話なのですが、ゴミ屋敷を整理するときに、白骨が出てきたというのがあります。実際には、把握されていない人々がいることは確かだと思います。社会の中で、人々の目の届かぬところへと消えてゆく方もおられると考えると、豊かに見える現代社会の観方が変わりました。
一人で問題解決をやっていくのはとてもじゃないが無理で、各方面の方々との連携によって、少しずつ改善されていくものであると思います。音頭を取っていく人が必要とされているのだとは思いますが、今の自分には大したことはできません。しかしながら、可能であれば、少しずつ知識や人脈を増やしてヴィジョンを描いてゆき、NPO法人などを立てて活動してゆくことはできないだろうかとも考えています。

このようなものを見つけました。http://www.nli-research.co.jp/report/gerontology …

ひろく孤立化が抑制されてゆけば、それに巻き込まれる形で、最下層の人々の暮らしも、自然と浮上してくるのではないかという希望的観測も持っています。甘いかもしれないですが。。

お礼日時:2011/07/02 14:18

 lightwave8 さん、久方にお目に掛かりました。


 75男性。まぁ面倒くさくもあり、馬鹿馬鹿しくもあるので、この68年棲んでいる地域の幼友達とも滅多に訪問しあいません。
 それに隅田川、荒川、そして綾瀬川を越えたこの地域も変化が激しく、みな転居したり、物故したりです。
 第一もう話が合いませんでね。庭の手入れや近所の掃除をしていると、別の土地から帰ってきた幼友達は懐かしくていつまでも居るんですが、おぅ!っと挨拶した後はもう何も話す事はないですね。
 
 近所を掃除したり、朝晩、野良ちゃんや野鳥たちのことをやっていると、ご近所さんがよってきて仲良くなり、共通の話題で話し合うことができます。
 後、都内の大学と提携した自治体がシニアの講演会や講座をもってくれますと、曽って応援していた議員さんやちょいと遠くの旧家の方と郷土の歴史のことで話題が楽しいですね。
 後は40年以上ヒンドゥの哲学の勉強と精進をある外国の団体でやっていますので、時間は足りませんね。

 それに46年居た大学の人たちとの行き来もあるし、社会的には孤立して何もお役に立てないけど自分では問題ないと存じています。健康であることが大事です。
 ぁ60年安保からずぅっと続い居る政党のお手伝いがあり、みなさん何かと豊富な情報を持ってきてくれます。
 経済的な貢献ができないくても、まぁ生活できますので。防犯は協力しています。
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この回答へのお礼

kryaさんこんばんは。^^
kryaさんは随分ご健康のようで、無縁社会における高齢者の孤立化とはまさしく無縁?なのかもしれませんね。^^喜ばしいことです。
私の接する高齢者は、88歳、89歳と一層高齢の方で、体も弱く、日がな一日自宅で寝ていたりする方々です。さまざまな能力が低下し、できることが少なくなっている高齢者ですが、なにかできることをしてもらうことが、高齢者の孤立化を防ぐことになるのでは無いかと思っています。
内職でもいい、ノルマなどは通常の半分以下でもいい、どこかに集って仕事をしてもらうことも考えたりしています。
その人が存在することは、社会の役に立つ立たないを超えて、価値のあることであるはずだという認識の下に、今回の問題を考えています。
今後一層高齢者が増えていくに連れ、高齢者の存在感は数的に増していくと思います。しかし厄介者という認識は建設的ではなく、幸せな社会を生み出すことにもつながらないでしょう。社会の中で輝いていける存在としての高齢者像を、見出せればと思っています。

お礼日時:2011/07/01 20:56

第一にはデイサービスなどの社会保障制度ではないでしょうか。



二番目には地域のごく小さいコミュニティでサロンのような試みも実際にあるようです。個人的には税金などに頼らないこういった試みが広がるのが一番だと思います。ただ他人との輪を好まない人だって少なからずいますし、人間関係などうまく行かない問題も色々あるんだと思います。

ただこれは自らある程度行動の出来る人が前提になります。寝たきり、豪雪地帯や過疎地域ではなかなか実現できない問題もあると思います。医師による定期的な訪問治療も効果的な方法と考えますが、医師不足や診療報酬など改善すべき問題は沢山あると思います。


話の腰を折るようで申し訳ないのですが、そもそも 「独居老人 = 不幸」 ではけしてないと私は思うのです。
 
ある番組で関西の医師の取り組みを紹介しているものがありました。その医師は往診をメインで行い 「自宅で最期を迎えさせる」 を信念に活動している医師です。その中で実際にある方の最期の場面がありました。その方は離婚され息子さんとも離れて暮らしている所謂 “独居老人” です。その患者さんが危篤状態になり、深夜に医師が呼ばれ処置を施します。医師、家族は必死に入院を勧めるが、本人は頑として聞き入れようとしません。医師は点滴を用意し、最期が近いことも本人や家族に伝えていました。本人はそれを聞かずとも感じていたのでしょう。最終的には息子も本人の意思を尊重、承諾し父の最期に立ち会う決心をしました。本人の手を握り、しっかり目を見つめ、感謝の言葉を残し、最期の言葉を交わしました。男の生き様を見たでしょう・・・その数時間後、静かに息を引き取りました。

人間はいつかは必ず死を迎えます。その死に際が、安からな環境で迎えられればどれだけ幸せなことでしょうか?私はこの番組を見て大きな衝撃をうけました。 “自宅で誰にも邪魔されること無く、静かに最期迎えたい” という願いはかなえられ、本人にしても家族にとっても非常に幸せな最期だったと思います。しかし世の中には病院や施設で最期を迎える方が非常に多くいると思います。

私は 「独居老人 = 不幸」 という考え方そのものに疑問を抱いています。同居家族が居れば、受けたくも無い検査を(無理矢理)受けさせられ、チューブや器械につながれ、自宅で静かに生涯を終えることは出来なくなります。幸せな最期とはどのようなものでしょうか?実際に独居を楽しみ、自分が望む死を希望するそのような会もあるようです。最新の医療、家族の意思、社会のモラルは時として尊厳、意思尊重と対極にあることが非常に悲しく感じます。

延命や治療はもしかすると 医療のエゴ なのかもしれません。


ただ孤独死のご遺体がいつまでも荼毘にふされることなく放置されるのは可愛そう(衛生面でも)ですから、例に上げたような医師が増えこれが当たり前のサービスになることを望みます。その為にはこのような医師に、通常の開業医なみの保証をしなくてはいけないと思います。(その為の財源・人材確保なども大きな問題ですが)その他に介護施設、ケアマネ、ヘルパー、家族、時にはご近所さんなど、社会そのもののあり方も問われているのかもしれません。
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この回答へのお礼

こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

独居老人=不幸、ではないとの観方、大いに理解できます。人間関係がかえってわずらわしい、無理に社会に参画することが帰ってつらい、そういう意見も在ると思います。しかしそれは、現役世代にとっても同じことであり、むしろそういったストレスが健全な生活を成り立たせていると見ることもできます。

現行のデイサービス、宅老所は、自宅に居場所を見出すことのできない高齢者の居場所として、大切な役割を担っていると思います。しかし同時に、何か幼稚園でするような事を高齢者にしてもらっているところなど、高齢者にそれが相応しいと思うのは、サービスを提供する側の思い込みではないかという疑問もあります。事実、「家にいて欲しくないやろうから、ここに来ている」とおっしゃる方もいます。十分に人生経験を積まれた方々に提供するサービス内容として、もっと相応しいものを提供できるはずではないかと思います。

無理な延命については、独居老人の方でなくとも、賛同しない意見が多く募れるのでは無いでしょうか。
死に際、痛み止めのモルヒネも、意識が朦朧とするために打つことを拒否する患者さんもいるようです。
どのような死に方をしたいのか、誰もが死を迎えるという現実において、切実なテーマであると思います。

問題となる独居は、自立能力、自活能力が乏しく、一人ではとてもやっていけないような高齢者の方々の独居であります。極限の例は、ゴミ屋敷の中、病気の治療もせず、精神病や認知症を患い、食事を取ることもままならない、そういったものです。
家族のフォローや、行政のサービスを受けつつ独居暮らしができる方はまだよいほうだと言えます。
それでも、「今はこんなさびしい生活、昔に無茶したツケが来たのかなぁ。」とつぶやく方もおられました。やはり基本的には、独居とは寂しいものであると思われます。

>・・・社会そのもののあり方も問われているのかもしれません。

まさにそのとおりだと思います。高齢者が必要とされるような社会と言えば語弊もありますが、高齢者に居場所のある社会でなくては、誰もがいずれは日陰に追いやられるという、暗い社会像が形作られてしまうと思います。偏った観方に陥る危険もありますが、自身はどのように老いたいのか、それも一つの指針になるのでは無いかと思いました。

お礼日時:2011/07/01 21:15

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