プロが教えるわが家の防犯対策術!

 
  心なき
  身にも あはれは
  知られけり
  鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ

 (1) 文学としての解釈の問題もあろうかと思いますが 哲学として問います。(文学としての問題が 哲学としても重要だというご見解のばあいには そのように述べてくださるよう願います)。

 (2) 《こころなき》は 作者の本心か?

 (3) すなわちただ自嘲気味に言っているに過ぎなくはないか? その場合にはむしろ世の中の人びとのほうこそが 《心なき》状態に落ち入っているとまで――謙虚の気持ちを保ちつつもどうしてもその気持ちさえをも突き抜けてしまってのごとく―― 言おうとしていないか?

 (4) そこまで辿り着くには 言わゆるワビ・サビの境地に到ったという人生の道程があったか?

 (5) 言いかえると 世の中の人びとは 一般に世間の義理と人情なるしがらみの中にあって 社会のお二階さんたちの謙虚な威張り散らしの影響を受け 心ならずも《心なき》状態に落ち入っている。だが このナラワシを嫌って・その意味で《心無い》振る舞いをつらぬいて来たわたしにも 《あはれ》は分かると言っているか?

 (6) そうだとした場合 では この《あはれ》とはどういうことか?

 (7) シガラミを嫌う・避ける・逃れるとは どういうことか? その手段は 出家しかないのか?

 (8) シガラミから自由になるとは どういうことか?

 (9) その道程に試練があり 言わば巡礼の旅路をたどり やがてワビ・サビの境地に到るというのだろうか?

 (10) そうだとした場合 それは どういう道筋であるのか? 哲学はどう答えるか?

 (11) とは言うものの 《あはれ》ないし《もののあはれを知る》と言えば 何となくでもわれわれはすでに初めにその道程の行き着く先のことを知っているようにも思われる。そういう直感ははたらくのではあるまいか?

 (12) さしあたり質問者の主題としては こんなところです。ご見解を述べて けっきょくのところ日本の社会を基礎にしたご自身の世界観をご披露ください。

 (13) そのほか ご自由に西行のうたをめぐって ご投稿をお寄せください。

A 回答 (4件)

>さて 焦点のひとつは 《うちとそと》でしょうか?



そうですね。

> ( B-12 ) 言いかえると 外側の領域も 言ってみれば《檻の中》なのです。

これはその通り。しかし、私としては揚げ足取りとも特に感じません。
いわゆる俗世の人はシガラミ、檻の窮屈さを感じて、外に出ようとする。
そして実際出てみたら、そこもまた檻の中であった。
(まるで悟空が釈迦の手のひらの中で遊ばれているかのような)
これは同意するところなのです。

しかし、これは「実際出てみたら」というのが案外重要なのであって、今まで内側にいた人が出てみてから「こんなはずじゃ」とはじめて気づくところだと思います。
それゆえ、内側(俗世)の人は出家の世界を漠然と「ああ、世の憂さなどなさそうでうらやましいことだなあ」と思ってしまう。
それに対して「いや、出家したってそんなもんじゃないですよ」と言って説得力があるのは、実践したことがある者だけでしょう。出家でもいいですし、出家して還俗した人でもいいですが。

厭世思想が不徹底であれば理想郷に希望を抱いたりするわけで、その結果「檻の外なら幸せになれる」という思考法に至ります。
ところが現実はそうではない。
このような構図は、在家出家などではなく、現代社会でもあることです。
(今世に言うTPPも、枠組みをとっぱらうと理想的な社会が実現するかのように喧伝されていますが、どうなることやら・・・)
俗世にいても出家した時のような境遇というのが起こりうるのが現代だったりします。

ユートピアのような理想郷に希望を置くな、そこにはただ幻滅あるのみ。
出家したからどうだなんてことあるもんか、くらいな勢いで西行は言っているのかもしれません。
ただ同時に、それは一切を悲観するものではなく、「美しいものは普遍である」というように「鴫立つ沢の秋の夕暮」は檻の内外など関係なく美しいものよ、と言ってのける。
場合によっては、「自然の巨大な力の前には俗世も遁世も等しなみなもの」あたりまで運んでもいいかもしれません。
そういうものをまざまざと見せつけられてはじめて自分の「価値判断」が矮小化されていく、熔解されていくのではないかな、という気もします。

内と外の区別が最初にないと、それを乗り越えるものが見えてこないというのはあるかもしれません。
もう乗り越えてしまっているような人が、内と外の区別などくだらない、と言ってみたとしても、そのステップは西行には必要だったのではないかなと思うのです。西行がどうであったかは重視しないと言われたとしても。

「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」
これだって「1.世を捨てるって一体なんじゃらほいという迷い」「2.世間様の価値観に対する皮肉、あてこすり」「3.同じ出家の人を見たりした時に、こんなのが世捨て人なら捨てない方がマシだと思ってしまったというような同族嫌悪」「4.3を自分に置き換えた自嘲」「5.あーもういいや本当は還俗してえ」などなど、いろいろと考えられるわけで。



【別道】
どうもひっかかるのは「心なし」という言葉です。ポイ捨てをしたり山道で花を摘んでしまったりというような心ない行いのイメージもありますが、心の中にとらわれやわだかまりがないという意味ならば、西行の用法は決して「謙虚」ということにはならないと思うのです。むしろ「自分は悟った人間だが」という前置きをしていて鼻につく、というように感じる人もいるかもしれません。
となれば、ひょっとすると、ぶらじゅろんぬさんの質問文の中に前提されているものの中に深く行き過ぎた読みがあって、それに私が足元をすくわれてしまったということもあるかもしれませんね。
私自身今までの読み方も別にそれはそれでよいとしながらも、もう少しシンプルに読む方法もあるんじゃないかなと、「謙虚」の方を残して玩味しなおしてみました。
そうすると、「シガラミ、ワビとサビ、出家」などといったキーワードが一切取り払われ、「美を解するの心」のない身、「感興を覚えること鈍な心」の持ち主である私でさえも、「鴫立つ沢の秋の夕暮」には心を動かされるものがある、という、まあ表面的な読み解き方が出てくるわけです。
その一方で、依然として「美を解する心などないこの自分だが」と語るのも「謙虚をアピールする」ようでなんだかなあと思わなくもありません。
謙虚だというのも、シガラミ、ワビサビ、出家などと同様、歌の外部情報(連想キーワード)なのであまりそれにとらわれない方がよいのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

 さて なばよしゅさん 二度のやり取りにて だいぶん話はすすんだようです。ありがとうございます。

 ★ ただ同時に、それは一切を悲観するものではなく、「美しいものは普遍である」というように「鴫立つ沢の秋の夕暮」は檻の内外など関係なく美しいものよ、と言ってのける。
 ☆ すなわち特には
 ★ 「美しいものは普遍である」というように「鴫立つ沢の秋の夕暮」は檻の内外など関係なく美しいものよ、と言ってのける。
 ☆ すなわち
 ★ 「美しいものは普遍である」
 ☆ ここまで白紙還元したこの命題にわたくしも 賛成です。言わゆる真善美の議論ですが そしてここでは――ともかく長くなるはずです―― すすめませんが この見方を きわめて単純に西行も言っている。このことにも同意したいと思います。
 つまり質問者の立ち場としては 美を感じることに 出家も在家もないし さとりをどのように捉えるかにも――したがって たとえさとりを得ていなくともかまわないという意味で――かかわりないということ。あるいはまた 美は 善悪の倫理やその判断を超えるという意味で 言うとすれば世間の内側に対して外側であると言えるかも知れないが 外側であるから 善悪論やあるいは真偽の理論と無縁だというのではない。そういったことを何とかきちんととらえておきたい。ということも 視野にあるのではありました。

 ですから――筋を違えて読むかも分かりませんが――
 ★ 「シガラミ、ワビとサビ、出家」などといったキーワードが一切取り払われ、「美を解するの心」のない身、「感興を覚えること鈍な心」の持ち主である私でさえも、「鴫立つ沢の秋の夕暮」には心を動かされるものがある、という、まあ表面的な読み解き方が出てくるわけです。
 ☆ というその《表面的な解き方》から 哲学の徒としては 自由になっておきたい。これも 願いであったわけです。

 すなわち 《心無き》かどうかを超えて
 ★ ~~~~~~
 場合によっては、「自然の巨大な力の前には俗世も遁世も等しなみなもの」あたりまで運んでもいいかもしれません。

 そういうものをまざまざと見せつけられてはじめて自分の「価値判断」が矮小化されていく、熔解されていくのではないかな、という気もします。
 ~~~~~~~
 ☆ 漠然としたブディズム批判であり 少なくとも《出家(受戒)》の意味を疑問視している。こうも考えられます。 

 このとき
 ★ 謙虚だというのも、シガラミ、ワビサビ、出家などと同様、歌の外部情報(連想キーワード)なのであまりそれにとらわれない方がよいのかもしれませんが。
 ☆ 謙虚は おそれ(畏敬の念)と言いなおしておくとよいでしょうし シガラミや出家は どうでもよいとして ワビサビは じつはこの《おそれ》の気持ちや心とかかわりを持つ。こうも考えます。
 議論を発展させませんが わびしくてわびしくて 心が錆びついてしまったなら そういう意味で《心無き》状態になったとしても この夕暮れにはあはれと感じるものがある。こう言っていると取ってよいはずだからです。
 これは おそらく要らない深読みではないでしょう。


 あとはですね――順序を入れ替えましたが――:
 ★ ~~~~
 ユートピアのような理想郷に希望を置くな、そこにはただ幻滅あるのみ。
 出家したからどうだなんてことあるもんか、くらいな勢いで西行は言っているのかもしれません。

 (今世に言うTPPも、枠組みをとっぱらうと理想的な社会が実現するかのように喧伝されていますが、どうなることやら・・・)
 ~~~~~~~
 ☆ という方面も 主題として派生しましょうか。

 そして次のいくつかの解釈例に 趣旨説明で触れた《西行の〈心なき〉われと世間の人情にあふれる人びととのあいだに起こるかに見える逆説》の解釈も可能だとすれば さいわいです。
 ★ ~~~~~
 「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 これだって
 「1.世を捨てるって一体なんじゃらほいという迷い」
 「2.世間様の価値観に対する皮肉、あてこすり」
 「3.同じ出家の人を見たりした時に、こんなのが世捨て人なら捨てない方がマシだと思ってしまったというような同族嫌悪」
 「4.3を自分に置き換えた自嘲」
 「5.あーもういいや本当は還俗してえ」などなど、
 いろいろと考えられるわけで。
 ~~~~~~
 ☆ えらくたくさん読みこんぢゃったんですね。と雑談になったところで お礼をあらためて申し述べて ひとまづの区切りが質問者としまして打てたとも考えます。
 補遺などありましたら 書き込んでいただきたいと考えます。
 

お礼日時:2011/11/06 16:17

 ( Bragelonne-1 ) 《世間》をどう見るか? これは 人の価値判断の中核を成す領域ではないのか。


 ( B-2 ) 《俗世間》という言葉であらわすだけですでにその聖俗の区別において 善悪の判断にかかわっているのではあるまいか?
 ( B-3 ) 《出家》はかたちとして《出世間》をすることですから――すなわち《世間を超え出る》ことですから つまりは世間としての娑婆が 娑婆即浄土という見 方がなされたり 同じことで煩悩即菩提という観点が得られたりするといったようにさとりにかんする価値判断のもとにあるのですから―― それはただ単に 《世を捨てる》とか《あたまを丸める》といった現象とは別だと考えられる。

浮世などということを申しますが、「憂き世」でもあります。
「厭離穢土」などという言葉があるように、俗界はわずらわしく、嫌なことも多いという価値観は、西行に限らず当時の(そして今もそう思っている人もいるでしょうが)人々の共有するものであったと思います。
そこで、出家を「世間を超え出る」と、なんだかずば抜けた上のステージに行くかのように捉えるのは、過剰に評価しすぎるきらいもありますね。
遁世という言葉もありますし、逃げ、であると見なすこともできます。
ただし、私としては「逃げ」をネガティヴに捉えることはせず、ただの場所の移動として、それによる環境の変化がもたらす何かはありうるだろう、と思う程度です。
ゆえに、

 ( B-4 ) 果たして そんな区別は有効でしょうか? 生活世界にとって《内側と外側》なる区別は 必要でしょうか? 

区別をしようがするまいが生老病死、あらゆる苦悩は襲い掛かってくるのであるから、そんな区別をしたってなんの意味もないことだ、とするのは早計でしょう。
私自身もそうした区別は(究極的には)しないに越したことはないと思う立場ではありますが、そうして環境を変えることが今まで見えなかったものが見えるようになるきっかけとなることはありうるだろうから、決して不要とも言いきれない、とは感じています。

 ( B-7 ) ――これは( B-6 )のつづきですが―― 世間を俗世間と見たあと そしてそのような価値判断のもとにかたちの上で《出世間》をおこなう出家という身分になったあと 価値判断から自由な美の問題が 俗人と世捨て人とのあいだで どうなのか。同じか違うか これを問うている。この作業仮説は 有効か?

檻の内側から檻の中を見渡すのと、檻の外側から檻の中を見渡すのでは、趣は違うでしょう。たとえその檻が幻想の産物であったとしても。


西行自身がどう思っていたかは、もっと他の西行の歌をさらってみてはいかがかなと思います。

世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

これなんか大きなヒントだと思いますけどねえ。
もちろんこれも多面的に解釈できるものではありますが。

この回答への補足

 おぎないます。あとで気づきました。

 ( N-22 ) ~~~~

    世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

 これなんか大きなヒントだと思いますけどねえ。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ このうたを 次のように解釈するなら 質問の趣旨説明と じつは 同じ内容になるかと思いました。

 ( B-13 ) ~~~~~~
 《捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ》 これをもし《世間の人びとがシガラミの中にあって それを仮象だとは見ずにますますその中にどっぷりと漬かるようになり その意味で〈世を捨てない〉とするならば それこそ〈世を捨てたことになる〉のだよ》と読むなら 趣旨説明における次の見方と同じ内容になると思われます。

  (2) 《こころなき》は 作者の本心か?

  (3) すなわちただ自嘲気味に言っているに過ぎなくはないか? その場合にはむしろ世の中の人びとのほうこそが 《心なき》状態に落ち入っているとまで――謙虚の気持ちを保ちつつもどうしてもその気持ちさえをも突き抜けてしまってのごとく―― 言おうとしていないか?
 ~~~~~~~~~~~~~

 見落としをしてしまったことをお詫びし つつしんでおぎないます。



 * すなわちこの歌の作者――思想の表明者――である西行が じっさいにその心においてどうであったかを問わないでも どうもうたの文字どおりの表現とはちがった逆説が ひそんでいるのではないか? こういう問いになっています。つまりは われわれが 強引にでも 現代から読んでみようという趣旨でもあります。

補足日時:2011/11/06 13:00
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この回答へのお礼

 なばよしゅさん 補足要求に答えてくださってありがとうございます。

 さて 焦点のひとつは 《うちとそと》でしょうか? 復唱しあらたに確認しますと:

 ( N-5 ) ★ 外側〔からの視線でものを言う〕

 ( N-6 ) 生活世界には内と外がある。その《内側》では シガラミにまつわる価値判断がおこなわれるかも知れないが 《外側》の領域では 基本的に初めから価値自由なのである。

 ( N-7 ) すなわち 《外側からの視線でものを言う》(= N-5 )のが 《もののあはれを知る》独特の世界であり 美の問題なのである。

 ( N-17 ) ★ 檻の内側から檻の中を見渡すのと、檻の外側から檻の中を見渡すのでは、趣は違うでしょう。たとえその檻が幻想の産物であったとしても。

 ( N-18 ) ★ 区別をしようがするまいが生老病死、あらゆる苦悩は襲い掛かってくるのであるから、そんな区別をしたってなんの意味もないことだ、とするのは早計でしょう。

 ( N-19 ) ★ 私自身もそうした区別は(究極的には)しないに越したことはないと思う立場ではありますが、そうして環境を変えることが今まで見えなかったものが見えるようになるきっかけとなることはありうるだろうから、決して不要とも言いきれない、とは感じています。

 さて ちょっと まづは揚げ足取りからまいります。

 ( B-11 ) このいまの《内と外》は あくまで生活世界におけるその区別であって 仮りに《外側》の領域に出たとしても それもじつは《この世の無明つまり煩悩の世界》であるということです。(わたしも舌足らずであったかと思うのですが ブディズムからすればそうなりましょう)。
 (もしそうではなく 内外の区別は すでにその外側こそがブディズムを超えた思想としての《さとり》なのだという仮説である場合には それとしておっしゃってください)。

 ( B-12 ) 言いかえると 外側の領域も 言ってみれば《檻の中》なのです。無明=煩悩=我執の世界です。言いかえるなら 仮りにその外側にあって美しさを感じたという場合 その心的現象も つまりは仮象であり実体はない――諸法無我――ということになります。(仏説では なっています。それをくつがえすには 煩悩即菩提の見方を 実証ないし論証しなければならないでしょうし もしそのことに明証性があるとすれば すでにもう 檻の内と外という区別は必要がなくなっているというしろものです)。

 ☆ となると 実質的に言って 揚げ足取りを超え出たと思うのですが いかがでしょう?
 あとは 次のくだりでしょうか。

 ( N-20 ) ★ ~~~~
 「厭離穢土」などという言葉があるように、俗界はわずらわしく、嫌なことも多いという価値観は、西行に限らず当時の(そして今もそう思っている人もいるでしょうが)人々の共有するものであったと思います。
 そこで、出家を「世間を超え出る」と、なんだかずば抜けた上のステージに行くかのように捉えるのは、過剰に評価しすぎるきらいもありますね。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここは ぶらじゅろんぬ説に対する反論だとは思えないのです。すなわち西行がこの歌を詠んだときには 仮りに価値自由の境地にあったとしても その出発にあたっては《価値判断をおこなっていた》という事実を こちらとしては 指摘したまでだからです。すなわち

 ( N-21 ) ★ ~~~
 遁世という言葉もありますし、逃げ、であると見なすこともできます。
 ただし、私としては「逃げ」をネガティヴに捉えることはせず、ただの場所の移動として、それによる環境の変化がもたらす何かはありうるだろう、と思う程度です。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように最初の出発が――出世間であるかどうかはどうでもよいかたちで―― 《逃げ》であったとした場合 それでもそこには価値判断があったろうということ。これを言うのみなのですから。《環境を変える》のは 明らかに人間の価値判断がともなわれていましょう。
 それゆえ 生活世界における《内と外》の区別や 《世間と出世間》の区別は どうでもよいのではないか? つまりはそのような基準によって《心なき》や《あはれ》の意味内容を判断することは 意味がうすいのではないか? これです。

 まして 《出家》というのは 出世間という一つの意志行為を ただ頭を丸め戒律を受けるという単なるかたちにおいてだけおこなうに過ぎない。こう考えられます。
 つまりは 《出家の身だから あるいは そうではなく在家であるからこそ》 一方で 心なき身なのだとか 他方で いやあはれの心は実は身に自然に起きて来るのだとか――その事態そのものにウソはないとしても――と言いその判断をもって このうたを読むことは たいした意味はない。こう考えられた。ところから 質問は発しています。はたして どうでしょう?

お礼日時:2011/11/06 12:46

うたも作者も知りませんが、自分なりに解釈してみました。



心なき身 にも あはれは 知られけり
  鴫立つ沢の秋の夕暮れ

と区切るのが自然ではないでしょうか。

こうすると、「心なき身」とは「世間知らずの、価値の低い私」となり、
「あはれは 知られけり」すなわち「切なさは理解できる」と解釈できます。

となると、単純に自分の切なさを謡ったものです。

作者についての想いいれが大きすぎると、無駄に拡大解釈しがちです。
歌なんて、「素直な溜息」程度のものだと思いますよ。

そのほうが美しい。
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この回答へのお礼

 お‐さいさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ( O-sai-1 )《あはれ》とは《せつなさ》である。
 ( Os-2 ) ★ 歌なんて、「素直な溜息」程度のものだと思いますよ。
 ( Os-3 ) ★ そのほうが美しい。

 ☆ すなわち《拡大解釈しなさんな》となりましょうか。

 おしえて欲しいのは:

 ( B-8 ) 《せつなさ》とは どういうことか? 

  ▲ せつな・い【切ない】 (三省堂「大辞林 第二版」より) ~~~
   http://jisyo.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search …

 (1) (寂しさ・悲しさ・恋しさなどで)胸がしめつけられるような気持ちだ。つらくやるせない。
  「―・い胸の内を明かす」

 (2) 大切に思っている。深く心を寄せている。
  「義経に心ざしの―・き人もあるらん/幸若・清重」

 (3) 苦しい。肉体的に苦痛だ。
  「湯を強ひられるも―・いもんだ/咄本・鯛の味噌津」

 (4) せっぱ詰まった状態である。
  「詮議つめられ―・く川中に飛び込み/浮世草子・武家義理物語 3」

 (5) 生活が苦しい。
  「―・いに絹の襦袢でけいこさせ/柳多留 12」
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 最初の意味に採ればよいでしょうか? 《悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである》。そうしますと

 ( Os-4 ) ★ 「心なき身」とは「世間知らずの、価値の低い私」となり、

 について疑問が出て来ます。《価値の低い》か高いかは 誰もが似たり寄ったりであって ただ自重する表現に過ぎず取り上げなくてもよいと考えられます。そうしますと:

 ( B-9 ) ★ 《心なき身 にも あはれは 知られけり》――☆ これは こうなりましょうか? 《世間知らずのわたしだが 世間における人びとの〈悲しさや人恋しさ〉は身に染みて分かる》。つまりは 《世間知らずだが 世間のことは知っておるわい》と。

 ( B-10 ) すなわち人びとはこの《秋の夕暮れ》の歌を名歌としているが つまらない愚痴のようなものだ。――こういったご見解でしょうか?

お礼日時:2011/11/06 12:05

歌というのは大体において全てを語り尽くさないもので、さまざまな解釈の余地があるというわけでして。


私の関心ある部分だけに回答します。

(2)→「心なき」は詠み人の本心なのか、ということですが、これは非決定情報なのでどのようにも解釈できるでしょう。大抵の訳では「俗世間を離れて出家したはずの私のようなものでも」などと、西行のプロフィールを補ったりして、肝腎の「心」をぼやかしてしまうことが多いのですが、この訳に則るならば「心なき」の心とは、「世俗に執着する心」ということになると思います。

そして、「はずの」ということは、それが建前であって、「そんな立場上の出家の身」というところばかり浮き立ってしまいます。
これを自嘲ととる方法もあるでしょうが、あるいは、世間の目に対する応酬ととることもできるかと思います。
つまり、その解釈をするなら、「あの西行といふ方は苟も決意を以て世を棄てた僧侶であるから、我執などありはすまい」などといった世間からの無言の言葉に対し、「いやあ、世を棄てて心が空っぽであるとは言っても私だってこういう情景にはもののあはれを感じたりしますよ」と正直に陳述しているとみなす、ということです。
ついでに言うと「そんな私、修行が足りませんなあ」でもなければ「人間なんだもの、ものに感じることの何が悪い」でもない、そんな落としどころに落とした、きっぱりと結論のない歌ではあります。だからこそこの秋の夕暮の寂寥感とマッチするともいえるでしょう。

あるいは「心なき身」で世捨て人全般を指していると捉えることだって悪くはないでしょう。「けり」という個人的な体験を表現する言葉遣いはしているものの、世捨て人の私だってもののあはれを感じる→世捨て人でもあはれを感じる(→いかなる人でもあはれを感じる)、というように主語を次第に拡充していこうとする意図を汲み取ることもできるかもしれません。

(3)~(5)→「心なき」というのが世俗の人に当てはまるというのは、ちと凝りすぎているかと思いますね。ダメとは言いませんが。世俗の人は世俗の人で「心を奪われている」、「忙しい」などといったことはあるでしょうが、それを「心なき」と同義にしてしまうのですか、というとなんだか違うような気がします。

(6)→美しいものを見て美しいと感銘を受けることを「あはれ」とする、で十分だと私は思います。

(7)~(11)→シガラミからの自由と言いますが、シガラミに囚われてああだこうだ言っているうちはまだ自由ではないですよね。シガラミから脱却してからのちは、それこそ達観したように「まあそういうものだよねえ」などと外側からの視線でものを言ったりすると思います。なお、出家というのは環境を変えてしまおう、そうすれば思考もそれに応じて変わっていくだろう、というやり方になると思いますが、それが全てではない、とは思います。場合によっては思考を先に変え、それが環境の読み解き方をがらりと変えてしまうことだってあります。しかし、往々にしてこのシガラミというやつ、迷妄となって人にまとわりつき、「道程の行き着く先」などを見えないように覆ってしまうもの。なかなか直感なぞ働かないというのが実際のところではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 なばよしゅさん こんにちは。ご回答を寄せていただきありがとうございます。

 そうですね。
 おっしゃるところは 美学の問題になりましょうか?

 ★(6)→美しいものを見て美しいと感銘を受けることを「あはれ」とする、で十分だと私は思います。
 ☆ この美の問題として捉えたというご見解であり その美というものは人それぞれであって 一般に人の価値観から自由な心的現象に属する。
 ――こういったご回答内容になりましょうか?

 ★ 決意を以て世を棄てた僧侶・・・「そんな私、修行が足りませんなあ」でもなければ「人間なんだもの、ものに感じることの何が悪い」でもない、そんな落としどころに落とした、きっぱりと結論のない歌ではあります。
 ☆ ゆえに 煮詰めたかたちにおいて重ねて言えば こうでしょうか?

 ( Nabayosh-1 ) これは 《あはれ》をおもな主題としており あはれは ただただ《美》の問題である。
 ( N-2 ) 美は 人の持つ世界観としては そこにおける価値判断とはかかわらない特殊な領域に属する生活現象である。
 ( N-3 ) そのうたを詠んだ人が うつくしいと思ったと言うのなら そのままそれを あはれ観なる美学として受け取ればよい。それだけだ。

 ☆ たとえばさらには
 ★ 歌というのは大体において全てを語り尽くさないもので、さまざまな解釈の余地があるというわけでして。
 ☆ というように歌論の問題にまでつながっていましょうか? すなわち

 ( N-4 ) 美醜の感覚も或る種の仕方で判断行為であるとしても それは価値判断一般とは別ものであって もし仮りに――真善美というごとく――真偽や善悪の価値判断とかかわっているという《解釈》を採ったとしても その解釈は いくつか提出される諸解釈例のうちのひとつなのである。よって まづは《落としどころに落とした、きっぱりとした結論は 人びとにとっておおむね唯だ一つの共通のものとしてはない》。これを大前提としなければならない。

 ☆ でしょうか? 
 ★ ~~~~
 (7)~(11)→シガラミからの自由と言いますが、シガラミに囚われてああだこうだ言っているうちはまだ自由ではないですよね。
 ( N-5 ) シガラミから脱却してからのちは、それこそ達観したように「まあそういうものだよねえ」などと外側からの視線でものを言ったりすると思います。
 ~~~~~~
 ☆ どうもこの
 ★ ( N-5 ) 外側〔からの視線でものを言う〕
 ☆ という問題でもあるようです。

 ( N-6 ) 生活世界には内と外がある。その《内側》では シガラミにまつわる価値判断がおこなわれるかも知れないが 《外側》の領域では 基本的に初めから価値自由なのである。
 ( N-7 ) すなわち 《外側からの視線でものを言う》(= N-5 )のが 《もののあはれを知る》独特の世界であり 美の問題なのである。

 さらにさらに議論を伸ばしうるとするなら:
 ★( N-8 ) 往々にしてこのシガラミというやつ、迷妄となって人にまとわりつき、「道程の行き着く先」などを見えないように覆ってしまうもの。
 ☆ と 人びとの利害関係をめぐる価値観にかかわった内側の世界にかんして捉えるならば
 
 ( N-9 ) このうたを詠んだ西行の境地としては まさしく言わゆる善悪の彼岸に到ったと受け取ってもよいであろう。

 となりましょうか?

 ★( N-10 ) だからこそこの《秋の夕暮》の寂寥感とマッチするともいえるでしょう。

 ☆ 《ワビ・サビ》観もそこに見られるのだと。

     *

 さてさて わざと引用せずに残しておいた命題があるのですが そのご文章をめぐって質問者のいだいたさらなる問い求めの内容をしるして お礼の言葉とします。

 まづは 前置きに属する部分として:
 ★( N-11 ) 大抵の訳では「俗世間を離れて出家したはずの私のようなものでも」などと、西行のプロフィールを補ったりして、肝腎の「心」をぼやかしてしまうことが多いのですが、この訳に則るならば「心なき」の心とは、「世俗に執着する心」ということになると思います。
 ☆ というとき――このあと 結論としてのご見解が別様にしめされますが――まづは 

 ( Bragelonne-1 ) 《世間》をどう見るか? これは 人の価値判断の中核を成す領域ではないのか。
 ( B-2 ) 《俗世間》という言葉であらわすだけですでにその聖俗の区別において 善悪の判断にかかわっているのではあるまいか?
 ( B-3 ) 《出家》はかたちとして《出世間》をすることですから――すなわち《世間を超え出る》ことですから つまりは世間としての娑婆が 娑婆即浄土という見方がなされたり 同じことで煩悩即菩提という観点が得られたりするといったようにさとりにかんする価値判断のもとにあるのですから―― それはただ単に《世を捨てる》とか《あたまを丸める》といった現象とは別だと考えられる。

 ☆ ただし ここまではまだ序の口の議論であるようです。( N-11 )のなかの一般論における《はず》という表現に注意すべきであると。
 ★( N-12 ) ~~~
 そして、「はずの」ということは、それが建前であって、「そんな立場上の出家の身」というところばかり浮き立ってしまいます。
 これを自嘲ととる方法もあるでしょうが、あるいは、世間の目に対する応酬ととることもできるかと思います。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち続いての次のご議論が 結論であるように受け取られます。

 ★( N-13 ) ~~~~
 つまり、その解釈をするなら、「あの西行といふ方は苟も決意を以て世を棄てた僧侶であるから、我執などありはすまい」などといった世間からの無言の言葉に対し、「いやあ、世を棄てて心が空っぽであるとは言っても私だってこういう情景にはもののあはれを感じたりしますよ」と正直に陳述しているとみなす、ということです。
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 ☆ こうなりましょうか?

 ( N-14 )(=質問者ぶらじゅろんぬの推測として) 生活世界全般にあっては その生活上の利害関係について価値判断をおこなうことにおいてシガラミが付き纏わざるを得ない《内側》の世界――すなわちそれとしての《世間》――がある。この世間に居続けるとき人は時に応じて 《もののあはれを知る》という美をめぐる《外側》の領域をも味わうものである。
 ( N-15 ) (=同上) 言いかえると 《我執》ないし《煩悩》について――これは価値判断にかかわる領域であるのだが―― 煩悩即菩提というさとりは あくまで世間(つまり内側)に居続けてこそ得られるものなのだし 善悪の価値判断を超えた外側の世界も 内側に居続けてこそ 持ちうるのだ。
 ( N-16 ) ただしここで――例外的にかどうなのか―― 西行は 出家しかたちとして外側に出て行ってしまった身でありながらも 世間なる内側に居る場合と同じように《あはれを知り うつくしさを感じる》と言っているようだ。
 ★ ・・・「いやあ、世を棄てて心が空っぽであるとは言っても私だってこういう情景にはもののあはれを感じたりしますよ」と正直に陳述しているとみなす、ということです。(= N-13 )

 ( B-4 ) 果たして そんな区別は有効でしょうか? 生活世界にとって《内側と外側》なる区別は 必要でしょうか? 
 ( B-5 ) かたちとしての世間と出世間という区別は 有効でしょうか? あたまを丸める(あるいは 生活として通常の仕事をすることから離れる)という一つの事によって 内側と外側との区別が 外側における美の感受いかんをめぐるかたちで 必要であったり有効であったりしましょうか?
 ( B-6 ) 美醜の感覚については それが価値判断をともなうかどうか これはにわかに結論づけて捉えるわけには行かないでしょうが 世間をどう見るかは価値判断にかかわっているはずです。すでに俗世間と規定するまでに見るなら 明らかにそうです。そしてそのあとに 価値判断から自由だという美の世界――内側にいて外側を感じるという領域――が取り上げられている。
 ( B-7 ) ――これは( B-6 )のつづきですが―― 世間を俗世間と見たあと そしてそのような価値判断のもとにかたちの上で《出世間》をおこなう出家という身分になったあと 価値判断から自由な美の問題が 俗人と世捨て人とのあいだで どうなのか。同じか違うか これを問うている。この作業仮説は 有効か?


 ☆ 美学の問題じたいを扱わずに――つまりそれを扱うのは じっさいいまの議論以上に骨が折れるはず――問い求めた結果 長いものとなりましたことをお詫びします。 

お礼日時:2011/11/06 05:27

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