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私は子供の頃、札幌で過ごしました。
青函連絡船は思い出が残っています。
飛行機時代で多くの国鉄時代の連絡船が廃止されました。
皆さんの思い出として国鉄時代の連絡船を教えていただきませんか。
どんな思い出があるでしょうか。

A 回答 (7件)

一度だけ仁堀航路(呉線仁方~予讃線堀江)の瀬戸丸に乗ったことがあります。

わざわざ乗りに行ったのですが、連絡船とは名ばかりのフェリーで、乗客も少なく換算としていました。知る人も少ない航路でした。国鉄乗りつぶしをしていた者でも乗船経験のある者は少ない航路なので、乗ったのは自慢の一つです。

宇高連絡船には船便とホバークラフトの急行便があり、両方乗りました。船便にはうどん(これが、風情があって別格に旨い)があるのですが、ホバーには食べるものはなにも無かったです。宇高航路は当時から海上国道扱いで、国道フェリー、四国フェリー、日通フェリー(津国汽船、廃止)などが並行してありました(一応、全部乗ってみた)。下の回答にある航路を引き継いだというのは間違いです。
当時は、伊勢湾(伊良子~鳥羽)や大分湾(大分空港~大分・別府)にもホバークラフト航路がありましたが、まさか、国内から完全消滅してしまうとは思いませんでした。

私は、海軍軍人だった父の厳命である「船だけは命に関わるから上等に乗れ」を守って、貧乏旅行でも差額を出してくれたこともあり常に贅沢をしてグリーン船室に乗船していました(仁堀やホーバーはモノクラス)、北海道周遊券を持って青森の待合室の長いすで野宿してグリーンに乗るという変な客ですね。なお、当時、函館の待合室は長いすではなく、一人一人区切られたプラ椅子だったので寝心地は青森とは雲泥の差でした(それでも我慢して寝た)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
いい思い出ばかりですね。
大分湾(大分空港~大分・別府)にもホバークラフト航路は一度乗りたかったのですが出来ませんでした。
伊勢湾(伊良子~鳥羽)にもホバークラフト航路があったとは知りませんでした。
数年前に伊良子に行ったのですがフェリーでした。
北海道出身なので、青函航路は思い出が多いです。
函館から青森は内地への旅立ちですから。

お礼日時:2011/08/08 10:48

 青函連絡船は3回乗りましたが、最初に乗ったのは今はお台場に展示されている「羊蹄丸」でした。


 急行「八甲田」で青森に着いた時は確実に乗船できると思っていましたが、満員に近く乗船整理券が渡されました。番号が呼ばれなければ、次の便になりますから北海道の予定が狂います。
 なかなか呼ばれず諦めていたら、最後に呼ばれました。私が乗船した直後に出港する慌ただしさでした。約4時間の船旅でしたが、函館へ着くと短く感じました。
 北海道からの帰りは満員で次の便になりました。

 列車からダッシュで乗り換える意味がよくわかりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私は逆で函館ー青森。
それは内地へ行くことでした。
もっともその頃は東京にいましたので北海道は親類へ遊びへ行くことでした。
息はスカイメイト帰りは青函航路でした。
今度「羊蹄丸」を見に行きます。

お礼日時:2011/08/08 10:54

日付や文字を刻印できるメダルの自動販売機が船内に有って、乗るたびに記念で買ってました。

青函連絡船は、私が乗った限り(大雪丸、十和田丸、摩周丸、羊蹄丸、八甲田丸)では、皆船単位でオリジナルのメダルがありました。個人的に一番好きだったのは、船首からの姿を描いた大雪丸のメダルです。

あのメダル、昔は大概の観光地に設置されていたのですが、今ではめったに見かけなくなりました。
(大阪城にはまだ残っていますが。今や貴重な存在です。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
青函連絡船の(大雪丸、十和田丸、摩周丸、羊蹄丸、八甲田丸)では、皆船単位でオリジナルのメダルがありました。
懐かしいですね。
メダル!!
暫く前は東京タワーにもあったのですが!!
青函トンネルは味気がないような気がします。
最も一度も利用していませんが!!
(お金がないので)

お礼日時:2011/08/08 10:59

青函連絡船、昼夜合わせて5回乗船しました。



初めて野生?のイルカを見たのは津軽海峡でした。
いつも床じゅうたんの部屋で、座席やグリーンは未知の場所でした。
函館駅の乗船通路が本当はそんなに長くないはずなのに長く感じたものでした。
修学旅行の学生さんに船内売店でキャラメル(だったか、チョコレートだったか)を買ってもらった記憶があります。
一度だけ深夜便に乗船したことがあって、昼間とは違った雰囲気に眠れませんでした。
揺れるときは揺れましたが、自分は全く平気だったのでむしろ楽しみでした。揺れは結構激しかったような記憶があります。船室でぐったりしている方もいましたし、歩けなくて座り込んでしまったお年寄りに船員が手を貸していたこともありました。
サロンで一度だけオレンジジュースを飲んだことがあります。

「グリーン席で乗船してサロンでゆっくり飲み物を飲んで、さらに一度も入ったことの無いグリルで何か食べる」ことが夢でした。
結局叶ったのはサロンでのオレンジジュースだけでしたが。
ただグリーン席は難しかったでしょうが、グリルはわがまま言ってラーメンでも食べればよかったのにと思います(笑)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
いい思い出ですね。
グリーン席ね!
青函航路で憧れました。
しかし、その後社会人になってから色々出張してもグリーン席は一度も使いませんでした。(使えなかった!!!)

お礼日時:2011/08/08 11:04

>国鉄時代の連絡線…



ですよね。
若いころ勤めていた会社は、横浜市内の東海道線沿いにありました。
旅客線と貨物線とがともに複線に、もう 1本あり合計 5本の線路が並行していました。
そのもう 1本の線路が、国鉄東海道線保土ヶ谷駅と相模鉄道西横浜駅とを結ぶ「連絡線」でした。

相鉄の小さな電気機関車が数量の貨車を牽いて時々往復していました。
日立笠戸 (山口県) で造られた相鉄の新車搬入にも利用されたそうですが、残念ながらこれは見たことありません。
終電後だったのでしょう。

さらにその「連絡線」からもう 1本枝分かれして私の会社に引き込まれ、製品が出荷されていきました。

昭和55 (1980) 年の東海道旅客線と横須賀線の分離運転に伴い、貨物線は羽沢経由に変更され、「連絡線」は切られてしまいました。

国鉄がまだ陸上輸送の第一人者であったころの思い出です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
貴重なお話ですね。
昔勤務先の横浜の支店いましたが、知りませんでした。

お礼日時:2011/08/08 11:07

私も青函連絡船はよく乗っていました。


ちょうど帰省時期の夏冬、時々GWにも乗っていました。
いつも乗る時間帯の関係で、よく乗っていたのは羊蹄丸、大雪丸、八甲田丸で、摩周丸は連絡船廃止後、函館に保存されるようになって初めて乗りました。

印象的だったのは、GWに1度だけ乗った、貨車航送船から客貨船に改造された檜山丸ですね。
もともと客船ではない船のため、内装や扉の形状や表記など、随所に貨物船らしい無骨さを感じさせ、改造のためいろいろ無理をした部分がうかがえました。

羊蹄丸は今、お台場の船の科学館に展示されていますが、9月いっぱいで公開終了とのことです。その後の処遇は見たいのようなので、最後に見に行きたいと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
羊蹄丸は9月一杯ですか。
急いで見に行きたいと思います。

お礼日時:2011/08/08 11:09

国鉄時代:宇高(うこう)連絡船


現在:宇高(うたか)国道フェリー

岡山と香川間を約1時間でつなぐフェリーでした。
まだ瀬戸大橋も無く、四国から本州へ電車で行く時は必ず使っていました。
乗り換えの時間も短く、高松駅から高松港まで大人子供問わず大荷物を抱えて
みんなダッシュしていて異様な光景でした。(その頃私は小学生でした)
めったに乗らない船を喜んでいたはずなのに、こんな事はおぼえているのに
船の事はほとんど覚えてないです・・・

瀬戸大橋ができて宇高連絡線が無くなった事は知っていたのですが、別会社が
同じ航路を引き継いでいるのは今調べてはじめて知りました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
宇高(うこう)連絡船は一度乗ってみたかったのですが、残念です。
別の会社がフェリー運航しているとのことを教えていただきましたので機会がありましたらトライアルしてみます。

お礼日時:2011/08/08 11:13

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