秀吉に仕えた武将家の中で、得に秀吉が気に入ってた人や印象に残る事をした人がいたら、教えて欲しいです。

あと、秀吉の名前が変っていく状況について知っている人がいたら教えてください。

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A 回答 (8件)

 小西行長はご存じですか。

知っていたらごめんなさい。
 角川日本史辞典から。
 生年不明、1600年没。安土桃山時代の武将。キリシタン大名。堺の豪商(たしか薬種商です)小西屋寿徳(小西隆佐)の子。京都の生まれ。幼名弥九郎。備前岡山の商人の養子となり、宇喜多氏に出入りし、父とともにキリシタンとなる。洗礼名、アウグスチン(本によってはアウグスティヌス)。
ここからは、
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/i …  から。
 宇喜多直家につかえたといわれ、小西屋と秀吉が古くからの知り合いであったため、中国征伐に際した秀吉が、宇喜多直家との使者として行長を使い、その才を買って家来としたとも言う。・・・
 以降いろいろな活躍で商人の子から大名へ。朝鮮出兵(侵略)では、加藤清正、黒田長政とともに活躍したが李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと言われている。
 この時秀吉の怒りも買ったといわれています。秀吉が朝鮮の人々をなんに倒したが知りたいと願い、最初朝鮮の人々の耳をそぐように家臣に命じた。やがては何せよと言い出す始末。小西行長はこれに異論を唱えたと言われ、そのため秀吉の怒りを買い危うく自刀を命じられるところだったといいます。
 そんな彼はあえて二度目の出兵にでます。ある時これから攻める村に前もって使者を出し、逃げるように伝えたと言います。朝鮮のある村の人々は「これは罠に違いない」と思いその場にと泊まり、小西は彼らを成敗するしかなかったと言います。そのさい、命は取らない鼻だけが欲しいと言ったとか。
 この小西は最後関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)につき、破れて殺されたと言います。
 いろいろあって、結局最後まで秀吉についていった人でした。


慶長の役も渡海し、秀吉の死によって撤退。島津義弘らと殿軍をつとめた。
秀吉の死後、いわゆる武断派の加藤らと対立し、石田三成に組する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは三成、宇喜多秀家らとともに東軍と闘ったが敗れ、敗走。伊吹山中で里人に身分を明かし、領主、竹中重門に捕われた。

このとき、行長が自刃しなかったのは、キリシタン信者だったからと言われ、これが、石田とともに文治派と称せられた所以であったかもしれない。

10月1日、石田三成、安国寺恵瓊らと京六条河原で首をはねられた。年不詳。
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軍師として秀吉を大きく手助けしたのは、前半では竹中半兵衛、


後半では黒田如水でしょう。

竹中半兵衛は、かの墨俣一夜城の戦いの前後から秀吉に協力し始め、
多くの功績をあげました。
侠気のある人物で、信長の人質となっていた後述の黒田如水の
長子を、一身の危険をかえりみずに救出したりしています。

黒田如水などは、秀吉が天下平定をするにあたり、あまりに
功績が大きく、またその才知を秀吉自身が警戒したためか、
与えた領土はわずか十二万石でした。

あと秀吉を公私ともに大きく支えたのは、弟の秀長でしょうね。
秀吉がおかしくなったのは、弟の秀長の死のあとです。
彼が死ぬことで、秀吉に諫言できる人物がいなくなったため
と思われます。

『黒田如水の館』
 http://www2n.biglobe.ne.jp/~bakauma/uma50.html

『竹中半兵衛』
 http://kazusanosuke.fc2web.com/busyou/017hanbee. …

『大和大納言~名補佐役・豊臣秀長~』
 http://fox.zero.ad.jp/~zap38093/
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毛利家の小早川隆景にはかなり目をかけていたのではないでしょうか?


陪臣(家臣の家臣)に過ぎなかった隆景を五大老に抜擢したのは、隆景が吉川元春らを抑えて和議を反故にしなかった事へ恩義を感じてたからなのでしょう…

あと、秀吉が一番初めに仕えた松下加兵衛(今川家)についても、秀吉が関白になった後、当時徳川家に身を寄せていた加兵衛を旧恩に応え大名に取り立てています。

秀吉は意外と恩義に厚い面もあった人物だったのかもしれません…

参考URL:http://www.johokan.net/history/Rekishi/DramaticB …
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皆さん家臣について書かれていますので、もうひとつの問い「秀吉の名前が変っていく状況」について。


一般的に 日吉(丸)→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉
 と、変わっていくわけですが・・・

日吉、若しくは日吉丸は幼名です。
当時・・・殊に武家は子供の頃の名を成人後に改めました。子供の頃の名が日吉。丸を付けて日吉丸と書かれた本もありますが、秀吉出世後に箔を受ける為、後でつけたのでしょう。
日吉神社から付けたとか、母に日輪が掛かり産まれたとかいう逸話もありますが、やっぱり創作でしょうね。

長じて木下藤吉郎。
名字(苗字)の木下ですが由来は定かではりません。
妻おね(ねね)の実家が木下であり譲り受けたとも、実父が元々木下であったとも、母の実家が木下であったとも伝わります。確実的な事は不明です。

織田信長に仕え出世しはじめると名字を羽柴とし、名を秀吉とします。
名字は一般的に先祖が得た土地に由来するものが多いのですが、これは秀吉が独自に作った名字です。
織田家臣団の両巨頭、丹羽長秀と柴田勝家から一文字づつ貰い合わせたものと伝わっております。

名の秀吉ですが、正確には藤吉郎と意味合いの違う名で、諱(いみな)と呼ばれるものです。
公的な文書に署名する時は秀吉を用い、一般的な手紙や会話では藤吉郎を用います。
農民は諱を持ちませんから、それだけ出世したということでしょうね。

天下を獲ると今度は豊臣秀吉となりますが、実は豊臣は名字ではなく姓です。
今では名字も姓も同じ意味に使われますが当時は異なるものでした。

姓は源、平、藤原など古来から伝わるもので、その中から足利・武田(など源)、北条・織田(など平)、姉小路・一条(など藤原)と言った名字の家が登場するのですが、秀吉は、もともと名字を持たない家(前出の木下説もありますが)の産まれであった為、姓ももってはおりませんでした。
今更、源、平、藤原などを称しても詐称扱いされるだけですから自ら姓を作って朝廷から下賜させてしまいました。

整理しますと
幼名:日吉
名 :藤吉郎
名字:(無し?)→木下→羽柴
姓 :(無し)→→→→→→→→豊臣
と、なります。
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石田三成



お寺の小坊主から秀吉に見いだされ五奉行筆頭にまで出世しました。
3杯の茶の逸話は有名です

詳しくは参考URLを見てみてください

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/
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秀吉について詳しいわけではないのですが、


 坂口安吾『白痴・二流の人』(角川文庫)に収録される「二流の人」という話は、黒田如水を題材にして書かれています。各人の心理のやりとりが面白いところです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041100 …
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  最も秀吉の出世に貢献したのは、やはり弟の豊臣秀長でしょう。

それから序盤の参謀の、竹中半兵衛、後半の参謀の黒田如水ははずせません。それから、賤ヶ岳の戦で活躍した福島正則、加藤清正、脇坂安治、加藤嘉明、片桐且元、平野長泰、石川一光、糟屋武則、桜井左吉など武断派の武将。それから官僚派としては石田光成や小西行長なども気に入られていました。
 名前は3回変わっています。木下藤吉郎から羽柴秀吉・そして太政大臣となって豊臣秀吉になっています。羽柴の時が最も活躍したのではないでしょうかね。
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別に詳しいわけではありませんが この前nhkに


出てたのですが 中国地方での高松城の水攻めの際に
川をせき止めることがうまくいかなかったのを
工夫して成功させた。。黒田?なんとか言ったような・・・
実質そのときのナンバー2だったそうです
そのあとの大返しも道中の農家に炊き出しをさせ
松明であかりをともして 予想を越える早業で
返ってきたのも彼の手柄だったそうです

あと昨年の大河ドラマを参考にすれば
やはり前田利家は1番信頼していたと思っていいでしょうね。
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Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

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Q宇喜多秀家が秀吉に気に入られた理由

宇喜多秀家が秀吉に気に入られた理由とはなんなのでしょうか。
秀家について調べてみるもあまり見当たりませんでした。
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Aベストアンサー

秀の字
偏諱の風習であり、上位者から下位者に与えるのは普通のことなので、特段、気に入ったからでないでしょう。
有力者の娘を貰うのは生き残りのために必要
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF
ここで見たら、池田家の姫は秀次事件で助命されていますね。秀吉としても敵に回したくないと考えての判断でしょう。
豊臣も名乗っているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F
大バーゲン状態です。

五大老に関しては、石高=兵力と考えれば、小早川は個人能力の評価でしょうが、宇喜多は、家臣になった長さ+兵力じゃないかな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81
宇喜多同等、それ以上で五大老じゃなかったのは
伊達、島津、佐竹で、家臣になってからの時間が短い。
逆に言えば、信長の後継者として秀吉が中央で権力を握ったあとで家臣になったのに家康は五大老というのが、特例だと思われます。
※ 信雄が臣従した段階が、中央部での権力掌握とします。1583年末。

秀の字
偏諱の風習であり、上位者から下位者に与えるのは普通のことなので、特段、気に入ったからでないでしょう。
有力者の娘を貰うのは生き残りのために必要
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF
ここで見たら、池田家の姫は秀次事件で助命されていますね。秀吉としても敵に回したくないと考えての判断でしょう。
豊臣も名乗っているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F
大バーゲン状態です。

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Q豊臣秀吉に詳しぃ方。。。

豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた時の、詳しぃ情報を教えて欲しいのですが。。。

あとは、豊臣秀吉の学校で習わなぃような事も知っている人がいたら教えてくださぃ!!

「豊臣秀吉」の事だったら何でもいいのでお願いします!!

Aベストアンサー

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階で、朝廷の中には、将軍職OKでないの?という、意見がでてきたので、漠然と時代の雰囲気として、東夷を征伐したら 将軍OKというのがあったのではないでしょうか?(これは、わたしの推測)

徳川家を征伐したら、その流れで東夷成功!将軍就任となったのでしょうが、実際はできなかったので、他の方法を模索した結果が 関白。
途中で、将軍といえば、頼朝・・・どんな事をやったのかを、研究させたかと推測します。

その結果、将軍にはつけなくても、頼朝の行跡をたどったのが、奥羽仕置きになった・・・と 秀吉の心中を おもんぱかるわけです。

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階...続きを読む

Q秀吉が最も恐れてた武将って…

徳川家康でも黒田官兵衛でも伊達政宗でもなく

蒲生氏郷だったんでしょうか?

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そこのところは今と同じですね。

Q豊臣秀吉

今宿題をやっているのですが「人物調べ歴史新聞」で豊臣秀吉を調べたいのです。
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Aベストアンサー

宿題、ということなのでlekkaさんは小学校高学年か
中学生くらいの年齢なのでしょうか。
(はずれてたらごめんね。)

ここのホームページはどうでしょう。
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もっといろいろなことがわかると思いますよ。

でも、NO1の回答の方がおっしゃるように
図書館に行ったほうがいろんな本があって探す楽しみも
増すかもしれません。
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小さいところだと本自体が少なかったりしますから。。

参考URL:http://www5b.biglobe.ne.jp/~shiteki2/hideyoshi/hideyoshiden.htm

Q豊臣秀吉公の家来で体格の良い武将は、どなたですか?

教えてください。

豊臣秀吉公の家来で体格の良い武将は、どなたですか?

Aベストアンサー

MNtori さん、こんにちわ。


たぶん、加藤清正だと思います。身長が190cmあったとされています。



詳しくはこのURLを参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3

Q豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。

Q【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫

【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫に当たる】


貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

NHKの歴史ヒストリアで芸能人の過去を遡って調べたら裕福な家庭ばかりだった。

貧乏な家庭は結婚できなかったのでもう子孫はおらず、子孫が残り続けるのは財力がある家系だけだった。

で、いまは過去に偉人で儲けたけど、公務員とかになって子供は自分の力で稼がないといけない今の時代は富豪から墜落者が次々出て来て、3世代で代が終わる。

経営者は子供に自分の会社を上げられるのでアホでも結婚が出来て子孫も残せる。

けど会社が潰れたら公務員と同じ。

子供に世継ぎを用意出来なかった家系が金持ちから転落して労働者に落ちていく。

労働者に落ちた父親が産んだ子供は世継ぎがないので貧乏な家系となる。運が良ければもう一度経営者になって這い上がることはできるがこれは稀である。

よっていま親が経営者でなく子供に世継ぎ出来るポストを用意出来ない金持ち連中は自分の子供が労働者に転落して自分がいま労働者から搾取して遊んでいる金が今度は自分の子供が搾取される側になる可能性があることを忘れたらいけないと思う。

さらに、いま少子化で全然子供がいないので労働者が不足している。

ということは富裕層ではないけど一般家庭の中流層と言っている人間たち親たちの子供が次の代の労働者に降りてこないといけなくなる。

貧困層は結婚も子供も産めないほど貧しいので子供がいない。

よって我が家は一般家庭。富裕層じゃないけど貧困層ではない中流層だと思っている家庭が1番危ない。

自分が大事にしている子供が貧困層。労働者に転落させられる候補1番だと思うべきだと思う。

ということで経営者の富裕層ばかりに頭をペコペコしていると自分は助かるけど周りは知らんと周りに無関心でいると周りとは実は自分の子供のことだったというオチに気づくのも時間の問題だと思う。

貧困層は結婚できないし子供も産めないので代が途絶えていっているのは今も昔も変わらないので今、存在している人に凡人はいない。

先祖は有名な豪族に行き当たる。

違いますか?

うちの祖先は有名な呉服屋だったんだ!とかうちの祖先は有名な繊維メーカーだったんだ!とかうちの祖先は有名な武将の家系だったんだ!とかに行き当たるのは偶然ではなくそうでない家系はもう途絶えていると言う方が正しい気がする。

うちは祖先は普通農民で。とかないと思う。うちの祖先はこのへん一帯の土地を持っていた農民だったんだ!とかはあり得るけど小作農が祖先とか。

うんこ取りが祖先とかもう途絶えてないと思う。

うんこ取りの元締めだったとかはあると思うけど。

ということは子供に席を譲れない公務員という職に親が着くのが公務員は安泰だというが子供は1番苦労すると思う。世継ぎが出来ないから。

アホでも職人が親なら親が教えて子供もその職になれるが公務員はなれないので公務員は絶対にならない方が良いと思う。

家系を潰して自分の代だけリッチに生き死にたいのなら良いが公務員で子供がバカだと生き地獄になる。

一家離散どころか家系断裂になる。

歴史から見て公務員になるのは危険な橋だと分かる。

【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫に当たる】


貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

NHKの歴史ヒストリアで芸能人の過去を遡って調べたら裕福な家庭ばかりだった。

貧乏な家庭は結婚できなかったのでもう子孫はおらず、子孫が残り続けるのは財力がある家系だけだった。

で、いまは過去に偉人で儲けたけど、公務員とかになって子供は自分の力で稼がないといけない...続きを読む

Aベストアンサー

>貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

↑の根拠は何でしょうか。
まさかとは思いますが、質問文で語っている「歴史ヒストリア」の内容がそれだと仰るのでしょうか。

そもそも、家系を遡れるものしか出演させていないのでは?


それに、質問者様は今時NHKを無条件で信じているのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=JLsqGC0Kd70

Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

Aベストアンサー

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む

Q三国志の武将を戦国武将に例えるなら?

今までにもそういう風に考えた方もおられるかなと思いまうすが、皆さんはどの三国志の武将・軍師がどの戦国武将と似ていると思いますか?

僕は個人的に
・曹操=織田信長
(どちらも武力・戦略に長けその者に実力があるならば身分の高さや引くさは関係なく登用する。が、自分が天下を取る為には反抗する者などへは手段を選ばない残酷さがある。個人的には信長は曹操の生まれ変わりではないかなと思ってしまう。)

・劉備玄徳≒豊臣秀吉
これは反感を買うかも知れませね(^^ゞ
頭の良さ・要領の良さ、そして一農民から成り上がって一国の皇帝(関白)になった部分、また晩年はどちらもおかしくなってしまった(劉備は関羽の弔い合戦に孔明の制止も振り切って行ってしまい結果死期を縮めた部分、秀吉は晩年朝鮮出兵でこれもまた失敗に終わり結果豊臣政権が傾く原因になった部分)などは似ているかなと。
劉備さんにはかなわないものの秀吉もそれなりに人徳はあったと思います。(優秀な武将も集まりましたし)

となると残るは
・孫権≒徳川家康?かなとなるのですがこれは無理があるので却下(笑)

と個人的にはまぁこんな感じです。
皆さんの「この三国志武将は戦国武将のこれに似ている」というのをあれば聞かせて下さい。

今までにもそういう風に考えた方もおられるかなと思いまうすが、皆さんはどの三国志の武将・軍師がどの戦国武将と似ていると思いますか?

僕は個人的に
・曹操=織田信長
(どちらも武力・戦略に長けその者に実力があるならば身分の高さや引くさは関係なく登用する。が、自分が天下を取る為には反抗する者などへは手段を選ばない残酷さがある。個人的には信長は曹操の生まれ変わりではないかなと思ってしまう。)

・劉備玄徳≒豊臣秀吉
これは反感を買うかも知れませね(^^ゞ
頭の良さ・要領の良さ、そし...続きを読む

Aベストアンサー

 曹操→織田信長。圧倒的な勢力というわけではないが、都に近い場所を広範囲に占拠し、ほかの武将より「天下」に近かった。
 孫権(呉)→毛利家。天下第二位の領土を誇りながら、創業者が亡くなってしまうと守りに入る。土地が豊かなので積極的に領土を広げようという野心はないけれど、相手に攻めてこられると必死で戦う。
 劉備 →斎藤道三。そこらあたりをうろうろしてるあいだにいつの間にかそこそこの領土の主になってしまう。でも後がつづかない。
 諸葛亮 →真田幸村か石田三成。落目の主家を裏切れないいい人。軍略よりも内政に秀でていた点は三成に似るか。最後やぶれかぶれになってしまうのも似ている。


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