秋田県の院内銀山についてなのですが、私は入口を通り過ぎただけなのですが、
県の重要文化財で観光スポットでもあるのに、全く整備もされず、お墓ばかりと聞きます。
霊感のない人間ですら何かを感じるという話も聞くので怖くて立ち寄れません。
ネットで情報を探っていても労働者の人種や、遊女のことは書かれておらず、
ほとんどが心霊スポットとしての肝試しのような体験記ばかり。

労働者はどこからか連れてこられて強制労働をさせられていたのでしょうか?
供養のために院内銀山に住み着いたお坊さんがいたそうですが、連れてきた家族が
おかしくなってしまったという話も聞きます。

教科書では教えてくれないような本当のことをご存知の方、教えていただけませんか?

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A 回答 (4件)

 心霊スポットだったのですか。

零感ではないのですが,普通に
一人で歩きまわっていました。

 鉱山と言えば強制労働と思いがちでしょうが,すべてではありません
実際坑道に潜る人にも色々あり,実際に穿つ穿子,測量担当の振矩師,
採掘担当の山師,山留(大工)等は賃金も高く,良い生活を送れたよ
うです。荷場穿子のような鉱石を運ぶ.所によっては坑内で人間ベルト
コンベアーするまぁ一般の人でも毎日お酒と白いご飯が食べられた。
黒砂糖のたっぷり入ったパンのようなものも食べられたのは,鉱山
くらいではなかったでしょうか。囚人は経験の要らない釣瓶と手繰
水替という鉱山内に湧き出す地下水の処理に携わったようです。

 もののけ姫の冒頭にでるような風景に近かったでしょう。
 特に,院内や山形県側の谷口銀山は農閑期に回りから出稼ぎ
がやってくる。治外法権でキリシタンが集まるで,賑やかだったと
お聞きします。それぞれの教育委員会がまとめた資料がありますの
で,お近くの図書館から借りられると良いと思います。

 強制労働は,どちらも第二次世界大戦の頃は十分に稼業していま
せんから,時代を通じてあそこでは少なかったと思います。

 ただ,塵肺などを病むと大変だったはずです。
 ついでに墓石の群れですが,当時,あんな立派なお墓を立てて
もらえたのは,一般庶民ではあまりなかったかもしれません。

 人生浮き世を太く短く楽しく生きる生き方の人には,たまたま
院内と谷口は良い場所だった気がしています。

 他の地区は特に下流の農民との鉱毒問題・紛争がありました。
その結果,何百人も人間ベルトコンベアーが潜っているとき,
農民が大挙して押し寄せ鉱口を潰してしまった。という話の残る
地区があります。そんなところへ行かれると,まぁいろいろあれでしょうね
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僕も、先日家族と院内銀山にドライブに行き、金山神社まで行きました。


帰りに院内銀山異人館に寄りました。
異人館の職員曰く、銀山労働者の子孫が、自分のルーツを見に全国からやってくるそうです。
共同墓地では毎年供養祭が行われ、地元の人で賑わいます。

行ってみた感想は、共同墓地周辺は多少不気味かも知れませんが、金山神社周辺の雰囲気は清々しかったです。
夜に行くと必ず怖い目に遭うと聞きますが、昼は至って普通の場所ですね。
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院内銀山は、佐竹氏という幕府から睨まれていた外様大名が開発したので、情報が少ない。


佐渡金山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B8%A1% …
ここにあるように、もうかって給金がいいからヒトは集まります。
江戸初期には相川町は人口10万程度の巨大都市だったそうです。

これと同様なことが院内銀山でも言えると推測されます。

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_un …
技術者としては石見から着ている人が多いらしい。
石見銀山ですね

水抜き普請は特殊技能らしく、出来高制という記述があります
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院内銀山は江戸初期に開発され、その最盛期には秋田県内では最大の町となって繁栄を謳歌したようですが、その後銀も枯渇して現代では心霊スポットとして残っているようですね。


破たんした自治体として有名な北海道夕張市も、かつては炭鉱の町として繁栄を謳歌していました。筑豊炭鉱の町なんかもそうですね。栄枯盛衰は世の習いというわけですね。

ちなみに少し前に私、ネットで今のアメリカはデトロイト市の様子を写した写真を見たのですが、かの地も半ばゴーストタウンと化しているようです(今でもそれなりの規模を持つ大都市ではありますが)。
かつては自動車の町として繁栄していたのですが、アメリカ自動車産業の没落とともに没落しました。ものすごい立派な劇場が朽ちていくばかりで、リアル「ホーンテッド・マンション」でしたね。
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Aベストアンサー

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>また遊女はどういうお仕置きをされるのでしょうか?

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従って、かなりの豪商でなければ身請けすることはできませんでした。
そして、身請けされても、本妻の場合もあり別宅での妾の場合もありましたが、使用人が家事一切をしてくれていましたので「太夫」「格子」では、自分で家事をする必要はありませんでした。

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Aベストアンサー

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