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キリスト教においては,最後の審判時には,死んだ善人?は生前の姿に復活すると言われています。素朴な疑問なのですが,次の点がわかりません。
(1)その復活する姿(肉体)は,死んだ直後のものなのか,本人が望んだ年齢によるものか,それともそもそも復活というものは観念的なもので,肉体的なものは含まないのか。
(2)復活する前の死者は,どこにいたのか?
(天国であれば,別に復活する必要はないし)
細かい解釈はさておきキリスト教における一般論をお教えいただれば幸いです。

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A 回答 (12件中1~10件)

 ご参考に。



 【Q:ヘブル書に引くエレミア書の《新しい契約》とは?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3807611.html
 ・質問者の noname#80116 は わたくし=ぶらじゅろんぬです。きよきぶどうさんをお招きしたものです。
 ・その回答No.10&11が きよきぶどうさんのご投稿です。



 ほかに参考になるところと言えば:
 神が語るかたちで記されています。
 ▲ (ホセア書6:6) ~~~
 わたしが喜ぶのは
 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって
 焼き尽くす献げ物ではない。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 旧約聖書のホセア書にすでにこのようにも書かれています。むろん 犠牲をささげるという記事も 旧約の時代にはあふれていますが 決してそのことが絶対的なことであったのではない。その点も 重要であろうと考えられます。

この回答への補足

本質問に対しては,多数の方々から真摯なご回答をいただき,大変有難うございました。
改めて感謝させていただきます。
なかなか講学的に難しい内容が多く,今後ご回答をもとに,勉強しなければいけないところです。
正直ベストアンサーを選ぶのに苦労し,締め切りが遅くなってしまいました。
大変申し訳ありませんが,今回は私的には回答者皆様がベストアンサーということでご勘弁いただければ幸いです。

補足日時:2011/12/18 16:21
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この回答へのお礼

ご回答,有難うありがとうございます。
まだ勉強不足の私には,いまひとつご説明を理解ができない点がありますが,少し勉強させていただこうと思っています。

お礼日時:2011/12/07 22:49

善と悪は旧約の概念です。

                                                                                                                                    律法を守りながら罪を犯すと罪人であり、悪人です。この場合、罪人は自分が犯した罪の身代わりとして傷が一つも無い子羊を捧げて罪を赦してもらいました。                                                                                                                  その結果、善人になれました。{罪を犯すたびに、この儀式を繰り返しました。レビ記}                                                                                                             旧約が終わるとイエスキリストがこの世に来られ、私達の罪の身代わりとして十字架の上で処刑されました。                                                                                                                                        イエスキリストが自分の罪の身代わりとして処刑されたから自分が受けるべき罪は完璧に無くなったと信じる人を義人、即ちキリスト人だと言います。                                                                                                                    日本にはこのようなキリスト人が500人ほど居ると推定されますが、私は500人までは居ないだろうと思っています。                                                                                                だから、自称キリスト人だと言う神学校教授や牧師達にも偽キリスト人が多く居るわけです。                                                                                        もし彼らが偽者で無いならば、弥生小学生より難しい日本語を使わなくても、最後の審判が聖書の何処に書かれてあるか位は的確に探し出すように聖霊様が導いて下さるはずです。                                                                                                               (1)イエスキリストの十字架の御業を信じて救われた人が亡くなっても聖書は彼を死んだと言いません。眠っていると言われます。彼は復活するからです。                                                                                                                救われた人、即ち救われた人、即ち生まれ変わった人が無くなると魂は三番目の空にある楽園に行きます。                                                                                                         {また霊は救われた時点で生まれ変わりキリスト人の中に居る同時に三番目の空にある楽園にも居られます。ヨハネ福音3章13}                                                                                                                                   デサロニケ3章13~17はイエスキリストが来られるとイエスの内に眠っている人が先に起こされた後、無くなってない人々、即ち生きているキリスト人達が楽園に引き上げられて行くと予言されました。                                                                                                                                             それが実現されるのがヨハネ啓示録4:1です。                                                                                                                      そして、我々はヨハネ啓示録3:13~22の間に住んでいます。                                                                                                                {~when he shall appear,we shall be like him;for we shall see him as he is.~彼がお現れになると私達が彼のようになる事を知っています。それは私達がその方そのまま見るからです。1ヨハネ3:2}                                                                                                 だから、救われた人々はヨハネ4:1で33歳のイエスキリストの姿で復活されます。                                                                                                    (2)最後の審判は啓示録20;11~15で行われます。                                                                                                                  ここで偽キリスト人を含めて全ての救われてない人々が復活され、彼らの行為に沿って裁かれ火の海に投げ込まれます。                                                                                                                         (3)本屋に行っても救われた人が書いた本は一冊もありません。                                                                                                                           また、GOOでの聖書に関する質問には百人百色の返事をしています。                                                                                                           だから、救われてない人々の一般論は百人百色です。                                                                                                                         救われてない人々は盲人だからです。聖書を読んでも何の意味か分からないからです。{聖書は盲人が盲人を導くと二人とも穴(地獄)に落ちると言われています。マタイ15:14}
                                                                                               {参考に人の中には魂と霊が体と全く同じ形を持って収められています。啓示録6:9~11}                                                                                                 昨日のニュースには米国のあるアナウンサがクリスマスは嘘だと言って猛烈な非難を受けているそうです。これには一般論が一致するようです。この日になると酒屋もラブホテルも一杯になるでしょう。神様がこのような呪われた日を作るだけ無いでしょう。{神様はこの日を作ったカトリック教会を娼婦と呼んでいます。啓示録17:5}神様の愛とは異なる愛をしているからです。
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この回答へのお礼

大変丁寧かつ詳細なご回答をいただき,有難うございました。
また,「キリスト人」や「復活」の意味についても,大変参考になりました。
特に,「だから、救われた人々はヨハネ4:1で33歳のイエスキリストの姿で復活されます。」という箇所は私が欲しかった答えの一つだと思います。  

お礼日時:2011/12/06 21:41

 取り急ぎですが。



 ★(No.9お礼欄) ただ,個人的にはまだ「信仰によるきづな」という概念がよく理解できていないようなんです。
 ☆ わたしはどの教会にもまた無教会主義にも属していませんが もしこの《教会(集会・民会 あるいは 神の家)》という言葉を用いるとすれば

   ○ 見えない教会として互いにきづなを持つ

 というかたちになりましょうか。と捉えています。無根拠ですから。
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 No.8を承けます。



 ★(No.8お礼欄) ~~~
 ・・・後半に「その子ら」〔* 《主(=神)に祝福された者のすえ》の子ら――〕という言葉が出てきます。
 例えば子供のいない(子孫ができない)夫婦にも「救い」はあるのですかねえ。
 まあ「その子ら」というのは喩で,肉親に限らず自分の後継者という意味にもとれるとも思いますが。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (1) 《すくい》は イエス・キリストの歴史上の出現によってすでに成りました。過去から未来への人類のすべてにおよぶすくいは成りました。というのが わが心に非思考の庭が成るという中身での信仰からの発言です。

 (2) 《〈わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である〉(出エジプト記3:6,15)ではないか》(マタイ22:32)というように 神は一人ひとりにとっての神です。十把一絡げというものではないわけです。すくいもそのように 一人ひとりにおとづれます。

 (3) (2)の出エジプト記に例示された三人は 確かに祖父・子・孫の血筋による関係ですが 一般に《アブラハムの裔》と言えば 信仰によるきづなの関係を言います。

 ▲ (ヨハネによる福音1:13) ~~~
 この人々〔* つまりキリスト・イエスを受け容れた人・その名を信じた人(1:12)〕は、血筋によってではなく、肉の意志によってではなく、人間の意志によってでもなく、神によって生まれたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この生まれ直しが すくいの時です。 ここで神とは 無根拠です。そのおまえの言う神は ほんとうの神ではないと 誰かがなじったとしても 無根拠なるナゾの神ですから なじり甲斐がないようになっています。信教・良心の自由に対しては 人間の批判がおよびません。

 (4) 長くなってもいけませんが もう一点添えます。(けっこう長いですが)。

 まづ引用です。新約聖書のヘブル書では 旧約聖書のエレミヤ書から引用して《救い》の中身をしっかりと・はっきりと明かしています。主題としては 旧い契約と新しい契約との違いについて述べています。
 ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 初めに説明していなかったのがよくなかったのですが 問題は誰がすくわれるかであり それは まったく無条件にあらゆる人がだとなります。
 このように《神を知れと言っておしえることも要らなくなり その神は人びとの不義をゆるし 過去の罪を思い出しはしない》という状態や社会の情況がおとづれるのは あたらしい契約のときであり それは イエス・キリストの歴史上の出現のときである。こうなります。

 つまり すでに《すくい》は――理論上――すべてあらゆる人について成りました。
 刺さっていた矢が抜かれました。傷口はまだ残ります。多少の後遺症は残るかも知れません。あるいは しみ・そばかす・ほくろの類の母斑として残るかも知れません。

 神にとっては千年が一日だそうで ようやくイエスのときから二日が経ちました。いま三日目の未明の前の真夜中です。でも二日のあいだに民主制もようやく足を地につけつつあります。人間の自由 そしてその基礎の上に築かれてゆく関係性(いわゆる愛)についても その実現がかなりすすんだのではないでしょうか? 理論の有効性が少しづつ現われてくるのではないでしょうか?

 ですから ちなみに《最後の審判》やそれによる天国行きだとか堕地獄だとかは 文字通りのおとぎ話です。
 このように理解しています。
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この回答へのお礼

たびたびのご教授,有難うございました。難しいお話なので,回答者様のご紹介いただいた文献を理解すりために,他のテキストを自分で探して勉強してみようと思います。
ただ,個人的にはまだ「信仰によるきづな」という概念がよく理解できていないようなんです。
例えば,現世において宗教であれ,政党であれ,同志が「きづな」を深め,より良い社会にし「最大多数の最大幸福」を目指すというのでればなんとなくわかるのですが,「完成した」人々だけがこの世に復活して何をするのか,ピンとこないもので。
別にキリスト教を否定しているわけではなく,宗教音痴の日本人の戯言です。
回答者様が悪く思われたのなら,ごめんなさい。

お礼日時:2011/11/27 20:42

 イザヤの《復活》観をさらに掲げて ご機嫌うかがいです。



 ▲ (イザヤ書65:19-25) ~~~~
 わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。
 泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。

 わずか数日で死ぬみどりごと
 おのが命の日を満たさない老人とは
 もはやその中にはいない。

 百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ
 百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。

 彼らは家を建てて それに住み
 ぶどう畑を作って その実を食べる。

 彼らが建てる所に ほかの人は住まず
 彼らが植えるものは ほかの人が食べない。

 わが民の命は 木の命のようになり
 わが選んだ者は
 その手のわざを ながく楽しむからである。

 彼らの勤労は むだではなく
 その生むところの子らは 災いにかからない。

 彼らは 主に祝福された者のすえであって
 その子らも彼と共におるからである。

 彼らが呼ばない先に わたしは答え
 彼らがなお語っているときに わたしは聞く。

 おおかみと小羊は共に食らい
 ししは牛のようにわらを食らい 
 へびはちりを食物とする。

 彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく 
 やぶることはない と主は言われる。
 ~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

たびたびのご回答,有難うございました。
これも「解釈」が初心者の私には難しいのですが,後半に「その子ら」という言葉が出てきます。
例えば子供のいない(子孫ができない)夫婦にも「救い」はあるのですかねえ。
まあ「その子ら」というのは喩で,肉親に限らず自分の後継者という意味にもとれるとも思いますが。

お礼日時:2011/11/27 08:00

 すねこすりさん 宿題をいただきましたので お答えいたします。



 ★(No.6お礼欄) ただ,仮に復活が現世と係わりがあると仮定した場合,復活した者の,その後の現生とのかかわりがまだ自分はよく理解できていないようです(どういう世界になるのか)。
 ☆ これは 正解とすべき答えは決まっています。

 ○ 復活については 将来すべきこととして臨むのがただしい。

 つまり人間には分からないという意味です。
 でも考えたり想像したりするのは自由ですし それを表現してみるのも自由におこなわれました。
 イザヤによる表現を引きます。つまり旧約からであり ということは まだキリスト・イエスの出現を見ていない段階での《復活》観です。《まぼろし》とことわっているところが よいと思います。

 ▼(イザヤ書1:18~26;2:1~4)~~~~
 論じ合おうではないか、と主は言われる。 
 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
 雪のように白くなることができる。
 たとえ、紅のようであっても
 羊の毛のようになることができる。
 お前たちが進んで従うなら
 大地の実りを食べることができる。
 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

 どうして、遊女になってしまったのか 忠実であった町が。
 そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに
 今では人殺しばかりだ。
 お前の銀は金滓となり
 良いぶどう酒は水で薄められている。
 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり
 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。
 孤児の権利は守られず
 やもめの訴えは取り上げられない。

 それゆえ、主なる万軍の神 イスラエルの力ある方は言われる。
 災いだ 
 わたしは逆らう者を必ず罰し 敵対する者に報復する。
 わたしは手を翻し
 灰汁をもってお前の滓を溶かし
 不純なものをことごとく取り去る。
 また、裁きを行う者を初めのときのように
 参議を最初のときのようにする。
 その後に、お前は正義の都 忠実な町と呼ばれるであろう。
 ・・・
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

 ▲ (イザヤ11:1~10)~~~~~~~~~~~
 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
 その根からひとつの若枝が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊
 思慮と勇気の霊
 主を知り、畏れ敬う霊。

 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
 目に見えるところによって裁きを行わず
 耳にするところによって弁護することはない。
 弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する。
 その口の鞭をもって地を打ち
 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

 正義をその腰の帯とし
 真実をその身に帯びる。

 狼は小羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。

 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。

 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。

 その日が来れば
 エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《エッサイの根から出た若枝》は イエス・キリストを予示したとも言われます。(むろん 後づけです)。

 一たん閉じて おぎなうところなどをあらためて投稿します。
 (ほかの方々のご見解について異議があったりします。横やりになるのを避けて何とか思うところを述べることができればと考えます。この回答No.7へのご返答に応じて 再考し再投稿することとします)。
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この回答へのお礼

再度のご丁寧な回答をいただき,有難うございました。
引用していただいた文献をじっくり読まさせていただこうと思います。
キリスト教に全く知見のない私に,この案件に関する適切なテキストを指摘していただき,誠にありがとうございます。

お礼日時:2011/11/24 16:43

 すねこすりさん あらためまして こんにちは。



 聖書からの文章を ふたつ用意しました。いづれも哲学ないし経験科学だけでは読み取り難い内容のものです。あえてそうしました。まづは 触れてみてください。

 ▼(マタイによる福音:復活についての問答) ~~~~
  22章 23節  その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。

 24節  「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
 25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
 26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
 27 最後にその女も死にました。
 28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」

 29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
 30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
 31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
 32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 ▼ (パウロ:ローマの信徒への手紙:罪に死に、キリストに生きる)~~~
 6章 1節  では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
 2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
 3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
 4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
 5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
 6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
 7 死んだ者は、罪から解放されています。
 8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
 9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
 10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
 11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 復活は すでにいま・ここから始まっていると受け取るべきでしょうね。
 
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この回答へのお礼

ご回答,有難うございました。
浅学の私には回答者様にお教えいただいた2つの手紙から,当然聖書の深い意味を読み取ることはできませんが,復活とは,まず死によって生前の「しがらみ」(肉親や死への恐怖等)から解放(リセット)されることだ,くらいのイメージを持つことができました。
とても参考になりました。
ただ,仮に復活が現世と係わりがあると仮定した場合,復活した者の,その後の現生とのかかわりがまだ自分はよく理解できていないようです(どういう世界になるのか)。もちろん復活が,死後の世界における概念的なものである,と割り切ればいいのですが。

お礼日時:2011/11/24 11:43

(1)最後の審判後に復活したときの肉体は?


神様がアダムとイブの創造のときのように、人間本来の完全な姿で復活するんじゃないですか。いまの不完全な肉体で生まれ変わることだけはない、と思いますよ。そう考えるのが一番自然じゃないかな。
そもそも復活思想というのは、ペルシアのゾロアスタ教やエジプトの死者の復活の影響を受け成立したものだし、最後の審判はゾロアスター教からの借り物でしょう。この二つの思想はユダヤ教の中で限りなく異端に近い教えとされていたし、あれこれ、このことにつて考えてもしょうがないような気もするのですが…


(2)死後の霊はどこにいるの?
キリスト教的に言えば、天国と地獄ゲヘナ、あと地獄のちかくにあるとかいうハデスの三つというところでしょうか。
この区別も厳密なものではなく、キリスト教の宗派によっては、ゲヘナとハデスを同一視して、天国と地獄の二つとします。

で、天国に行けるのは、キリスト教の教えを信じ、その教えにもとづいた生活・生涯を送った人。
悪人でもキリストを信じた人はみんな天国に行けるという考え方もありますが、そもそも共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書内でも相矛盾する記述が多くて、どうとでも都合よく解釈できる部分が多いですから、最大公約数的にキリストの教えに忠実だった人と考えるべきではないでしょうか。
あと、キリスト出現以前に、ユダヤ教の律法に従った人も天国に行けるとしているみたいですね。

地獄行きは、ずばりユダヤ・キリスト教徒以外、ユダヤ・キリスト教徒でも神様が許せない大罪(例えば自殺)を犯した人です。
唯一絶対の神を信じず、他の神々を信じた人は、原則として地獄行きです。何しろ、ユダヤ・キリスト教の神様は「妬(ねた)みの神」、嫉妬深いですから。浮気は許してくれません。最近の共同訳聖書ではこの部分を「情熱の神」と訳しているらしいですが…

ハデス行きについては、いろいろな見解があって定まっていないようですね。キリスト教徒の家庭に生まれながら、まだ洗礼をすましていないうちに亡くなった子供がこの世界に行くとか、異教徒であっても、はからずもキリスト教の教えに従った生き方を送った人がひとまずこの世界に留め置かれるとか、いろいろな説があるみたいですよ。
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この回答へのお礼

ご回答,有難うございました。
特に後半の死後の霊(世界)に関する箇所については,大変参考になりました。
まず,人間の本来の姿で復活する点ですが,やはり人間の個性という所が気になります。
例えば「顔」ですが,どういう顔がベスト(短所か長所か)はわからず,結局「完全無欠」ということは,少し悪い例ですが,工業製品と同じで,全部同じになってしまうんでしょうねえ。
あと,善人にしろ悪人にしろせっかく天国に行ければ,そこで幸せ?に暮らしているのだから,復活なんかしなくてもいいじゃん!なんても思ったりました。
キリスト教について何もわからないので,たぶん誤解していると思います。
間違いがあればご遠慮なくご指摘いただければ幸いです。

お礼日時:2011/11/24 09:34

>キリスト教においては,最後の審判時には,死んだ善人?は生前の姿に復活すると言われています。



聖書によりますと、人は一度死んだ後裁きを受けるとたしかに記載されています。その裁きとはもしイエスキリストを信じているならば永遠の命を得、もし信じていないならば永遠の滅びに至るというものです。この場合はしかしその方が善人か悪人かは関係ありません。以下聖書の言葉です。

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)」

つまりイエスを信じているか否かという点が分岐点となります。また生前の姿に復活すると記載されているか否かは不勉強で回答者にはわかりません。ただ聖書では以下のように記載されています。

「わたしたち全ては、眠り続けるのではない。.......またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、........死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。(コリント人への第一の手紙 15:51-53)」

つまり私たちはもしイエスを信じて死んだのであればある時から”朽ちない者、死なない者に変えられる”ということだと思います。従いまして現在ご利用の肉体は腐ってしまうようなものですので、生前の姿ではないのではないかと想像します。また上の聖書箇所はご質問の1)、2)に付いても何らかのお答えを提供していると思います。
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この回答へのお礼

詳細なご説明,有難うございました。
普段聖書とは全く縁がない生活を送っている人間なため,聖書の該当箇所を引用していただいただけでも大変,参考になりました。

>つまり私たちはもしイエスを信じて死んだのであればある時から”朽ちない者、死なない者に変えられる”ということだと思います。従いまして現在ご利用の肉体は腐ってしまうようなものですので、生前の姿ではないのではないかと想像します。

確かに「生前のいつの頃の姿で復活するのか」という質問は,復活が肉体的ではなく観念的なものとすれば,意味がないですね。
ちなみに,あくまでも私の個人的な考えですが,死後自分の「個性」がなくなってしまうので,死というものを人間は恐れているのであり,全人類的な一体感を理解できれば,個性などは意味はなくなり,死など恐れなくなるのではないでしょうか?
また,宗教等によりそうなりたいと思っています。

お礼日時:2011/11/24 09:24

 No.1&2です。

ご返答をありがとうございます。

 次の二点を確認して ほかの方々のご回答を見守りたいと思います。

 ★ 結局,この問題はどの宗教にも共通する問題ですが,「人間の存在性」にたどり着くのではないでしょうか。
 ☆ 異議ありません。そうでない場合 つまり宗教と言いながら 人類に共通の主題を――つまり人間の存在性なる主題を――扱わないなら それは 普遍宗教とは言えないでしょうね。(言えても 中で宗派として 狭い料簡に閉じこもってしまっている場合もなきにしもあらずだと思います)。


 ★ ~~~~~~
 「人間の存在性」というと難しいですが,簡単にいうと,「地球」にとっては人間なんて環境を汚し,資源を食いつぶす余計なものであり,そういう意味でいえば「存在」の意味はなく,哲学や宗教によって存在意味を見出さないと,虚無的になってしまいますね。
 「復活」した人間は,それから何をするのだろうか・・・・
 ~~~~~~~
 ☆ なるほど 悲観的だとは決めつけないとしても今後の世界史について警戒し警告を発するべきというお立ち場なようです。
 わたしは 能天気で それは別としても 楽観的に見てはいます。言いかえると 楽観からアイディアを得て 悲観的な傾向について対処するという行き方です。
 あたらしい人間にあっては意志行為をみづからのものとして明確にするということは 説明責任を初めとして広く責任を持つということに敏感になるとは思って(望んで)います。
 また 共同責任という考え方も 深まると思います。


 ひとまづ 休みましょう。(すばらしい回答が寄せられて わたしはもう休みっ放しになるかも分かりませんが)。
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Qイエス・キリストの十字架と復活の意義

イエス・キリストの十字架と復活の意義について簡単に説明文を書かなければならないのですが、書く上で疑問点があるので教えて頂きたいと思います。

教科書には、十字架の意義とは
 (1) 罪の赦し、罪の裁き
 (2) 罪の克服
 (3) 永遠の死からの解放
とあるのですが、(1)と(2)は刑罰代受説と関連付けて書いて良いのでしょうか?

また、「十字架の意義」とは別項目の「復活の意味」という項目のところでに「イエスの死は完全な死であり、仮死状態からの復活ではない。イエスは『永遠の滅びの死』を死なれた」と書いてあるのですが、「『永遠の死』を死なれた」とは上の(3)にある「永遠の死から解放された」ということと同義なのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

取り合えず、カトリック的な一般論ですが、参考程度に。

イエス・キリストの十字架上の死と復活の意義ですが、これは通常、「原罪」と「最後の審判」とが関連付けられていると思います。

「原罪」とは、旧約聖書のアダムとエヴァがサタンにそそのかされ、絶対食べてはならないとする「知恵の実」を食べた事から「楽園を追放」されたエピソードからきています。
つまり、人類の祖先であるアダムとエヴァの犯した罪(原罪)が、子々孫々である我々人類に未だに受け継がれていると考えられました。
十字架上でイエスが死ぬときに、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)との記述から、

>(1) 罪の赦し、

しかし、イエスが十字架上でそのまま死んだ事が

>罪の裁き

となります。
つまり、イエスは「彼ら=群衆」の身代わりとして罪の裁きを受けられた。
これが、(1)の意味ですね。

次に、(2)罪の克服は、イエスが身代わりとなって十字架上で死んだ事で、「原罪」が赦されたとする教義ですね。
ただ、これには賛否両論があるようですが。

(3)は、「最後の審判」の時、罪の許された者は、(肉体をまとって)復活し天国へと上げられるという教義を、イエスが復活して(肉体をもって天国に行った事を)見せたことで、神によるデモンストレーションと考えられています。

>また、「十字架の意義」とは別項目の「復活の意味」という項目のところでに「イエスの死は完全な死であり、仮死状態からの復活ではない。イエスは『永遠の滅びの死』を死なれた」と書いてあるのですが、「『永遠の死』を死なれた」とは上の(3)にある「永遠の死から解放された」ということと同義なのでしょうか?

そう考えて、良いかと思います。
「永遠の国」あるいは「神の国」というのはが、神が人間に約束した地であり、それは「あの世」でもあります。
赦されないほどの罪を犯した者は、永遠に地獄で苦しめられ、軽い罪なら煉獄で清められてから「最後の審判」の時に復活する者と地獄に堕ちる者が振り分けられる。
天国にいる者は、そのまま肉体を持って復活します。
そして、「肉体をまとったまま、神の国で永遠の命を得」ます。
おおよそ、こんな感じかと思います。

※当然、宗派や神学者等によって解釈はかわりますが。

取り合えず、カトリック的な一般論ですが、参考程度に。

イエス・キリストの十字架上の死と復活の意義ですが、これは通常、「原罪」と「最後の審判」とが関連付けられていると思います。

「原罪」とは、旧約聖書のアダムとエヴァがサタンにそそのかされ、絶対食べてはならないとする「知恵の実」を食べた事から「楽園を追放」されたエピソードからきています。
つまり、人類の祖先であるアダムとエヴァの犯した罪(原罪)が、子々孫々である我々人類に未だに受け継がれていると考えられました。
十字架上...続きを読む

Qキリスト教の最後の審判の考え方について教えて下さい

Wikipediaで最後の審判について読みました。
クリスチャンの方々にも最後の審判についての考えを伺いたいと思って質問しました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>2012年……北朝鮮が何もしなければ良いのですが……。それだけが心配です。

えっとですね。。。。

空にある惑星をグループ分けして、それぞれに名前をつけたわけです。

もちろん 他の星も動いているので、古代と今とでは、地球から見える惑星の位置は違います。

昔は一日は21時間くらい。
自転速度も公転速度も今とは違った。


で、古代エジプトでは時計が無かった。
だから太陽と星で時を知ったわけですが、時間を決定していたのではなく、新年を決定していたんです。
今でいうと7月(ユリウス or シリウス)が新年だったわけです。

古代エジプトでは洪水がいつ起こるか知っていた。
夜明け前に東の空にシリウスが現れたら、必ず洪水が起こっていた。(耕地に降った雨がナイル川を氾濫させていた)
そのシリウスが現れた時、その東にオリオン座も一緒に現れたので、ホルスの誕生の時 3人の王が祝いにかけつけた という物語になったんです。

何故3人? オリオン座のベルトの部分は3つの大きな星だから。
ちなみにイエス(オシリス)の磔刑も、他の神話と同様に、天体の動き観察して作られた物語。
まさかギリシャ神話を読んで、星座の星の名前がついた神々が、実在して物語のことをやったとは思いませんよね?


で、洪水が起こったあと肥沃な川の土砂がエジプトの平地を覆ったので、後は種まけば豊作になっていたんです。
だから、農耕をするのに星の観察は必要だったわけです。
シリウスが3つの星とともに夜明け前に現れると、必ずナイル川が氾濫していた。
氾濫を予知できるとして使ったわけです。

で、空の星をグループ化して名前をつけたのは、バビロニア地方の牧童たち考えられています。
放牧して夜も外で過ごすので、星空を見て物語を作った集団は、後に民族がギリシャ方面に南下移動をしてギリシャ神話が確立したのだと思えます。
南下することになった原因は冷夏。
北の異教徒の太陽信仰のシンボルが、キリスト教の十字架となりました。


約25,800を12で割ると2150年。
じゃあ、西暦の紀元をスタートとし、西暦2150年がみずがめ座の時代となるかというと、星座の大きさは均等じゃないし、距離も違うし、なにより人間か勝手にグループ化して名前をつけたわけだし、今と惑星の位置は違ったわけです。
人によってみずがめ座の始まりとする年は、100年くらい違う。
100年くらい違っても、地軸が全く違う正座を向いているということは無い。つまり星座の位置がそれほぞズレてない。


今は時計やカレンダーを使っているので、星の観察をする必要は無いですが、当時は種まきの時期を知る必要があったので、天体観察は必要だったわけです。


で、何よりも重要なのは、天変地異が起こって地球が崩壊するというのは 全くの迷信だってことです。
ゆるやかにじわじわ地球の軸が首をふっているわけで、どっからどこまでが 魚座、この年からみずがめ座の時代とはいえないわけです。
しかも、そっちの方角に軸が少しづつ向いてその方向に完全に向いたとしても、他の惑星の引力の影響をもろに受け、天変地異が起こることは 今までも無かったように無い。

冷夏とかありますが、これは太陽の核爆発の具合で そうなっているんです。

地球は太陽の核爆発の具合にとても左右されている。
困るのは生命体です。
特に人間は狭い範囲の温度の中でしか生きられない。

核爆発が少ないときは、冷夏になり食物が育たず、飢えることになる。
それに火山の大爆発で、空一体を数年か煙が覆い、食物が育たず動物が死に植物と動物を食べる人間も激減した。

これらは神の仕業じゃないです。
自然の摂理です。

太陽は地球にいる生命体を干上がらせたいとか、生命がそだたないようにしてやろうとか そういう意思は無いんです。

それをまるで意思を持った存在である神とし神話を作ったのは誰でもなく人間。

太陽は人間が他の人間を殺そうと殺すまいと、関係ないんです。
神の愛は神から人間に一方通行とはそういう意味です。

治世をするリーダーは、集団をまとめるために、倫理のルールを作ってそれを守らせる必要があったわけです。
どの集団だってルールを作ってますよね?
そうすることで、個性がそれぞれ違う人たちが共同生活を営めるわけです。

したがって死者の書は死者のための書ではなく 生きている人のための書。

オシリス、シリウス物語は、新しい時代を迎える物語として作られたわけで、いわば正月を祝うのと一緒。
日本じゃ年末に大掃除をして、新年を新たな気持ちで迎えるでしょ?

目に見えない体感できないものを、超えたとするのが通過儀礼。
正月も成人式もそう。
赤道に線がひっぱってあるわけじゃないでしょ?

>2012年……北朝鮮が何もしなければ良いのですが……。それだけが心配です。

えっとですね。。。。

空にある惑星をグループ分けして、それぞれに名前をつけたわけです。

もちろん 他の星も動いているので、古代と今とでは、地球から見える惑星の位置は違います。

昔は一日は21時間くらい。
自転速度も公転速度も今とは違った。


で、古代エジプトでは時計が無かった。
だから太陽と星で時を知ったわけですが、時間を決定していたのではなく、新年を決定していたんです。
今でいうと7月(ユリウス or シ...続きを読む


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