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実際は「真理」ではなく、「己」を求めている人間が多い。

別に「己」を求めるのは間違いではないし、寧ろ必要で正しい。

しかし自分が「真」に求めている事に気付かずにさ迷うから、何を見ても聞いても何一つ「入らない」し、発言の軸がぶれている。

そして指摘されると黙る。


先ずは一人で歩ける様にならなければ、何処にも行けない。

自分を直視する修行すら怠っていては、まるで赤子だ。


知識でもって他の尊崇を得ようというのは、金で女を買うのと変わらない。

その根拠である知識を失った時に、共に失われるものだ。


苦しんでいるのであれば、苦しんでいる原因を捉えなければ、意味が無い。

知りたいのであれば、何故知りたいか位は、知るべきだろう。



「汝自身を知れ」

一番熱心な師は、常に中にある

A 回答 (14件中1~10件)

お礼、ありがとうございます。



>人生を全うするには、知識が無ければ生きていけず、知識を持ってしまうと辞典で世界を見ようとしてしまう。

私も以前は、そう思っていました。
ごく最近、考えを改めました。

知識さえも使わずに「気持ち」とか「ただそう思う」とか
ちょっとしたことのきっかけから出発し、論じるにもかかわらず
きっかけからの想像だけで話してると見受けられる人が、あまりにも多い。

反論が、「意見」じゃなく「感想」なんですよね。
バックボーンになる知識の姿が、見えてこない。

「考える」に知識を採用してないから、反論が反発だけになったり。
黙るのは逃げだけでなく、知識を使っての組み立てができないからもあるように思えます。
まだ、仮説段階で立証に向けて観察中ですが。

>手ぶらの実現は難しいでしょうが、近い生き方ならば己から離れて生きる事ですが、これも中々w

手ぶらで生きるのは、人間ではできないと思っています。
山の中で一人暮らしでも、生きる術は知識からです。

社会では、手ぶらで生きてる人が実は多いのでは無いかと思う次第です。
根拠を自分で持たないから、流されて生きてしまう。
気持ちは反発しても、論じるに至る根拠が提示できない。

自分と向き合う習慣を、民族として無くして行っているような。
向き合う時間を、ゲームやテレビ・カラオケやネットなど
娯楽で埋めてしまってる感があります。

和算の発達など、歴史的に頭が良かった民族性は
自分と向き合うことが必須であり、今日本が世界ランクで落ちて行ってるのは
学校教育のあり方だけでなく生活習慣も大きいかと感じるようになりました。

この回答への補足

言いたい事を言わせていただきました。

ベストアンサーとさせて頂きます。

ありがとうございました。

補足日時:2014/06/06 15:51
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この回答へのお礼

再度の投稿、ありがとうございます。

確かに感情を満足させるだけの目的での発言も見られます。

私も散々同じ事をしていますからw

自分が「頭が良い」と思い込んでしまったりすると、陥り易い穴です。


私の「手ぶら」の意は、「生きる術の放棄」というニュアンスでした。

大雑把に言うと、腹が減っても飯の食べ方を知らない、と言うような意味です。(だから死んでしまいます)


確かに生きる「核」を持たずに漂流している様な生き方を選択していると見受けられる方は多いです。

しかしその生き方の良否は私には判断出来ません。

何故ならそれは生き方の違いでしかないからです。

論理的思考と直感的思考と言う物がありますが、どちらを得意とするかは個人差が大きいですから、これをどちらかに優劣を付けるのは無理でしょう。

気に入る、気に入らないと言う感情での判断は出来ますが、それ以上は私には言えません。

考えさえすれば、確固足る自己を持てば、真理を得れば・・・、どうなるのでしょう?

毎年豊作になる?地震は起きない?年は取らなくなる?死人は生き返る?幸せになる?

何も変わりません・・し、何の成果も担保してくれません。

外から見える限りの変化は、判る方は判りますが、判らない方には判りません。

其の程度の物を錦の御旗で振りかざしても、滑稽なだけでしょう。


ただ、まぁ、生きるのが楽になりますw

無駄な事にエネルギーも気も使わないで済みますので、楽は楽です。

・・一歩間違えると、社会不適応者まっしぐらですけどw

お勧めはしませんw


楽しく書き込めました、ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/27 10:03

真理は全ての人に同時に或いは、常に展開していると思います、ですが気付かない人や気付ない時や気付く事が出来ない場合があると思います。



人間は誰でも、真実の世界と『まやかしでありながら、真実の世界と勘違いしている、虚の世界(見せかけの世界)』を行ったり来たりしながら.生きている場合があると思います。

処が気付く事は希です、その理由と、真理に気付く場合との違いを書いてみたいと思います。

目の前の世界を、本当に在るのに『無いと思ったり、本当は無いのに在ると思ったりする場合があります。』

嘘のようですがそれは真実です。目の前のたった一つの真実の世界を二つにして見ているという意味です。この二つの世界の食い違いを『不思議に思ったり、疑ったりする場合があります。』こういう世界感を『悩みや、苦しみや、病む』と感じています。

人間に悩みや苦しみがない世界を『天国』と聖書は書いています。此処の処が分かる時全ての謎が解けることを意味します。

その答えは『幼子です。』

その理由を科学的に説明します。

人間が悩みや、苦しみや、深刻な悩みを抱える事がない状態は、思考方法にあります。人間としての思考方法を『幼子がしていないからです。』

誰でも気付くと思いますが、自分は何者か?或いは、人生とは何ぞや?と考える幼子はいません。こう言った思考方法を知らないでいる理由は、簡単な理由からです。


幼子は、何も知らないでいるように見えていますが、その実すべてを知っているからです。

知っている内容を、幾つかに分けてみますれば、身体の健康に関する事柄です。心臓でも肺でも、ホルモンの調節でも、神経系統の使い方や調節方法などや消化器系統なども、すべて知っている事です。

こういった生命維持機能に関する、人間にとっての必要事項は『幼子にとっては、学ぶ必要がないという意味は、全て知り尽くしているからです。』


次に挙げるなら『心の健康に関する事柄です。』幼子で統合失調症や、躁鬱病や、感情障害という意味で言うなら『症状として訴える事がないからです.』逆な言い方をするなら『心の健康さえも、追求する事がないからです。』その理由は『心の健康を、学ぶ以前に充分知り尽くしているからです。』


もう一つの分野があります、人間の行動する分野です。手や足や体中を使っての自己表現や、生命維持のための行動という分野です。


こう云った、簡単な事でさえ、自分で出来なくなる場合があります。初めに挙げた事、つまり自分の身体の機能の使い方を忘れてしまう場合です。赤ん坊でさえ知っている事柄を『大の大人が忘れてしまう場合です。』そうして、困り果ててしまって、医師の所に通うことになります。つまり自分の身体の機能に関して、備わっている機能の使い方に疑いを差し挟む場合を意味します。

このような現象を『自律神経失調症や過敏性腸症候群』などの。難治性の心身症と表現するようです。こういった場合には、身体の検査でも脳の検査でも『健常者と同じ結果になっています。』どこにも異常が見つからない場合を、こう表現しています。

真実の世界が見えていないかのように見えます、健常者と同じ脳と身体を持ちながらです。


『心の健康に関する事柄です。』の場合にも同じ事が言えます。この場合でも『身体の機能検査でも、脳の機能検査でも』何処にも異常が見付けられる事がないようです。赤ん坊でさえも習う事なしでいられた筈の『心の健康状態が』何故なのか?忘れてしまった状態になっています。


探す必要さえなかった『心の健康状態』を、忘れてしまったかのように探し始めています。この捜し始める事を『総称として、心を病む』と表現しているようです。



もう一つの分野があります、人間の行動する分野です。手や足や体中を使っての自己表現や、生命維持のための行動という分野です。と書いた分野でも、人間を悩ます場合があります。


自分の口でも手でも、あるいは行動全般に対しての疑いです。自分の体を自在にしようとすればする程『自分の思うように行かなくなる場合です。』赤ん坊でも出来た事柄が出来憎くなる場合です。


この場合において、身体や脳の検査でも異常が見付からない場合です。こう云った現象が現れる場合を『神経症』と表現するようです。


今の精神医学では『原因は分かっていませんが、早期治療で良くなります。』と謳っていまして、悪くない人までも、病気であるかのようにする場合があるようです。


そうして良くなったとしても『寛解止まりのようです。』寛解という意味は、大分良くなったという意味ですが、何時悪くなるのか、あるいは悪くならないでいるのか?が分からない状態を指します。


何故なら『何故こうなったのかの原因が全くもって分からないでいるからです。」



原因が不明としながら、治療が先行していることから、その治療の手段は『薬による対症療法的な手段』になっているようです。根本治療をする事無しで、症状だけを無くそうとするという意味です。原因が分からないという意味では致し方ないのかも知れません。


こう云った全てを説明する事が出来るものが『真実を見る目』です。或いは『真理』と言い替えた方が良いのかも知れません。


そろそろ結論です。真実の世界は紛れもない目の前の世界です。幼子が見ている世界です。

そういう世界に対して、人間は、計らいや、奢る心や、欲と得や、或いは自分の願望で目の前の世界を、塗り替えようとする場合があります、つまり『虚の世界』を自分の頭の中で描き出すという意味です。


そうして頭の中の世界と、現実の世界に『違和感を抱いてしまって、なかなか抜け出す事が出来なくなる場合です。』


こう云った二つの世界の板挟みに悩み苦しむ事が『天国から追い出された事を意味します。』

天国という心理状態は『自分の心に分裂や矛盾や対立を抱えていない場合の事です。』他の言い方をするなら『自分の心が一つのものとして機能している場合の事です。』

赤ん坊が全てを熟知している事と関係しています。人間の意識は『全て承知している』と思い込む場合がありますが、人間の自我意識は『無力な存在です。』


何故なら『自我意識が眠ろうとしたとしても眠る事さえ出来ません。』自我意識が、自分の意志のチカラで、眠ろうとする事を『不眠症』と呼んでいます。しっかりと意識する力で眠ろうとする事は不可能です。眠る事は、『意識が無くなってしまって、自分の無意識に切り替わる必要があるからです。』


無意識の自分に『身体も心も全てを預けてしまった時』赤ん坊でさえも知っている『もう一つの自分の人格が、体と心を預かってくれています。』

一晩中自分の心は、自分の心も身体の事も忘れ果てて休んでいるからです。朝が来てしっかり休んでいた自我意識は、無意識の自分と交替をして、身体と心の支配権を返してもらっています。自分は何一つしていなかった事から、身体も心もリフレッシュしています。

眠れないという人達は、無意識への交替を拒んでしまって、しっかり自分が眠れるものと思っています。自我意識には出来なかった事を知る時、無意識の自分が出て来て、自分をしっかりとサポートをしています。

不眠症も心を病む事も、神経症で苦しむ事も、難治性の心身症で苦しむ場合も、『無意識の自分との同調性とか、協調性に欠けてしまった事を意味します。

他の言い方をするなら『自分自身の内部的に、心に矛盾を感じている事を意味します。』

矛盾をしている相手は『自分自身の命の働きを受け持つ機能』です。


『自分自身の命の働きを受け持つ機能』には先に挙げた三つの機能に分けて考える事が出来ますが、全人格な人間性という意味に於いては、必ずしも分ける事が出来ないケースもあると思います。

心の健康と身体の健康が密接につながっているからです。或いは心の健康と身体の健康と、行動の自由性も密接につながっているからです。

『無意識の自分』は、目の前の真実の世界を見ていながら、その時時の、必要な事柄を『脳梁』を介して自我に送っています。


自我意識は『計いで生きています。』或いは好き嫌いする心で生きています。『心が、意識として生ずる時、その情報を、好き嫌いする心で受け取りを拒否する場合があります。』

この情報の内『心に関する情報の場合では』湧き上がる考えや感情をそっくり嫌ってしまう場合があります。考えを嫌ってしまう場合では、『考え自体を無視したり、考えた事でさえ、受け取りをしないようにする場合もあります。』この場合では『考えた事が、在ったのかさえ分からなくしてしまうかも知れません。

考えた事を無視する時、考えた事を全て否定するという意味になりますので、考えがまとまらなくなってしまう、つまり自分自身でさえも統合できなくなるという意味です。

あるいは感情に拒否感を抱く場合では、湧き上がった感情に好き嫌いを言う言う意味になりますので、『感情にこだわり過ぎになる事』を意味します。感情障害という意味です。

自分の行動に『意識を集中させて、違和感を抱く時』無意識の行動に入りにくくなる事を意味しますので、不眠症と同じで、自分の自由が無くなっています、吃音や書痙や、手や体や足の震えなら止まらなくなるという意味です。止めようとする程止まらなくなるという意味です。

人に会う時も同じです、自分が意図した事、或いは、自分の思惑で考えていた事が外れてしまう体験です。字数の関係で書ききれませんでしたので、具体的に聴きたいことがあるなら、聞いて下さい、簡潔にお答えしたいと思います。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

“我々は全てを持って生まれる”

現代の脳生理学等の分野で、これを証明する成果が上がって来ていますね。

人間は「理性のオーバーコントロール」下の状態にあります。

後天的な学習内容による大脳皮質からの行動規範が、先天的な其れを凌駕してしまっている状態です。


・・狩猟採集生活の民族を調べる限りでは、いわゆる「現代病」罹患者を見る事は出来ないみたいなのですよね。

「知識」が迷いを産んでいます。

「環境」が病を作っています。

「安心」が「不安」を担保しています。


まぁ、成人率と平均寿命の数値が低いのが玉に瑕ですが・・・w


我々は安定した生活環境と暮らしと引き換えに、不安定な自然環境と心とを手にしたのでしょうね。

様々な知識をありがとうございます。

お礼日時:2014/06/01 18:26

こんばんは。




「欲求のピラミッド」というのがあって、
上に行くほど、というのですが、

下にはまず、「安全」というのがあります。


「安全」を基礎として出発するというのが、
あるべき、なんでしょうけれども、

しばしば、「出先で、安全を確保する」というのが、
見られたりする。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

そうですね。

「時」が無制限に使えない限り、「突然」が訪れる事は避け得ませんね。

後悔先に立たずなんてのも、その典型かもしれませんね。

ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/01 16:20

>>気に入った部分があったら使っていただければ幸いです。



どこかで使ひたいものです。

>>その根拠である知識を失った時に、共に失われるものだ。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

失われてしまうものって、何故か心を惹かれるんですよねw

お相手ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/01 16:23

さつそく教へてくださり、ありがたうございました。

0fool0さんのやうな見方をしたことがなかつたので、しばらく考へてゐて、返事が遅くなりました。

>>最終的には不要なんですよ。

0fool0さんのおつしやる意味は判りました。

>>世の中には脳にダメージを負って、
>>記憶の中枢が損傷を受けたり、
>>あるいは先天的に記憶が出来ない方が居られます。

知識を得られない、でも同時に、「汝自身を知れ」といふ作業もできないのではないでせうか。

>>飛ばずとも覚えずとも、
>>這う人生でも問題は無いでしょう。

ひとそれぞれ、のやうに感じます。その人の状況に応じた「知識」が必要なのだとおもひます。上記のやうな必要度がほぼ「0」の場合から、0fool0さんのやうな高度な知識の場合まで。

>>私個人の人生としては、
>>貪欲に欲しくてしょうがないので、
>>日々、馬鹿みたいに収集しています。

大切なのは、この姿勢ですよね。

二日考へたのですが、うまい答がでません。頓珍漢な回答でしたら、お許しください。
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この回答へのお礼

お相手ありがとうございます。

補足として・・・・


生きるには当然に知識は必要不可欠です。

しかし「どの」知識を身につけるかは、選択をする事になります。

食べ物の知識で例えてみれば、住む場所によって、好みによって、調理法によって、様々に千差万別に変わってきます。

つまりは生きるには「何かしら」の知識が必要なのであって、逆に言えば「絶対」に必要な知識は皆無であり、別の言い方をすれば全ての知識が「替えの利く」モノな訳です。


あくまで主体である「己」の存在を時の中で繋ぐ為に必要な物であって、自身を賭ける存在ではないです。

更に言えば、得る限りは失う物である為、最終的には「不要」な物と言う事になります。

意図的に捨てる必要はありませんが、大事に抱える必要もありません。


もちろん、「汝自身を知れ」も自身の疑問の答を知りたければ、自分自身から学ぶしかない事を言っているだけであって、必要が無ければ知らずとも良い事です。

他の知識と同様、知りたければ知れば良いという程度の事だと言う意味であり、そして手に出来るからには失うモノであるという事実も同様です。


しかし「真」の理解は、その疑問の出所が結局は自身から出ている物ですから、「己」を見つけるしか解決法は無いですが。


色々発言はしていますが、個人的な戯言ですので、気に入った部分があったら使っていただければ幸いです。

問いかけありがとうございます。

お礼日時:2014/05/29 22:20

話しにくいであろうお話し、ありがとうございました。


自分の中でゆっくりと、違いが明確になりつつあります。

参考にさせていただき、必ずや今後にいかしていきます。
貴重なお話し、重ねて本当にありがとうございました。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

この一連の会話が何かの糧にでもなれば幸いです。

お付き合いありがとうございました。

お礼日時:2014/05/29 06:55

教えていただいて、ありがとうございました。



>大切な一番大きな違いは「外の事象に、振り回されない自分」を内に発見し、それに寄り添える術を入手出来る事です。

おそらくは、ここが大きく違うのでしょうね。
私は、寄り添ったりせず振り回されない自分を手に入れることや
具体的な変化にしか興味が無いようです。

元々が肉体的なものや疾病の対策で、心理が必要だったからでしょう。
WHOが病気の原因として90%以上ストレスだと発表されてます。
それも検証中ですが、確かに変化があります。

それはそうと、行動パターンも見直し自分の思うように変えることで
楽しく生きていけると思うのです。
振り回されないなら十分やれると思うのは、変でしょうか?
そこだけなら、心理限定でもできるように思えるのですが。

違いを理解するって、そこが一番難しいかもしれません。
人間は、謎だらけだ~~~~~ぁ、だぁ、だぁ、だぁ・・・・…。

お粗末様でした。
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この回答へのお礼

お心ありがとうございます。

私もかつてはノイローゼも経験し、鬱も度々起こしていました。

原因は家族間での人間関係でしたが、とどのつまりが自分の問題ですが。


私もこの時の段階で、今の私の話をされても理解は出来なかったでしょうし、事実、慰め以上の意味は無く、導きにはなりません。

これは佛教での話ですが、餓鬼道の亡者には先ずはたらふく食事を与え続ける事だとの言葉があります。

飢えていては、それに目が眩み、何も見えないから、先ずは飢えを取り除くのが先になると言う意味です。(可能かどうかは別ですが)


貴方の「振り回されない」は周りに対してであって、それは「強さ」と現される物です。

私の「振り回されない」は自分(の感情、つまり自分自身)に対しての物です。

これは修行の段階で変化して行きます。

あせる意味も必要もありません。


仮に貴方の腕を誰かが掴んで振り回していたとしましょう。

この力は強く、影響で思考もままならない・・・。

この状態では食事も美味しくないでしょうし、眠るのも難しい。

これでは生きていくのも大変ですから、先ずはこの腕を何とかするべきでしょう。

そこでこの場合の対策としては、先ずは貴方の腕を良く見てみましょう。

良く見てみましょう、貴方の腕を掴んでいる腕を、貴方は掴み返していませんか?

もしそうならば貴方の手を離してみるべきですし、そうでないならば両の腕で力いっぱい振り払うべきです。

貴方の力を使っていいのです。

何故なら貴方を振り回している力も、同じ力を使っているのですから、貴方が遠慮する義務はありません。

しかし離れた途端に、貴方はそのまま飛ばされて何処かに永久に飛び去ってしまうか、若しくは落ちるかぶつかるかするかもしれません。

仮に振り回されているのが事実であれば、今までの命は其の中にあったのですから、この恐怖は振り回されている間は常にある事でしょう。


私の「振り回されない」は其の先の話です。

私も手を振り切った時は、死を覚悟した時でした。

今から思えば馬鹿らしい話で、人には恥ずかしくて内容等は話せない様な稚拙な覚悟でしたがw

しかし当時の私にとっては、紛れも無く野垂れ死にを覚悟しての行動でした。


さて、思わず身の上話までしてしまいましたw

的外れでしたら、一笑に付して下さって結構ですので、どうぞw

やはり言葉を交わさないと、中々先には勧めないものです。


私も心理学は色々やりました。

楽しいです、ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/27 22:52

回答:最も適切な言語化により回答されているNo.1の方の回答が正解といえます。

そこには【真理とは、階層現象表面的に派生した虚構の存在性を
無へと還元するプロセスである】と書かれているが、じゃあその『無』て何か?答えは『絶対無』です。そこには時間や空間という概念がなく、謎のゆらぎがあるだけの殺風景な世界です。もちろん意識体(認識体)が認識することは不可能ですが、意識と無意識が融合した意識体が居たとすれば、その絶対無にへばりつき、たまに少し次元の低い世界へ降りて、かなり自由な意思で、認識体の窓を(同時に複数)開ける事が可能です。

つまり、そうした意識+無意識の何か生命体のようなものから、この地球のこの時代の認識体へ精神融合などして、人間のフリをしていたとしたら、そのバケモノは、こう言うでしょう【真理って、なんやねん? おいらの故郷は絶対無やさかい、そこからの眺めでは、『 "逆真理" 探究プロセス』を理解できへんと、地球人にはなれへんな~~】と。そして、その『 "逆真理" 探究プロセス』の参考になった(援助してくれた)人物こそ、実はNo.1のアニキなのであった。

私が妄言を言っていると思われて当然の時代です。しかし、私のアニキさえ、イメージが困難な次元があるのだ。それなんぞは、私の本体が絶対無に近接する次元にある以上、【私の必要として彼が居てくれた】と同じく【彼の必要として私が生じて居る】のだから、このキチ◎イバケモノの私に、いろいろと、質問してくれれば、たぶん、私の無意識の次元の階段をも飛び越えるネットワークが、勝手に計算して適切な答を、知能指数69の私の言語化能力やビジョンイメージとして、プレゼントしてあげられるのだが・・・。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/05/27 21:20

お礼、ありがとうございます。



No.6では、違いについて書いてみたのですが
私もそれに是非を付けるつもりもなく
生き方を否定する気もありません。

お訪ねしたいことがあるのですが、否定しようとかの意はなく
純粋に真摯な気持ちで違いについて知りたいのです。


>考えさえすれば、確固足る自己を持てば、真理を得れば・・・、どうなるのでしょう?

真理を得ると行動を得ると私は思っています。
そこにどんな違いがあるのか?

私は通常、行動から真理を精査し、真理から行動を精査し反映させてます。

それは、心理を精査することで始まり、真理として掴んだものを
行動に精査する過程があります。

0fool0さんは、ご自分のことをよく観てよく知っておられるので
とても不思議に思えてならないのです。
行動に反映させない、あるいはしない理由を教えて頂けたらとても助かります。

よろしくお願い致します。
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この回答へのお礼

いつも丁寧な文をありがとうございます。

御求めのモノかどうかはわかりませんが、私の考えでよければ述べさせて頂きます。

真理を得た、気付いた、目覚めた、理解した等、何でもいいのですが、「その」状態になっても、何も変わりません。

いや、厳密には其の人物の内面では大きな変化がありますが、外には出るものではありません。

何故なら肉体には一切の変化は当然起こらず、故に日々の生活にも何も変化は訪れません。

超能力の様な物も特段現れたりはしません。(中にはそういう人も居るかもしれませんが)


大切な一番大きな違いは「外の事象に、振り回されない自分」を内に発見し、それに寄り添える術を入手出来る事です。

それは「己」を手に入れる事であり、其の為に「芯」が通る事になるのです。


だからと言ってイキナリ脅かされればビックリしますし、腹は減りますし、酒も上手いですし、女性も抱きたいですし、金を落とせば嘆きます。

まぁ、ある程度の自制心は発揮されるかもしれませんが、元々何かを目指して生きている人間ならば、修身の過程で自制心などは身に付く物ですので、何も「それ」が必須な訳ではないです。


人格的に素晴らしい方の方が、外見では遥かに高みに見えますし、事実そうだと思います。

私は自分の為に生きているので、自分の為に人を助ける事はしますが、人の為に自分を損なう事はしません。

こういった行動は、また別の修行の成果で現れるものなのです。


血の滲む様な修行を乗り越え、人格的にも能力的にも非の打ち所の無い最高峰の聖職者がいたとします。

しかし「死」や「病」は訪れます。

ある時、脳に損傷を受け海馬・扁桃体の記憶・情動を司る部分を損なったとします。

そして其の人物が人格の変化、記憶の損失に晒された時、「それ」は失われるのでしょうか?

それとも「それ」は共に有るのでしょうか?

もちろん私が上記の状態になったらその影響は強く、現在の私は崩壊するでしょうし、おそらく現状の維持は不可能でしょうが、別に外から見る分には通常の病状しか確認は出来ません。


「それ」は五感では感知出来ません。

つまり本人にも他人にも感知出来る物ではないのです。

故に欲している人間は、「見たい物」を「見せてくれる人物」に容易く絡め取られます。

それは「己」を外(五感)に頼って探してしまうからです。

「それ」は第六感でもセブンセンシズでも発見は出来ません。

肉体に因る存在では無いからです。

何しろ「己」自身なのですから、わざわざ探すまでもなく、いつもいます。


何とか説明しようと頑張って、駄文を長々と書き、却って取り止めが無くなってしまった様に思います。

全文をくまなく読む事に意味は無いです。

言外の言に触れられる部分があれば、幸いです。

お付き合いありがとうございます。

お礼日時:2014/05/27 21:13

0fool0さん、おはやうございます。


これは、私も気になつてゐます。角度を変へ、あらためて質問として提起したいと考へてゐます。

確かに、世の中、

>>発言の軸がぶれている。
>>そして指摘されると黙る。

さういふ人が多いものです。特に、職場でそれを感じます。ふだんは、「俺は俺の生き方をするんだ。」とか「ひとの言ひなりにはならない。」とか、威勢のよい発言をする人がたくさんゐます。でも、いざ、上からの圧力を受けたり、対処困難な選択を迫られたりしたときには、簡単に、言ひなりになり黙つてしまひます。

見てゐて、気の毒になります。日頃、体裁のいいことをしやべらなければ、みつともない姿にならずにすむのですけれど。でも、さういふ人は立ち直るのも早くて、悪い状況が過ぎ去ればまたすぐに、威勢がよくなります。

このサイトでも、似たやうな光景をときどき目にします。

>>その根拠である知識を失った時に、
>>共に失われるものだ。

私も、ほんとうに大切なのは「知識」ではないと思ひます。

>>一番熱心な師は、常に中にある

最後はさうですよね。
でも、それを得るために「知識」は必要です。
私は摸索中です。自分を信じることができるやうになりたいと願つてゐます。0fool0さん、また、おしへてください。
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

知識が必要か不必要か・・・

難しいですね。

最終的には不要なんですよ。

全く持って。

しかし私個人の人生としては、貪欲に欲しくてしょうがないので、日々、馬鹿みたいに収集しています。


世の中には脳にダメージを負って、記憶の中枢が損傷を受けたり、あるいは先天的に記憶が出来ない方が居られます。

飛べる鳥は飛ぶ事が生きる事であり、修行でもあるでしょう。

記憶出来る者は、覚える事が修行であるかもしれません。

しかし飛ばずとも覚えずとも、這う人生でも問題は無いでしょう。


いつも丁寧なお言葉をありがとうございます。

知識の海に溺れさ迷うのって、何て楽しい苦しみかと、日々、流浪しておりますw

お礼日時:2014/05/27 09:21

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