プロが教えるわが家の防犯対策術!

哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。

それは一体なぜなのでしょう。

ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。

彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。
ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。

宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。

A 回答 (21件中1~10件)

外側からの眺めではなく、内側・只中においての眺めから見てみましょうか(河童の屁理屈は置いといて)。



「反感」というレベルの低い感情を持っている人間が歴史的背景など難しいことを判断してから反応することはないでしょう。

そもそも、「反感」というより、今そこにいる人間の在り方・言動・行為振る舞いに不快なものや欺瞞を感じるのではないですか。

キリストは自ら重荷を背負うと言ったそうですが。

それではキリスト教においては誰が・何が 重荷を背負うのでしょうか。決して弾劾され、磔にされることのないローマ教皇ですか?保護され、認知されている牧師・神父でしょうか。それとも「キリスト教」が背負うのですか。

キリスト教の、「キリスト者」なのだから、世界の責任の一端を担い、自らも重荷を背負う覚悟があって入信したのでしょうか。それとも、自分だけいい思いをしたい・甘い汁を吸いたい あるいは自分だけは救われたい と思って入信したのでしょうか。

艱難辛苦を甘受し、重荷を背負う覚悟もなく、単に優越感や特別意識を持っていればそれは不快でしょう。救われるつもりで、甘え・依存しているくせに、ときに偉そうに?していたり、嬉々としてキリスト教を語っているなら。

そういったことで批判され、弾劾されるなら、本望ではないですか。

もちろんこれはこのサイトでキリスト教について質問する人に対しての回答です。

「キリスト者」が反感を買い、弾劾されるなら本望でしょう。フランス人のバイブルスタディの先生も本望なのではないでしょうか。

キリスト教の欺瞞や、嘘が歴史として表れ、記されるのです。歴史が先にあるのではありません。

まさかとは思いますが、キリスト者・クリスチャンと言うのは キリストに甘える者・依存する者・ぶら下がっている者 という意味ではないですよね。


総括的 ? ですか。また河童が「馬鹿がまた引っかかった」と冷笑しているのではないですか。

河童もワルよのう
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この回答へのお礼

お礼が遅れておりますが、何とか年内に片付けようと、発奮しております。

あまがっぱさんがお好きなんですね。

イエスさんは、人々の罪を許して歩かれて、最後に我々の罪を背負って磔刑に会い、お蔭で、二千年後の現在に住む我々も、彼に甘え、依存しているわけです。

他の何者にも、甘えたり、依存したりしてはいけない、と仰るのです。

そして、そのために迫害されたり、糾弾されたりされるのは、本望なのです。貴方のおっしゃるとおりです。

教会に集まって、礼拝をしたり、聖書の勉強をしたり、悩みがあるときにはお互いに励ましあったりしている信者さんたちに、なぜ欺瞞を感じるか、なぜ不快なものを感じるか。

それが質問なのです。

優越感や特別意識を持って、偉そうにしているからですか。それが嫉妬という感情と結びつくのなら、うちの先生は正しいことになります。

と、いうわけで、うちの先生に一票入りました。

ご回答、誠にありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:07

かかりつけの築地の病院が聖公会系で家族共々随分お世話になってきているからでしょうか、


私自身はキリスト教やキリスト教徒に対して特に反感を抱いたことはありません。

25年以上も前、ちょっとした怪我で入院した際、病室を巡回する図書ボランティアの存在を新鮮に思い有難みを感じ、後日手伝ったことがあります。
病院の空間とはうらはらに、一歩病院を出ると、私の行為は部外者にとっては偽善に映るものだったのかもしれませんが。
私のようなキリスト教徒ではない元患者や家族のみならず、勤務医が退職後にボランティアの立場で診察支援をすることも珍しくないとのことです。
終末期医療や乳房再建の心のケア、無差別な攻撃(地下鉄サリン事件)に対する対処など、地味ながらも困った人の役に立つという点において率先して取り組んできたその経緯は相応に評価し得るもので、それは立役者の現理事長そして創立者のキリスト教徒としての使命と決して無縁のものではないはずです。

ただしそんな私でも、一国の大統領が「十字軍」を持ち出し演説したような国際社会における政争の具や御旗としてのキリスト教に対しては、反感というよりも懸念や憂いを抱くことがあったのも事実です。
その病院とて、数年前に内紛による医師の退職で、患者をないがしろにしているなどと雑誌にスキャンダルとして派手に書きたてられましたっけ。

信仰の対象でないかぎりは、物事には良いところと悪いところの両方が見い出しやすいのですし、キリスト教を信仰していないからこそ見え、反感や憂いを抱くことがあるように思われます。
もっとも、先生の論理では嫉妬にしか映らないのかもしれませんね。

その考えをすり合わせていくことに、質問者さまには、何か意味が見出せるのでしょうか。
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この回答へのお礼

回答が遅れて申し訳ありません。

築地の聖路加病院のことでしょうか。院長先生は、素晴らしい方だと聞いておりました。もう大変なお年でしょうが、お元気でしょうか。病院内でボランティアをなさったとのこと、嬉しく伺いました。それが外に出ると、偽善に映ってしまうというのは、残念なかぎりです。

今までのご回答の中にも、偽善、欺瞞、などという言葉が含まれていました。

偽善や欺瞞では、長いこと、無償のご奉仕ができるものではありません。

聖路加病院のようなところでも、内紛があったり、スキャンダルがあったりすると、キリスト教関係の病院であるだけ、余計に批判が集まるのかもしれません。過大な期待があるのですね。

先生は嫉妬と仰るけれど、私には人様に嫉妬されるような、華やかなところは少しもありません。質素で謙虚に生きるのが目標なのですが、ボランティアをするときに、いかに、お相手から、反感を取り除くか、というのが、実は大切なポイントです。

私の不注意で、お相手の気持ちを傷つけたりしない、というのが、現在の私の目標なのです。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 13:10

相手は先生なのだろう? 反論をして対等に話す必要など、そもそもあるのかい?


――わからぬやつは、わからんでもよい。信仰とは、開き直りとも言えるほどの、透徹した決意があってこそ成り立つもんじゃないのかい?
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって、申し訳ありません。

たくさんの人に教えておられる方ですが、質問や意見はいつも受け付けておられます。

もちろん、段違いに深い信仰心に支えられた方なので、私の意見など、はねつけられるのは覚悟の上です。

私の身を心配していただきまして、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:49

 No.7です。

ご返答をいただきました。

 冗長にならないことのみ 前回の回答内容の確認のためにしるします。
 ★ ~~~~~
 それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。

 それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。
 ~~~~~~~

 ☆ もしカルワ゛ンがこの『キリスト教綱要』をロー教会や各国の政治や社会の状態などなどの時代情況に応じて書いたとしたら それこそ『綱要』としては要らないのではないでしょうか? おしえ(つまり ここは神学です)が時代情況によってころころ変わりましょうか?


 それに引き合いに出しました第一編第一章は 時代情況にいっさいかかわらないところの
 ★ 聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性がある
 ☆ そのことについてです。
 つまり わたしの回答は そのようにイエス・キリスト論として質問者さんがカルワ゛ンの発言に賛同するのかどうかを問うています。
 カルワ゛ンは――実際にはその時代にすでに コーワ゛ンと発音されていたそうですが―― 見るべきものがありません。政治的手腕があると言っても それは キリスト・イエス論にとって論外の問題です。
 そのように
 ★ 彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで
 ☆ ではなく 突き放して見ていますよ。

 この質疑応答の場というのは そのような互いの情報交換――わたしは 対話と呼んでいますが――を経ながら 世界に OK の波をおこして行こうとするところだと承知しています。



 《言動に終始一貫性があるから信奉する》というのは――《神によってではなく 人間の意志によって神の子らとして生まれた》(ヨハネ一章では逆 を参照)と言っているようで―― 微妙なのですが つまりあまりいただけないと思うのですが ともかく上に述べました一点のみ お伝えいたします。
 確認するならば こうです。
 ○ 《キリスト者は 聖書の知識や神の〈認識〉によってではなく 名を受け容れたこと(信じること)によってあゆむ》であるはずなのに カルワ゛ンは その逆のことを言おうとしている。のではないか?

 ☆ このような自由な言論に 《自分のほうに引き寄せるも引き寄せない》もありません。ご自分の見解やお立ち場が都合わるくなると 答えないようになり ほかの話ではぐらかすというのは キリスト者のおこないではありません。《反感を買うか否か》あるいは《それは嫉妬だ いや違う》うんぬんどころの問題ではなく 根本的な問題であるとお考えになりませんか?

 二千年が経って 世界は変わって来たようなのです。どんでん返しを予感なさいませんか?
 (とにもかくにも この二千年は まだまだ消化不良を起こしていたということではないでしょうか? 権威があるように見えるものを 権威ある者としてただただまつり挙げていればよかった。そのようにして 消化期間をもうけざるを得なかった)。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。

人間の作り上げた組織の問題点はいつも同じです。権力争い、金権争い、後継者争い。。。教会内部も同じです。ただ、これは人間の問題であって、神の問題ではありません。

カルヴィンが、神の顔を見よ、といったのは、教会内の人間同士のいざこざから目を離し、もう一度、神の言葉を聴け、ということでしょう。それは、現在でも同じです。

一人の人間にできることは限られています。なるべく大きく、影響力のある教会に属して、そこでご奉仕をしてゆくことは、社会の中で虐げられた、貧しい人たち、病気の人たち、そして、苦しんでいる人たちに、かかわってゆくときに、より効果のある(たくさんの人たちを助けることができる)方法であると思います。

そして、人間的に成長し、驕った心、高ぶった心を、自分から、切り離してゆかなくてはなりません。そのための、バイブルスタディ、そのための、質問です。

ご理解いただければ、幸いです。

お礼日時:2011/12/31 12:40

>宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。


少しズレた答えになってしまうかもしれませんが
キリスト教に違和感を感じてしまう日本人的感覚から答えてみたいと思います。

キリスト教では、神を信じることを必須のこととして説いていますが
日本で一番大衆的な浄土宗では、念仏を唱えるだけでもよいとされています。
信じることが必要なのではなく、簡単な念仏を唱えるだけでもよいとされています。
愛や慈悲心を享受する立場を得ることにおいて、一遍の念仏だけでもよい、という解釈は
信仰心を持つ人、持たない人、すべての人を救済しようとする教えのように見えます。
信じる人だけが救われるというキリスト教と違って、信じない人でも救われるという最も簡単な実践を示したものです。
それは余りにも、甘過ぎる教えなのかもしれませんが
日本人に広く受け入れられた一つの宗教の極至だったようにも思います。
一つの神への信心を始めから必要とするキリスト教とは、大きな隔たりがあるように思います。

日本古来の神への信仰においては、自然と一体となった形が一般的なようです。
伊勢神宮はその最もたるものだと思います。
移り変わりゆく自然と共に様々な神もまた永遠に存在する、という感覚があると思います。
キリスト教では、神は一つであり、自然は神が創造したものであり、神とは超自然的存在であるようです。
自然と神は一体であるという日本人的感覚からは、どうしても違和感があるように思います。

以上簡単ですが、信心の有無の必要性と、神と自然との一体感の有無において
日本人の心がキリスト教に馴染めない面があるように思います。
それらも、古臭いといってしまえばそれまでですが
でも、なくなることはない、といった感じもするのですが・・・。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

そうですね。浄土教の阿弥陀様は、死にそうな人がいやだといってもお迎えに来て、極楽に連れて行ってくださる、と聞いたことがあります。”山越えの弥陀”でしたか。もし、それがスタンダードなら、”契約”から始まるのは、堅苦しく窮屈でしょう。

日本の豊かな自然に結びついた、古代の宗教の形が、まだ濃厚に残っているというご意見ですね。一体誰が祭られているのかよく判らないお社にも、ありがたさを感じて、手を合わせて、頭をたれる、というのが、日本の神道の良さなのでしょう。

それは、これからも長く続いてゆくものだとのご指摘です。

嫉妬、とはかけ離れた感情ですねぇ。これは。

日本人ならではの、感覚の確認をしていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:21

いやいや、河童先生はそこまで悪人ではないですね。



自分で自分のしていることがわかっていないだけなのです。

河童先生は、以前このカテで自分のことを「アホ馬鹿」と言っていましたが、それは自嘲し過ぎですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:09

お礼ありがとうございます。



>噛み砕くと、宗教の奥義に無知であるため、それが、偏見や反感に?がってしまうということですが。
デ・ローチ先生のいうには、”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”人たちが多いのだそうです。

その先生のおっしゃることに近いと思います。

>キリスト教国の犯したたくさんの間違いを見て、キリスト教そのものの信憑性を判断することなのでしょうか。

本質は見がたいあまりに、表層に頼るのが人の弱さなのでしょうね。

>あとは、愛着、と仰るところがもうひとつわからなかったのですが、神道や仏教への愛着、ということでしょうか。

そうですね。慣れ親しんだものには道理を越えて惹かれるものです。

結局、キリスト教にしろ仏教にしろ、ほとんどが迷える羊であり、羊どうしが背比べしているというのが実状ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

お礼のなかの質問にまたお返事くださいまして、ありがとうございます。

本質は見がたいあまりに、表層に頼る人の弱さ。。。。というところですが。

本質というのは、英語で言うとリアリティのことで、(Realの名詞です)、日本語の”現実”と混同されがちです。ホーキング博士のブラックホールの研究を受けて、スタンフォード大学の先生が、実は、手当たり次第に周囲を飲み込んでゆくブラックホールの向こう側にこそ、本質があって、今我々が見ている現実は、そのホログラム(三次元の映像)にすぎない、という理論を研究なさっていられます。

ブラックホールの向こうが本質であり、現実は単なる表層である。。。。というのは極めてお考えに似ているように思い、これをもって、お礼の文章にさせていただきます。

ほかの方がおっしゃっている通り、宗教に帰依しても、決して、現実の問題が解決するわけではないのです。ただ、心の安らぎが訪れるだけです。これも単なる表層に過ぎないかもしれませんね。

お礼日時:2011/12/31 11:46

No.9の回答中に重大な誤記がありましたので、訂正します。


4段落目の後半、
「現に、アメリカ中西部社会では、未だに進化論を信じるキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
は「・・・・・・・・・・・・・・未だに進化論を否定するキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
の誤りです。正反対の意味になりますものね。
その下に表示した私の過去問における関連記載はNo.1や4のご回答に見えます。

ついでに、若干コメントを追加します。

他の回答者の皆さんのご回答やお礼を読んで・・・。
やはり、偽善や他宗教を受け入れないことや、世界制覇や戦争や大量殺戮や差別に手を貸したことなどが、反感の原因になっているようですね。

又、あなたの言われるように”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”という人もおられますね。確かに、キリスト教に限らず宗教を信じている人の中には、「自分は正しい」という気持ちが強すぎて、他人に対して嫌に居丈高になっている人(いわゆる「偽善者」)もいると同時に、逆に宗教に頼らないと生きて行けなさそうな、とても弱弱しそうな人も多いように、昔感じたことがあります。(まあ、このようにステレオタイプ化するのはよくなく、今は色んな性格の人がいることに気づきましたが・・・)
ですから、前にも言いましたが、キリスト教信者と言っても色々いますし、皆普通の人間ですから、問題もありますし、間違いも大いにします。そのような人がいたからといって、その宗教は変だというふうには、どうか見てほしくないのです。

最後に、あなたが問題提議されていることですが、先生のおっしゃっているのは、キリスト教に反感も持つ人々の反感の背景には、キリスト教に対する”嫉妬”があるという意味でしょうか?

つまり、キリスト教を含めた西欧文明や、白人優位説や、実際に彼らが他の地域・民族・宗教を信じる人々に比べて裕福だったということでしょうか?

これは一概には言えませんが、古くはキリスト教の前身であるユダヤ教の母国であるユダヤの民は、長い間他民族に支配・抑圧されていましたし、イエス・キリストも、飼い葉おけの中で生まれ、最後は皆に裏切られて十字架上で悲惨な最期を迎えており、必ずしも、キリスト教が富める者・民族の味方だということはありません。しかし、ある時点で権力と宗教が結びついた時点で、残念ながらキリスト教も世界制覇に協力するなど、不本意な歴史を重ねてきたのは事実だと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅れ続けて申し訳なく思っています。

西欧文明優位説や、白人優位説のせいで、”嫉妬”という言葉を使われたとは、普段の言動からは、とても信じられないので、頭をひねっているところです。

現在のところ、物質的な豊かさ、といえば、中東の国々の裕福さには、誰も太刀打ちできません。ご近所にM.D.Andersonという名の、名の通った、癌専門の病院があるのですが、海外からそこの特別室に入院なさるのは、中東の方ばかりですし、サウジアラビアの王子様も、亡くなるまでニューヨークの病院で治療を受けておられました。多分アメリカの健康保険に入っていなかったでしょうから、莫大な財産を費やされたことでしょう。

けれども、ご存知のように、アラブの民の先祖は、アブラハムの妾腹の息子で、嫡子が生まれたところで、砂漠に追放されてしまいます。ですから、直系の血を受けたイエスに、傍系の出であるところのイスラム系の人たちが、”嫉妬”するのか、とも考えてみたのですが、これは違います。

もっと、根本的な理由でしょう。イエスの教えは、永遠普遍の真実であり、それを丸ごと受け入れることが可能であったのは、別に信者が優れていたわけではなく、神の恵み(慈悲)があったからです。その辺りのヒントがあるように思い始めています。うまく言葉にできないのが、残念です。

再度のご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 11:27

人間は自分が理解できないものには根拠のない反感を持つものだと思います。


キリスト教が自分を受け入れてくれないと思うからではないでしょうか。
その先生は嫌いきらいも好きなうちのような相反する気持ちの絡み合っている
心理状態を嫉妬と言っているのでしょう。

まったく無関心だったら、回答もつけないのではないのでしょうか。

キリスト教は律法主義ではありません。

マタイによる福音書11の25以下ルカによる福音書10の21-22をお読みください。

イエスは律法に縛られていた人間を開放し一人一人の人間が神との関係を持つことを
教えられたのです。

マタイ 11の25
その時イエスはこういわれた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを
知恵あるものや賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

そうですね。信者の側から見ると、ご回答は大変に正しいように思われるのですが、回答してくださった方たちから、偽善、欺瞞、との言葉をいただいているので、それにはそれなりの理由があるように思われます。

実際のところは、先生に伺ってみなければわからないのですが、皆さんの回答を読んで、考えてみたお蔭で、お返事を伺って、”ああ、そうですか”だけではなく、もう少し問題提起ができるように思います。

師走のお忙しい時期に、お時間をとっていただき、誠にありがとうございました。

お礼日時:2012/01/01 01:51

たぶん質問者様もお感じになっておられるのではないかと思いますが、読み物としての聖書は素晴らしいが、それが掟となって拘束されるのは嫌だ、ということがあるのかもしれません。

日本には「嘘も方便」という諺がありますけど、キリスト教のような厳格な律法主義にはそういった方便は通用しません。現代日本のような自由主義の時代では、そういう厳格なイメージはなじめないのかも。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

キリスト教の神は父親のような厳格なイメージがある、ということでしょうか。

イエスが人類全部の罪を負って磔刑になり、そのために、我々の罪が許された、というのも少し大掛かりで、好みではないかもしれません。

イエスか、ノーか、ハッキリしないところで生きてゆくのが楽ちんになってしまうと、洗礼を受けたりするのにも、違和感が感じられるかもしれません。

ライフスタイルの違い、というところでしょうか。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 10:55

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