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または変化ですか

A 回答 (27件中21~27件)

 分からない!と言うことが分かる!と言う意味なら何が問題かを把握できない事が分かったということですね。


分からないことが分かる!と言うことであれば問題の所在がわかった!と言うことです。ついでに問題の解決法が会得できた時、完全に分かった!と言うことになります。

「または変化ですか」との質問ですが、変化の定義はなんでしょうね?わかって言っていますか?

この回答への補足

もうすぐ締め切ります 
できれば応答願います

補足日時:2011/08/28 01:26
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この回答へのお礼

定義の定義は何?

お礼日時:2011/08/27 23:53

(1)理解すること。


数学の公式や鉄棒の逆上がりのように、
実感を伴って自分の身につくこと。

(2)言葉遊び。
不可知であることを悟ること。諦め。
理解できないこと、説明できないことが
その通りであると認めること。

形而上形而下に関わらず、
自己の経験から起こる変化だと思います。
あるいは、ここではないどこかにある真実に
自ら近づく、自ら真実を獲得するという変化でしょうか。

この回答への補足

まだ解釈中・・・短いけどムズい

補足日時:2011/08/28 01:27
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この回答へのお礼

処理枠

お礼日時:2011/08/27 23:51

分からないことがが分かる とはどういう状態


または変化ですか

○ 変化ですね。「わからないことがわかる」と「知っていることがわかる(腑に落ちる)」同じような意味ですが、明らかな状態の変化を表している言葉です。
暗記という知識の蓄積も一つの状態を表しています。暗記は人の個性に左右されますが、知識も使いこなせば智恵という状態になります。でもこれは便利に使える道具という位置づけですから「わかった」というレベルの状態ではないのですね。「わかる」ということは「本質をつかんだ」という状態のことですから、さらに一歩進んだ状態のことですね。
先日、ラジオで子供の質問に答えるような番組があり、聞いていますと子供から「竹はなんで早くおおきくなるの?」という質問があり、それにたいする先生の答えは「なんとかという成長ホルモンが多いから早く成長するんだ」というものでしたが、これで子供は納得したのでしょうかねと笑ってしまいました。
これは回答になっているようななっていないようなものですね。理由は簡単で先生が竹が早く生長する本当の理由を知らないからですね。成長ホルモンは手段でしかないわけですが手段だけ知識的に知っているのでその知識で回答しているわけですね。
私であれば、「竹は子供の内はやらかくておいしいので、熊や猪に食べられてしまうのです、それ故、防衛本能として成長ホルモンをたくさん出して早く成長するように進化したんだね。あまり早く伸びると折れやすいので節を作って早く伸びられるようにしたんだよ。」と答えますね。
さて、こんな話で「わからないことがわかる」という状態が推測できましょうか。

この回答への補足

天下りの知識は足場が見えないかもですね

補足日時:2011/08/28 01:28
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この回答へのお礼

局在とは

お礼日時:2011/08/27 23:51

分かる=>構成要素に分けることができる。


解る=>全体を理解できる。
判る=>全体に関して、白黒、上下、左右などの判定ができる。

分からないことがが分かる=>「分からないことがが判る」と書きます。
構成要素が最小単位であることが判定されたってことです。たとえば、長さに関してプランク長が判明したように。

この回答への補足

最後の一文がExampleかInstanceか暗喩か不明です

補足日時:2011/08/28 01:29
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この回答へのお礼

符号処理も

お礼日時:2011/08/27 23:50

自分の信じているその他のものごとと整合することが明らかになって、いつでもその整合性の筋道を辿ることができるという自信を持つことができ、信じられるものごとの範囲が広がったということだと思います。


そのような状態に持ち込む為には今まで自分が信じていた事の方を壊して再編成する必要がある場合もあるわけで、そういった場合には「分かる」状態になる為に大きな苦労を伴うのだと思います。
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この回答へのお礼

漸進

お礼日時:2011/08/27 23:49

 こんにちは。



 分かるとは 妥当性があるとこころで同意することです。

 妥当性があるというのは 経験合理性に照らし合わせて間違いがないと捉えることです。

 経験合理性という基準に間違いはないのかと言えば それは おのおのの主観がその認識や判断に共通であるかどうかで決まります。

 主観が共同化されうるということを意味しているわけですが その主観は むしろ感性およびさらにその奥の直感(および直観)が いわゆる共通感覚にもとづき その基礎的な内容を共有し得ると考えられているのだと思われます。
 そこから 経験合理性という或る種の物指しが共通に持たれます。排中律から始まります。

 もしそれでもはっきりしないというならそれは すでにその共通感覚などについての根拠を問わないでよいとされている・つまり公理だと見なされているというかたちなのだと思われます。



 それでは 一部の主観がはっきりと異種としてのごとく 共通ではないという場合には どうするか?

 ――その状態で 《分かる》ようになるまで 対話を重ねつつ互いに探究もしつつ ときを待ちます。





 あるいは言いかえると 《分かる》つまり《分けられる》というのですから 《〔妥当性があると〕知っていること》と《知らないこと》とをきちんと分けて認識することがその内容です。

 知ればそのぶん知らないことが減るのかどうか これは よく分かりません。けれども 知ったということにそれなりの意義があることは じゅうぶん保証されているはずです。

 主観を共同化した場合には もはやその妥当性をめぐって――見落としていたと気づく重大な間違いが現われるのでない限り――争うことはないからです。


 あと問題としては 《一部の主観が共通ではないという場合》の特殊な事例があります。
 ひとによっては 自分から発信はするが ひとからの受信はこばむという半鎖国政策において《共通ではない》ことが起こります。

 こちらから説得はするのですが 相手はこたえないという場合です。

 気長にみなで知恵と力を寄せあってこの事態に応えていくことになります。
 一人や二人の説得ではどうにもならない場合が起こるようです。

 つまりは 分からないことが分かっても まだ部分的に分からないところが残ります。
 一般性ということに根拠はほとんどないのですが 一般性を人びとは 共同主観とするようです。つまり常識ということであり この常識が分からないという人が一部にいるかも知れなくとも 共同主観は《分かっている》こととしてあつかわれます。

 それでは 時代や地域によって 異なる共同主観が持たれてしまうのではないか?――そのとおりです。
 しかも そのときにも おそらく《生命および人間としての存在の尊重》を――これのみでよいというかたちで―― 常識にとっての基礎の基礎として・あるいは至上命令とさえして 主観の共同化を推し進めて行く。この過程が《分かる》ということと一体になっていると考えられます。

 存在とその意志の自由がとうとばれる。そしてこの自由が人びとそれぞれにとって互いに同等であるところから 平等が持たれこれも尊重されます。
 自由意志による判断と自己表現 これが一人ひとりについて尊重されます。これを社会にとっては 民主制として尊重します。
 これらが 《分かる》ことの保証装置となります。
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この回答へのお礼

消化するのに5億秒

お礼日時:2011/08/27 23:48

egoが持たされているカテゴリーが自己に整理して受け入れたということもその一つの態様です。

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この回答へのお礼

琥珀と森博嗣 
Determinant

お礼日時:2011/08/27 23:45

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