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秀吉に仕えた武将家の中で、得に秀吉が気に入ってた人や印象に残る事をした人がいたら、教えて欲しいです。

あと、秀吉の名前が変っていく状況について知っている人がいたら教えてください。

A 回答 (8件)

別に詳しいわけではありませんが この前nhkに


出てたのですが 中国地方での高松城の水攻めの際に
川をせき止めることがうまくいかなかったのを
工夫して成功させた。。黒田?なんとか言ったような・・・
実質そのときのナンバー2だったそうです
そのあとの大返しも道中の農家に炊き出しをさせ
松明であかりをともして 予想を越える早業で
返ってきたのも彼の手柄だったそうです

あと昨年の大河ドラマを参考にすれば
やはり前田利家は1番信頼していたと思っていいでしょうね。
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  最も秀吉の出世に貢献したのは、やはり弟の豊臣秀長でしょう。

それから序盤の参謀の、竹中半兵衛、後半の参謀の黒田如水ははずせません。それから、賤ヶ岳の戦で活躍した福島正則、加藤清正、脇坂安治、加藤嘉明、片桐且元、平野長泰、石川一光、糟屋武則、桜井左吉など武断派の武将。それから官僚派としては石田光成や小西行長なども気に入られていました。
 名前は3回変わっています。木下藤吉郎から羽柴秀吉・そして太政大臣となって豊臣秀吉になっています。羽柴の時が最も活躍したのではないでしょうかね。
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秀吉について詳しいわけではないのですが、


 坂口安吾『白痴・二流の人』(角川文庫)に収録される「二流の人」という話は、黒田如水を題材にして書かれています。各人の心理のやりとりが面白いところです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041100 …
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石田三成



お寺の小坊主から秀吉に見いだされ五奉行筆頭にまで出世しました。
3杯の茶の逸話は有名です

詳しくは参考URLを見てみてください

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/
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皆さん家臣について書かれていますので、もうひとつの問い「秀吉の名前が変っていく状況」について。


一般的に 日吉(丸)→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉
 と、変わっていくわけですが・・・

日吉、若しくは日吉丸は幼名です。
当時・・・殊に武家は子供の頃の名を成人後に改めました。子供の頃の名が日吉。丸を付けて日吉丸と書かれた本もありますが、秀吉出世後に箔を受ける為、後でつけたのでしょう。
日吉神社から付けたとか、母に日輪が掛かり産まれたとかいう逸話もありますが、やっぱり創作でしょうね。

長じて木下藤吉郎。
名字(苗字)の木下ですが由来は定かではりません。
妻おね(ねね)の実家が木下であり譲り受けたとも、実父が元々木下であったとも、母の実家が木下であったとも伝わります。確実的な事は不明です。

織田信長に仕え出世しはじめると名字を羽柴とし、名を秀吉とします。
名字は一般的に先祖が得た土地に由来するものが多いのですが、これは秀吉が独自に作った名字です。
織田家臣団の両巨頭、丹羽長秀と柴田勝家から一文字づつ貰い合わせたものと伝わっております。

名の秀吉ですが、正確には藤吉郎と意味合いの違う名で、諱(いみな)と呼ばれるものです。
公的な文書に署名する時は秀吉を用い、一般的な手紙や会話では藤吉郎を用います。
農民は諱を持ちませんから、それだけ出世したということでしょうね。

天下を獲ると今度は豊臣秀吉となりますが、実は豊臣は名字ではなく姓です。
今では名字も姓も同じ意味に使われますが当時は異なるものでした。

姓は源、平、藤原など古来から伝わるもので、その中から足利・武田(など源)、北条・織田(など平)、姉小路・一条(など藤原)と言った名字の家が登場するのですが、秀吉は、もともと名字を持たない家(前出の木下説もありますが)の産まれであった為、姓ももってはおりませんでした。
今更、源、平、藤原などを称しても詐称扱いされるだけですから自ら姓を作って朝廷から下賜させてしまいました。

整理しますと
幼名:日吉
名 :藤吉郎
名字:(無し?)→木下→羽柴
姓 :(無し)→→→→→→→→豊臣
と、なります。
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 小西行長はご存じですか。

知っていたらごめんなさい。
 角川日本史辞典から。
 生年不明、1600年没。安土桃山時代の武将。キリシタン大名。堺の豪商(たしか薬種商です)小西屋寿徳(小西隆佐)の子。京都の生まれ。幼名弥九郎。備前岡山の商人の養子となり、宇喜多氏に出入りし、父とともにキリシタンとなる。洗礼名、アウグスチン(本によってはアウグスティヌス)。
ここからは、
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/i …  から。
 宇喜多直家につかえたといわれ、小西屋と秀吉が古くからの知り合いであったため、中国征伐に際した秀吉が、宇喜多直家との使者として行長を使い、その才を買って家来としたとも言う。・・・
 以降いろいろな活躍で商人の子から大名へ。朝鮮出兵(侵略)では、加藤清正、黒田長政とともに活躍したが李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと言われている。
 この時秀吉の怒りも買ったといわれています。秀吉が朝鮮の人々をなんに倒したが知りたいと願い、最初朝鮮の人々の耳をそぐように家臣に命じた。やがては何せよと言い出す始末。小西行長はこれに異論を唱えたと言われ、そのため秀吉の怒りを買い危うく自刀を命じられるところだったといいます。
 そんな彼はあえて二度目の出兵にでます。ある時これから攻める村に前もって使者を出し、逃げるように伝えたと言います。朝鮮のある村の人々は「これは罠に違いない」と思いその場にと泊まり、小西は彼らを成敗するしかなかったと言います。そのさい、命は取らない鼻だけが欲しいと言ったとか。
 この小西は最後関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)につき、破れて殺されたと言います。
 いろいろあって、結局最後まで秀吉についていった人でした。


慶長の役も渡海し、秀吉の死によって撤退。島津義弘らと殿軍をつとめた。
秀吉の死後、いわゆる武断派の加藤らと対立し、石田三成に組する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは三成、宇喜多秀家らとともに東軍と闘ったが敗れ、敗走。伊吹山中で里人に身分を明かし、領主、竹中重門に捕われた。

このとき、行長が自刃しなかったのは、キリシタン信者だったからと言われ、これが、石田とともに文治派と称せられた所以であったかもしれない。

10月1日、石田三成、安国寺恵瓊らと京六条河原で首をはねられた。年不詳。
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毛利家の小早川隆景にはかなり目をかけていたのではないでしょうか?


陪臣(家臣の家臣)に過ぎなかった隆景を五大老に抜擢したのは、隆景が吉川元春らを抑えて和議を反故にしなかった事へ恩義を感じてたからなのでしょう…

あと、秀吉が一番初めに仕えた松下加兵衛(今川家)についても、秀吉が関白になった後、当時徳川家に身を寄せていた加兵衛を旧恩に応え大名に取り立てています。

秀吉は意外と恩義に厚い面もあった人物だったのかもしれません…

参考URL:http://www.johokan.net/history/Rekishi/DramaticB …
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軍師として秀吉を大きく手助けしたのは、前半では竹中半兵衛、


後半では黒田如水でしょう。

竹中半兵衛は、かの墨俣一夜城の戦いの前後から秀吉に協力し始め、
多くの功績をあげました。
侠気のある人物で、信長の人質となっていた後述の黒田如水の
長子を、一身の危険をかえりみずに救出したりしています。

黒田如水などは、秀吉が天下平定をするにあたり、あまりに
功績が大きく、またその才知を秀吉自身が警戒したためか、
与えた領土はわずか十二万石でした。

あと秀吉を公私ともに大きく支えたのは、弟の秀長でしょうね。
秀吉がおかしくなったのは、弟の秀長の死のあとです。
彼が死ぬことで、秀吉に諫言できる人物がいなくなったため
と思われます。

『黒田如水の館』
 http://www2n.biglobe.ne.jp/~bakauma/uma50.html

『竹中半兵衛』
 http://kazusanosuke.fc2web.com/busyou/017hanbee. …

『大和大納言~名補佐役・豊臣秀長~』
 http://fox.zero.ad.jp/~zap38093/
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